2000

OPERA Q & A

2006

Q
Young questioners by internet 若い読者の皆さん

A
Answers by Litto Ohmiya 大宮律人

Q-001
オペラは何時、何処で生まれたのですか?

A-001
オペラはフィレンチェの音楽仲間のカメラータ達が1597年にギリシャ悲劇の復活を試みて作り出したが、仮面は使わなかった。モノディ形式と呼ばれる現在のレチタティーヴォに繋がる歌唱形式を発明した。最初の作品は「ダフネ」という題名の歌劇であるが原譜は残っていない。記録の残っている最古のオペラ作品はペーリの「エウリディーチェ」(1600)であるが、その僅か7年後にモンテヴェルディが「オルフェオ」(1607)という題名で改訂している。

Q-002
日本語オペラの基本問題とは何ですか? 何故そんなに難しいのですか?

A-002
山田ー団の師弟が到達したのが、1952年の「夕鶴」でした。この作品は日本で初めての本格的なオペラであります。山田耕作の「黒船」以来の日本語の歌詞と音楽の乖離を出来るだけ無くすという研究と試行錯誤の結果出来上がった。「夕鶴」は作曲者の団伊玖磨が2001年に蘇洲で逝去されるまでに、日本と世界で650回も上演された。世界にヒットした日本語オペラの唯一の作品であります。しかし、作曲者ご自身も認めておられた様に、まだ歌詞と音楽が完全には一致していないのであります。この基本問題に何らかの改革を成し遂げなければ、日本語オペラの将来はありません。21世紀中に何らかの進展のあることを期待する者であります。

Q-003
オペラの作曲も難しいとは思いますが、音楽で一番大切なことというか、一番の基本は何でしょうか? そして、作曲するのと演奏するのとどちらが難しいですか?

A-003
音楽で一番難しいのは聴くことです。次が演奏すること。一番易しいのが作曲することです。意外に思われるかも知れませんが、作曲を1とすると演奏は10で、聴くことは100を通り越して1000倍難しいのです。つまり、聴けなければ弾けないし、作曲も出来ないのです。仏教には「観音」という言葉があります。言いえて妙なるお名前で、音を観るという深い奥義を表現するものですね。

Q-004
演奏について伺いますが、テンポの速いところと遅いところではどちらが演奏技術を要するのでしょうか?

A-004
ある程度の水準まではテンポの速いところをよく練習しなければなりません。しかし、直ぐに上達します。本当に難しいのは遅いテンポの表現です。これは速いテンポの100倍難しいと言えるでしょう。演奏者の力量を判定するには、テンポの遅いところを弾いてもらえば最早火をみるより明らかです。モーツァルトのピアノ協奏曲では、第二楽章の緩徐楽章の表現は一番難しいのです。飛行機は速く飛ぶ様に作られているので、遅く飛ぶことは至難の技ですね。演奏の場合でも同じことが言えるのです。一般の聴衆には速いテンポのところは見栄えがしても、遅いテンポのところは一切のごまかしが効きません。緩徐楽章が弾ける様になれば演奏者も一人前ということになります。演奏者にとっては年期と才能のいるところですね。

Q-005
12音音律とは何ですか?

A-005
1オクターブを12の音で構成する時に12音の周波数を決める組み合わせは無数にあります。周の時代には既に完成していました。CからDb、D、Eb、E 〜 Cまでの12音の周波数の決め方には各民族や地域に特有の歴史があります。民族と地域と時代により変遷して来ました。

Q-006
音律と音階はどう違うのですか?

A-006
音階とは一つの音律の12音から5個または7個の音を選んで並べることを言います。一つの音律からでも複数の音階が可能です。音律とは12音の周波数を決めることを言います。12音以上で構成される音律も存在します。

Q-007
平均律と非平均律はどう違うのですか?

A-007
平均律とは12音をほぼ均等に配分した音律のことを言います。非平均律は均等ではない配分をした音律を言います。平均律ではEb=D#ですが、非平均律ではEbとD#は等しくありません

Q-008
非平均律ではどうして転調が出来ないのですか?

