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江戸幕府はなぜ倒れたのか |
2005/3/21(月) 0:53
・幕末当時の薩長の敵対意識は、現代のわれわれの想像をはるかに超越するほど凄まじいものだったと思いますよ。米ソはあくまで冷戦でしたが、薩長は実際に戦場でガチンコ勝負してますからね。特に長州の反薩摩感情は相当なものだったでしょう。幕末の政争でことごとく前に立ちはだかり、藩をこなごなにする直前まで窮地に追いやった張本人が薩摩でしたから。文久政変、禁門の変によって、長州なりの正義とプライドは完全に打ち砕かれ、多くの人材も失った。犬猿の仲などという代名詞だけでは言いあらわし難く、頂点の薩摩にどん底の長州、どう贔屓目に見ても両藩が結びつく要素はなかったし、簡単に結びつくことを許さない感情の決裂があった。慶応期の両藩の圧倒的な政治的地位の格差などを考慮すれば、薩摩の援助なかりせば長州は何時つぶれてもおかしくはなかった、その両者が結びつくことはまさに予想外のことだったと思います。討幕にむけ、いずれ薩長は結束する宿命にあったとは思いますが、よくぞ薩長同盟締結なりし、まさに奇蹟的大回天を果たしたものです。 ・軍事力は幕府が圧倒していた。薩長が勝てたのは、宮中陰謀によって天皇を握ったことと、それにひるんだ慶喜が職務を放棄して逃亡したから。 ・原因は一つでは無いと思うので私の意見を書いておペリーの黒船来航をきっかけにして、幕府単独では対応できず、老中阿部正弘は、これまで相手にしていなかった、朝廷とか家臣広くの意見をもとめました。その結果、単独で対応もできない、幕府の弱体化が明らかになり、朝廷に皆の目がむくようになってきました。朝廷を、重視しだした世の中の動向。また発言力を増した下級武士たちの動向。二百五十年以上にわたる平安を謳歌して、自然に弱体化していた幕府。これらが原因の一つだと思います。 ・ペリー来航以来、外国からの圧力(軍事力)には江戸幕府が統治していた地方分権(幕藩体制を指す)の体制下では帝国主義をかざす、西欧諸国には国家として対応して行くには無防備すぎで、薩長土肥が武力で徳川家の政権を奪取し、中央集権の明治政府を樹立したが、そうしなくても江戸幕府は瓦解していたであろう。現に江戸幕府の体制下では、諸外国に対応しきれないと言う事で、徳川慶喜は「大政奉還」したのである。 ・米価経済の破綻から貨幣経済へのシフト、封建体制の崩壊から絶対主義体制へのシフト。西欧列強諸国による対外的圧力が加わったこと。薩長藩の反幕感情。水戸学に代表される尊王気質の跋扈。以上これらの総合的結果から。 まず、欧米列強による外圧という国際的環境に否応無く巻きこまれてしまったことが最大要因ですね。混沌の幕末政治は、後にも先にもこの「外圧」に集約されます。さらに内政面に目を転ずれば、とりわけ天保期以降、幕府政治および機構がすでに制度疲労を来たしていたことが挙げられ、内外政問わず当面の課題に対して従来の体制では対応しきれなくなった。さらには朝廷勢力(とりわけ攘夷を希求する孝明天皇)、これに追随する国内の尊攘派世論との兼ね合い。最後に決定的となったのが、徳川幕府が頑なに幕府専制(幕府絶対主義化)に固執しすぎてしまったため、薩摩藩が誘導しようとした緩やかな連合政権への方途を断ち切ってしまったからでしょうね。幕府側が反幕勢力ないしその思想をうまく抑制・吸収することができていたならば、近代日本の政体はもう少し違った形に変容していたでしょう。 ・もともと一諸侯にすぎなかった徳川氏による政権「存続」が、幕末日本にあってそれほど最大価値を持ち得るものなんですかね。ちょっと疑問ですね。たとえ形式上だとはいえ(のちの実権存続を想定していた)、大権奉還によって政権を返上した以上、以後の幕府の方針はどこまでも朝廷勢力の意向に添わなければならなくなり、すでにこの時点で幕府の命運は尽き果ててしまったといえます。ここで重要なのは、大政奉還はなにも慶喜の「独断」ではなかったということ。当時取られるべき最善策として、日本を代表する諸侯の「総意」「同意」を取りつけて、初めて成立したものです。 そして「慶喜が徳川家を潰した」とのことですが、むしろ真実は、慶喜が徹底恭順したからこそ、徳川氏の血は今も絶えることなく続いているのではないでしょうか。さらに江戸百万の生命も保障されたのではなかったでしょうか。それらよりも、幕末当時に徳川幕府が存続していたかどうかだけが最重要で、絶対価値があるものなのでしょうか。もし慶喜が徹底抗戦を選んでいたならば泥沼の内戦に突入し、江戸は灰燼に帰し、さらには欧米列強の政治的介入を見たことでしょう。幕府勢が内乱を鎮定したとしても、かつて征長成功のあかつきには、薩摩を殲滅する決意であった幕府のことですから、安政大獄の以上の独裁強権政治が行われた可能性は大いに考えられます。 ・徳川政権に一点の陰りもなく、磐石の体制であったならば、なにも瓦解することはなかったでしょう。外圧に始まり、旧来の政治体制では対応しきれないことが徐々に露呈され、くわえて度重なる失政を蓄積していったからこそ、瓦解するべくして瓦解したのです。実質的に、たかだか薩長の二藩の力をして滅ぼされたぐらいですから、もう幕府の余力など残っていなかった、と見るべきです。同時に、その手の施しようのなかった幕府最晩の敗戦処理役を否応なく背負わされたのが慶喜であって、むしろ幕府の速やかな幕引きとしての手腕は賞賛に値するべきものだと思いますが。 ・事の発端は阿部正弘だと思っています。ペリー来航の時に、朝廷や在野に意見を広く問うたのは彼でありますし、そのころから幕府の従来の政策というものが変わっていったのです!阿部が幕府内部でなんとかしてたら幕府は保てたと思うんですが・・・。とにかく、その後の井伊も安藤も阿部正弘のしりふきをしたっていう感じですし。井伊なんかにしてみれば阿部が人材登用を広く行っていたときから批判してましたしね。開国しても幕府は残れたはずですし。老中の阿部正弘は幕府を転がしはじめた張本人ではないでしょうか?慶喜を一橋家に養子に出させたりと・・・。後々の種はほとんど阿部がまいていたと言っても過言ではないんではないだろうか・・・。 |