何でも質問箱FAQ

FAQについて
何でも質問箱でよくある質問とそれに関する回答をまとめました。
質問及び回答の文は、基本的に質問箱に書かれていたそのままを引用してます。
2005/3/19(土) 2:20

武田観柳斎って何者?
2005/3/13(日) 0:30
・新撰組五番隊組長

・慶応3年3月から、幕府は軍の洋式訓練を開始していて、新選組でも、武田観柳斎の甲州流軍学も価値がほとんどなくなり、彼の威厳も落ち、そのため新選組から薩摩藩へ寝返ったという説があります。また、あるいは、伊東甲子太郎一派に接触をはかり、拒絶されたために新選組から除隊され(あるいは脱走)、討幕運動を行っていたために殺されたという説もあります。

・武田がホモだと言われる元ネタは子母澤寛の『新選組始末記』じゃないかと思います。この中に武田が美男五人衆にも数えられる馬越三郎に「深く思いをかけた」と書いてあるんです。聞き書き物として有名な本でしたから、これが史実として知られて小説とかに使われたんだと思いますが、子母澤氏本人が創作も入ってる、と発言を残していることもあり、最近はこの本の歴史資料としての信憑性は低くなりつつありますので、武田の話も真実かどうかはわかりません。でも、同性愛が隊で流行ってたというのは近藤自身の書簡によって確認取れています(^^;;まあ、江戸時代は同性愛には寛大な時代でしたから、あっても不思議はなかったかと;;


新撰組の隊服について
2005/3/14(月) 0:45
・浅葱色は武士の切腹の時に用いるカミシモの色で、赤穂義士にあやかり、死を覚悟する、という意味のデザインではという説。子母沢寛の「新選組始末記」ほかに、袖口に大きめの白い山形が抜いてあった。との目撃談あり。しかし実際はあまり多く用いられず、京都での後期は上着、袴とも黒ずくめの制服だったとか?

・色=浅黄色(ライトブルー?)。山形=袖だけらしい。

・ちなみにあの羽織が出来たとき嬉しさの余り「誠」の旗をかかげながら走り回ったそうです

・ついでに云うと、忠臣蔵の「錦絵」がモデルです。本当の討ち入りの際は、赤穂の方々は袖のところだんだらじゃなくって、ただ白く線状?だったそうです

・切腹の際は浅黄色の裃をつけていました。死に装束として採用したらしいですが、あまりお金のない頃に作られたので、いい品ではなく、すぐに誰も着なくなったというのが今のところの定説だと思います。それ以後、新選組の隊士は黒ずくめであったことが目撃証言として残っています。現実には、黒ずくめの方が長かったかもしれないですね。


新撰組の、隊中美男子五人衆って、誰?
2005/3/16(水) 1:44
・楠小十郎、馬越三郎、山野八十八、佐々木愛次郎、馬詰柳太郎(別名神威斎)だそうです。みんな17〜20歳位の若衆みたい。

・昭和初期から「新選組始末記」等の三部作を出版した子母澤寛の著作が初出。小説家でもあるので、内容は創作の可能性あり。

・この5人が同時期に在隊していたのは確かなようですが、果たして人々がそう呼んだかは確かではありません。佐々木愛次郎は永倉新八が「古今の美男なり」と評していましたが。

・子母澤寛氏の新選組始末記に出てくる逸話ですね(編集によっては新選組三部作の別の本に収録されているかもしれません)。子母澤氏の著作は基本的に聞き書きを主体としていますが、事実確認のされていない話も多く、またあるエピソードに関しては子母澤氏本人が「あれは創作だから」というコメントも残っていて(それがどのエピソードかは不明)、歴史資料としての精度には疑問があるといえるでしょう。五人衆について言及しているのは今のところ、これのみですので、実在したかどうかについてはまだ未確認というのが正しいところかと思います。




なぜ「沖田はかっこいい(顔が)」というふうに思われるようになったのですか?
2005/3/17(木) 1:04
・実際、沖田を美男子だと思うようになったのは、テレビで最初の沖田役をやった人が美男子だったから、それから沖田は美男子だ!と思われたそうです。

・その疑問は沖田に限ったことではないでしょう。歴史上の美男子は全て同じ疑問を抱えることになりますね。義経だって佐々木小次郎だってみなかっこいい人が演じていますよ。理由を探すとすれば、見た人がいないから、ということになると思います。誰も本当のところを知らないのですから、どうせなら若くして剣の達人は「美男子」の方がいいに決まっています。また江戸以来、救世主は美男の子供という伝統もあったようですよ。これについての詳細は『江戸の少年』という本を参照してください。

