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カテゴリ:志士関係
西郷隆盛について
2005/3/16(水) 1:30
・文政10(1827)年12月7日、西郷隆盛は、鹿児島城下下加冶屋町山之口馬場(したかじやまちやまのぐちばば)で生まれました。幼名は小吉(こきち)、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通しました。南洲(なんしゅう)はその雅号です。西郷家の家格は、御小姓与(おこしょうぐみ)で、士分では下から2番目の身分である下級藩士でした。少 年時代の西郷については資料が少なく、はっきりとした事は分からないのですが、少年(薩摩では稚児(ちご)といいます)の時、けんかで右ひじを負傷し、完全に右ひじを曲げることが出来ないようになった為、この時より武術をあきらめ、学問に精を出すようになったと言われています。このように、幼少の頃、武芸ではなく、学問に励んだことが、西郷にとって後年大いに役立っていくのです。16才の時、西郷は藩の郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)に任命されます。薩摩藩では、武士の家庭の子弟がある程度の年齢に達すると、家計の助けとなるように、小さな役目に付ける慣習がありました。これは武士人口が多い薩摩藩ならではの慣習です。
例えば、書の巧みな者は役所の書役、武術の長けた者は藩校・演武館の助教、といったように個人の能力や資質に応じて、色々な役目に就かせたのです。西郷は右ひじのケガのため学問に精を出していたので、書がかなり巧みだったのでしょう、郡方書役助、つまり農政をつかさどる役所の書記官補助、といった役目に任命されたのです。郡方は年貢(税)の徴収等も行なっていたので、あらゆる所に出張しなければならない非常に体力のいる役目です。西郷の生まれついての雄大な体格も、郡方に任命された一つの理由だったかもしれません。西郷が郡方に任命された時の郡奉行は、迫田太次右衛門利済(さこたたじうえもんとしなり)でした。迫田は城下でも有名な硬骨の武士で、西郷は迫田に非常に大きな影響を受けています。
ある時、迫田は重税に苦しむ農民の窮状を憤り、役所の門に「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」と書いて、郡奉行を辞職しました。虫とは役人を意味し、いつふし草とは重税に苦しむ農民を指しています。つまり、役人が農民に過剰な税を課すことは、自らも破滅に導くことになるぞ、という事を言っているのです。この句には、国の根本をなすものは農民である、という迫田の信念が表れています。西郷はこの迫田から農政に関する考え方を一から学んだのです。この迫田から学んだ農政に関する知識や経験が、後に西郷が島津斉彬に見出される要因となるのです。
西郷が郡方に勤務して5年後の嘉永2(1849)年、薩摩藩にお家騒動が起こります。俗に言う「お由羅騒動」(おゆらそうどう)と言われているものです。薩摩藩第27代藩主・島津斉興(なりおき)は、正室・周子(かねこ)の子の世子(せいし・藩主の跡継ぎになる子供)である斉彬(なりあきら)ではなく、側室・由羅(ゆら)の子の久光(ひさみつ)を藩主にしたいと考えていました。斉彬は進取気鋭の性格で、当時の日本を取 り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物でした。しかし、藩主の斉興は、そんな斉彬を嫌い、自らの家督を譲ろうとしなかったのです。当時、斉興は58歳になっており、斉彬は40歳になっていました。これは当時の社会状況から見ても異常です。普通、世子が20歳代にもなれば、父である藩主は自ら隠居して、子に家督を譲るのが通例だったのです。
ところが、自らが50歳代を過ぎ、子が40歳になろうとも、斉興は隠居しようとはしませんでした。なぜ、斉興がこれほど斉彬のことを嫌ったかには大きな原因があるですが、ここで詳しく書くことは控えます。ともあれ、そんな斉興の異常な行動に反発した藩内の斉彬を慕う高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)を中心としたグループが、斉興隠居・斉彬擁立に動き、活動を始めました。そんな反体制への動きを知った藩主・斉興は、烈火のごとく激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、以下この運動に関わった者達に、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下したのです。これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件」(かえいほうとうじけん)、「近藤崩れ」、「高崎崩れ」と言われるものです。西郷の父・吉兵衛が御用人を勤めており、西郷家と縁の深かった赤山靱負(あかやまゆきえ)も、この「お由羅騒動」に連座し切腹しました。西郷は赤山の見事な切腹の様子を父から聞き、赤山の志を継ぐことを決意したのです。この「お由羅騒動」は、若き日の西郷に大きな影響を与えました。
「お由羅騒動」により、斉彬派と呼ばれる一派は、なりを潜めたように思われましたが、斉彬自身は藩主になることを諦めませんでした。自らが得た知識を藩政に生かし、大幅な改革を推進したい、そして、諸外国の圧迫が迫る日本のために、自らの手腕を生かしたい。このような大きな目的と希望を持っていた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じます。まず、斉興の腹心であり、薩摩藩の財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を失脚させようと考えました。斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘(あべまさひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球を通じて薩摩は外国と貿易をしていた)を幕閣の問題にあげて、斉興及び調所を追い詰めようとしたのです。自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは、斉彬にとって苦肉の策であったのですが、斉彬としては何とかして藩主になるためには、こうするより手立てがなかったのです。この斉彬の秘策は的中しました。まず、調所は、藩内の貿易に関する責任は一切自分にあるという理由で服毒自殺して果てました。
その頃、西郷は、同じ加冶屋町郷中の吉井仁左衛門(よしいじんざえもん・後の幸輔、友実)や上之園郷中の伊地知竜右衛門(いぢちりゅうえもん・後の正治)、高麗町郷中の有村俊斎(ありむらしゅんさい・後の海江田信義)、そして、高麗町から加冶屋町郷中に移住してきた、後年西郷の無二の盟友となる大久保正助(おおくぼしょうすけ・後の一蔵、利通)らと共に、誠忠組(せいちゅうぐみ)というグループを作っていました。(注・郷中とは、ごじゅうと読み、町内の区画のこと)これは、若き二才(にせ・薩摩では青年という意味)達が集まった若手勤皇集団といったものですが、西郷は加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら・町内の若手リーダーのこと)を勤めていた関係から、非常に人望があり、その誠忠組のリーダー的存在になっていたのです。そして、その斉彬の布告を見た西郷は、せっせと建白書を書き、藩庁に提出しました。西郷が提出した建白書は現在には残っておらず、その内容は定かでないのですが、農政に関する内容であったと伝えられています。いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているか、ということを切々と訴えたものであったことでしょう。





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