[リストへもどる]
一括表示
タイトル離婚した場合、罪の清め、など
記事No267
投稿日: 2008/01/16(Wed) 17:03
投稿者自称宗教研究者
1.離婚について

キリスト教の中のカトリックでは、離婚は一般的に認められていませんが、もし離婚した場合は、ローマ法王であったヨハネパウロ二世が教義の中で「ミサのときに御聖体を頂いてはならない」としています。(礼拝のときにパンを頂いてはならない)
このようななにか、離婚者に対する決まりごとのようなものは、イスラム教にありますか。

2.清め

キリスト教では受洗時に過去の罪(当然その教義内にある罪)について清められますが、
イスラム教では、イスラム教徒になるときに、どうなのでしょうか。

タイトルRe: 離婚した場合、罪の清め、など
記事No285
投稿日: 2008/01/18(Fri) 22:25
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
> 1.離婚について
>
> キリスト教の中のカトリックでは、離婚は一般的に認められていませんが、もし離婚した場合は、ローマ法王であったヨハネパウロ二世が教義の中で「ミサのときに御聖体を頂いてはならない」としています。(礼拝のときにパンを頂いてはならない)
> このようななにか、離婚者に対する決まりごとのようなものは、イスラム教にありますか。
>
―――>下記コーランに書かれてある離婚についてのルールです。キリスト教の本には、あなたがおっしゃる内容が書かれてあるのですか?もしご存知であればで結構ですが、なぜミサの時にパンをイエスの肉として、ワインを血として飲むのか教えていただけますでしょうか。
2-226. 妻と縁を絶つことを誓う者は,4ヶ月間待たねばならない。もし(離婚の意志を)ひるがえすならば,誠にアッラーは寛容にして慈悲深くあられる。
227. またかれらが,もし離婚を堅く決心したならば,誠にアッラーは全聴にして全知であられる。
228. 離婚された女は,独身のままで3度の月経を待たねばならない。またもしもかの女らが,アッラーと最後の日を信じるならば,アッラーが胎内に創られたものを,隠すのは合法ではない。(この場合)夫たちがもし和解を望み,その期間内にかの女らを復縁させるならば,一層正当である。女は,公平な状態の下に,かれらに対して対等の権利をもつ。だが男は,女よりも一段上位である。誠にアッラーは偉力ならびなく英明であられる。
229. 離婚(の申し渡し)は,2度まで許される。その後は公平な待遇で同居(復縁)させるか,あるいは親切にして別れなさい。あなたがたはかの女に与えた,何ものも取り戻すことは出来ない。もっとも両人が,アッラーの定められた掟を守り得ないことを恐れる場合は別である。もしあなたがた両人が,アッラーの定められた掟を守り得ないことを恐れるならば,かの女がその(自由を得る)ために償い金を与えても,両人とも罪にはならない。これはアッラーの掟である。それ故これに背いてはならない。凡そアッラーの掟を犯す者こそ不義の徒である。
230. もしかれが(3回目の)離婚(を申し渡)したならば,かの女が他の夫と結婚するまでは,これと再婚することは出来ない。だが,かれ(第2の夫)がかの女を離婚した後ならば,その場合両人は罪にならない。もしアッラーの掟を守っていけると思われるならば,再婚しても妨げない。これはアッラーの掟である。かれは知識のある者たちに,これを説き明かされる。
231. あなたがたが妻を離婚して定められた期限が満了したならば,公平な待遇で同居させるか,または親切にして別れなさい。かの女を困らすために引きとめて,法を越えてはならない。そんなことをする者は,自分の魂を損う者である。愚弄して,アッラーの御告げを戯れごとにしてはならない。あなたがたに対するアッラーの恩恵を念い,またあなたがたに授けられた,あなたがたに勧告する啓典と英知を念え。アッラーを畏れなさい。アッラーは凡てのことを知り尽くされていることを知れ。
232. あなたがたが妻を離別し,定められた期間が満了して双方の合意の下に,妥当に話がまとまったならば,かの女らの結婚を(前の)夫は妨げてはならない。これ(教え)は,あなたがたの中アッラーと最後の日を信じる者への訓戒である。それはあなたがたにとって,最も清浄であり潔白である。あなたがたは知らないが,アッラーは知っておられる。
233. 母親は,乳児に満2年間授乳する。これは授乳を全うしようと望む者の期間である。父親はかれらの食料や衣服の経費を,公正に負担しなければならない。しかし誰も,その能力以上の負担を強いられない。母親はその子のために不当に強いられることなく,父親もその子のために不当に強いられてはならない。また相続人もそれと同様である。また両人が話し合いで合意の上,離乳を決めても,かれら両人に罪はない。またあなたがたは乳児を乳母に託すよう決定しても,約束したものを公正に支給するならば,あなたがたに罪はない。アッラーを畏れなさい。アッラーは,あなたがたの行いを御存知であられることを知れ。
33-49. 信仰する者たちよ,あなたがたは信者の婦人と結婚し,かの女に触れないうちに離婚する場合は,かの女らに就いて定めの期限を計算しなくてもよい。かの女らに贈与をなし,面目を立ててきれいに離別しなさい。
65-1. 預言者よ,あなたがたが妻と離婚する時は,定められた期限に離別しその期間を(正確に)計算しなさい。あなたがたの主アッラーを畏れなさい。かの女らに明白な不貞がない限り,(期限満了以前に)家から追い出してはならない。また(かの女らを)出て行かせてはならない。これらはアッラーの掟である。アッラーの掟に背く者は,確かに自分の魂を損う者である。あなたは知らないが,アッラーはこの後で,新しい事態を引き起こされるかも知れない。
2. その期限が満了した時は,立派に留めるか,または立派に別れなさい。そしてあなたがたの中から公正な2人の証人を立て,アッラーに向い証言させなさい。これは,アッラーと最後の日を信じる者に与えられた訓戒である。またアッラーを畏れる者には,かれは(解決の)出ロを備えられる。
3. かれが考えつかないところから,恵みを与えられる。アッラーを信頼する者には,かれは万全であられる。本当にアッラーは,必ず御意を完遂なされる。アッラーは凡てのことに,一定の期限を定められる。
4. あなたがたの妻の中,月経の望みの無い者に就いてもし疑いを抱くならば,(命じられた)定めの期間は3ヶ月である。(まだ)月経の無い者に就いても(同様である)。妊娠している者の場合,その期間はかの女が重荷をおろすまでである。本当にアッラーを畏れる者には,かれは事を容易になされる。
5. これはアッラーが,あなたがたに下された命令である。アッラーを畏れる者には,かれはその諸悪を払われ,かれに対する報奨を増大されるであろう。
6. かの女たちを,あなたがたの暮している所であなたがたの力に応じて住まわせなさい。かの女らを窮屈にして,困らせてはならない。もし妊娠しているならば,出産するまでの費用を,かの女たちに与えなさい。もしかの女たちがあなたがたのため(子)に授乳する場合は,その報酬を与え,あなたがたの間で,正しく相談しなさい。あなたがた(夫婦)がもし話がまとまらなければ,外の女が授乳してもよい。
7. 裕福な者には,その裕福さに応じて支払わせなさい。また資力の乏しい者には,アッラーがかれに与えたものの中から支払わせなさい。アッラーは,誰にもかれが与えられた以上のものを課されない。アッラーは,困難の後に安易を授けられる。

