イスラム掲示板(第3代目)
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タイトル Re: 罪と悔悟の解釈
投稿日: 2008/01/20(Sun) 22:51
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>


カソリックでは、バチカンで枢機卿の会議などで決められた「教義」というものがあります。
一般的に秘蹟を最低限守らなければなりません。またその儀式があります。
ご聖体とワインを頂くことは、ほかの、カソリック要理(教義)に、書いてありますが、聖書に「これを私の体として分け与えなさい」と書いてあるのを、カソリックは分かち合う、ということで受けるのです。

ですが、現実のミサでは、ご聖体(パン)は聖職者である神父と信徒の全員が頂きますが、ワインはミサを執り行っている聖職者の代表である神父のみ、です。
大きな教会ではミサのとき、多くの神父が壇上にあがっていますが、ご聖体を信徒に授けるときにあまりにも多くの信徒がいるためそれを手助けするためですが、その時間帯のミサを執り行っているのではなければその神父はワインを飲みません。
あくまでもその時間に執り行っている神父のみがワインを頂いています。
―――>ご説明ありがとうございます。恐らくカソリックの人たちはこれを儀式的にされるのでしょうが、これをすることでその場で配られるパンやワインをキリストの一部として食べるのでしょう。それについて疑問に思うカソリックの人はいないのでしょうか。もしキリストの時代に彼が‘これを私の体として分け与えなさい’とゆったとしても、その時の‘その’パンやワインがそうだったとしても、現在教会で配られるパンやワインはそれではないでしょう。そうすることに何か意味を持つのかどうかカソリックの人は疑問には思わないのでしょうか。(ただの私の疑問なので客観的にとらえてくださいね。)
イスラムにはこのような儀式のようなものはなく、まず預言者モハメッドがしなかったことをする必要はないというコンセプトがイスラムにはあります。逆にゆうと、預言者モハメッドが我々がしたほうが良いことやしなければならないことは教えて下さっているので、それ以外のことはしないで良いという考え方です。この場合もキリストがしなかったことをするのはその後の人々が勝手に儀式として作った。という捉え方になります。
それと、イスラムには人々の間に位がありません。神の前では皆同じです。神父が特別偉く、その他の人が神父よりも劣ることはありません。従って、神父が優先的な立場に立つようなことはイスラムではありません。イスラムでは神父ではなくイマムという存在がありますが、彼は一般の人よりも知識もあるでしょうし、礼拝を率いる存在でもありますが、人間の位として神の前では一般の人となんら変わりはありません。

ですが、プロテスタントでは、そのあたりで売っている食パンをちぎってお盆にのせて運んだりしていますが、宗派があまりにも多く細かいところは教会によって異なりますのでよくわかりません。
―――>そうなりますよね。その辺にで売ってる普通のパンはどう考えてもキリストの一部なわけがないですよね。

キリスト教というより正確には、カソリックよりやはりイスラームの神は寛大ですね。
―――>イエスキリスト(預言者イーサ)が伝えたイスラムは同じ神だったのですが、インジル(聖書の原本)が人の手によって書き換えられたことから、違う存在になってしまいました。私たちの創造者は偉大です。

カソリックの場合は告解といって教会の個室に入って隣部屋にいる顔の見えない神父さまに(神父は神の使いとされているので、神様に告白する)、罪を告白し、神の許し(実際には神父様がお許しの言葉)を受け、そのあと神父様のおっしゃる償いを実行します。
償いはその時々によって異なりますが、告解室を出たあと教会で、言われた祈りを捧げます。(いくつかの祈りは覚えていなければなりませんので、たいていはその中のひとつ)
―――>上記の続きですが、神の使いは預言者たち、天使であり人間ではありえません。なぜなら、人は神の前では平等だからです。ヨーロッパではよく神父が子供を犯したなどという事件も相次いでいます。神の使いであるものであればそのような過ちを犯すでしょうか。それらの神父を神の使いだと信じているキリスト教徒はそれでもそう信じられるでしょうか。もう1点は、イスラムでは神に許しを請うのに仲介人を必要としません。直接神にお願いもするし、祈りも捧げるし、許しも請います。

