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カテゴリ:幕末全般
孝明天皇毒殺疑惑について
2005/3/21(月) 1:09
・従来の説ではその黒幕には岩倉具視が想定されていると思うのですが(一番下の方の認識もそうだと思います)、これを否定する論説がありますので、参考までに原文のまま一部抜粋したいと思います。「岩倉黒幕説」は、この質問箱の過去ログにも度々登場していますし、その関連のためにも、紹介しておきたいと思います。典拠文献は『岩倉具視関係文書』(新版)所収の森谷秀亮氏による「解題」です。(大久保利謙『岩倉具視』中公新書から引用)
●岩倉の政略思想は、天皇主体の全国合同策であり、数々の意見奏上も当今天皇に期待して書いたものである。天皇とは思想的にひらきがあるとしても、それは強引に「直諫」して、天皇を自分の方に動かす自信があった。これが政治家岩倉の特色である。(中略)だから岩倉にとって当今天皇は大切な至上の存在であり、それだけその人物をよく知り、朝政改革の主体として頼りにもしていた。岩倉が天皇崩御と聞くと「吾事終れり」と、遁世を思いたったのもそのためである。
もし天皇を亡きものにする必要があるとすればよくよくの理由がなければならない。まして岩倉はそういう嫌疑をうけて悩んでいる(拙註; 文久二年の和宮降嫁推進を非難された際に「調伏毒殺」の疑いをかけられた前歴があり、憤懣やるかたない心情を吐露した書簡が存在する)。慶応二年の暮頃に、岩倉にとってそういう必要があったろうか。
ところで天皇の毒殺(?)は、たまたま天皇の発病という全く偶然の機会に決行されている。ところが当時の岩倉は、列参を計画し、また薩摩藩との協力強化という手を着々打っている。毒殺の決行には慎重な下工作がいるはずで、とっさの機会にそのようなことを決行するとは到底考えられない。むしろ茫然自失がその真相であろう。もし決行したとすれば、天皇亡き後、何か改革の手を打ちそうなものであるが、その模様もない。当時の朝廷政府の複雑な内情では、天皇をなくしてのクーデターが簡単に成功するものではない。クーデターのむずかしさは、この年八月の列参の「失敗」で経験ずみのはずである。このように考えると少なくとも、「岩倉謀主」説はありえないと判断される。
毒殺説のいわれとして、当然に、当時の侍医であった織部正伊良子光順の記録が問題となるとおもいますが、この点について森谷氏は「これだけでは黒か白か決めかねるので、そういう疑惑があるというに止めおくほかない」「病状資料からは岩倉との関係はでてくるわけはない」と、しています。そこで、別の方面、すなわち当時の岩倉の政治的立場・心境などから考察し、前述した見解を示されています。
これを受けて、個人的には、かりに岩倉が黒幕だったとして、「暗殺決行後になんら改革に着手しようとする態度がみられなかった」という指摘は、おおいに示唆に富むものだと感じます。討幕の機会をひたすら待ちつづけ、改革推進の表面化を極力抑えようとしたと狙いが裏にあったとしても、事実上の改革を試み、その達成をみた「王政復古クーデター」は天皇崩御から実に「一年も」経過しているのです。(討幕の密勅降下を容れるとさらに短くなるが、工作期間を考慮すればほぼ遜色なし)
というのは、もし岩倉が討幕を最大目標に据え、その障害であった天皇を排除したのであれば、この「一年」はあまりに長すぎる。即刻討幕を目論むならば、この一年は猶予ならぬ時間と言わざるを得ない。考えようによっては、幕府においてもあるいは操縦可能であっただろう幼帝を、野ざらし状態同然に残し置くわけですから。これは明らかに岩倉らにおいても「諸刃の刃」にほかならない。幼帝を握るための天皇毒殺であれば、いうなれば謀略成功によって討幕へと一気加勢に突き進む条件が整ったにもかかわらず、さらには、毒殺が即刻討幕のための用意周到な計画であったならば、なぜ一年のブランクを要する必要があったのか。討幕を遅々とさせるならば、なぜあの時期に天皇を葬り去る必要があったのか、など数々の疑問がでてきます。(その他にも岩倉はまず政治意見書などによる「直諫主義」、あるいは倒幕よりもむしろ朝廷の浮上を前提とする「天皇至上主義」を最優先させた人物であったことを認識する必要があると思います)
すなわち、天皇毒殺が計算つくされた岩倉の謀略であったとするには、討幕の決定打までの時間的疎隔ないしその流れがうまく説明できない。しかも、天皇崩御後における岩倉には、討幕体制を一気にまとめあげようとする態度を大きく示すものがなかったこと、これは紛れもない事実としてあります。しかし、侍医の病床日記というのもやはり無視することのできない重要証拠であって、どちらにせよ毒殺説、岩倉首謀説には依然として再考の余地があると思いますね。

