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タイトルキリスト教徒とのディベート
記事No1316
投稿日: 2009/03/11(Wed) 18:56
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
アッサラムアレイクム
昨日ヨーロッパ在住のアメリカ人キリスト教徒(クルセード伝道団体のプリーチャーの一人)の女性、Sさんと電話でディベートした時の内容を要点を含めて情報、ご参考までにご紹介しようと思います。下記の内容には彼女独特の考え方や解釈が含まれているかと思われる箇所もありますが、もしキリスト教徒の方がこれを見ていて彼女の意見で誤りがある場合はご指摘ください。
まず結論からいうと、にっちもさっちも行かずでしたが話し合ったポイントは下記です。

わたしの質問:キリスト教徒はなぜ神の前にイエスキリストに重点を置くのか。
Sさん回答:神がわたしの息子であるイエスに従いなさいといったから。イエスは預言者以上の存在である。彼の起こした奇跡や彼が人類にした事(人類の罪を背負って十字架に掛けられ死んだ)ことは預言者以上の行為でありそれを我々はありがたく思うべきである。イエスに罪を請うことにより、彼が許してくれる。
わたしの返答:奇跡を起こしたのは神の意向によるものであり、イエスの意向ではない。神が全てを創造し、運命を左右し、罪を請う者を許すか許さないかは神が決めることであり、それに仲介人は必要ない。
ポイント:この時点で彼女の神という存在の理解が、全能全知の神、創造者ではないことが分かります。仲介人が必要である、という理解が理解できずです。

わたしの質問:ではなぜイエスが罪を背負わなければいけないのか。最高に慈悲深い全能全知の神が人が犯した罪を許さない訳はない。最初の人間であるアダムが犯した罪でさえも神は彼が罪を許してほしいと願った時に許した。その子孫である我々が罪を請えば神はもちろん、それを許すだろう。なぜなら彼は最高に慈悲深くお許しになる方であるから。
Sさんの返答:アダムは神から自分を離別したのだ、神はせっかく作った自分の子供が自分から離れていくのを許せなかった、歯がゆい思いをした。アダムは大きな過ちを犯したため、その罪をもイエスが償った。
ポイント:アダムは最初の預言者であり、尊い存在であるにも関わらず、アダムを祖末な存在ととらえていることが分かる。
アダムを創造した神が自分から離れていくことに対し何もできなかったと解釈するのは、全能全知が何を指すものであるのかを理解していない証である。

Sさんの意見:なぜモスリムはイエスを否定するのか。
わたしの回答:モスリムはイエスを否定しない。むしろ、預言者の一人であることから大変尊い存在である。否定することは、背信行為にあたる。イエスが預言者としてしてきたこと、彼の奇跡、また彼がダジャルを殺すために再度地上に戻ってくることはモスリムは理解している。そのようにコーランにも彼の存在について書かれている。彼の母、マリアはイスラム史上で最高の女性である。イエスは神ではなく、預言者である。
ポイント:彼らが預言者モハメッドを否定するのと同じように、彼らはモスリムもイエスを否定するものだと誤解している。

わたしの質問:キリスト教徒にとっての預言者モハメッドの存在は?
Sさん返答:モハメッドさんは大変素晴らしい人でした。しかし、イエスよりは素晴らしい存在ではない。
ポイント:預言者モハメッド出現の事はトーラ、インジルなどヒンズー教の教典にまで書かれているにもかかわらずそれを預言者だと認識しない。すなわち彼らは自分たちの教典を信じていない、その時点で背信をしている。

