タイトル | : Re: 断食の始まる本当の時刻について |
記事No | : 6563 |
投稿日 | : 2013/07/26(Fri) 09:48 |
投稿者 | : とくめい |
長文で失礼しますが、イスラム=スンナ抜きのクルアーンのみ、という考えは間違っています! もちろん第一典拠はクルアーンですが、スンナ(ハディース)はそれに次ぐ第二の典拠になっています。 この2つはインセパラブル。分離できないのです。
アッラーは人間を創造し、その中からある人々(預言者、使徒)を選び、人間がどのようにアッラーの宗教に基づいた生き方をするのかをその人物たちを “見本”として示してくれたのです。もしもそのお手本・例がなかったら、質問者様のように、”僕はこう思う、わたしはこう思う”と千差万別な意見が飛びかい、本来アッラーが意図している本当の宗教どころか、みんながみんなそれぞれの解釈によって”自分の宗教”を作り上げることになってしまいます。しかしアッラーの慈悲により、アッラーは同じ人間の中から特別な人物を選んで、アッラーが意図する本当のイスラムの教えを預言者・使徒の人生を通じて、わたしたち人間に教えてくれました。彼らは私たちと何一つ変わらない人間です。生理、身体、感情的にも私たちと同じです。唯一の違いは彼らにはアッラーからの啓示が下りたと言う事。 その最後の預言者・使徒がムハンマドになります。 *****“本当にアッラーの使徒は,アッラーと終末の日を熱望する宕,アッラーを多く唱念する者にとって,立派な模範であった。(33:21)”
そしてクルアーンの中で、わたしたちは使徒に服従すること命じられています。 *****… また使徒があなたがたに与える物はこれを受け,あなたがたに禁じる物は,避けなさい。 …(59:7)
でも預言者ムハンマドはもうお亡くなりになられ、わたしたちの側にはいません。どのようにして服従しなければならないのでしょうか?
それは、ハディース/スンナの中で命じられたものに服従するということです。 異議、論争が起きたときは必ずクルアーンとスンナに参照し、それらに基づいて解決するようアッラーも仰せられてます。 *****だがあなたがたの主に誓けてそうではないのである。かれらは信しないであろう。かれらの間の紛争に就いてあなたの裁定を仰ぎ,あなたの判決したことに,かれら自身不満を感じず,心から納得して信服するまでは。(4:65) *****信仰する男も女も,アッラーとその使徒が,何かを決められた時,勝手に選択すべきではない。アッラーとその使徒に背く者は,明らかに迷って(横道に)逸れた者である。(33:36)
なぜアッラーは使徒への服従をそこまで強調するのでしょうか?
それは、使徒が命じたものは何よりも他ない“啓示に基づいたもの”だったのです。私たちがムスリムになるときに発するあの信仰告白 “アラーのほかに神はなし。ムハンマドはアラーの使徒なり”の“ムハンマドはアラーの使徒なり”とは、アッラーへの信仰と大きく関係しています。というのは、ムハンマドが伝達したものもまた、啓示だったからです。アッラーは仰せられてます: *****あなたがたの同僚は,迷っているのではなく,また間違っているのでもない。また(自分の)望むことを言っているのでもない。それはかれに啓示された,御告げに外ならない。(53:2-4)
このような理由で、わたしたちは預言者のスンナを重んじているのです。 言葉を変えると、啓示は2つの形で下りてきたということになります:クルアーンとスンナ アッラーが仰せられてます: *****使徒に従う者は,まさにアッラーに従う者である。誰でも背き去る者のために,われはあなたを見張り人として遺わしたのではない。(4:80)
イスラムとは帰服する/服従するという意味がありますが、この帰服/服従とは(1)アッラーがクルアーンの中で命じたものに服従するということと、(2)預言者を通してアッラーが命じたものに服従するということになります。ですので、預言者への服従はアッラーへの服従となるわけです。わたしたちが本当にアッラーを崇拝したいならば、預言者ムハンマドが示した方法(彼のスンナ)に従わなければいけません。すなわち、アッラーへの帰服/服従の仕方(正しい崇拝の仕方)は預言者がお手本となって示した仕方の以外になにもないということになります。だからといって、わたしたちが預言者を崇拝していると言うことではありません。それはシルクになりますからね。 *****言ってやるがいい。「あなたがたがもしアッラーを敬愛するならば,わたしに従え。そうすればアッラーもあなたがたを愛でられ,あなたがたの罪を赦される。アッラーは寛容にして慈悲深くあられる。」(3:31)
アッラーはクルアーンの中で、預言者への服従の報酬を天国、預言者への不服従の報酬を地獄と仰せられてます。 *****これらは,アッラーの定められた決まりである。アッラーとその使徒に服従する者は,川が下を流れる楽園に入り,永遠にその中に住むであろう。それは至上の幸福の成就である。だがアッラーとその使徒に従あず,かれの定めに背く者は,業火に入り,永遠にその中に住む。かれは恥ずべき懲罰を受けるであろう。(4:13 & 14)
その他にも、スンナの重要性というと、スンナがクルアーンを説明するという役目もあります。 例えばクルアーンの中では、礼拝の命令はありますが、詳しい説明は一切ありません。どのように、何時、どこで礼拝をするのかを知るためには預言者のスンナが必要になるわけです。 ハッジ、喜捨、断食、ビジネス、人との接し方、死人の埋葬、屠殺,などなど、クルアーンの中では大雑把に取り上げられているものでも、スンナを見てみてるとその細部に至るまでくわしいことが預言者の言及・行動によって見本として示されています。
<<結論>> ですので、”クルアーンよりも、スンナが絶対視されているような状態”ではなく、クルアーンは第一に絶対視されますが、その後に次ぐのがスンナの絶対視です。イスラムはクルアーンのみではありませんので。 ”ハディース教のようになっているのが実体”というもは上記の間違った前提からの結論ですね。クルアーンとスンナがあってイスラム教になります。
”周りがやっていたから、自分もなんとなく周りに流されて同じことをやっていた、ということに“ はならないように、断食のサフールの時間でも礼拝の仕方でも何事でも、クルアーンとスンナからの証拠をとり元をたどることが大切ですね。アッラーが何と仰せられ、預言者がどのようにされてたのか、と。
”審判の時に、「なぜクルアーンに従わずに、そのようなものに従っていたのか」と神に問われかねないのではないか” の答えは、もうお分かりだと思います。
アッラーが私たちにイスラムの知識と理解を与えてくださることを祈ります。
> > 私が言いたいのは、もはや、クルアーンよりも、スンナが絶対視されているような状態になっており、いわば、ハディース教のようになっているのが実体ではないかということです。 > そういうものに従うのは、純粋にアッラーに従っているというよりも、周りがやっていたから、自分もなんとなく周りに流されて同じことをやっていた、ということになり、審判の時に、「なぜクルアーンに従わずに、そのようなものに従っていたのか」と神に問われかねないのではないかと思います。
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