A-008
転調とは同一音律内で音を移動させることを言います。平均律という音律では等間隔ですから転調は可能です。平均律では何調であっても使用する音は共通の12音しかありません。非平均律では音を移動させても等間隔ではないので調性は成立しません。

Q-009
非平均律では転調出来ないのであれば、どうして音の高さを変えて行くのですか?

A-009
非平均律では音律そのものを替える事で音の高さも表現法も変えます。平均律では12個の音しか使用しませんが、非平均律では1オクターブの中に無数の音の順列と組み合わせがあります。平均律の転調と区別する為に、これを変調と呼んでいます。転調はModulation、変調はTransformationと言います。

Q-010
日本語の歌には五音音階がよく合うのですか?

A-010
確かに日本語の歌には五音音階がよく似合います。しかし七音音階でも歌えます。どちらも何を歌うかによって使い分ける必要があります。日本音楽の長い伝統では主として五音音階で歌って来ましたので日本語にはやはり五音音階の方が歌いやすいと考えます。五音音階の場合は音程が広いので明るい感覚の歌に向いていますね。それで上行音階と下行音階では一箇所だけ音の位置を変えています。単純で明るい五音音階に変化を与える為ではないかと思います。

Q-011
現代の無調音楽や12音技法についてはどの様な見解をお持ちですか?

A-011
無調音楽も12音技法も使用している12個の音は平均律系の同じ音です。調性を無視して無秩序に並べているに過ぎないのです。調性音楽も無調音楽も、また12音技法も同じ12個の音を使っているのです。だから音律論では同じ平均律系音律の音楽です。

Q-012
では、非平均律は根本的に新しい音律なのですか?

A-012
非平均律は古くて新しい音律です。周の時代に既に完成していました。東洋の音楽は太古の昔から今で言うところの非平均律音階で構成されています。西欧音楽の400年と東洋音楽の数千年の歴史の差は埋めようがありません。言葉を替えれば、中国からアラビアまでの東洋音楽全体で使用している音の数は無数にあります。中国の音律は理論的には64もあります。西欧では現在は12個の音しか使っていません。ギリシャ時代には七つの音階があったと言われていて、現代ではギリシャ旋法と呼ばれています。ギリシャ旋法の音と現代の西欧音階の音が同じかどうかは分かりませんが、音の並び方は東洋音楽の分類に入ります。恐らくは中国やアラビアからの影響下にあったのでしょう。ですから、非平均律とは非西欧音律という意味でもあり東洋音律そのものであります。新しいというより最も古い音律でありますが、西欧音楽しか知らない人々には新しい驚異的な音律であるのでしょう。

Q-013
七音音階では可能な和声は五音音階でも可能ですか?

A-013
二つ音が少ない五音音階では和声は限られます。二つの音を重ねるのがやっとですね。五音音階の音楽ではそのために和声は発達しませんでした。五音音階の旋律に和声効果を付加するには、やはり七音音階を使用しなければなりません。右手で五音音階を演奏して左手では七音音階で伴奏するという複合音階が必要になります。七音音階でも和声の綺麗な純正律系の音階を使用することが最も良いと考えています。和声を加えることによって、五音音階の明るい東洋的な旋律も更に引き立ちます。東洋では伴奏に打楽器を多用して来た歴史があります。やはり五音音階では和声が難しかったからではないかと推察しています。

Q-014
それでは非平均律の研究にはどうしてDTMが必要なのですか?

A-014
異なる音律を即座に変えることは伝統楽器では出来ません。演奏の途中で音律を変えようとすれば、一度演奏を中断して調弦をし直す必要があります。そこで音楽は途絶えてしまうのです。DTMであればどの様な音律でも、予めメモリーしておけば作曲と演奏の途中で何度でも音律を変換出来ます。また、周の時代の音律を研究するためにはDTMが不可欠です。文献は残っていても一つの音律の基本音の周波数は分かりません。漢の武帝から周の楽制の復活を命ぜられた李延年は、当時の西域で行われていた音律を採用して新しい楽制を造りました。その楽制が唐に受け継がれて日本まで伝えられました。それが今日まで京都で保存されて来た雅楽でありまます。周の楽制を研究するには、DTMで実験的に様々な試行錯誤をするしか方法はありません。これを実験音律学 Experimental Temperamentology と呼んでいます。周の時代の音そのものを再現出来ませんが、実験によりそれに限りなく近づくことは出来ます。21世紀の音楽研究の重要なテーマでもあります。それはコンピューターに拠らなければ実験出来ないこともご理解頂けると思います。

Q-015
DTMは伝統楽器を超えられるのですか?