わたしの質問:そんなにたくさん何種類にも分かれてバイブルに書かれてあるのならばどれが真実か分からなくなるのに一帯なにをもってあなた達はそれを真実だと確信するのか?(4種類のバイブルに対して)
Sさん回答:4人の人が1つの事故現場をみたら4人とも違う解釈ができる。1人は医者で1人はなんとかであればそれぞれ違った意見がでるのは当然だ。
わたしの返答:そうであれば誰が一番正しいのかどうやって判断する?
Sさん返答:4つの意見を合わせれば答えがでる。
ポイント:4つの意見を合わせれば答えがでる???合わせてもそれが正確で真実であると、どうやって確証するのか。’プロパビリティー(仮定/可能性があるかないか)’を寄せ集めても、’プロバビリティー(仮定)のポッシビリティー(可能性)’を集めるだけであり、真実を見つけたことにはならない=真実ではない可能性もかなり高い。ということは、彼らの信仰は全て’仮定’に乗っ取ったものであり、真実に乗っ取ったものではない、ことが分かる。

わたしの質問:イエスは十字架で死んでいない。あなたの言う神がイエスが息子だと言うのならば、どの世界に自分の息子をそんなひどい目に合わせる親がいるのか?
Sさんの回答:(笑)(イエスが死んでいない、事に対して彼女は笑いました。)だからイエスの存在が尊いのだ。それが神の愛である。
ポイント:モスリムはイエスは今での第2の楽園にて生活しており、時期がくると地上に戻ってくることを知っています。最高に慈悲深い神が預言者をそんなひどい目に合わせる訳がない事も知っています。恐らく、第3者から見てもこちらの意見の方が道理的だと判断するでしょう。

わたしの質問:イエスが一番尊い存在で、人類が彼を崇拝するべきなのであれば、彼の前に存在した預言者達は人々に何を伝達してきたと思うのか?
Sさん回答:アブラハムも大変素晴らしい人でした。。。。。(回答なし)
ポイント:歴代の預言者はアダムを始め預言者モハメッドまで124,000人存在しました。全て創造者、神の存在を人類に伝達するために使わされた預言者達です。それが、イエスを崇拝するべきだと伝えていたとしたら、生まれてもいない人間のことを信じないといけない、その時代の人々は何を信じてよいのか分からなくなるでしょう。この時点で彼女の理論は合理的でない事が分かります。答えが出なかった理由も分かります。

Sさん意見:私たちは神の姿を知っている、似顔絵を書いたりする人もいるし、彼がどんな顔をしているか知っている。
わたしの返答:我々の言う全能全知の創造者、神は創造物に類似することなく、場所なしに存在し、始まりも終わりもない、永遠の存在である。その神を人間の制限のある頭脳で想像しただけの容姿で似顔絵を書くことは許されない。
ポイント:こればっかりは絶句しましたが、英語でもAlmighty Godと言いますが、そもそもAlmightyの意味を辞書で調べてみると、全能の、全能者、無限の力をもった、とあります。神の力を制限する事で、それが無限ではなくなること。イエスを信じなければ、死んでから一番最初に神に問われるのは’わたしの息子を信じたか’、だそうです。創造者が創造物を信じたか信じないか疑問の焦点にもなりませんが、これは彼女達の’神’に対する理解が全く誤ったものであるためです。

などなど、書くときりがなくなるのでこの辺りでやめますが、まずこれまでで分かったのは彼女の言う事全てが’あいまい’であったこと。それもそのはず。彼女達の理論は全て’仮定’に乗っ取ったものであり、真実に乗っ取ったものではないからです。神の存在すら何か理解していない上曖昧な情報のみで信仰を続けている内に理性や合理性、道理性で考えるとそれが正しくない事は自ずと分かることです。しかし、全能全知のアッラーはかれのお望みになる者を導き、お望みになるものを迷わせます。

最後に、
Sさん:あなたが探し求め続ければ最後は分かることだから探し求め続けてください。自分の知識を制限しないでください。
わたし:あなたも、人にそう言う前に、知識を制限しないで、神の存在が何かを探し求め続けてください。

1時間に渡り、国際電話でバトルの末、彼女は言いました。
わたしが正しいかどうかは、死ねば分かることだわ。
その通りです。

不信者たち章(アル・カーフィルーン)
1. 言ってやるがいい。「おお不信者たちよ、
2. わたしは、あなたがたが崇めるものを崇めない。
3. あなたがたは、わたしが崇めるものを、崇める者たちではない。
4. わたしは、あなたがたが崇めてきたものの、崇拝者ではない。
5. あなたがたは、わたしが崇めてきたものの、崇拝者ではない。
6. あなたがたには、あなたがたの宗教があり、わたしには、わたしの宗教があるのである。」

