ニッポン診断『傍観者意識を変える必要』 |
2001年3月19日朝日新聞掲載記事より |
イサム・ハムザ(エジプト) カイロ大文学部日本語日本文学科長(準教授)。1978年卒業の同科第一期生。大阪大大学院に留学して、論文「近代日本への新国家構想」で文学博士。98年から現職。44歳。 |
|
傍観者意識変える必要 | |
ハワイ沖の漁業実習船えひめ丸事件で、森喜朗首相が報告を受けてもゴルフをやめなかったことが大きな非難を呼んだ。もし、あれが中国や韓国、あるいはロシアや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の潜水艦だったらどうだろう。首相はゴルフウエアのまま官邸に直行して、お得意の「神の国」節で人道や人の命の尊さについて演説をぶったかもしれない。 ところが相手は、日本がいちはん頭が上がらない米国の潜水艦だった。森首相としては、日本的な美徳たる「(目上の者に〉事を荒立てない」意識が働いたのか、グリーン上でしばらく様子を見るという傍観者のような対応になってしまつた。 日本に留学したとき、国外での事故や災害の報道ぶりが、被害者に日本人がいるかどうかで天と地ほどの差があるのに驚いた。高校生を含む九人が海外で遭難したのは、国を揺るがす事件だ。首相に当事者意識が欠けていたことに、国民の怒りが爆発した。 傍観者的な振る舞いに対する怒りは、米原潜にも向けられた。事故発生後、現場で沈むえひめ丸の救出活動をしなかったうえ、艦長はなかなか謝罪せず、貴任逃れの態度に出でいた。それは日本人にとって「人間らしさ」の問題だ。しかし、同じ問いは日本人自身にも向けられでいる。東京で電車の線路に落ちた人を救おうとして、中年の日本人と二十代の韓国人が命を落とした。ホームに立っていたほかの若者たちは、ただ黙って見ていただけだという。事件にかかわりを持ちたくなかったのだろう。 私の実体験だが、一九八○年代後半に、夜、大阪から郊外に両かう電車の中で、少々酒が入っていた四十代のサラリーマン風の二人が、殴り合いになった。止めに入ったのは、なんと外国人の私だけだった。皆、知らぬ顔で、血まみれの二人を残して隣の車両に移動しでいった。 殴り合いのけんかはエジプト社会でも珍しい。エジプトのロ論は、大声をあげで人を集め、言いたいことを言ったら終わりだ。手を出す前に周りの人々が止めてくれることは当人たちも織り込み済みだ。日本では八○年代に、自己中心的で他人に興味がないという風潮があった。この十年間の経済の悪化で、人々は社会に積極的に貢献できる幅がますます狭まり、無力感に陥っている。人々は、自分の周りで起こっでいることを風景のように眺める傾向が強まっているようだ。 いま電車の中でけんかに出くわしたら、人々は席を難れることもなく、映画のシーンのように見ているだけかもしれない。 日本人は自己中心的か、風景観察者かのいずれかになっていないだろうか。首相はえひめ丸の事故を、若者は目の前の転落事故を、自分の問題としてとらえていない。これでは日本の外で何が起ころうが、視野の隅にも入っでいないだろう。 たとえばイスラエル軍の占領に対するパレスチナ民衆の抵抗運動で、半年問に四百人以上が命を失った。日本はパレスチチ自治区に対する最大の援助国だが、紛争で援助の成果は台無しになった。なのに、欧州が必死で仲裁に動いでいるときに、日本政府は傍観するのみだ。 そんな日本の有り様に、中東で日本研究をする身として肩身が狭い。日本は国連安保理の常任理事国になる希望を掲げている。世界中の様々な問題の解決にかかわる役割を担うには、現在の国のあり方や国民の意識を大ぎく変える必要があるのではないか。(原文は日本語) |
|
![]() |