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カテゴリ:志士関係
吉田松陰の最期
2005/3/14(月) 1:15
・松陰の首をはねた山田浅右衛門の証言に(松陰とは知らなかったらしいが)あの時首をはねた罪人はとても立派な最後だった、といったものがあったと記憶しております。

・処刑に抵抗したのでしょうか。彼は遺言として「留魂録」を二通も残しています。死刑と決まって取り乱している人がそんな落ち着いた事が出来るでしょうか。また、松陰は刑場に引き出される際、牢屋中に響くような声で詩をうたったらしいのですが、それが牢屋の奥の人たちにはエコーがかかって単なる喚きにしか聞こえなかったそうで、その証言が史料として残ってしまったのではないでしょうか。

・松陰の最後が取り乱していた、という史料というのは多分世古格太郎の『昌義見聞録』のことだと思います。世古は伊勢松阪の人で評定所で安政六年に江戸で尋問を受けた時にたまたま松陰の裁決を見聞したといい、「吉田も死刑に処せらるべしとは思はざりしにや、彼を縛るときまことに息荒く切歯し口角泡を出す如く、実に無念の顔なりき。・・・」と記録して公刊したといいます。しかし下の方が書いてらっしゃるように、留魂録や山田右衛門の証言も実際残っているので、この史料だけで史実を判断することは出来ないと思います。この史料の「吉田」が本当に松陰だとは限りませんし・・・

・☆勝手ながら、松陰は死罪を自ら受容したことの証明をしたいと思います。少し長文になるので、ご容赦いただきたい。松陰の死罪確定は安政六年十月二十七日、即日に刑が執行された。ここでは刑の確定前に在獄中の松陰が関係各位に送った書簡類を紹介したい。
@まずは同月十七日、尾寺新之丞宛て書簡。ここでは、評定で幕府側取調官の様子に変化がみられたことにつき、「(松陰の予想とは)存外の義どもこれあり、いまさら当惑は仕らず候えども、きっと覚悟仕候」「とても生路はなきこと覚悟致し候」「首を取る積りに相違無く」「やはり首を取るに相違なし」と、死罪到来を予想し、その覚悟を述べている。そして「鵜飼(吉左衛門)や頼(三樹三郎)・橋本(左内)なんどの名士と同じく死罪なれば小生においては本望なり」と、死罪を自ら受け入れている。
B同月二十日、入江杉蔵宛て書簡。かねてから懸案中だった人材育成の学校「尊攘堂」建設など、今後の処置を入江に依頼。尊攘堂建設について松陰は「僕はいよいよ念を絶し候」と、きたるべき自身の将来を覚悟した上での依頼であった。
C同月二十五日筆起の「留魂録」。第八条では、人生を四時(四季)の収穫になぞらえ、「今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり」「義卿(松陰)三十、四時已(すで)に備はる」、すなわち我が人生の使命はすでに全うしたと認識している。この留魂録の中では、松門下生に対して将来への指針をうたっており、全体としては、いわば彼らへの遺書として書かれたものである。
次に刑執行当日の記録を。下の方の説のとおり、死罪が宣告されたとき、松陰が「顔面蒼白、口角より泡を吹き、猛然と反抗した」との記録が、当時在獄していた世古格太郎の手記にあるようだ。しかし、ふたつ下の方の説にあるように、評定所のくぐり戸を出るとき、松陰は明々朗々と辞世の詩を口にしており、あるいはそれを聞き違えたのでないかとの疑いがある。松陰が己の生を諦観し、刑死をすすんで受け入れようとしたことは、さきほど紹介した書簡・遺書などに何度も明確に示され、各方面にも報告されており、その松陰が死罪を宣告されたとて、今更ながら抵抗の姿勢に出たとは考えにくい。前日に遺書まで書いた人物ならば、当然に、一定の心の落ち着きがあって然るべきである。
さらにひるがえってみると、同じ刑場に居合わせた関係者の記録として、指摘にあった山田浅右衛門の証言のほか、同囚の鮎沢伊太夫の「従容として潔く、人々実に感じける」証言、同心吉本平三郎伝の記録などが実在する。なお、松陰の詩吟の様子として、長州藩代表として判決に立ち会った小幡高政の記録には次のようにある。「時に幕吏等なお座にあり、粛然襟を正してこれを聞く。肺肝をえぐらるの思いあり。護卒また傍より制止するを忘れたるものの如く、朗誦終りてわれにかえり、狼狽して駕籠に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ」。すなわち松陰の声は相当に大きかったようで、世古が「松陰が抵抗した」と勘違いした可能性は十分に考えられる。
さらにもう一点、「松陰が刑死に抵抗した」と思われる節の事例がある。実は先に挙げた@の書簡の中の記録にある。松陰が告白した老中襲撃事件計画の要旨について、松陰と幕吏との間に解釈の違いがあり、松陰は本意を知ってもらおうと「僕また大に弁争致し候」態度に出たのである。「弁争については随分不服の語も多けれども」と、ここでも相当の威勢をはなったようで、あるいは世古証言はこのことを示しているのかもしれない。いや、状況的にはこの評定での弁駁の様子を伝えたとみるのが、限りなく信憑性が高いように思える。ちなみに@の「やはり首を取るに相違なし」との記録は、この(松陰にとって不利な)幕吏の解釈が適用されたために出た言葉である。
したがって、「松陰が刑死に抵抗した」と思われる記録も存在するが、あらゆる状況・角度から分析すれば、素直に死罪を受け入れたとする従来の説がより合理的ではないかと思う。「死罪確定の前」に松陰自身がその覚悟を「活字化」して、「多方面」に配布し、その史料が「現存」すること。これが何よりの証明である。



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