・そのほうが感情移入しやすいでしょ。小説でもマンガでも。


沖田総司の名前の読み方は”そうじ”か”そうし”のどちらが正解ですか?
2005/3/17(木) 1:19
・「そうじ」が正解です

・“そうじ”です。沖田本人があて字で「総二」なんて書いてるし、
小島鹿之助も「惣次」と書いたりしてます。
“そうし”が広まったのは沖田を演じた島田順司さんの影響ですね。

・総司を「そうし」と呼ぶのは、いまから約30年ぐらい前にやっていた、TV時代劇「燃えよ剣」で沖田役をやっていた役者の名前が「島田順司」(しまだじゅんし)で、そこからドラマの中で総司を「そうし」と呼んでいたのが広まったと言う事です。

・幼名が「宗次朗」もしくは「総次朗」だったらしいですから「そうじ」だと思いますよ。「宗次朗」を近藤局長が略して「宗次」と呼び、「総司」になった説もあります。(沖田自身「総司」「総二」「宗次」と色々に書いていたそうなのですが) どちらにしても読み方は「そうじ」でしょう。


新撰組の「せん」の字は、「選」と「撰」どっちが正しいのでしょうか!?
2005/3/19(土) 0:09
・どちらが正しい、という事はありません。当時は両方使っていました。が、字の意味を考えると、選の方があってますよね。

・土方さんは「撰」をよく使ってました。勝海舟に宛てた手紙(祐筆役の隊士が代筆した可能性高し)では「選」だけど。
武家伝奏から新「選」組の名を授かった点や印鑑に「選」が用いられていた点から見ると、強いていえば正確には「選」だけど
「撰」も間違いではありません。

・どちらでもいいんです。あの時代、読みが合ってれば漢字は合ってても合ってなくても良かったんです。

・あの時代は読み方が重要だったので、「しんせんぐみ」と読めれば「新選組」でも「新撰組」でもよかったそうです

・新選組って言うの会津に昔あった隊の名前(武士のエリート集団)なんですよ、それでその名が壬生浪士組に与えられたから正式には選です。でも他の人の言う通り、撰でもいいんです。近藤局長もどちらも書いていました。ただ正式な書状にはやはり選だったようです。



新撰組で1番強いのは、誰ですか
2005/3/19(土) 0:54
・歴史的には沖田、永倉、斎藤の三者の名が常に上がり、その順は証言者により変動します

・人の強さはゲームのように数値に出来ませんし、その人の調子や心理状態のよってその時の強さは変化するとおもいます。

・永倉、沖田、斉藤あたりがとくに強かったらしいが。もちろん近藤、土方も強かったはず。でも一対一の戦いはあまりしなかったからねえ。

・永倉が一番という隊士の記録があるって持ってる本に書いてある。裏づけはありません。その隊士の気持ち的に永倉さんが一番だっただけかも・・・。

・沖田の場合、力士に六角棒でこめかみを殴られたり、芹沢鴨の寝込み襲って鼻の下斬られたり、池田屋では昏倒するしとあまり強いイメージがない。兵器で言うところのコンバットプローブンではない!

・「実は芹沢が最強。よってたかって裸の状態を襲ったのに手こずった。対等の条件では勝てなかったことは間違いない」という意見もある。


新撰組とは
2005/3/19(土) 1:18
・京都の「治安維持」。幕末時の京都は「テロリスト」の「横行」する「無政府状態」「無警察状態」でした。その、京都の「治安維持回復」の為に作られたのが「新撰組」な訳です。(本当は「失業者対策」の意味合いが強かったのですが。)

・尊攘派を弾圧するために組織された武士軍団のこと

・過激派を取り締まり体制を護持するための治安警察

・幕末に、幕府を守って、外国人を追いはらおうとしました。近藤勇を中心とする組で、池田屋事件などをおこしました。新撰組の決まりは非常に厳しく、破ったら即処刑か切腹でした。



新選組ではホモが流行ったの!!!?
2005/3/19(土) 1:34
・ただ、新選組が男色家を特別に集めたわけではありませんので、同じ浪人等の集まりである、海援隊や奇兵隊でもあった可能性はあります。ある本によると、江戸時代では、男色は特に珍しい事ではないと書いてあります。江戸時代、朝鮮半島と江戸幕府が交流していました。その朝鮮半島側の使節の記録では、「この良さをご理解出来ないとは」と日本人に残念がられたとか。詳しくは、江戸時代の日韓交流の歴史を見てください。ただ、私は、個人の趣味的領域やプライバシーという点において、(尊王、佐幕、開国、鎖国ではなく)特別おかしな組織ではなかったという事を言いたいのです。


市村鉄之助について
2005/3/19(土) 1:53
・土方の遺品を日野まで届けた人。

・土方の遺品を届けた後西南戦争で戦死

・西南戦争とは別説で土方の遺品を届けた後、鉄之助の兄・辰之助と一緒に暮らし、一生を終えた。・・・という。

・医者になろうとした



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