タイトル | : 世界の平和 |
投稿日 | : 2009/04/14(Tue) 17:39 |
投稿者 | : 和一 |
世界の平和は、神を信ずる宗教ですら宗派争いをして激しく他の教団の悪口を宣伝して自分の宗派を拡大しようというような、劣悪な教団が幅を利かせているような有様では、到底達することは出来ない。激しく他教団を悪口をもって切りまくる宗教人は、「剣を取る者」である。慈悲を持って一切宗教を寛容に包容することが出来ずに、攻撃を持って自分の勢力圏の増大を願うごときは、結局、我執と貪欲と権勢欲によって振り回されているのであって、そのような者は、宗教の風上にも立つことが出来ない者である。
世界の平和は、権勢欲や、自分の属する団体の勢力拡大欲によっては、得られるものではない。世界のどこかで争いが起こり、戦争が起こっている事実を見よ。
そこには、権勢欲と勢力拡大欲によってその目的を達するためには相手を傷つけることを何とも思わぬ残忍刻薄の人間によって指導されていることを見る。そのような自己拡大欲によっては決して平和は得られない。
平和は、真理によって魂が輝かされ、そのような争いの愚かさを知り、全ての人間を、『宇宙本源の唯一の神』より出たると知り、一人の人間でも傷つくことを、自己みずからが傷つくごとく悲しく思う人々の殖える事によってのみ、起こる。
どの国からも、どの人種からも、どの民族からも《宇宙本源の唯一の神》(アラビア語だとアッラー)のみを崇拝し、
【かれはアッラー、唯一なる御方であられる。アッラーは、自存されお産みなさらないし、御生まれになられたのではない、彼に比べうる、何ものも無い。】
を、暗記することではなく、【“知る“ことによってのみ】、得られるのである。
釈尊は、「山川草木国土悉皆成仏・有情非情同時成道」と悟られたが、山も川も草も木も国土も、情(こころ)あるものも、情(こころ)なきものも、その奥に同時に《宇宙本源の唯一の神、真の神、普遍的な神、本当の神》の働きが、そして、神が宿っていることを悟られた。
釈尊の死後、300年位経って、仏像が作られ始めた。そして、釈尊の死後500年経った頃から、釈尊に対し、神に似た観念が投影されるようになってくる。
「凡そ、宇宙に本当の神は唯(ただ)一つであるから、他宗の神などというものは無いのであって、どの神も皆、この神の一つの神の表現である。どの神に対しても、その奥にある唯一の神“われ”を拝め」という、この本当の意味が分かったら、宗派争いなどする必要はなくなるのである。