> 2.清め
>
> キリスト教では受洗時に過去の罪(当然その教義内にある罪)について清められますが、
> イスラム教では、イスラム教徒になるときに、どうなのでしょうか。
―――>イスラムでは罪をもって生まれるというコンセプトがありませんし、他人の罪が後世に遺伝するというコンセプトもありません。
アダムとハウワ(イブ)の犯した罪は彼らはその場で償っているので、神は彼らをお許しになりました。アッラーは慈悲深く、後悔し罪を請うものに懲罰を与えるような方ではありません。下記、その章をのせます。従いまして、キリスト教にあるバプタイズのようなものは存在しません。イスラム教徒になるときは、信仰告白をするのみです。‘神の他に神はなく、預言者モハメッドがかれの最後の預言者である。’これを口に出してゆうだけです。
ご参考にしていただけると幸いです。
3-35. われは言った。「アーダムよ,あなたとあなたの妻とはこの園に住み,何処でも望む所で,思う存分食べなさい。だが,この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから。」
36. ところが悪魔〔シャイターン〕は,2人を顕かせ,かれらが置かれていた(幸福な)場所から離れさせた。われは,「あなたがたは落ちて行け。あなたがたは,互いに敵である。地上には,あなたがたのために住まいと,仮初の生活の生計があろう。」と言った。
37. その後,アーダムは,主から御言葉を授かり,主はかれの悔悟を許された。本当にかれは,寛大に許される慈悲深い御方であられる。
38. われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなたがたに必ずわれの導きが恵まれよう。そしてわれの導きに従う者は,恐れもなく憂いもないであろう。
39. だが信仰を拒否し,われの印を嘘呼ばわりする者は,業火の住人であって,永遠にその中に住むであろう。
その他、罪を請うものについて書かれた章です。
2-54. その時ムーサーはその民に告げて言った。「わたしの民よ,本当にあなたがたは,仔牛を選んで,自らを罪に陥れた。だからあなたがたの創造の主の御許に悔悟して帰り,あなたがた自身を殺しなさい。そうしたら,創造の主の御目にも叶い,あなたがたのためにもよいだろう。」こうしてかれは,あなたがたの梅悟を受け入れられた。本当にかれは,度々許される御方,慈悲深い御方であられる。
2-58. またこう言った時を思い起せ。「あなたがたは,この町に入り,意のままにそこで存分に食べなさい。頭を低くして門を入り,『御許し下さい。』と言え。われはあなたがたの過ちを赦し,また善行をする者には(報奨を)増すであろう。」
Salam

タイトルRe^2: 離婚した場合、罪の清め、など
記事No287
投稿日: 2008/01/19(Sat) 09:28
投稿者自称宗教研究者
Salamさん、具体的にありがとうございます。
> ―――>下記コーランに書かれてある離婚についてのルールです。キリスト教の本には、あなたがおっしゃる内容が書かれてあるのですか?もしご存知であればで結構ですが、なぜミサの時にパンをイエスの肉として、ワインを血として飲むのか教えていただけますでしょうか。

私がよく知っているのは、どちらかといえば、カソリックです。キリスト教でもさまざまな宗派があるプロテスタントについては知りません。

カソリックでは、バチカンで枢機卿の会議などで決められた「教義」というものがあります。
一般的に秘蹟を最低限守らなければなりません。またその儀式があります。
ご聖体とワインを頂くことは、ほかの、カソリック要理(教義)に、書いてありますが、聖書に「これを私の体として分け与えなさい」と書いてあるのを、カソリックは分かち合う、ということで受けるのです。

