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河上彦斎について |
2005/3/21(月) 0:24
・肥後藩出身。騎乗中の佐久間象山を襲い暗殺。このため「人斬り彦斎」と呼ばれるようになる。その後明治政府から攘夷思想を危険視され処刑された。享年38歳。辞生の句は「君がため死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん」 ・同志の加屋霽堅(神風連副将)の彦斎伝によれば小柄だったそうです。 ・河上彦斎は宮部鼎蔵の弟子です。宮部は肥後藩の正式な軍学師範でした(山鹿流)。長州の吉田松陰の門下から多くの維新志士が輩出されたように、宮部と弟子たちも「肥後勤王党」を形成し、その多くが幕末の京で命を落とします。彦斎は肥後勤王党の数少ない生き残りです。 ・写真は無いです。肖像画は現在行方不明です。肖像画は、かつて熊本での慰霊祭(現在休止中)では展示されていましたが現在行方不明です。彦斎の遺品は熊本城天守閣に収蔵展示されていましたが昭和30年代に盗難に遭いました。 ・幕末屈指の抜刀術の使い手ですね。 ・佐久間象山を斬ってから、人斬りの足を洗ったといわれてます。 ・元治元年七月以降、新選組が総力を挙げて倒そうとした志士です。 ・彦斎を斬るために新選組に入隊した隊士(三浦啓之助)もいましたね。 ・高杉晋作や桂小五郎とも交友がありました。奇兵隊の隊士たちからの人望も厚かったようです。 ・池田屋で死亡した宮部鼎蔵と松田重助の墓碑を建立したのも彦斎です。 ・肥後藩士。明治四年に刑死。広沢真臣参議の暗殺犯であった疑いもある。るろうに剣心のモデル。 ・河上彦斎は剣客でもあり、国学者でもあり、また優れた文才をもちたくさんの和歌を詠んだ ・「人を斬るのは木偶を斬るのも同じだが、象山を斬った時は身の毛がよだつのを感じた。象山は当代の豪傑。こっちの命まで消え失せる気がした。」と感想をもらし、人斬りの足を洗ったといわれる。 ・人であればどんなものでも真っ二つに斬れる人物。頭蓋骨も切り落としたという伝承がある。切れ方があまりに綺麗で、取れた首が再び綺麗にくっついたと言う。(もっとも相手は死んでいたが) 幕末はおろか史上最強にして最狂の剣士であることは疑いの余地がない ・河上彦斎は幕末の三大人斬りとして有名ですが、はっきりとしているのは佐久間象山暗殺だけです。もともと肥後藩の下級武士だったのですが、熱心に勉学にはげみ勤王活動も活発だったため肥後藩が京都に朝廷の護衛として派遣する時メンバーの一人に選ばれました。そしてもっぱら三条実美らに護衛として行動をともにしていたようです。志士たちのトップともいえる人々の会合に彼の名もあることから、かなり志士の中では中心的な存在だったようです。しかし、長州に身を置いていたとき故郷・肥後が形成不利な幕府側として戦い続けているのを知り、故郷では脱藩者としてお尋ね者になっているにもかかわらず帰国します。そして朝廷側が巻き返し、幕府が滅びる後まで彼は獄中にいます。釈放後志士の人材不足な肥後藩は彼を高い役につけ、京へ送りますが、かつての同志達は以前語り合っていたのとは全く違う新政府をたてていました。怒った彼は旧友らを訪ね歩きますが、皆恐れて会おうとはしませんでした。絶望した彼は故郷に戻ります。その後反乱を企てたとして処刑されますが、実際そうであったかは定かではありません。 |