モスリムとして死ぬ事ができますように、アーミン。
アッラーが我々を正しい道に導かれますように、アーミン。
アッラーが我々の罪をお許しになりますように、アーミン。
全てのモスリムにアッラーの加護がありますように、アーミン。
Salam

タイトルRe: キリスト教徒とのディベート
記事No1317
投稿日: 2009/03/12(Thu) 00:24
投稿者moiz   <moizddin@gmail.com>
アッサラームアレイクム

>預言者モハメッド出現の事はトーラ、インジルなどヒンズー教の教典にまで書かれている

トーラ→「律法の書」ムーサーが受け取ったもの
インジル→「福音」イーサーが受け取ったもの

両方ともヒンドゥの教典ではありませんが・・

私の読み違えでしょうか(^^;

タイトルRe^2: キリスト教徒とのディベート
記事No1318
投稿日: 2009/03/12(Thu) 01:53
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
> アッサラームアレイクム
>
> >預言者モハメッド出現の事はトーラ、インジルなどヒンズー教の教典にまで書かれている
>
> トーラ→「律法の書」ムーサーが受け取ったもの
> インジル→「福音」イーサーが受け取ったもの
>
> 両方ともヒンドゥの教典ではありませんが・・
>
> 私の読み違えでしょうか(^^;
--->インジルの後に’など’が誤って入ったのが誤解を招いたようです。トーラ、インジル、ヒンズーの経典、などが正しいです。すみません。Salam

タイトルRe^3: キリスト教徒とのディベート
記事No1321
投稿日: 2009/03/12(Thu) 20:35
投稿者moiz   <moizddin@gmail.com>
> --->インジルの後に’など’が誤って入ったのが誤解を招いたようです。トーラ、インジル、ヒンズーの経典、などが正しいです。すみません。Salam

こちらこそ失礼しました。

ヒンドゥの経典というのはマハーバーラタなどを指すのでしょうか。
確認したことがないのでなんとも言えませんが、もしも本当にヒンドゥの経典に預言者についての記述があるならそれはとても興味深いです。

全ての民に預言者を遣わしているということの意味を、ムスリムとして深く再考したいです。

ワッサラーム。

タイトルこんにちは
記事No1345
投稿日: 2009/03/22(Sun) 14:41
投稿者ちゃる
私は色々な宗教を学習しています(イスラム教は最近学び始めました。キリスト教は少しわかります)。未熟ですが思ったことを書こうと思います。

> わたしの返答:奇跡を起こしたのは神の意向によるものであり、イエスの意向ではない。神が全てを創造し、運命を左右し、罪を請う者を許すか許さないかは神が決めることであり、それに仲介人は必要ない。

◇もちろんイエスは神に従っています。「私の意思ではなく、あなたの意思が行われますように」とイエスキリストは神に呼びかけました。奇跡については神の意向ですが、イエスに同じ考えがなかったとは言い切れません。

> わたしの質問:ではなぜイエスが罪を背負わなければいけないのか。最高に慈悲深い全能全知の神が人が犯した罪を許さない訳はない。最初の人間であるアダムが犯した罪でさえも神は彼が罪を許してほしいと願った時に許した。その子孫である我々が罪を請えば神はもちろん、それを許すだろう。なぜなら彼は最高に慈悲深くお許しになる方であるから。

◇神の意思について人が何を知っているでしょうか?
全知全能の神がアダムの罪を許し、イエスに罪を負わせることについて人が何を言えるでしょうか?