ですが、現実のミサでは、ご聖体(パン)は聖職者である神父と信徒の全員が頂きますが、ワインはミサを執り行っている聖職者の代表である神父のみ、です。
大きな教会ではミサのとき、多くの神父が壇上にあがっていますが、ご聖体を信徒に授けるときにあまりにも多くの信徒がいるためそれを手助けするためですが、その時間帯のミサを執り行っているのではなければその神父はワインを飲みません。
あくまでもその時間に執り行っている神父のみがワインを頂いています。

ですが、プロテスタントでは、そのあたりで売っている食パンをちぎってお盆にのせて運んだりしていますが、宗派があまりにも多く細かいところは教会によって異なりますのでよくわかりません。

タイトルRe^3: 離婚した場合、罪の清め、など
記事No288
投稿日: 2008/01/19(Sat) 09:43
投稿者自称宗教研究者
もう少し具体的に、書いてみます。

「これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである」
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」ということを
イエズスは言いました。
それは、最後の晩餐のときです。

そして手元にあったパンとぶどう酒を人々に配ってそういわれた、と聖書にあります。

大切なのは、「あなたがたのために」ということで、イエズスが苦しみ死ぬことは、偶然でも仕方なくでもない、あなたたちのためにだけそうするのだ、だからその前にわたしのすべてをこのパンとぶどう酒に託してあなたがたにあげよう、というのです。

そこで手渡されているのは、イエズス自身であり、いのちをかけたイエズスの愛、といわれています。

イエズスは彼を見捨てて逃げようとしている弟子たちに、無条件で再現のない自分の愛を告白しているのです。

「私の記念としてこれを行いなさい」ともイエズスは言っています。

そしてこのイエズスの愛は、神がこの世に生を受けたすべての人に対する神の愛といつくしみの表明としてこのことをすべての人は忘れてはならず、それを思うとき、だれもがこの世で善き者として生きていく勇気を得ます。

パウロが「わたしたちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」と言っています。


ミサでは、このイエズスの言葉
「これは、あなたがたのために渡されるわたしのからだである」
「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」を聖職者である神父が祈りながらたかだかと、ご聖体(パン)とワインを掲げます。
と同時に、鈴がなって信徒は頭を下げます。

それらのあと、ご聖体を頂きます。

タイトル罪と悔悟の解釈
記事No289
投稿日: 2008/01/19(Sat) 10:51
投稿者自称宗教研究者
キリスト教というより正確には、カソリックよりやはりイスラームの神は寛大ですね。

カソリックの場合は告解といって教会の個室に入って隣部屋にいる顔の見えない神父さまに(神父は神の使いとされているので、神様に告白する)、罪を告白し、神の許し(実際には神父様がお許しの言葉)を受け、そのあと神父様のおっしゃる償いを実行します。
償いはその時々によって異なりますが、告解室を出たあと教会で、言われた祈りを捧げます。(いくつかの祈りは覚えていなければなりませんので、たいていはその中のひとつ)

或いは、その場で聖書のどこそこを読みなさい、といわれる場合もあるようです。


ですが、イスラム教は、
自身で悔悟すると許される、とありますが、上記のような「儀式」がないわけですから、普段、暮らしの中で、「あ、神様、、、」と懺悔すればよいのですね。
そしてその償いは、人に親切に接する、挨拶をこちらからする、人を助ける、など、人それぞれができる範囲内で行えばよい、ということになりますね。


ところで、この、普段の暮らしの中で「神様、、、」と言っているときに、神の声は聞こえることをイスラム教では認めていますか?
つまり、神の声は預言者のみが伝えることであって、以外の人間には聞こえない、ということはないですよね?と思っているのですが…。

良心の声、というのでしょうか、心の奥底の声、というのがありますよね、
それと、自身の言葉ではなくふと聞こえたような浮かんだ声。

それは、イスラム教では神の声、お答え、と思っていてふだん神に悔悟したり祈ったりしているのでしょうか。



それと、イスラム教では罪というものが存在しない、ということですが、たとえば、先の離婚問題でもそれを守らなかった場合、ですが、
火あぶりになるのは本人であって、ということに過ぎないのですよね。

ということは、改宗前の罪も存在しないようですから、
たとえイスラムとしての守らなかったことがあったとして、イスラム教徒になったとしても、それは存在していない。
で、改宗前のそれらはよくないことだったんだ、と気がついたとき、本人が悔悟して暮らしの中で良きことをしていけばいい、という解釈でよいでしょうか。

タイトル
記事No295
投稿日: 2008/01/19(Sat) 19:43
投稿者一ムスリム
> それと、イスラム教では罪というものが存在しない、ということですが、たとえば、先の離婚問題でもそれを守らなかった場合、ですが、

salamさんがおっしゃっていたのは、原罪が存在しないという意味です。
改宗前でも改宗後でも、罪を犯せばそれは罪です。

しかし、改宗することで、改宗前の罪は帳消しにされるというのがイスラームの教義です。
(但し、改宗後にもその罪を犯し続けていた場合は消えません)

