何でも質問箱FAQ
FAQについて
2005/3/19(土) 2:20
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幕末四大人斬りって誰? |
2005/3/13(日) 0:38
・『中村半次郎』『岡田以蔵』『田中新兵衛』『河上彦斎』
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鳥羽・伏見の戦いについて |
2005/3/13(日) 0:51
・鳥羽・伏見の戦いが起こった原因は幕府側が挑発し戦を仕掛けたんですよ。当時、薩長軍は三千に満たない兵隊を京都付近で持っており幕府側は二万以上の兵をもっていました。そこから考えても薩長軍が戦いを始めたとは考えられません。西郷達が卑劣な事をと申されますが、幕府の内実情をしらなさ過ぎますね、下の方。当時の幕府ほど内偵/スパイを使い片っ端から楯突く者をしょっぴき殺してきた事は有名であり、その最先端を走っていたのがあの有名な殺戮集団、新選組だったと言う事もお忘れなく。 ・要は大政奉還が設立してしまった後であり、徳川家は幕府でなくなっていたのですよ。法律的にも合法てきにも。それを会津藩、桑名藩などの敗者達が認めず兵を鳥羽・伏見に集めたために新政府としては征伐をしざるおえない状態になった訳であり、結局は元・幕府側の原因であったのではないでしょうか!? |
鎌倉事件って何? |
2005/3/13(日) 2:08
・事件そのものは1864年11月、イギリス軍のボードウィン少佐とバード中尉が鎌倉の下馬四つ角付近を馬で通行中に清水清次ら2人の浪人に切り殺されたというもの。余談ですが、あとで検死の際にボードウィンの目を調べたところ、襲いかかってくる清水らしき浪人の姿がくっきり焼きついたように写っていたという真偽定かならぬなんとも奇妙なエピソードもあります。ちなみに鎌倉市のホームページにもちょこっと書いてありますよ(目玉のエピソードは無いですが・・・)。
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水戸藩は幕末ではどんな歴史的役割なの? |
2005/3/15(火) 23:28
・大きなことを言えば徳川斉昭、藤田東胡らを輩出し、井伊大老を斬る中心的役割を果たし、天狗党の350人に及ぶ処刑がありました。ただ戊辰戦争においてはただただ内乱に終始し、長州よりも遥かに人が死にすぎて結局、明治の中心的人物を輩出することはできませんでした。(佐々木克「戊辰戦争」より)
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ノルマントン号事件のこと |
2005/3/16(水) 1:32
・1886年10月24日、ノルマントン号事件が起きました。この日紀州沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が沈没しましたが、この時イギリス人の乗務員が全員脱出したのに、乗っていた日本人の船客23人は全員水死しました。この事件に関して当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にありました。そしてこの領事の裁判の結果、船長は無罪となり、日本国民の怒りが爆発しました。日米修好通商条約の条文(他国との条文も同様)第六条 日本人に対し法を犯せるアメリカ人はアメリカ領事裁判所にて吟味の上アメリカの法度を以て罰すべし。アメリカ人へ対し法を犯したる日本人は日本役人糾しの上日本の法度を以て罰すべし。これを締結した時の幕府のスタッフにはここにとんでもない問題が潜んでいることに気付く者はいなかった。折角アメリカが来る前に色々外国との付き合い方を教えてあげるから開国の条約を結びましょうと言ってくれたオランダの誘いを断った報いである。政府はこのような問題を引き起こしている不平等条約の改正を実現するため、まずは日本が欧米と対等な力を持つ国であることをアピールする必要がありました。 