> ポイント:彼らが預言者モハメッドを否定するのと同じように、彼らはモスリムもイエスを否定するものだと誤解している。

◇預言者ムハンマドを否定するクリスチャン、肯定するクリスチャン、どちらもいると思います。同様に、モスリムがイエスを否定していると誤解しているクリスチャン、理解しているクリスチャンどちらもいます。

> Sさん返答:モハメッドさんは大変素晴らしい人でした。しかし、イエスよりは素晴らしい存在ではない。
> ポイント:預言者モハメッド出現の事はトーラ、インジルなどヒンズー教の教典にまで書かれているにもかかわらずそれを預言者だと認識しない。すなわち彼らは自分たちの教典を信じていない、その時点で背信をしている。

◇預言者とは認めていると思います。ただ「イエスキリストよりは素晴らしくない」と考えているのです。ムハンマドさんは自分を人間だと言っておられ、天使からの言葉を語った尊敬すべき方でしょう。しかしイエスキリストは十字架にかけられ罪をあがない、神と人間とを仲介した方と思われています。
ヒンドゥ教の経典は沢山ありますがどこに書かれているでしょうか?

> ポイント:4つの意見を合わせれば答えがでる???合わせてもそれが正確で真実であると、どうやって確証するのか。’プロパビリティー(仮定/可能性があるかないか)’を寄せ集めても、’プロバビリティー(仮定)のポッシビリティー(可能性)’を集めるだけであり、真実を見つけたことにはならない=真実ではない可能性もかなり高い。ということは、彼らの信仰は全て’仮定’に乗っ取ったものであり、真実に乗っ取ったものではない、ことが分かる。

◇そういう考えですと、イスラム教も預言者と名乗る人の言葉を信じているだけであって、仮定にのっとったものである、ということにはならないでしょうか。

> わたしの質問:イエスは十字架で死んでいない。あなたの言う神がイエスが息子だと言うのならば、どの世界に自分の息子をそんなひどい目に合わせる親がいるのか?
> Sさんの回答:(笑)(イエスが死んでいない、事に対して彼女は笑いました。)だからイエスの存在が尊いのだ。それが神の愛である。
> ポイント:モスリムはイエスは今での第2の楽園にて生活しており、時期がくると地上に戻ってくることを知っています。最高に慈悲深い神が預言者をそんなひどい目に合わせる訳がない事も知っています。恐らく、第3者から見てもこちらの意見の方が道理的だと判断するでしょう。

◇この世には息子を殺す親もいます。親を殺す子もいます。最高に慈悲深い神は、世界で飢えている人々を餓死させ、イスラム教徒とキリスト教徒の間の争いを続けさせています。ですから預言者をそんな目に合わせることもありうるのではないでしょうか。

> ポイント:歴代の預言者はアダムを始め預言者モハメッドまで124,000人存在しました。全て創造者、神の存在を人類に伝達するために使わされた預言者達です。それが、イエスを崇拝するべきだと伝えていたとしたら、生まれてもいない人間のことを信じないといけない、その時代の人々は何を信じてよいのか分からなくなるでしょう。この時点で彼女の理論は合理的でない事が分かります。答えが出なかった理由も分かります。

◇昔の人々は沢山の預言者の伝えた通りに神を崇拝すれば良かったでしょう。キリスト教では、神は当時の人々にイエスキリストを遣わし、イエスキリストを通して崇拝できるようにしてくれたと考えています。またイスラム教徒には預言者ムハンマドを遣わし、コーランを通じて神を崇拝できるようにされたと考えます。

> Sさん意見:私たちは神の姿を知っている、似顔絵を書いたりする人もいるし、彼がどんな顔をしているか知っている。
> わたしの返答:我々の言う全能全知の創造者、神は創造物に類似することなく、場所なしに存在し、始まりも終わりもない、永遠の存在である。その神を人間の制限のある頭脳で想像しただけの容姿で似顔絵を書くことは許されない。
> ポイント:こればっかりは絶句しましたが、英語でもAlmighty Godと言いますが、そもそもAlmightyの意味を辞書で調べてみると、全能の、全能者、無限の力をもった、とあります。神の力を制限する事で、それが無限ではなくなること。イエスを信じなければ、死んでから一番最初に神に問われるのは’わたしの息子を信じたか’、だそうです。創造者が創造物を信じたか信じないか疑問の焦点にもなりませんが、これは彼女達の’神’に対する理解が全く誤ったものであるためです。