・よく他の歴史掲示板でも、「毒殺説が学会で明らかになった」と主張する人が見受けられますが、そのような事実はありません。孝明天皇の死亡原因については、維新史学界でも注目されていますが、決着はついていません。
90年代の初頭に、石井孝と原口清という学界を代表する学者の間で、毒殺説・病死説に分かれた有名な論争がありました(下で引用されている中公新書『岩倉具視』の刊行より、ずっと近年のことです)。史料分析にとどまらず、医学的見地からも有益な意見が出されたのですが、論争の決着は付きませんでした。最終的には孝明天皇陵の実地調査に頼るほかないという結論に至っています(双方とも毒殺・病死を実証したのではなく、あくまで可能性の指摘にとどまっています)。
アマチュアの歴史ファンの中には、この論争の経緯を知ることなく、片方の学者の著作や不十分な孫引き情報だけを読んで、毒殺説を主張する人が多いようです。その意見をネットで知った人たちが安易に受け売りして、さらにこの説を広めているように思います(ちなみに現在の学界では、どちらかというと病死説が有力なようです)。
その証明が十分でないかぎり、一方的に岩倉首謀と断定とするのは慎むよう切に希望します。発掘調査まで慎重であるべきで、そこで病死と判定されないかぎり「毒殺されたとみなす」というのは、ほんとうに「科学的な態度」と言えるんでしょうか? それこそ「主観に基づいた非科学的な態度」ではないんですか? 慎重な検証の上にたっての見解でなければ、なんら説得力を持ちません。
さらには、私自身すでに述べた「毒殺後、改革推進の表面化を極力おさえたのではないか」「そのために長期の時間的距離が必要だったのではないか」という仮定は、現代の第三者である私たちにあってさえ容易に想像しうる解釈です。はたして、用意周到に物事をすすめ深慮遠謀に長けた岩倉にあって、旧幕勢力からこのような疑念さえ容易にかけられるであろうぐらいの推測さえ読めなかったとすれば、それこそ不思議でなりません。ただでさえ、和宮降嫁運動以来、さまざまな非難中傷や疑いをかけられ、生命の保証もなかったほどに徹底的に嫌われた岩倉のことです。天皇の不可解な急死が判明するや、まっさきに自分に疑惑の矛先が向けられるであろうことぐらいは自覚していたはず。それならば一刻も猶予ならない倒幕という目標の前では「五十歩百歩」の如くであって、決行後に即今倒幕へ突き進む方が「堅策」というべきではないでしょうか。森谷氏の「岩倉にとってそういう必要があったか」との指摘の方が、かぎりなく信憑性があると感じますが。

・天然痘で亡くなったというのが定説とされている。ただし、死の直後から毒殺の噂が絶えないのも事実。

・典医が共犯でない限り毒殺は不可能だと思う。また、アーネスト・サトウの証言も信頼できるかと言ったら疑問だと思う。実際に天皇を毒殺したとしてそんな重大な秘密を外国人に漏らすだろうか?

・状況証拠からすると限りなくクロだよね・・・。京都守護職を信頼する公武合体派の孝明天皇が倒幕派の最大の障害物であったのはたしかで、唐突な死や、すぐさま幼帝をさらって偽勅を発し戦争を仕掛ける一連の動きの素早さは、周到な計画を練ったグループが薩長側にいたことを暗示していると思うよ。

・(毒殺説が事実とすれば)犯人側が権力の中枢を掌握しちゃったんだから誰もなんにも言えなくなちゃったんだと思うよ。伊藤博文がこの件に関して厳重な箝口令を敷いたとかで...今でもなんとなくタブー?



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