> 火あぶりになるのは本人であって、ということに過ぎないのですよね。

イスラームに火あぶりが定められている行為は一切ありません。
人を火で罰するのはアッラーのみです。

タイトルRe: 罪と悔悟の解釈
記事No298
投稿日: 2008/01/20(Sun) 02:44
投稿者
参考までに

悔悟(タウバ)
*タウバとは?
・アッラーの罰を畏れて背くことをやめる
・アッラーの眼を畏れて、アッラーに見られることを恥ずかしく思って悔悟する
・アッラーの偉大さゆえに悔悟する
(66:8、2:222、42:25)

*タウバはどんな条件を満たさなければならないか?
@すぐにやめること
Aやったことを後悔する
Bもう二度とやらないと決意する
C人の権利に関わることは、相手に対するつぐないが必要
(言葉で傷つけた場合は相手の赦しが必要、盗んだ場合は返さなければならない、心で反省するだけでなく形で表す必要あり)

(カザーリー)
・タウバは重要なことで些細な罪に対しても行わなければならない・・罪が重なっていって消せないぐらいに膨らんでいく
・人はいつ死ぬかわからない。アッラーが赦してくれる時間は死が訪れる前まで。しかし死の直前(最期の息が出るとき)はもう遅い。・・・病気や死が来た時に罪を消すための猶予がなくなる

http://blog.goo.ne.jp/basma/e/364ce6f3003fd04b03d4886b1b29e3e7
より転記

「赦し」にも三通りあるようです。

http://blog.goo.ne.jp/basma/e/9d7b9f3812cf5c561b7baedd899713f4

いくつかの罪に対してはその償い(カッファーラ)の方法が定められています。
http://cyborg.relove.org/thought/fatwaa.html

タイトルRe^2: 罪と悔悟の解釈
記事No300
投稿日: 2008/01/20(Sun) 12:52
投稿者自称宗教研究者
とても参考になりました。

一ムスリムさん、Fさん、ありがとうございます。

タイトルRe: 罪と悔悟の解釈
記事No306
投稿日: 2008/01/20(Sun) 22:51
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>

カソリックでは、バチカンで枢機卿の会議などで決められた「教義」というものがあります。
一般的に秘蹟を最低限守らなければなりません。またその儀式があります。
ご聖体とワインを頂くことは、ほかの、カソリック要理(教義)に、書いてありますが、聖書に「これを私の体として分け与えなさい」と書いてあるのを、カソリックは分かち合う、ということで受けるのです。

ですが、現実のミサでは、ご聖体(パン)は聖職者である神父と信徒の全員が頂きますが、ワインはミサを執り行っている聖職者の代表である神父のみ、です。
大きな教会ではミサのとき、多くの神父が壇上にあがっていますが、ご聖体を信徒に授けるときにあまりにも多くの信徒がいるためそれを手助けするためですが、その時間帯のミサを執り行っているのではなければその神父はワインを飲みません。
あくまでもその時間に執り行っている神父のみがワインを頂いています。
―――>ご説明ありがとうございます。恐らくカソリックの人たちはこれを儀式的にされるのでしょうが、これをすることでその場で配られるパンやワインをキリストの一部として食べるのでしょう。それについて疑問に思うカソリックの人はいないのでしょうか。もしキリストの時代に彼が‘これを私の体として分け与えなさい’とゆったとしても、その時の‘その’パンやワインがそうだったとしても、現在教会で配られるパンやワインはそれではないでしょう。そうすることに何か意味を持つのかどうかカソリックの人は疑問には思わないのでしょうか。(ただの私の疑問なので客観的にとらえてくださいね。)
イスラムにはこのような儀式のようなものはなく、まず預言者モハメッドがしなかったことをする必要はないというコンセプトがイスラムにはあります。逆にゆうと、預言者モハメッドが我々がしたほうが良いことやしなければならないことは教えて下さっているので、それ以外のことはしないで良いという考え方です。この場合もキリストがしなかったことをするのはその後の人々が勝手に儀式として作った。という捉え方になります。
それと、イスラムには人々の間に位がありません。神の前では皆同じです。神父が特別偉く、その他の人が神父よりも劣ることはありません。従って、神父が優先的な立場に立つようなことはイスラムではありません。イスラムでは神父ではなくイマムという存在がありますが、彼は一般の人よりも知識もあるでしょうし、礼拝を率いる存在でもありますが、人間の位として神の前では一般の人となんら変わりはありません。

ですが、プロテスタントでは、そのあたりで売っている食パンをちぎってお盆にのせて運んだりしていますが、宗派があまりにも多く細かいところは教会によって異なりますのでよくわかりません。
―――>そうなりますよね。その辺にで売ってる普通のパンはどう考えてもキリストの一部なわけがないですよね。

キリスト教というより正確には、カソリックよりやはりイスラームの神は寛大ですね。
―――>イエスキリスト(預言者イーサ)が伝えたイスラムは同じ神だったのですが、インジル(聖書の原本)が人の手によって書き換えられたことから、違う存在になってしまいました。私たちの創造者は偉大です。

カソリックの場合は告解といって教会の個室に入って隣部屋にいる顔の見えない神父さまに(神父は神の使いとされているので、神様に告白する)、罪を告白し、神の許し(実際には神父様がお許しの言葉)を受け、そのあと神父様のおっしゃる償いを実行します。
償いはその時々によって異なりますが、告解室を出たあと教会で、言われた祈りを捧げます。(いくつかの祈りは覚えていなければなりませんので、たいていはその中のひとつ)
―――>上記の続きですが、神の使いは預言者たち、天使であり人間ではありえません。なぜなら、人は神の前では平等だからです。ヨーロッパではよく神父が子供を犯したなどという事件も相次いでいます。神の使いであるものであればそのような過ちを犯すでしょうか。それらの神父を神の使いだと信じているキリスト教徒はそれでもそう信じられるでしょうか。もう1点は、イスラムでは神に許しを請うのに仲介人を必要としません。直接神にお願いもするし、祈りも捧げるし、許しも請います。

