新聞に掲載されたイマーム=イブラヒーム大久保賢さん
 2002年9月4日の埼玉新聞に、一ノ割モスクイマームのイブラヒーム大久保賢さんが掲載されました。イマーム=イブラヒーム大久保賢さんとは、一ノ割をはじめ国内の多数のモスク建設に携わった最も功績がある日本人ムスリムのひとりです。記事は、埼玉新聞に掲載されていたものです。それ以外にも高知新聞にも掲載されていましたので、多数の地方紙に掲載されていたのではないでしょうか。以下記事のイメージと本文内容をタイプアップしておきます。なおイメージ画像をクリックすれば拡大されて内容を読めます。

関連ページ 一ノ割モスク
記事は埼玉新聞2002年9月4日第8面
新開国考・・・・聖典コーランの人々
 アラブ服で街を行く
 「平和な宗教なのに」・・・・日本人イマームの思い
さっそうとアラブ服
 モスクをつくった10年前、住民を驚かせた純白のアラプ服とひけ。いま、イプラヒム大久保ら「異邦人」たちの姿は、この街の日常にすっかり溶け込んだように見える。すれ違う人々の視線にも違和感はない。もっとも、無関心さはそのまま残っ〔いるけれど=春日部市備後東(撮影・有吉叔裕)
全国に60ヶ所も

 世界のイスラム教徒(ムスリム)は、全人口の5人に1人に当たる約13億人とされる。日本国内の信徒数については、諸説ある。日本ムスリム協会(東京・代々木)の樋口美作会長によると在日外国人が約10万人、日本人が約7千人で、そのうち約2千人は外国人と結婚して入信した女性とみられる。
 日本人初のムスリムは、1909年にメッカ巡礼を果たした山岡光太郎。まず35年に神戸モスク、3年後には東京モスクができた。90年代に入つて、一ノ割を皮切りに小規模なモスクや礼拝所が次々と誕生し、その数は関東地方を中心に全国で約60力所に上る。
アラブ服を受け入れて
  浅い眠りを破られた。腕時計に目を凝らすと、午前三時十五分。東武伊勢崎線沿いに広がる春日部市の一ノ割モスク周辺は暗がりの中で静まり返っていた。浅草行きの上り一番電車がごう音を響かせて、すぐわきの線路を通るまで、一時間半もある。
アラー、アクバル
アシュハド、アンラー、イラーハ、イッラッラー
 (アラーは偉大なり。アラーのはかに神はないことを証言する)
 アザーン(礼拝の呼ぴ掛け)の声が、階段を駆け上がってくる。当番の誰かが踊り場で、両耳に人差し指を入れて、聖地メッカのある西の方を仰ぎながら、朗唱しているのだろう。
 六月最初の日曜日。パキスタン、バングラデシュ、スリランカと南アジア出身者を中心に、泊まりがけでモスクに来た三十一人のイスラム教徒が、末明の合同礼拝に参加した。ーノ割駅の近くにあるこの白壁三階建て、緑の窓枠の建物をモスクと知る人は、地元でも多くはない。郵便受けの表示は「きよう正と訓練のセンター」。アザーンやコーラン朗唱の声も外に漏れないよう、注意しているからだ。「トラブルは避けたい。住民が騒音慣れした線路わきを選んだんですよ」。モスクのイマーム(礼拝導師)を務めるイブラヒム大久保(三六)が、かつての苦い経験を話した。日本人イマームは五指に満たない。礼拝を見事に仕切り、信徒の信頼は厚い。
 一九八○年代後半、バブルの波に乗って、関東地方に住みつくイスラム教徒が増え、東京の下町と北関菓を結ぶ東武伊勢崎線は、一部で「イスラム線」と呼ばれるようになった。ところが、地元にモスクも、礼拝所もなかった。
 仕方なくパキスタン人が南浦和に借りた2DKのアパートに土曜日ごとに、大久保を含めて、五十人もの男たちが泊まり込む。みんな部屋では寝られない。何人も、寝袋にくるまり冬空の外で「野宿」した。「近所から、猛烈な抗議が来ましてね。契約切れで追い出されてしまった」

▽帰国子女いじめに

 どうしても、自前の施設を持ちたい。一九九二年、みんなの寄付で学習塾を買い取って改装した。ーノ割は、その後全国に広がつたモスク建設運動の先駆けとなった。
 大久保は、帰国子女の一人だ。ロンドンとウィーンで現地校に通い、中学二年のときに、兵庫県川西市の公立中学に転入した。
 「みんなと違うといじめられた。きみ、ぽくという言葉を使うだけで、おまえ何を言うとるねん、とやられた。異質なものを排除し、等質化を強制する社会はおかしい。そう思った」
 父親の勧める大学進学を拒否し、高卒後は東京で肉体労働に就いた。タブリーグ(イスラム復興運動)のパキスタン人メンバーらとたまたま出会い、そのまじめな生活ぶりに心を打たれて、二十歳のときにイスラム教に入信した。
 「両親の一番喜ぶことをやれ」。修行先のバキスタンでそう説教され、大学も卒業した。でも、信仰を貫きたいから、長く日本企業に務めた経験はない。タブリーグが毎年求める海外での長期修行は欠かさない。メッカ巡礼(ハッジ)も、既に三回済ませている。

▽危険視の風潮嘆く

 大久保は一年前の米中枢同時テロを機に日本でも広がった、イスラム教を危険視する風潮を嘆く。「イスラムの語源は、アラピア語で平和を意味するサラームです。もともと非暴力と服従の信仰なのに、危険な宗教にされてしまった」
 欧米メディア受け売りの誤った議論は、がまんならない。W杯サッカーを控えて、埼玉県のある町工場に警察から電詰があり、超過滞在のイスラム教徒の労働者がクビになったという話を耳にし、心を痛めた。
 「まじめで、おとなしい人ですよね」。日本との付き合いが足かけ四十五年近くになるパキスタン人のアブドウル・ラーマン・シディキ(六四)は、大久保のことをそう言った。
 五○年代に一橋大学に留学したあといったん帰国、七○年代に再来日し、イスラム理解を日本に根付かせる活動を続けてきた。今は東京の町田市にあるインターナショナル・ムスリム・センター・ジャパンの代表だ。シディキにも、昨年の「9・11」は衝望だった。
 六月二十五日夜。シディキは地元の市民大学で六十人はどの受講者を前に、日本でイスラム教徒として生きる難しさを話した。食べ物のこと、一日五回の礼拝のこと、土葬の墓地を見つける苦労。
 シディキは日本人の集まりでは、あまり民族衣装を着ない。抵抗感に配慮しているのだろう。逆に、大久保はいつも、白いアラブ服で一ノ割の街を歩く。
 「まず、誰も日本人だとは思いませんね。信仰上の理由だけでなく、アラブ服を当たり前に受け入れる日本になってほしいという思いもある」
 タイ人の妻との間に、八月十三日に一歳になった長男がいる。イスラム名はフタイファ。イスラムの心をしっかり持つた日本人として育ってほしい。そう願っている。
    (敬称略、文・竹田保孝、写真・有吉叔裕、イラスト,田中伊津子)