A-015
超えられる要素と超えられない要素があります。まず、伝統楽器で出来ないことは音律を自由に変換することです。音域も伝統楽器では限られた音域しか音を出せませんが、DTMでは全音域で再現出来るのです。同時発声もDTMでは異なる音を物理学的に正確に和声を再現出来ます。架空の楽器を鳴らすことが出来るのもDTMです。これを Virtual Instrument と呼んでいます。伝統楽器が優れているのは音色ですね。コンピューターが幾ら頑張っても伝統楽器の音色そのものを再現するのは困難です。しかし、技術の進歩と共に限りなく近づくことは出来ます。東洋楽器には同時に複数の周波数を発声する楽器が多くあります。例えば笙のあの複合重和声は現在のDTM技術では不可能に近い。しかもポルタメントで発声する音色をコンピューターで再現することは現在は不可能に近いと言わざると得ません。伝統楽器の生演奏が最高の再現条件であるとすればこの様な結論になりますが、DTMの技術革新により収録や合成の技術水準は日進月歩しています。今日出来ないことは明日に実現することも有り得ます。伝統楽器の存在を否定するものではありませんが、伝統楽器と並んでDTM楽器が初めて純粋音楽の手段として採用されつつある世界の現実を認めない訳には参りません。DTMは伝統楽器では不可能な新次元の音楽世界を開拓しているのです。21世紀の主要な音楽の手段となることは必至であります。また、DTMの技術革新では日本の役割が最も期待されています。

Q-016
DTMでは何故歌えないのですか?

A-016
現在の技術では、DTMで人間の歌声を再生出来ません。話し言葉は初歩的にはコンピューターは喋れる様になりました。しかし歌うことがまだ出来ません。歌は言葉の子音よりも母音を長く歌うので、旋律に乗せて歌う時には殆どの時間で母音が響いていることになります。AEIOUの五個の母音ですが、現在のDTMではその母音すら区別出来ない状況です。しかし日進月歩のDTM技術ですから、ある日突然に可能になると予測しています。伝統楽器からのPCM録音によって原音に限りなく近づいていますが、人間の歌声を再生出来ないのは不思議なくらいです。同様の理由でコーラスの歌声も再生出来ません。近い将来に実現する夢として待っていたいと思います。

Q-017
通奏高音とは何ですか?

A-017
通奏低音はご存知ですね。雅楽では笙が一番先に鳴ります。そして楽曲の最初から最後まで鳴り響いています。最高音部を担当しているので通奏高音と呼ばれています。最初の命名は東京大学ご出身の理論物理学者(科学哲学)の吉田伸夫先生がホームページで雅楽を聴かれての感想でお述べになりました。私は通奏低音の反対の最高音部を担当するという意味で通奏高音と呼んでいました。インターネットでの発表は吉田先生の方が先です。モーツァルトの時代までは通奏低音は和声番号を書くだけでしたので番号付き低音とも呼ばれていました。その後この習慣は廃れて楽譜に書き込んでしまう様になりました。クラッシック音楽の分野での即興演奏の復活を期待していますが、通奏低音と通奏高音ともに和声記号だけを記してモーツァルトの時代の様に自由度の高い即興演奏を楽しみたいものですね。

Q-018
どうしてテンポが音楽で一番重要なのですか?

