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なぜ薩摩と長州は、仲が悪かったのですか? |
2005/3/21(月) 0:34
・ずばり申すならば、薩摩が幕末政局のなかで示した数々の政策・行動は、その政局の各々における「正統」です。薩摩の行動のほぼ全ては、その政局状況ごとに求められる政治的決断および構想に合致し見事に適応したものです。そして、これまたよく誤解される「薩摩は当初から倒幕路線だった」という解釈があります。しかし、ペリー来航以来、薩摩藩政府が目指していたのは、先君島津斉彬の政治目標であったところの「雄藩を中軸とした公議政体の確立」および「幕府も含めた緩やかな連合政権の樹立」にあったというのが真相です。幕府との妥協的な協調関係の中で、来るべき新政体を築こうというのが、まず当初から一貫として行われてきた薩摩藩の政治的姿勢ということになります。長州はほぼ全期を通じて反幕・王政復古を目指していた点で、薩摩と比べた場合、一見してたしかに初志貫徹し行動には整合性があるように感じられます。それはそれとして評価できるのですが、長州はあまりに思考ばかりが先行し、現状認識の点で薩摩に大きく遅れをとっていた点は否定できません。 ・長州が目指した攘夷親征から天皇親政へのシナリオは、維新の精神的原動力ですし、これまた評価すべき正義であることも否めないところですが、やはり基本のところでは、とくに文久・元治期などでは、幕府との緩やかな提携(公武合体)、そして公議政体への速やかな移行へと突き進むのが当時執られるべき最善の国体の在り方であったと思います。ことに外圧との兼ね合いもありますし、長州の目指した急進的変革路線をただちに実行するのはリスクが大きすぎます。薩摩はその点を踏まえ、出発時から公武合体からの政治展開がもっとも有効であることを冷静に分析しており、「幕府との妥協的協調」をとり合いながらの政治展開をたえず模索していたのです。 薩摩が政治的目標としたこの「幕府との緩やかな連携」、のちの新政体確立を阻んだのが幕府そして会津藩です。まず、彼らは禁門の変で朝敵となった長州の殲滅に躍起となり、長州復権を許可して更なる政界再編の一員として加えようとの薩摩の計画を打ち砕くがごとく、自政権維持のみに汲々としてしまいます。とくに第二次征長などは何ら大義名分もなく明らかに幕府勢力の言いがかりであって(個人的にブッシュ大統領の対イラク認識を連想してしまうのですが)、薩摩はこの幕府の先鋭化を非常に危険視しました。そして「四候会議」の一方的決裂によって、緩やかな公議政体構想そのものまで幕府に握り潰されてしまったのです。そしてこの幕府絶対主義化への回帰を背後で支えていたのが会津藩です。 薩摩との協調路線ありせば、まがりなりにも公議政体への具体的な移行は陽の目を見たはずですが、幕府としては幕権維持のために、長州は朝敵とされて今やなんら効果的な政治活動すら取れないことも考慮して、あえて薩摩を中心とした有志諸侯の意を踏みにじってまでも単独政権復帰をめざしたのです。とすれば、薩摩は公議政体樹立にむけて、幕府との関係をも重視しながら柔軟に対応していたのであって「正統」といえるものです。(幕末という多難期において必要とすべきは、公武合体および連合政権にあらず、幕府単独政権こそ是であるとするならば論外ですが、言うまでもなくその是非の如何はどちらに在るべきかはお分かりのことだと思います)。 逆に、柔軟さを欠き、むしろ硬化していたのはほかならぬ幕府であり会津であったのです。当然に、尊攘一筋の長州もそうであって、ために現実認識の客観的判断を見失い、禁門の変以降の挫折を余儀なくされるわけです。薩摩は慶応3年のぎりぎりの段階まで連合政権を模索していたのですが、その辺の幕府勢力の危険性を見切ったため、一転して長州と手を組み倒幕へと展開していったのであって、あくまで薩摩の姿勢は「正統」であり、評価すべきであろうと思います。少なくとも、倒幕以前の段階において、薩摩は幕府と「正統路線」を共同歩調で推進していこうとの立場を明確に示し、その努力は怠っていません。同時に、幕府の絶対主義化への回帰を分析することなしには、いつまでたっても「薩摩は裏切者」とする誤解は解けないであろうと思いますね。 本題の薩長の感情的対立については、指摘にもありますように、文久政変・禁門の変を通じて決定的になったように思います。ただそれが出発点というわけではなく、文久政変の直前にすでにその兆候がありました。それは姉小路公知暗殺事件です。真犯人の確定はされていませんが(個人的には武市瑞山関係ではないかと思います)、状況証拠などから薩摩の田中新兵衛が容疑者に挙げられ、ために薩摩藩の禁門警衛解除および出入り禁止となった経緯があります。禁門警衛というのはある種の政治的勲章でもありますし、それを解除されたとなれば京における活動拠点を失ったも同然で、藩として大変に憂慮すべき事態です。薩摩・会津は、長州の所業であると疑い、ここに大きな感情の対立が生まれました。暗殺事件が、政変勃発の一因となったことはご承知のことかと思います。 さらに遡れば、文久2年の久光の率兵上洛前後にすでに薩長両藩に感情のわだかまりがありました。公武合体を掲げ幕政改革を果たさんと勅使を奉じて久光が東海道を東下するや、江戸にあった長州藩主は久光を避けて中山道をぬけて上洛し、それまでの公武合体の藩論を破棄して尊王攘夷を新しく掲げ、久光の留守中に京都を尊攘一色に塗り替えました。文久年間というのは、朝廷から頻繁に国事周旋の勅命が下されたこともあり、雄藩の政治参加が一気に盛んになったわけですが、この場合の薩長の対立もその延長線上にあって、「われこそが主導権を」との覇権争いというべきものです。文久政変や禁門の変のごとき現実的な体感的不和というよりも、ややリアルさに欠ける政略的不和との感がありますが、この時の対立観は果てしなく「外様雄藩のプライド意識」に拠るところ大ではないでしょうか。この薩長間の感情の駆け引きは、その後も互いに脈々と引きずっていき、時には対立感情として現われ、時にはテコとなって連繋することに効果を発揮したように思います。 ・直接の原因は文久三年八月の、薩会同盟という薩摩の突然の裏切りです。そして禁門の変。これ以後王政復古までの間長州が味わった逆境は凄まじいものがあります。この裏切りの原因は島津久光が長州の過激な考えを嫌ったからでした。そんな久光を大久保や小松らがうまーく騙し操りながら、結果としていつのまにか倒幕路線でした、というのが薩摩藩なわけです。また西郷は倒幕の意思を固めていても表にあらわしません。そんなややこしい薩摩の事情が長州側に簡単に理解される筈もなく、これを簡単に信用する事など不可能でした。 |