或いは、その場で聖書のどこそこを読みなさい、といわれる場合もあるようです。


ですが、イスラム教は、
自身で悔悟すると許される、とありますが、上記のような「儀式」がないわけですから、普段、暮らしの中で、「あ、神様、、、」と懺悔すればよいのですね。
そしてその償いは、人に親切に接する、挨拶をこちらからする、人を助ける、など、人それぞれができる範囲内で行えばよい、ということになりますね。
―――>この点(罪に対してどうやって後悔するのか)は他の方からマシャアッラー素晴らしい回答がはいっていたので省きます。
イスラムでのあいさつは‘アッサラムアレイクム’(あなたの上に平安を)、その答えは‘ワアレイクムサラム’(あなたの上にも平安を)です。どちらか先ゆゆった方が良いとされていますし、このあいさつに返事をしないことは自分の罪になります。

ところで、この、普段の暮らしの中で「神様、、、」と言っているときに、神の声は聞こえることをイスラム教では認めていますか?
―――>神(創造者)アッラーの性質のひとつですが、アッラーは器官なしに見、聞き、言います。コーランにもありますが、モーゼや預言者モハメッドは啓示を受けるときにアッラーを聞いたとありますが、我々には想像できない範囲なのでどのようにとはわかりません。アッラーは音も言葉もなしに伝えることができます。

つまり、神の声は預言者のみが伝えることであって、以外の人間には聞こえない、ということはないですよね?と思っているのですが…。
―――>アッラーを信じるものは来世でアッラーに会えるといわれていますインシャアッラー。しかし、預言者以外の人間がアッラーを聞くことが(声ではありません)できるかどうかは、恐らくないと思います。(ご存知の方いらっしゃれば指摘をお願いします。)

良心の声、というのでしょうか、心の奥底の声、というのがありますよね、
それと、自身の言葉ではなくふと聞こえたような浮かんだ声。
―――>シェイターン(悪魔)は人間をそそのかしますので。悪いことを人間に囁きます。
良いことは。。。考えたことがないので今答えを持ち合わせていませんが、天使が伝言をするのでしょうか、この答えは調べておきますがとりあえず解りません。とお答えします。

それは、イスラム教では神の声、お答え、と思っていてふだん神に悔悟したり祈ったりしているのでしょうか。
―――>我々は礼拝もそうですが、ドゥアといってお願い事をします。お願いをして叶うかどうかはアッラー次第なのですが、アッラーはどのドゥアも聞いています。現世で与えられるか、来世で与えられるかはわかりませんが。願ったことが叶うことも多々あります。それがアッラーが存在する答えでもあり、我々の願いに対する答えであり、私たちが信仰する価値でもあり、かれの偉大さを実感する瞬間でもあります。


それと、イスラム教では罪というものが存在しない、ということですが、たとえば、先の離婚問題でもそれを守らなかった場合、ですが、
火あぶりになるのは本人であって、ということに過ぎないのですよね。
―――>他の方のレスがついていたので省きます。人間はかれの創造物を火あぶりにする権利はないんです。たとえ虫一匹でも、火あぶりにする権利はアッラーにしかありません。

ということは、改宗前の罪も存在しないようですから、
たとえイスラムとしての守らなかったことがあったとして、イスラム教徒になったとしても、それは存在していないで、改宗前のそれらはよくないことだったんだ、と気がついたとき、本人が悔悟して暮らしの中で良きことをしていけばいい、という解釈でよいでしょうか。
―――>罪が遺伝しないと申し上げたのは、ひひひひひ。。。じいさんやばあさんの罪を現世にいる自分にふりかかることはない、という意味です。従ってアダムの罪を生まれたての赤ん坊が受け継ぐということがありません。自分の犯した罪は自分で償います。
改宗してからも、知らずに罪を犯してしまうことだってあります。その場合はそれが罪だとわかった時点ですぐそれをやめ、二度としないことを心に決め、したことを後悔します。単に善行のみをするのではなく、後悔することそれに対して許しを請うことが必要です。もちろん善行をすることに越したことはありませんが、後悔なしですると、それは単に善行であり、後悔したことにはなりません。
長々となりましたが、答えの足しにしていただければ幸いです。
Salam

タイトルRe^2: 罪と悔悟の解釈
記事No310
投稿日: 2008/01/21(Mon) 11:10
投稿者自称宗教研究者
Salamさん、ありがとうございます。

> それについて疑問に思うカソリックの人はいないのでしょうか。その時の‘その> ’パンやワインがそうだったとしても、現在教会で配られるパンやワインはそれ> ではないでしょう。そうすることに何か意味を持つのかどうかカソリックの人は> 疑問には思わないのでしょうか。

> この場合もキリストがしなかったことをするのはその後の人々が勝手に儀式とし> て作った。という捉え方になります。

はい、一部、おっしゃるとおりですが、
ですが、イスラムの人たち同様、神にどうして?と聞くことはならず、聖書にそう書いてあるから、が答えになるかと思います。

教会によって丸い白いパンを小麦粉などで作るところと、食パンをちぎって出すところとがありますが、どちらにせよ、ミサや礼拝中に、聖職者がそれを神聖なるものに変換(?)するような儀式があります。(聖書でイエズスが行ったことと同じことを聖職者が行う)

