タイトル | : Re^14: P.S |
投稿日 | : 2009/04/08(Wed) 14:46 |
投稿者 | : うんむらふま <ummu_rahmah@infoseek.jp> |
横から失礼いたします。
本当にうるさいおばさんで申し訳ありません。
また、少しよろしいでしょうか?(とても興味があるので…)
ソロモン(スライマーン)の言葉に関して:
これは旧約聖書の中で「伝道者の書・コヘレト」といわれているものですね。「空」と訳され<むなしい>を意味するヘブライ語「ヘベル」は、「息」「蒸気」をいい、そこから「空しい」「無」の意に用いられたとあります。アラビア語訳聖書においは、”batal(tは下に点が付く重たいt)という語が使われ、意味は無価値な・偽りの・無意味・根拠のない・たわごと、等々です。これを、仏教用語の「空」と同一視できるかどうかに関しては、ヘブライ語の先生も首を傾げておられましたが…。しかし、私たちは認識できる知識の範囲内でこれを捉えることしかできません。ある著名な方は、これに関して”ニヒリストとしてのコヘレト”という論文を書かれているほどです。
私は、特に多く用いられている「空しい。風を追うようなものである。」という表現に関して、「常ならぬことを、思いあぐねることは徒(いたずら)に時を過ごすことである。」という意味に捉えらました。(これも、個人の見解に過ぎませんが…)しかし、”いたずらに”時が過ぎていこうとも、それは「空しい」ことではありません。また”いたずらに”思えることにも、見えない意味が隠されており、私たちには目を見張っても見えないことがあり、顕われているのに見過ごしてしまうこともあるのです。
この「コヘレト」を読んで私が得た結論は―憂いたり、嘆く前に風の音の中に神の顕現を見出し、「満足」と「感謝」を知ることが何より大切である―というものでした。
「空」の教えとされる「般若経」の”般若”(パンニャーの音写)は、”智慧”を意味しているとありました。その「空」は、全ての固定観念を否定することを主目的としている…のだそうです。
知恵を持って思索することは大切ですし、それは人間に与えられた権利でもあり義務でもあります。
ところで、宗教には凡てを神に委ね、神の”せよ!”という命に従い、”してはならない!”という規範を守ることが何より重要なこととして付加されています。
また、「神の唯一性」に言及するならば、それは”神と同等に他を配さない”という多神教の確固たる禁止を意味します。
どんな神を信奉しても結局は唯一、同じ神を崇めているのだということは、どの神も等しく尊いものであるということに進み、神はその人が信じられる姿で顕現し逆にその人が信じられるものが神であるということになってくる、という危険を孕みます。すると一様にみながみな同じ神を信仰する必要はまったくなくなり、人の数だけの神があるということを認めることに繋がってゆく…これは、当然考えられることだと思います。
従って、イスラームにおいてシルク(多神崇拝)は、大罪なのです。
これは、イスラーム神秘思想家最高峰と言われているイブン・アラビー(1165‐1241)が詠んだ詩です。
私の心はあらゆる形態を受容するようになった
私の心は、ガゼルのための牧場、キリスト教修道僧のための修道院
また偶像のための寺院、巡礼者のためのカアバ神殿
トーラー(律法)の銘板、クルアーンの書
私は愛の宗教を告白する
私のラクダがどこに向かおうとも
愛こそ私の宗教であり、私の信仰である
これらを字義通りに捉えると、私にとって?と思えるところも多々ありますが…
しかし、ここに至るまでの徹底的に神と対峙した深い信仰を考えると、イスラーム神秘思想家が到達した観想は我々には計り知れないものがあるのだとういう印象を得ます。
思索は、行動を飛び越してあるものではなく、行動の先に見えてくるものを探す行為でもあります。ただ思索だけに止まらない行為であるからこそ、その言葉に重みが加わるのだと思います。
夢中になって長々と申し訳ありません。
またお話しできる機会があれば幸いです。