◇salamさんの仰る通り、Sさんは神をイエスキリストに限定しています。Sさんの知識がまだ浅いからです。しかしそう考えていないクリスチャンもいます。

イスラム教と、大部分のキリスト教は、キリストの神性(三位一体説)について真逆の考え方をしているので、決して相容れるものではないのですね。「あなたがた信仰する者よ,ユダヤ人やキリスト教徒を,仲間としてはならない。」

タイトルRe: こんにちは
記事No1348
投稿日: 2009/03/22(Sun) 18:39
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
> 私は色々な宗教を学習しています(イスラム教は最近学び始めました。キリスト教は少しわかります)。未熟ですが思ったことを書こうと思います。
ーーー>インシャアッラー、あなたが正しい情報を学ばれますように。まず、あなたのご質問はイスラムの基礎を学んだ者であれば誰でもすぐに理解できる内容ですが、あなたがまだ学習中だということですので、ご質問に対して説明していきたいと思います。これからも学習を是非続けてください。
>
> > わたしの返答:奇跡を起こしたのは神の意向によるものであり、イエスの意向ではない。神が全てを創造し、運命を左右し、罪を請う者を許すか許さないかは神が決めることであり、それに仲介人は必要ない。
>
> ◇もちろんイエスは神に従っています。「私の意思ではなく、あなたの意思が行われますように」とイエスキリストは神に呼びかけました。奇跡については神の意向ですが、イエスに同じ考えがなかったとは言い切れません。
ーーー>まず、神(アッラー)の存在についてご理解ください。アッラーとは、アッラーという名前の神ではなく、かれは全能全知、永遠の存在で、存在するもの全ての創造者です。他の表題でアッラーの性質を貼付けますので、そこでご確認ください。そこにも書かれていますが、アッラーの性質として、創造者は創造物と類似しない、創造物を必要としない。と書かれています。イエスの起こした奇跡、イエスに限らずアッラーが使わした124,000の使途・預言者は全員、奇跡を起こすことができました。人々にアッラーの存在を理解させるために普通の人間ができない事を可能にする力をアッラーは彼らに与えました。従いまして、預言者達が起こした奇跡はアッラーの意向なしには起こりえない訳です。我々の一字一句、行動の全てはアッラーの意向の上で行われます。かれの我々に与えた運命の上で我々は生かされています。全てはアッラーの意向なしには何も起こりえません。
>
> > わたしの質問:ではなぜイエスが罪を背負わなければいけないのか。最高に慈悲深い全能全知の神が人が犯した罪を許さない訳はない。最初の人間であるアダムが犯した罪でさえも神は彼が罪を許してほしいと願った時に許した。その子孫である我々が罪を請えば神はもちろん、それを許すだろう。なぜなら彼は最高に慈悲深くお許しになる方であるから。
>
> ◇神の意思について人が何を知っているでしょうか?
> 全知全能の神がアダムの罪を許し、イエスに罪を負わせることについて人が何を言えるでしょうか?
ーーー>我々はアッラーが最高に慈悲深いかただと知っています。預言者であるアダムが許しを請い、それを拒絶するほどアッラーは慈悲深くないかたではありません。コーランの中にも何度も出てきます。
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
>
> > ポイント:彼らが預言者モハメッドを否定するのと同じように、彼らはモスリムもイエスを否定するものだと誤解している。
>
> ◇預言者ムハンマドを否定するクリスチャン、肯定するクリスチャン、どちらもいると思います。同様に、モスリムがイエスを否定していると誤解しているクリスチャン、理解しているクリスチャンどちらもいます。
ーーー>預言者モハメッドを預言者だと認識しているか、単なる偉人だと認識しているかの違いです。モスリムはイエスを否定すること絶対ありません。一部のクリスチャンのイエスの捉え方とは異なることは明らかで、その点で合意しないことはありませんが、イエスの存在自体は預言者としてとらえています。一部のクリスチャンはモスリムと同じく、イエスを預言者の一人だと理解している人もいます。
>
> > Sさん返答:モハメッドさんは大変素晴らしい人でした。しかし、イエスよりは素晴らしい存在ではない。
> > ポイント:預言者モハメッド出現の事はトーラ、インジルなどヒンズー教の教典にまで書かれているにもかかわらずそれを預言者だと認識しない。すなわち彼らは自分たちの教典を信じていない、その時点で背信をしている。
>
> ◇預言者とは認めていると思います。ただ「イエスキリストよりは素晴らしくない」と考えているのです。ムハンマドさんは自分を人間だと言っておられ、天使からの言葉を語った尊敬すべき方でしょう。しかしイエスキリストは十字架にかけられ罪をあがない、神と人間とを仲介した方と思われています。
> ヒンドゥ教の経典は沢山ありますがどこに書かれているでしょうか?
ーーー>預言者モハメッドを預言者だと認めているとすれば、イエスと同じくアッラーから使わされた預言者を別物扱いする必要があるでしょうか。預言者モハメッドも、預言者モーゼもアッラーの言葉を聞き、天使とも会話をしています。多くの奇跡も起こしています。イエスだけではありません。ヒンズーの教典に関しては以前に学者から話を聞いた事があるまでの知識ですので、どれかは知りませんが、機会がありましたら聞いておきます。
>
> > ポイント:4つの意見を合わせれば答えがでる???合わせてもそれが正確で真実であると、どうやって確証するのか。’プロパビリティー(仮定/可能性があるかないか)’を寄せ集めても、’プロバビリティー(仮定)のポッシビリティー(可能性)’を集めるだけであり、真実を見つけたことにはならない=真実ではない可能性もかなり高い。ということは、彼らの信仰は全て’仮定’に乗っ取ったものであり、真実に乗っ取ったものではない、ことが分かる。
>
> ◇そういう考えですと、イスラム教も預言者と名乗る人の言葉を信じているだけであって、仮定にのっとったものである、ということにはならないでしょうか。
ーーー>そうするとナポレオンの存在も、織田信長の存在もすべて仮定という事になりますが、それを知るすべは歴史を書き連ねてきた記録があり、彼の存在が明らかであり、ナポレオンが存在した事を見てもいないのに信じることができるのは揺るがない歴史の記録があるからです。それは別として、わたしの言っている仮定は、4つの違う出来事が書かれた本を集めて、そこに真理を見つけることはできない。という意味です。真実は必ず1つであり、仮定を4つ集めても真実にはなり得ない。

