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カテゴリ:志士関係
吉田松陰について
2005/3/14(月) 1:11
・松下村塾を設立した尊王志士

・松陰は幕末人物の中では格別に伝記文献が多いほうですが、定評のあるのは先頃物故した奈良本辰也の『吉田松陰』だと思います。皇国史観から解放された歴史学による初めての吉田松陰研究です。(ただし、今日の維新史学研究の水準からは、また新たな再検証が必要だと思われます)

・近年では、松下村塾を通して松陰に迫った梅原徹の研究が目立っていますね。(『吉田松陰と松下村塾』、『松下村塾の人々』、『松下村塾の明治維新』の三部作)のべ10年に渡って刊行された力作です。

・松陰を知るには、松陰の思想面から入っていくのが最適ではないかと思います。それにはまず原史料に当たることが必至で、ここではやはり、ご指摘の『吉田松陰全集』ですね。ただ若干、入手しにくいのが難点ですが。手に入りやすいものとしては岩波書店『日本思想大系 吉田松陰』があり、嘉永3年から安政6年までの約250通の松陰書簡が網羅されています。原史料ですから解読も難しいですが、松陰の時勢論や国体論、親類や松下村塾門下生との関係が、書簡のやりとりから十分にうかがえるかと思います。

・本来、吉田松陰の安政大獄による刑死には歴史的意義などはない。明らかに松陰刑死は井伊の武断政治の不当行為。幕府側も含め関係者一同、死罪すら予想だにしておらず、井伊の強権発動によってもたらされたもの。橋本左内もまったく同じ。もしこの刑死に意義を見出すとすれば、幕府は死罪にしてはならぬ最大の人物に手をつけてしまったこと。
くわえて政権掌握の是非をもって、人物を語るべきかどうかは妥当じゃない。幕末には、倒した側にも、倒された側にも、そして中立の立場からも無数の人材が輩出し、だからこそ現在にまで伝えられている。刑死を控えても明鏡止水の心情を貫いた松陰の姿には心打つものがあるが、本来の問われるべき姿は、安政大獄にいたるまで過程に隠されていると思う。どう見ても刑死が松陰の絶対的価値ではない、すでにその直前に彼は己の仕事を全うしている。それは彼の書簡によって証明されている。だからこそ倒幕前の長州藩の活動の思想的バックボーンにはたえず松陰が定置されていたわけであり、処刑に当たってもあのような心境を維持できたのである。松門下の政権掌握というのはその後の付随的結果にすぎない。
すなわち、勝ったから松陰が取り上げられるのではなく、実質的には、なぜ幕末長州藩があのような政治行動に出たかと考えた場合においても、おのずから松陰はクローズアップされるべき存在だったということです。したがって、長州が倒幕を達成しようが、しまいが、幕末に長州の存在ある限りは松陰はいつでも浮上するのです。



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