なので、見た目は、単なる食べ物ですが、イスラム同様、疑い無しに信じるほかない、というところでしょうか。


> それと、イスラムには人々の間に位がありません。神の前では皆同じです。

そうですね。
キリスト教に疑問を持つものですから、イスラムに対して大変同意を感じています。
また、キリスト教と仏教は精神的なものであり大変理想的ではありますが、現実的な部分、つまり社会的に現実にどうなのであろうか、といった場合、それが聖書に書いてありませんから、単に「許せよ」といわれたって、「欲を持つことはよくない」といわれたって、、、、ということで
現実、生きていくには戸惑いが多く、それこそ、人間は罪を持っている、ということを常に感じながら生きていくほうが多いのです。
キリスト教は暗い、というイメージも大きいですよね。それがその罪意識だと思います。

マインドコントロールではないか、と思うことがありますが、いかんせん、やはり信じている信仰であるかぎり、悲しいかな、そう思い込んでしまうのが人間のサガなのかもしれません。

それに対して、イスラムは感心するばかりです。

> ヨーロッパではよく神父が子供を犯したなどという事件も相次いでいます。神の> 使いであるものであればそのような過ちを犯すでしょうか。それらの神父を神の> 使いだと信じているキリスト教徒はそれでもそう信じられるでしょうか。

そうなのです。そこもキリスト信徒は悩むといいますか、矛盾を感じながらもそれを声にすることもできず(いけないことのような感じがして)、疑問を持っている人は大変多いと思います。

アブラハムはご自身を「預言者」と言いましたので、人間らしい過ちを起こしたこともあっても、責められることや疑問に思われることもないでしょう。
アブラハムを神化していませんものね。
そこが、キリスト教と大きな違いの1つなのでしょう。


> アッラーは音も言葉もなしに伝えることができます。

これは、たぶん、私が推測するに、人間には自由意志があるが、そうさせているのは、神であり、それがアッラーの声、意思なのだろうか、と。


> しかし、預言者以外の人間がアッラーを聞くことが(声ではありません)できる> かどうかは、恐らくないと思います。(ご存知の方いらっしゃれば指摘をお願い> します。)

一般的に、そういわれているようですよね。

ですが、それは「預言」について、ではないでしょうか、と私は思っているのですが…。

つまり、人間がちょっとしたことで「神よ、、、」と祈ったり、問うたりするときに、神の声が聞こえることはあるのではないのだろうか、、、と。私は思っているのですが、コーランにどう書いてあるのか(私はまだまだ読みきれていませんので現時点では分かりません)、或いは現地のイスラムの人たちはどうなのであろうか、という疑問が残ります。


> シェイターン(悪魔)は人間をそそのかしますので。悪いことを人間に囁きます。

そうですね。これはキリスト教も同じですね。
悪魔である場合もある、と。

> 改宗してからも、知らずに罪を犯してしまうことだってあります。その場合はそ > れが罪だとわかった時点ですぐそれをやめ、二度としないことを心に決め、した> ことを後悔します。

たとえば、ですが、

改宗前に豚肉を普段食べ、酒タバコも呑んでいた人が(普通の日本人の生活ですよね)、
イスラム教徒になった場合、信仰宣言をしたときに、それらの過去をこれからは「罪」となるのだから、これからはいたしません、と罪となったことを認め、決心すればよい、ということになりますね。
改宗前はそれらの行為は罪ではありませんし、また、罪と知っていたわけでもないですものね。


ある書籍に、天国に行ったら、お酒を飲んでもいいし、複数の処女を抱いてもよい、とありました。

では、タバコはどうなのでしょうか?
どこかにタバコもいけないとあったのですが…。
下世話な話ではありますが。

それと、天国に行った場合のことは男性のことばかりですけれども、女性は天国に行ったらどうなる、ということはコーランにどう書いてあるのでしょうか。

タイトルRe^3: 罪と悔悟の解釈
記事No318
投稿日: 2008/01/22(Tue) 02:25
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>

> はい、一部、おっしゃるとおりですが、
> ですが、イスラムの人たち同様、神にどうして?と聞くことはならず、聖書にそう書いてあるから、が答えになるかと思います。
ーーー>そうですか、では根本的なところから違うわけですね。それでは、キリスト教の人は聖書が何種類もあることについてはどう思われるのでしょうか?原本のインジルから72種類にも書き換えられたといわれています。今有名なのは4種類くらいなのですよね?それに対してコーランは一冊のみです。人によって書き換えられないようにアッラーが守ってくださっているといわれています。

> なので、見た目は、単なる食べ物ですが、イスラム同様、疑い無しに信じるほかない、というところでしょうか。
>
> そうですね。
> キリスト教に疑問を持つものですから、イスラムに対して大変同意を感じています。
ーーー>疑問を持つことは一番大切だと私はいつも思います。疑問を持たないひとであれば答えを探さずに終わってしまいますものね。あなたにできるだけご協力したいと思います。