一字一句変えられることのないコーランがアッラーの存在の証拠です。アッラーの存在はそれだけではありません。我々の生活の至ところにかれの存在の証はあります。それを見つけられるか、見つけられないかはアッラーの意向によるものです。

> > わたしの質問:イエスは十字架で死んでいない。あなたの言う神がイエスが息子だと言うのならば、どの世界に自分の息子をそんなひどい目に合わせる親がいるのか?
> > Sさんの回答:(笑)(イエスが死んでいない、事に対して彼女は笑いました。)だからイエスの存在が尊いのだ。それが神の愛である。
> > ポイント:モスリムはイエスは今での第2の楽園にて生活しており、時期がくると地上に戻ってくることを知っています。最高に慈悲深い神が預言者をそんなひどい目に合わせる訳がない事も知っています。恐らく、第3者から見てもこちらの意見の方が道理的だと判断するでしょう。
>
> ◇この世には息子を殺す親もいます。親を殺す子もいます。最高に慈悲深い神は、世界で飢えている人々を餓死させ、イスラム教徒とキリスト教徒の間の争いを続けさせています。ですから預言者をそんな目に合わせることもありうるのではないでしょうか。
ーーー>アッラーは人間とは違います。過ちを犯す人間とは違います。
イスラム教徒とキリスト教徒の争い、イスラム教徒とユダヤ教徒の争い。。。とされている争いの根本は対外、宗教と関係のない所になります。パレスチナとイスラエルの戦いも、宗教戦争だとメディアでは言われていますが、実際は単なる政治であり、領土問題であり、宗教とかけ離れた理由で起こっているのが現実です。
アッラーが預言者を使わせる理由は、人々にアッラーの存在を伝えるためです。過去最初の預言者アダムから最後の預言者モハメッドまで、ずーーーっと同じ理由で使わされています。その預言者をわざわざ殺す、痛めつける、理由があるでしょうか。その前に戻って、罪を請うものを許す慈悲深いアッラーが存在することから、アダムの時代からイエスの時代まで引き継がれてきた全ての罪の存在がなくなりますが、そうすると、イエスが十字架に掛けられ、殺された理由がなくなります。