A-018
音楽の三大要素である旋律、和声、テンポの内で音楽の音楽たる存在を規定する要素はテンポですね。音楽は時間の芸術であるからです。音楽以外の芸術は音楽程に時間の要素に縛られないが、音楽だけは時間の流れの上に存在している芸術なのです。その時間の流れをテンポと言います。川に例えれば旋律は流れに乗っている華や葉ですね。テンポは川の流れの速さの変化に相当しています。テンポは物理学的には速度の変化率である加速度に相当する概念です。見かけの速度が一定でも内的なテンポは絶えず変化しているのです。テンポは千変万化して一瞬たりとも留まることがありませんから、演奏する度に完全に同じテンポでの再現は不可能です。同じ指揮者とオーケストラの演奏でも毎回そのテンポは異なります。テンポの変化のオーダーは将に0.01秒の単位でしょう。音楽家にとってその人固有のテンポを確立するのに何十年も係るのです。またひとりとして同じテンポはありません。この様に人、時、所によってテンポは繊細に変わって行きます。それが音楽という時間の芸術の極値であります。そのテンポを聴き分けることが出来る耳を持つにはこれまた何十年を要するのです。音楽においてはテンポが全てと言っても過言ではありません。

Q-019
音楽療法に従事されるそうですがその理由は何ですか?

A-019
知的障害者に対する音楽療法に関わることになったのは何かのご縁でしょう。40年間音楽を研究して来たことが初めて社会的な還元に繋がります。知的障害者には誤魔化しが効きません。彼らは言葉によるコミニケーションは苦手ですが、音楽によるコミニケーションには鋭敏に反応するのではないかと期待しています。音楽療法は音楽の本質の断面が露呈して返って音楽研究の刺激になります。メロディー、ハーモニー、テンポのどれを取ってもどんな反応が返って来るかに関心を持っています。特にテンポの変化にどの様に着いて来るかを重視しています。高い音と低い音にもどう反応するか、和声への反応は?とか興味は尽きません。何より即興演奏の楽しみを音楽慮法には取り入れたいですね。

Q-020
Musical Music Therapyとは何ですか?

A-020
音楽の四大要素である、聴く、歌う、弾く、踊るの全てを満たしている芸術形式は現代ではミュージカルであります。私はオペラの研究者ですが、オペラには踊りの要素が殆どありません。ギリシャ悲劇の再現が1600年当時の目的であったために、舞踊の要素はオペラ誕生の時から含まれていないのです。後代になって舞踊を挿入する場面を取り入れたオペラ作品は少なからずあります。オペレッタからミュージカルへと発展して来たと考えられていますが、ミュージカルは音楽の四大要素を全て生かしているので理想的な音楽形式でもあります。音楽療法にミュージカルを採用する運動は世界各地で実験されています。音楽療法では長くても60分以内の軽い作品でなければなりません。10分から15分のプチミュージカルでも良いと考えています。まずは童話や童謡を題材にした子供向けのプチミュージカルから始めたいと考えている。

Q-021
オペラが誕生して400年が過ぎましたが、どの作曲家が最もその歴史に貢献したのでしょうか?

A-021
まずペーリを代表とする1600年頃のカメラータ達が嚆矢ですね。それを身近に見ていたモンテヴェルディが直ぐに「ユーリディーチェ」を改編しているし、最晩年に「ウリッセの帰還」と「ポッペアの戴冠」という傑作を残しました。その後はあまり進展はなくモーツァルトの前任者であるグルックが「オルフェウスとユーリディーチェ」というオペラ誕生以来の題材で画期的なオペラを書き、モーツァルトにバトンを渡した功績は極めて大きいものがあります。モーツァルトは20近いオペラを書いていますが、最後の四大オペラ、「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トッッテ」「魔笛」でオペラ誕生以来200年での集大成をしました。モーツァルト以後は30年遅れてウェーバーが繋いでワーグナーとヴェルディへとバトンは渡りました。近代オペラはこの二人によって独占された形で最盛期を迎えましたが、その後はオペラは衰退に向かいました。19世紀末から20世紀の初頭にかけてイタリアに再び、プッチーニ、マスカーニ、ジョルダーノ等によってヴェリズモを主題にオペラの復興がありましたが、その後は終焉に向かっています。20世紀の後半以降は新しいオペラ作品は殆ど見られなくなりました。オペラはここに400年の歴史に終止符と打ったと解釈する事も出来ます。オペラに替って現代に登場して来たのが主として米国で生まれたミュージカルであります。バーンスタインの「ウエストサイド物語」とそれに続く「サウンド・オブ・ミュージック」と「マイフェア・レイディ」によってミュージカルは舞踊を加味して現代のオペラとして定着しました。踊らない従来のオペラが亡んだ後は、踊るミュージカルの時代を迎える事になりました。オペラの歴史上での完成者はやはりモーツァルトであります。その最後のオペラ作品である「魔笛」こそはオペラの最高傑作と言えるでしょう。ダ・カーポ・アリアと通奏低音の廃止、簡潔にして清澄な音楽、神秘性と芸術性を兼ね備えて且つ大衆的でもあり、レチタティーヴォを殆ど採用せずディアローグを大胆に取り入れるなどオペラの完成を告げる作品として今も万年雪を冠するアルプス山脈の様に分水嶺として聳えています。今日のミュージカルもモーツァルトのオペラにその源を求めることが出来ます。しかし、オペラ本来の形式の作品はもう現れないのではないでしょうか?そしてミュージカルの次にはどんな音楽劇が生まれるでしょうか?モーツァルトのオペラ作品をもう一度徹底的に研究することによって未来への展望は開けるかも知れませんね。