> また、キリスト教と仏教は精神的なものであり大変理想的ではありますが、現実的な部分、つまり社会的に現実にどうなのであろうか、といった場合、それが聖書に書いてありませんから、単に「許せよ」といわれたって、「欲を持つことはよくない」といわれたって、、、、ということで
> 現実、生きていくには戸惑いが多く、それこそ、人間は罪を持っている、ということを常に感じながら生きていくほうが多いのです。
ーーー>逆にイスラムは具体的なことまですべてかかれてありますので大変道理的で合理的です。個人的な日本の仏教のイメージですが、人に幸せになる道を説いている本人が果たして幸せだったのか、いろんな宗教がごちゃまざってできた宗教だと思います。そんな宗教が筋の通った教えをするわけがなく、日本にいる体外の仏教徒にあなたは何を信じているのですか、と聞いても答えることができない現状があります。ちょっと話はそれましたが結局それは合理的て道理的でない単なる思想をといただけの宗教であるから確信をついたところがないのではないでしょうか。
疑問を抱くひとは常に確信を求めます。それがそこに見つからないからよそを探しにいくのだと思います。イスラムは罪とは何で(手の犯す罪、足の犯す罪、目の犯す罪など細かく分かれています)、どうやって償いをし、どうやって許されるのかまで細かく教えられます。それが違う点の一つですね。

> キリスト教は暗い、というイメージも大きいですよね。それがその罪意識だと思います。
>
> マインドコントロールではないか、と思うことがありますが、いかんせん、やはり信じている信仰であるかぎり、悲しいかな、そう思い込んでしまうのが人間のサガなのかもしれません。
ーーー>たぶんそれは人間の自然現象ではなく、無知によるものだと思います。無知が人を愚かにします。

> それに対して、イスラムは感心するばかりです。
ーーー>真実に気づいているのであれば、もう少し追求してみてはいかがでしょうか。現在コーランを読まれているようですので、イエス(イーサ)や、ザカリヤ、マリア(マリアム)、ジョン(ヤヒヤ)、など聖書に登場する人物のことが書かれていますし、それと見比べてみてください。知り合いにキリスト教徒からイスラムに改宗した人がいますが、十字架にかけられたのはイエスではない、というところに疑問を抱き、それから彼はイスラムに真実を見つけました。マリアはイスラムで一番すばらしい女性という存在です。イエス(イーサ)は預言者モハメッドの前に現れた預言者であり、今でも第2の天国で生活をしています。そして最後の日が近づくころまたこの世に戻ります。
>
> そうなのです。そこもキリスト信徒は悩むといいますか、矛盾を感じながらもそれを声にすることもできず(いけないことのような感じがして)、疑問を持っている人は大変多いと思います。
ーーー>そうでしょうね、私も大変それが不思議に思えてしょうがないです。それでも信じないといけない理由なんてないのに。おそらく、盲目に信じているだけ、もしくは真実を見つけるのが怖いのか。自分たちの親やその親がそう信じてきたから、自分もそうしないといけないような意識もあるのではないでしょうか。
>
> アブラハムはご自身を「預言者」と言いましたので、人間らしい過ちを起こしたこともあっても、責められることや疑問に思われることもないでしょう。
> アブラハムを神化していませんものね。
> そこが、キリスト教と大きな違いの1つなのでしょう。
ーーー>アブラハム(イブラヒーム)は預言者の一人であって、神化することはありえないですね。キリスト教でそれが起こってしまうのは、神が何であるかが明確にされていないからではないでしょうか。だから、預言者であるイエスもアブラハムも神になってしまうのではないでしょうか。イスラムでは神という存在は神しかないので人間をたとえ預言者であっても神とすることはありえません。それと聞いただけなのですが、聖書にはアブラハムが酒によって素っ裸で歩きまわり、それを息子が覆った、などと書かれてあるのでしょうか?あと、ノアが不特定の女性と姦通をしたとか。もしそう書かれてあるのが本当であれば、どうやってそれを預言者だと信じ、それを神と思えるのでしょうか。もちろんイスラムではそのようなことはでたらめだとわかっていますし、まして預言者が大罪を犯すなどとはありえませんから、信じることすらしませんが。(聞いただけなので、間違っていたら正してください。)
>
>
> > アッラーは音も言葉もなしに伝えることができます。
>
> これは、たぶん、私が推測するに、人間には自由意志があるが、そうさせているのは、神であり、それがアッラーの声、意思なのだろうか、と。
ーーー>たとえば、選択しがあったとして、自分は自分の意思でAを選びCという結果に結びついたとします。これはすでにアッラーによってその者の運命として書かれてあることであり、結局それもアッラーの意思によるものなんです。だからといってすべてを怠って流れに任すわけではないですが、自身を委ねることはイスラムの基本になります。


>
> ですが、それは「預言」について、ではないでしょうか、と私は思っているのですが…。
>
> つまり、人間がちょっとしたことで「神よ、、、」と祈ったり、問うたりするときに、神の声が聞こえることはあるのではないのだろうか、、、と。私は思っているのですが、コーランにどう書いてあるのか(私はまだまだ読みきれていませんので現時点では分かりません)、或いは現地のイスラムの人たちはどうなのであろうか、という疑問が残ります。
ーーー>預言者以外の人間に神が聞こえることはありません。しかし、お願いをしたときは目に見えて結果が出ることもあれば、ないときもあります。たとえば、ものすごくほしいものがあってものすごく努力をして手に入れようとしているのに手に入らない。時にはそれはそのとき自分の手に入らない運命であれば、そうならないこともあります。時にはなかなか入らなくても忍耐を試されていることもあるかも知れないので、それでもがんばって手に入れようとするか。ちょっとそれますが、レイラトルカドゥルという日があり運命の夜という意味なのですが、これはラマダンの大体最後の方の日にありますが、いつあるかはわかりません。この晩にアッラーが決めたそれぞれの運命を天使たちが運びます。落ち葉の1枚から人間のその年の一年の出来事まですべて決まる夜です。時にはこの瞬間を見る人もいるようです。天使たちは常に私たちの右と左におり、1語一句逃さす書留ます。右は善行を書きとめ、左は悪行を書きとめられます。このように、天使の存在とは身近なもので彼らがアッラーの元で従順に仕事をこなすわけですから、神からの直接の声は聞こえなくても、天使が運ぶことはあるかも知れませんね。(間違っていたらご指摘ねがいます。)