>
> > ポイント:歴代の預言者はアダムを始め預言者モハメッドまで124,000人存在しました。全て創造者、神の存在を人類に伝達するために使わされた預言者達です。それが、イエスを崇拝するべきだと伝えていたとしたら、生まれてもいない人間のことを信じないといけない、その時代の人々は何を信じてよいのか分からなくなるでしょう。この時点で彼女の理論は合理的でない事が分かります。答えが出なかった理由も分かります。
>
> ◇昔の人々は沢山の預言者の伝えた通りに神を崇拝すれば良かったでしょう。キリスト教では、神は当時の人々にイエスキリストを遣わし、イエスキリストを通して崇拝できるようにしてくれたと考えています。またイスラム教徒には預言者ムハンマドを遣わし、コーランを通じて神を崇拝できるようにされたと考えます。
ーーー>その通りです。預言者がアッラーの存在を人々に伝え、その預言者の伝えるがままに、人はそれに従う。一番最後の預言者が預言者モハメッドだから、その後に生まれてきた我々は預言者モハメッドの教えに従う。その前の預言者イエスではなく、最後の預言者に従っている。だけのことで、とても単純明快な解釈です。それが現在のモスリムです。イエスの時代にもし生まれていれば、預言者イエスの教えに従います。それがその当時のモスリムです。モーゼの時代も、ソロモンの時代も、ノアの時代もすべてそうです。当時の人は当時の預言者に従います。
>
> > Sさん意見:私たちは神の姿を知っている、似顔絵を書いたりする人もいるし、彼がどんな顔をしているか知っている。
> > わたしの返答:我々の言う全能全知の創造者、神は創造物に類似することなく、場所なしに存在し、始まりも終わりもない、永遠の存在である。その神を人間の制限のある頭脳で想像しただけの容姿で似顔絵を書くことは許されない。
> > ポイント:こればっかりは絶句しましたが、英語でもAlmighty Godと言いますが、そもそもAlmightyの意味を辞書で調べてみると、全能の、全能者、無限の力をもった、とあります。神の力を制限する事で、それが無限ではなくなること。イエスを信じなければ、死んでから一番最初に神に問われるのは’わたしの息子を信じたか’、だそうです。創造者が創造物を信じたか信じないか疑問の焦点にもなりませんが、これは彼女達の’神’に対する理解が全く誤ったものであるためです。
>
> ◇salamさんの仰る通り、Sさんは神をイエスキリストに限定しています。Sさんの知識がまだ浅いからです。しかしそう考えていないクリスチャンもいます。
ーーー>そうですね。
>
> イスラム教と、大部分のキリスト教は、キリストの神性(三位一体説)について真逆の考え方をしているので、決して相容れるものではないのですね。「あなたがた信仰する者よ,ユダヤ人やキリスト教徒を,仲間としてはならない。」
ーーー>今回のSさんは一部のキリスト教徒の考え方だと言う事は承知しています。かなりモスリムに近い考えを持っているキリスト教徒も知っています。
仲間としてはならない、は何も戦わなくてはならないという意味ではないですので、ご留意ください。最初から仲間になれないと、突き放せばせっかく真実を伝える機会があっても壁ができてしまって伝えられない。そうすると、イスラムにとっても良くない結果となってしますことから、最初から壁は作らないのがベストです。そうでなければ今回のようなディベートはできませんでしたからね。などなど、他にご質問ありましたらまたレスください。
Salam