そのため外務卿・井上馨らが中心になって国内の法典の整備に務めるとともに、日本にも西洋風の社交クラブを作ろうと鹿鳴館を創設しました。(もっとも当時の西洋人から見れば鹿鳴館は場末の酒場程度のセンスでできていたとのことです)しかし井上の急速な欧化政策はそれ自体が国民の反発をくらい井上は失脚します。そしてその後任の大隈重信を経て、その次の外務大臣陸奥宗光がイギリスと精力的な交渉を行い、1894年、ついに領事裁判権の撤廃などを含む新条約を締結することに成功しました。屈辱的なノルマントン号事件から8年、不平等条約が結ばれてから40年目の快挙でした。このあと日本は日清戦争に勝利して「列強」の仲間入りをします。しかし外面だけを欧米並にしたものの国民意識が十分付いて行っていなかったことが軍部の暴走を許し、満州侵略・太平洋戦争の悲劇へと突き進む元になっていきました。 |
なぜ、この頃の人たちは名前を改名しているのですか? |
2005/3/16(水) 1:34
・維新前は、復古調の名前が好まれることもあった。維新後は、例えば太政官の要職を拝命するにあって、藩に在職する本名とは別に、 「源…、藤原…」等のように臣下に相応しい名を発明するケースもある。 姓名を大胆に変えて威厳をつくろう者もあれば、勝海舟のように 「号」を主に使用したり、漢籍にちなんだ名(〜之助は古くさい!)を新規作成するなど、 この時期いわば上下野ともにひとつの流行でもあったようです。要は自己アピールですな。 ・また別に、「過去の自分を消し去りたい」的に改名した者もいる。維新によかれと思って暗殺剣をふるった浪人の中には、 維新後「これでは自分はただの殺人鬼でしかないではないか」と考えた人々は、下野においても、 また新政府での職探しにも不都合がないように、まったく別人になりすましたようです。 はなばなしく剣に散れば、勇名をはせたものの、生き延びた為に、新政府から汚名を注がれることも珍しくなかったようで。 ・確か、明治維新後は官位に関する名前の使用を禁ずる、という法令が出て、武士の名前などはそれに類するものが多かったので、改名せざるを得なかった、と読んだことがあります。スケ、エモン、サエモン、ヒョウエ、とか。たしか、ある会津藩士の敗者の維新史というような新書で、戸籍上は新しい名前にして、家族は世襲の旧名で呼んでいた、という記述があったように記憶しています。 ・改名というわけではなくて、元々、武士には名前が二つあったらしくて、(坂本龍馬直柔、大久保一蔵利通など)明治になって、そんなの面倒じゃんってな感じで名前を一つにするとうことになったらしいです。 ・当時は戸籍上の名前(本名にあたる)を諱(イミナ)と通称と号(ペンネームのようなもの)があり更に変名がありで、当時の人もしばしば混乱していたそうです。あと、幕末の頃は自分の名前や漢字表記にはこだわっていなかったそうで、自分でも勝手に違う漢字を使用したりで、意味があるのかないのかはわかりませんが、1人あたり複数の呼び名がありました。 ・志士たちはいついかなる時に命を狙われるかわかりません。その為、変名・偽名をつかって暗殺者の目をくらましていたのせしょう。これと同じように隠語などもつかっていたようです。皇室→太陽家・薩摩→円十郎 というような。 ・自分の身分を隠すために名乗った。変名⇒仮の名前ってともかな。 |
大政奉還について |
2005/3/17(木) 0:42
・簡潔に言うなら1867年10月3日土佐藩山内容堂が後藤象二郎を通じて(何故かこれで有名な後藤。ほんとに何故?)大政奉還建白書提出。坂本龍馬が助言者だったようです。6日芸州提出。聞き入れられ13日徳川慶喜が決断。14日実行、ってとこでしょうか。ちなみに13日には討幕の密勅なんかも出てたんですがそのおかげで21日取り消されました。討幕も何も幕府がなくなっちゃったから。 ・旧体制から新体制へ慶喜さんが権力を委ね、無血革命を目標とされたもので、日本の歴史のうえでも評価が足りないくらい深い意味を持つものです。 ・大政奉還がなければ薩長もさっさと倒幕を済ましあれほどギリギリの水際作戦を取らずにすみ後世の人間から道義的にいろいろいわれることがなかったんでは?その意味で後世の評判に対し自意識過剰な慶喜くんのポイントになったてことだね。彼なりの高度な政治テクニックですな。 ・元々、大政奉還案が出された理由は薩長が新政府を仕切らせないのが目的であり、坂本が実行させたものですが、徳川派の会津、桑名藩などが新政府を認めずに反抗をしたために維新戦争が起こりせっかくの案も水に流されてしまった状態になってしまったのです。 ・慶喜が政権を返上したのは、大名の合議制による国家運営に移行することにより、幕府と倒幕派の対立が解消するかの幻想を持っていたからにほかなりません。しかし、慶喜が平和を望んでいても、敵が戦争を望む限り戦争は不可避なのです。現実は茶番に終わりましたが、仮に大名の合議制が短期的にうまく機能することがあったとしても、長期的には、薩長の軍事力を駆逐しない限り、空中分解の運命にあったと思います。 ・大政奉還というのは、現代に至るまで世界の各国全部を含め成功したという例は非常にまれです。一つの政権が自分の持つ権力を無抵抗に手放すものであり、人間の本能に叛くのが現実です。一時的とはいえそれを実行した慶喜さん、仕掛けた竜馬など関連した人達は非常な度胸と日本の将来にたいする愛情があったものでありますので現代でも十二分にそれを認識し学ぶことも必要でしょう。 ・大政奉還からさかのぼること四年前の文久三年、政事総裁職だった松平慶永(春嶽)からすでに「大政奉還もやむなし」との見解が出されています。この頃、幕府は朝廷から攘夷決行を求められ、一方で生麦事件の賠償問題に応じなければならないなど、国内外からの政治的圧力の板ばさみにあっていた時期でした。慶永はとうてい幕府政権を維持するのは困難だと考え、大政奉還を主張したのです。すなわち大政奉還論は、土佐藩の建白より以前に、幕府内にすでに存在していたということです。 ・土佐藩の大政奉還策は、べつに秘中の秘策だったわけではなく、薩摩藩首脳部も成り行きを見ていました。ただし、大久保も西郷も、また土佐の後藤象二郎自身も慶喜が受理しないと予想しており、クーデター計画は進められていたわけです。もうこの時点では将軍家を残す構想は捨てられていました。薩摩に幕府との協調路線を放棄させたことが一会桑政権の失敗でした。四候会議が幕府に与えられた最後のチャンスだったわけです。 ・大政奉還が幕府延命の最後のチャンスだったのではなく、薩摩が幕府を決定的に見限ったのは、慶応3年5月の「四候会議」の決議の重要部分が、幕府(いわゆる一会桑政権)によって無視されたからです。この時点まで薩摩は、徳川家を含めた公議政体構想を持っていたのですが(武力倒幕までは考えていませんでした)、長州再征の失敗にも関わらず諸大名の意見を無視しさらに専横を進めようとする幕府を見限り、王政復古クーデータ―の路線を固めます。 ・「大政奉還を慶喜一個人の仕事とみなす」解釈からそろそろ脱却するべきでしょう。大政奉還はけっして慶喜の専売特許ではないんです。従来から幕府内に根ざしていた考えを、土佐藩が時局救済策として建白し、幕府(慶喜)の意向を問うた。慶喜はそこで将軍の身でもってして専断することなく、幕閣に伺いをたて、さらには諸藩一般の了承を得た上での決断であったわけです。言うなれば、当時の武家社会の総意、ひいては幕末日本の国意が「大政奉還を是」としたのであって、当時の日本がこれを最善策として選択し認めたわけです。このことの意味を改めて考え直し、重視するべきではないでしょうか。 ・苦肉の策、薩長の出端を挫いて徳川家中心の新国家建設を目論んだ大博打。600年以上、政治や政策に無縁な朝廷がいきなり政治の全権を委譲されても何をして良いのか分からない。結局、それまでの国政を執り行ってきた幕府(徳川家)に頼る他無い。それを視野に入れた大政奉還って訳です。 ・『昔夢会筆記』のなかで慶喜自身が次のように述べています(270頁)。予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだと。また慶喜は「大政を返上した上で、あくまで国家のために尽くそうという精神であった」とも言っています。もちろん『筆記』は後日談ですから、王政復古云々との言葉は額面どおり受け入れることはできないのですが。 |
