タイトル | : Re^2: キリスト教徒とのディベート |
投稿日 | : 2009/03/28(Sat) 11:43 |
投稿者 | : うんむらふま <ummu_rahmah@infoseek.jp> |
こんにちは
横から失礼いたします。
教えてください。
例えば”宗教間の対話”のようなものも、ディベートと表現するのですか?
ディベートというもの(娘の高校の授業でありました)が、勝ち負けを決めるという印象が強くあります。
宗教間の相互理解をディベートと解してしまってよろしいのでしょうか?
よろしくご教授ください。
> ムスリムがキリスト教徒とディベートを行う場合、心しておかなければならないことがあります。
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> 1、「同じ神を崇拝していること」を肝に銘じる。
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> これを、心から感じているか、ただ、頭だけで分かっているかで方向性が大きく変わってきます。
> 頭だけで分かっている場合、気づかないうちに相手を軽蔑してしまっているからです。軽蔑を感じる相手は、話を理解しようとするのではなく、攻撃されたと感じて躍起になります。
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> 2、「多くのムスリムがしっかりとクルアーンを理解していないのと同じように、多くのキリスト教徒も聖書をきちんと理解しているわけではない」ことを、念頭に置き、相手の宗教観に敬意を払う。
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> 3、「高慢にならない」ように気をつける。
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> 神は、かつて、ユダヤ教徒にこう言いました。「「自分を特別だ」としてはならない。」と。
> ムスリムが、一番神に愛されているわけではありません。ムスリムが、一番真理を理解しているわけではありません。ムスリムが、一番人間的に優れているわけではありません。