或いは、その場で聖書のどこそこを読みなさい、といわれる場合もあるようです。


ですが、イスラム教は、
自身で悔悟すると許される、とありますが、上記のような「儀式」がないわけですから、普段、暮らしの中で、「あ、神様、、、」と懺悔すればよいのですね。
そしてその償いは、人に親切に接する、挨拶をこちらからする、人を助ける、など、人それぞれができる範囲内で行えばよい、ということになりますね。
―――>この点(罪に対してどうやって後悔するのか)は他の方からマシャアッラー素晴らしい回答がはいっていたので省きます。
イスラムでのあいさつは‘アッサラムアレイクム’(あなたの上に平安を)、その答えは‘ワアレイクムサラム’(あなたの上にも平安を)です。どちらか先ゆゆった方が良いとされていますし、このあいさつに返事をしないことは自分の罪になります。

ところで、この、普段の暮らしの中で「神様、、、」と言っているときに、神の声は聞こえることをイスラム教では認めていますか?
―――>神(創造者)アッラーの性質のひとつですが、アッラーは器官なしに見、聞き、言います。コーランにもありますが、モーゼや預言者モハメッドは啓示を受けるときにアッラーを聞いたとありますが、我々には想像できない範囲なのでどのようにとはわかりません。アッラーは音も言葉もなしに伝えることができます。

つまり、神の声は預言者のみが伝えることであって、以外の人間には聞こえない、ということはないですよね?と思っているのですが…。
―――>アッラーを信じるものは来世でアッラーに会えるといわれていますインシャアッラー。しかし、預言者以外の人間がアッラーを聞くことが(声ではありません)できるかどうかは、恐らくないと思います。(ご存知の方いらっしゃれば指摘をお願いします。)

良心の声、というのでしょうか、心の奥底の声、というのがありますよね、
それと、自身の言葉ではなくふと聞こえたような浮かんだ声。
―――>シェイターン(悪魔)は人間をそそのかしますので。悪いことを人間に囁きます。
良いことは。。。考えたことがないので今答えを持ち合わせていませんが、天使が伝言をするのでしょうか、この答えは調べておきますがとりあえず解りません。とお答えします。

それは、イスラム教では神の声、お答え、と思っていてふだん神に悔悟したり祈ったりしているのでしょうか。
―――>我々は礼拝もそうですが、ドゥアといってお願い事をします。お願いをして叶うかどうかはアッラー次第なのですが、アッラーはどのドゥアも聞いています。現世で与えられるか、来世で与えられるかはわかりませんが。願ったことが叶うことも多々あります。それがアッラーが存在する答えでもあり、我々の願いに対する答えであり、私たちが信仰する価値でもあり、かれの偉大さを実感する瞬間でもあります。


それと、イスラム教では罪というものが存在しない、ということですが、たとえば、先の離婚問題でもそれを守らなかった場合、ですが、
火あぶりになるのは本人であって、ということに過ぎないのですよね。
―――>他の方のレスがついていたので省きます。人間はかれの創造物を火あぶりにする権利はないんです。たとえ虫一匹でも、火あぶりにする権利はアッラーにしかありません。

ということは、改宗前の罪も存在しないようですから、
たとえイスラムとしての守らなかったことがあったとして、イスラム教徒になったとしても、それは存在していないで、改宗前のそれらはよくないことだったんだ、と気がついたとき、本人が悔悟して暮らしの中で良きことをしていけばいい、という解釈でよいでしょうか。
―――>罪が遺伝しないと申し上げたのは、ひひひひひ。。。じいさんやばあさんの罪を現世にいる自分にふりかかることはない、という意味です。従ってアダムの罪を生まれたての赤ん坊が受け継ぐということがありません。自分の犯した罪は自分で償います。
改宗してからも、知らずに罪を犯してしまうことだってあります。その場合はそれが罪だとわかった時点ですぐそれをやめ、二度としないことを心に決め、したことを後悔します。単に善行のみをするのではなく、後悔することそれに対して許しを請うことが必要です。もちろん善行をすることに越したことはありませんが、後悔なしですると、それは単に善行であり、後悔したことにはなりません。
長々となりましたが、答えの足しにしていただければ幸いです。
Salam


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