Q-022
ワーグナーのオペラをどの様に評価されていますか?

A-022
R.ワーグナーはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」から出発して遂には26年の歳月を懸けて「楽劇」を完成させました。その集大成は上演時間15時間の「ニーベルングの指環」の四作品であります。モーツァルトに代表される古典派オペラとの相違点は極めて鮮烈であります。即ち、「ライトモチーフ」という示導動機と訳されている、登場人物ごとに設計される短い動機が用意されている。また、舞台の状況を示す動機も設計されていて、登場する人物群とその状況の変化によって単独または複数のライトモチーフが、恰も精密部品の組み立てラインの様に合成されつつ編曲もされて音楽でドラマを演じるという「楽劇」を果敢に創造しました。古典派オペラは音楽形式が優先されてその形式の中でドラマを表現するという伝統がありましたが、ワーグナーはその形式を完全に破壊して全く独自のオペラ形式を打ちたてました。この業績はオペラ史上でモーツァルトに次ぐ偉大な仕事でありますが、余りに強烈なために所謂「ワグネリアン」と呼ばれるワーグナー専門の歌手や歌劇団が形成されました。一時間以上も幕が降りないのはワーグナーの楽劇では当然のことで、歌う歌手も聴く聴衆もその間は緊張の連続であります。古典派オペラの様にアリアを歌う毎に拍手をしたり、「ブラボー!」と叫んだりすることは禁止されます。正直言ってワーグナーのオペラを聴くと疲れます。モーツァルトのオペラの様に聴き終わった時の爽快感は有り得ません。2008年のお正月に、「ニーベルングの指環」の三公演記録を45時間を要して視聴しました。第一は2002年のシュトゥットガルト版、第二は1989年のミュンヘン版、第三は1990年のニューヨーク版でありますが、音楽はミュンヘンのW.サヴァリッシュが抜きん出ていました。演出はニューヨークのO.シェンクが写実的で一番分かり易い。シュトゥットガルト版は四作とも演出家が異なるので統一性がなく、舞台も現代風なので配役の識別が困難である。ミュンヘンのN.レーンホフは宇宙船の舞台を作ったが衣裳は写実的であったので理解しやすかった。ワーグナーは台本、作曲、演出、舞台から制作までを全て一人で敢行するという空前絶後の天才ですが、単独で全てを担当したためにワンパターンは免れない。それにしてもワーグナーのオペラはどれをとっても凄いという他はない。幾つかの点でモーツァルトを越える要素も見られる。モーツァルトの「四大オペラ」とワーグナーの「指環」を比較して見ると、前者は四作とも全く別のオペラであるのに対して、後者は壮大な神話的叙事詩である。ワーグナーのオペラは誰も真似は出来ないし、将に堂々たる独壇場であると言えよう。ワーグナーのオペラを見たベルリオーズは「この人は作曲法を知らないのではないか?」と何かに書いたと言う。それ程当時から異質なオペラ作品であったのである。「指環」のフィナーレでは天上の神々の一族も、地上の巨人族も、地下の小人族も全て消滅する。ワーグナーは何の希望も示していない。その解答は我々自身が探さねばならない。モーツァルトを聴くと楽しいがワーグナーを聴くと頭が重くなる。