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カテゴリ:幕末全般
大政奉還について
2005/3/17(木) 0:42
・簡潔に言うなら1867年10月3日土佐藩山内容堂が後藤象二郎を通じて(何故かこれで有名な後藤。ほんとに何故?)大政奉還建白書提出。坂本龍馬が助言者だったようです。6日芸州提出。聞き入れられ13日徳川慶喜が決断。14日実行、ってとこでしょうか。ちなみに13日には討幕の密勅なんかも出てたんですがそのおかげで21日取り消されました。討幕も何も幕府がなくなっちゃったから。

・旧体制から新体制へ慶喜さんが権力を委ね、無血革命を目標とされたもので、日本の歴史のうえでも評価が足りないくらい深い意味を持つものです。

・大政奉還がなければ薩長もさっさと倒幕を済ましあれほどギリギリの水際作戦を取らずにすみ後世の人間から道義的にいろいろいわれることがなかったんでは?その意味で後世の評判に対し自意識過剰な慶喜くんのポイントになったてことだね。彼なりの高度な政治テクニックですな。

・元々、大政奉還案が出された理由は薩長が新政府を仕切らせないのが目的であり、坂本が実行させたものですが、徳川派の会津、桑名藩などが新政府を認めずに反抗をしたために維新戦争が起こりせっかくの案も水に流されてしまった状態になってしまったのです。

・慶喜が政権を返上したのは、大名の合議制による国家運営に移行することにより、幕府と倒幕派の対立が解消するかの幻想を持っていたからにほかなりません。しかし、慶喜が平和を望んでいても、敵が戦争を望む限り戦争は不可避なのです。現実は茶番に終わりましたが、仮に大名の合議制が短期的にうまく機能することがあったとしても、長期的には、薩長の軍事力を駆逐しない限り、空中分解の運命にあったと思います。

・大政奉還というのは、現代に至るまで世界の各国全部を含め成功したという例は非常にまれです。一つの政権が自分の持つ権力を無抵抗に手放すものであり、人間の本能に叛くのが現実です。一時的とはいえそれを実行した慶喜さん、仕掛けた竜馬など関連した人達は非常な度胸と日本の将来にたいする愛情があったものでありますので現代でも十二分にそれを認識し学ぶことも必要でしょう。

・大政奉還からさかのぼること四年前の文久三年、政事総裁職だった松平慶永(春嶽)からすでに「大政奉還もやむなし」との見解が出されています。この頃、幕府は朝廷から攘夷決行を求められ、一方で生麦事件の賠償問題に応じなければならないなど、国内外からの政治的圧力の板ばさみにあっていた時期でした。慶永はとうてい幕府政権を維持するのは困難だと考え、大政奉還を主張したのです。すなわち大政奉還論は、土佐藩の建白より以前に、幕府内にすでに存在していたということです。

・土佐藩の大政奉還策は、べつに秘中の秘策だったわけではなく、薩摩藩首脳部も成り行きを見ていました。ただし、大久保も西郷も、また土佐の後藤象二郎自身も慶喜が受理しないと予想しており、クーデター計画は進められていたわけです。もうこの時点では将軍家を残す構想は捨てられていました。薩摩に幕府との協調路線を放棄させたことが一会桑政権の失敗でした。四候会議が幕府に与えられた最後のチャンスだったわけです。

・大政奉還が幕府延命の最後のチャンスだったのではなく、薩摩が幕府を決定的に見限ったのは、慶応3年5月の「四候会議」の決議の重要部分が、幕府(いわゆる一会桑政権)によって無視されたからです。この時点まで薩摩は、徳川家を含めた公議政体構想を持っていたのですが(武力倒幕までは考えていませんでした)、長州再征の失敗にも関わらず諸大名の意見を無視しさらに専横を進めようとする幕府を見限り、王政復古クーデータ―の路線を固めます。

・「大政奉還を慶喜一個人の仕事とみなす」解釈からそろそろ脱却するべきでしょう。大政奉還はけっして慶喜の専売特許ではないんです。従来から幕府内に根ざしていた考えを、土佐藩が時局救済策として建白し、幕府(慶喜)の意向を問うた。慶喜はそこで将軍の身でもってして専断することなく、幕閣に伺いをたて、さらには諸藩一般の了承を得た上での決断であったわけです。言うなれば、当時の武家社会の総意、ひいては幕末日本の国意が「大政奉還を是」としたのであって、当時の日本がこれを最善策として選択し認めたわけです。このことの意味を改めて考え直し、重視するべきではないでしょうか。

・苦肉の策、薩長の出端を挫いて徳川家中心の新国家建設を目論んだ大博打。600年以上、政治や政策に無縁な朝廷がいきなり政治の全権を委譲されても何をして良いのか分からない。結局、それまでの国政を執り行ってきた幕府(徳川家)に頼る他無い。それを視野に入れた大政奉還って訳です。

・『昔夢会筆記』のなかで慶喜自身が次のように述べています(270頁)。予(慶喜)が政権返上の意を決したのは早くからのことであったが、かといって、どのようにして王政復古の実を挙げるべきかについては良い考えは思い浮かばなかった。しかし土佐藩の建白を見るに及び、その掲げる政体構想が非常に有効であると確信したので、これならば王政復古の実を上げることができると考え、これに勇気と自信を得て、大政返上の断行に踏み切ったのだと。また慶喜は「大政を返上した上で、あくまで国家のために尽くそうという精神であった」とも言っています。もちろん『筆記』は後日談ですから、王政復古云々との言葉は額面どおり受け入れることはできないのですが。



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