脱藩の罪はどのような罪なのですか? |
2005/3/17(木) 0:48
・主君を見限って国を抜け出す。。。という行為になります。武士の世界じゃ許されない事です。現代に例えると、パスポートを持たずに海外逃亡するようなもんです。
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4大人斬りみたいにセットで呼ばれていた名称ってほかにもありますか? |
2005/3/17(木) 1:35
・松陰門下の三秀(高杉&久坂&吉田) ・松下村塾の双璧(高杉&久坂) ・幕末4賢侯 (伊達宗城・松平慶永・山内容堂・島津久光) ・維新三傑 (西郷隆盛・大久保利通・桂小五郎) ・幕末三舟(勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟) ・松下村塾四天王。無逸、実甫、子遠、暢夫。 |
明治維新は欧米でいう市民革命であったか? |
2005/3/19(土) 0:28
・明治維新では一般市民も農民も何の役割も果たしてないわけで、とうてい市民革命とはいえません。王政復古も戊辰戦争もあくまでも日本の危機を知った支配階級同士の騒乱で、一般人はただええじゃないかといって踊り狂ってたに過ぎません。戊辰戦争の時のシラケた農民の顔をみて、板垣退助がこれではいかんとのちに民権運動をするわけです。封建制廃止(廃藩置県)も、支配階級が自ら実行したのです。それでも明治は封建的で不自由な時代だったなどと、一般国民がいえた義理じゃないのかもしれません ・明治維新はあくまでも明治維新であり、どの型にもあてはまるという性質ではない、と、司馬さんは書いておられます。 ・最終的に明治政府の主導権を握ったのが、武士、公家などの特権階級である以上あくまでも「維新」であって「革命」ではないと思います。 ・欧米の市民革命とはちがう部分はありますが、革命といっていいのではないでしょうか?政治的支配権のない武士たちが多数奔走してなった維新です。その中には脱藩浪人も百姓あがりの人たちも数多くいます。奇兵隊しかり、大村益次郎が指揮した軍隊しかり。決して「支配階級同士の騒乱」などではありません。 ・欧米でいう所謂「市民革命」ではないと思います。江戸幕府は軍事政権だから、被支配者(一般市民)が反抗しているわけでもないし、地方の武士が政権を天皇の名を借りて奪取している。軍事政権から王政復古するなんて聞いたことがねえよ。 ・「革命」ではなく、ある意味での「変革」ではないでしょうか。従来の幕藩政治の社会体制を革め、維新政権を担ったのは薩長土肥の旧武士階級だったからです。すくなくとも被支配階級による維新でもないですし、フランス革命のような革命性はないと思います。また攘夷論は、幕末後期にあっては、単に幕府打倒のために使われた政治的手段であって、攘夷派も開国論を唱えています。 ・「革命」という言葉が、その司馬さんの小説が書かれた例えば昭和三、四十年代当時はどのような響きをもっていたか、などの理解も併せて小説を読むと二重に歴史を楽しむことになると思います。三国志(漫画の)ですら「大革命ロマン」なんて触込みがされていたし。まあ現在では「革命」などという言葉に魅惑される人間もいないし、マルクス主義の崩壊で、明治維新のような歴史上のある事件が「革命」であったかどうかを規定することにも意味がなくなりました。 ・ある種、地方権力者が現政権を打倒して、政権を奪取したのだから「クーデター」だと思います。市民は全く関係なかったと思いますし・・・。(奇兵隊を志願兵部隊と見る向きもありますが・・・) ・こういう事件は世界史的にも珍しい。市民革命では断じてないが、武家政権から王政になった例は余りないのでは。日本の場合天皇がいたことが、特殊な歴史になっている。 |