タイトル | : 罪と悔悟の解釈 |
投稿日 | : 2008/01/19(Sat) 10:51 |
投稿者 | : 自称宗教研究者 |
キリスト教というより正確には、カソリックよりやはりイスラームの神は寛大ですね。
カソリックの場合は告解といって教会の個室に入って隣部屋にいる顔の見えない神父さまに(神父は神の使いとされているので、神様に告白する)、罪を告白し、神の許し(実際には神父様がお許しの言葉)を受け、そのあと神父様のおっしゃる償いを実行します。
償いはその時々によって異なりますが、告解室を出たあと教会で、言われた祈りを捧げます。(いくつかの祈りは覚えていなければなりませんので、たいていはその中のひとつ)
或いは、その場で聖書のどこそこを読みなさい、といわれる場合もあるようです。
ですが、イスラム教は、
自身で悔悟すると許される、とありますが、上記のような「儀式」がないわけですから、普段、暮らしの中で、「あ、神様、、、」と懺悔すればよいのですね。
そしてその償いは、人に親切に接する、挨拶をこちらからする、人を助ける、など、人それぞれができる範囲内で行えばよい、ということになりますね。
ところで、この、普段の暮らしの中で「神様、、、」と言っているときに、神の声は聞こえることをイスラム教では認めていますか?
つまり、神の声は預言者のみが伝えることであって、以外の人間には聞こえない、ということはないですよね?と思っているのですが…。
良心の声、というのでしょうか、心の奥底の声、というのがありますよね、
それと、自身の言葉ではなくふと聞こえたような浮かんだ声。
それは、イスラム教では神の声、お答え、と思っていてふだん神に悔悟したり祈ったりしているのでしょうか。
それと、イスラム教では罪というものが存在しない、ということですが、たとえば、先の離婚問題でもそれを守らなかった場合、ですが、
火あぶりになるのは本人であって、ということに過ぎないのですよね。
ということは、改宗前の罪も存在しないようですから、
たとえイスラムとしての守らなかったことがあったとして、イスラム教徒になったとしても、それは存在していない。
で、改宗前のそれらはよくないことだったんだ、と気がついたとき、本人が悔悟して暮らしの中で良きことをしていけばいい、という解釈でよいでしょうか。