> 改宗前はそれらの行為は罪ではありませんし、また、罪と知っていたわけでもないですものね。
ーーー>そうですね、知らなかったことはしょうがないですから、罪にはなりません。だからイスラムでは、改宗前の罪は帳消しにされるといわれています。それだけアッラーの慈悲が寛大であるということです。
>
> ある書籍に、天国に行ったら、お酒を飲んでもいいし、複数の処女を抱いてもよい、とありました。
ーーー>書籍などは気をつけて読んでください。まず、基礎をしっかり知り、それからいろんな書籍を読むことをお勧めします。そうしないと、本当かそうでないかが判断できませんから。そして、常に自分の常識を測るようにするといいかと思います。自分の常識の範囲でそこに書かれていることが本当なのかどうかを判断することです。少しでも、’?’とおもうことがあれば、次の答えを見つける努力をします。
>
> では、タバコはどうなのでしょうか?
> どこかにタバコもいけないとあったのですが…。
> 下世話な話ではありますが。
ーーー>タバコはマクルー(たぶん学者によって違う意見もあると思いますが。)といって、推薦されないものになります。1本、2本吸うぐらいでは体に危害はないですが、1箱吸うと体に危害をもたらす恐れがありますよね。せっかくいただいた体を傷つけてはいけないというコンセプトがあります。死に追いやるような行為はしてはいけません。

> それと、天国に行った場合のことは男性のことばかりですけれども、女性は天国に行ったらどうなる、ということはコーランにどう書いてあるのでしょうか。
ーーー>コーランの翻訳にもいくつか異なる学者の意見があります。それはアラビア語は1つの単語でも複数に意味を持つものがあり、意味を理解する場合は一番それにふさわしいものを選ぶ必要があります。ふさわしいものとは、特にアッラーについてや、かれの創造物についてその性質に反しないものという意味です。女性も男性も同じだけの報酬を得る権利がある分、楽園でも想像もできないくらいのすばらしいものが与えられます。
4-124.誰でも、正しい行いに励む者は、男でも女でも信仰に堅固な者。これらは楽園に入り、少しも不当に扱われない。
16-97.誰でも善い行いをし(真の)信者ならば、男でも女でも、われは必ず幸せな生活を送らせるであろう。なおわれはかれらが行った最も優れたものによって報奨を与えるのである。

またそれますが、現世でのイスラムにおける女性の権利は多く、一般的に知られているような、男性によって卑下されているようなことはありません。イスラム圏の社会でもびっくりするような女性優先のシステムがあります。たとえば、郵便局などにいっても女性は並ばなくていい、銀行には最近女性専用の区間ができた、女性はだんなの食事を作らなくても、男性が女性の前に出来上がった料理をだす。(ま、たいていの女性は大好きなだんなのために手料理をだしますけどね。しかもそうしたほうが報酬が倍増します。)離婚や結婚についても女性が有利な権利が多くあります。

あなたが正しい道に導かれることをお祈りします。アーミン
Salam

タイトルRe^4: 罪と悔悟の解釈
記事No335
投稿日: 2008/01/25(Fri) 17:13
投稿者自称宗教研究者
パソコン画面の下部になって隠れていましてご返答を見逃しておりました。

ひとつひとつにご返答いただき恐縮しております。

私は、キリスト教徒ではないので、聖書についてなどよく分かりません。40年以上も前にカトリックの大学を出まして、周囲にカトリック信徒が多いものですから、カトリックに関しまして若干知っている、というような者です。

カトリックは、カトリック(カソリック)あるいはカトリック信徒といいますが、
「キリスト教」とはあまり言いません。

「キリスト教」というときは一般的にプロテスタントをさします。
このプロテスタントはかなり多くの宗派があり、それぞれによって聖書の読み方も受取り方もまったく違います。よって貴方様の問いはたぶんプロテスタントに向けられたものと思われますが私にはまったく判りません。

また、カトリックはご存知のとおりローマカトリックですが、プロテスタント各宗派ともまったく違います。

詳細は、私には判りません。

ちなみに仕事が研究職ですから1ヶ月に何十冊あるいは百冊以上も読破していかなければなりませんが、その中にコーランも読んでいる、という書き方が正解だったかと思います。

タイトルパネライ時計コピー
記事No6276
投稿日: 2013/05/21(Tue) 14:42
投稿者パネライ時計コピー   <xiaoma201330@hotmail.com>
参照先http://www.eta777.com/qrwares/watches-qr2/
この人のいる形跡はまれな山で隠遁します 谷の中で腕時計。この避難者の中で名匠がかなりあって、彼らは谷間の中で隠遁して、十分な時間を使います 根気よくとオルゴール、時計などの梢の密なメカニズムの腕時計を作ってきた