タイトルRe^2: こんにちは
記事No1349
投稿日: 2009/03/22(Sun) 19:30
投稿者シンショーヴナ
横レス失礼します。

> > ヒンドゥ教の経典は沢山ありますがどこに書かれているでしょうか?
> ーーー>預言者モハメッドを預言者だと認めているとすれば、イエスと同じくアッラーから使わされた預言者を別物扱いする必要があるでしょうか。預言者モハメッドも、預言者モーゼもアッラーの言葉を聞き、天使とも会話をしています。多くの奇跡も起こしています。イエスだけではありません。ヒンズーの教典に関しては以前に学者から話を聞いた事があるまでの知識ですので、どれかは知りませんが、機会がありましたら聞いておきます。

私もこの話を聞きました。

「聞きました」というのはデマでも「聞きました」となってしまいますが、イスラーム系雑誌にもその箇所が明記して書かれて掲載されていました。残念なことにどの箇所なのだか覚えていないのですが。
さらに、インドのサンスクリット系(ヒンドゥー系?)学校に通っていたボーンムスリムのインド人も、「僕はサンスクリットが得意だったから、読んでわかった」と、その文章を原文に訳を添えて教えてくれました・・・口頭だったので今ここで説明できないのですが。

これを聞いたムスリムの仲間が、
「だったら何でヒンドゥーはムスリムにならないのか?」と聞いたところ、
彼は推測で
「ヒンドゥーの経典が読んで理解できるのは、ほんの一部。僧でも理解まではしていない人がいる。意味を理解した人(僧)が改宗したら、その人はヒンドゥーに殺されるだろう。あるいは、そういう僧は経を読んだり儀式で生計を立てていて、くいぶちがなくなってしまうから改宗しないのかもしれない」と言っていました。

その話の中で、ヒンドゥーの経典ではこの世は洪水から始まること(つまりヌーフの洪水以降の世界から始まる)、イエス様とマリヤ(マリヤム)様についての予言について書かれているそうです。
・・・記憶があいまいなのですが、やはりムハンマド様に関しても予言されている、と聞いた記憶があります。

タイトルRe^3: こんにちは
記事No1350
投稿日: 2009/03/23(Mon) 00:50
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
本の名前:Bhavishya Puran
Prati Sarag Parv III Khand 3 Adhay 3 Shloka 5 to 8

"A foreigner spiritual teacher will appear with his companions. His name will be Mohammad. Raja (Bhoj) after giving this Maha Dev Arab (of angelic disposition) a bath in the Panchgavya and the Ganga water (i.e. purifying him of all sins) offered him the present of his sincere devotion and showing him all reverence said, "I make obeisance to thee. O ye! The pride of mankind, the dweller in Arabia, Ye have collected a great force to kill the Devil and you yourself have been protected from the malecha opponents."

このBhavishya Puranという本は数ある中で未来を予言する本とされているそうです。そこに書かれている内容はともかく、預言者の名前は存在し、外国語を話す外国人がスピリチュアルティーチャー(預言者ともとれます)として砂漠の国(アラビア)からやってくる、彼の名前はモハメッドである、とあるようです。
この事はインド出身のDr ザキールナイクも彼のレクチャーの中で紹介していました。

また、別の本にはイブラヒーム、イブラヒームの妻サーラ、イスマイル、イシュハックの事なども書かれてあるそうです。
Salam

タイトルRe^4: こんにちは
記事No1364
投稿日: 2009/03/24(Tue) 12:13
投稿者ちゃる
参照先http://bhavishyapuran.blogspot.com/
ありがとうございます。参考になりました。
ヒンドゥ教の経典は沢山ありますが、これは普通のヒンドゥ教徒は読んでないと思います。
もう書き込みまないと思います。失礼しました。

タイトルRe^2: こんにちは
記事No1362
投稿日: 2009/03/24(Tue) 11:51
投稿者ちゃる
> ーーー>インシャアッラー、あなたが正しい情報を学ばれますように。まず、あなたのご質問はイスラムの基礎を学んだ者であれば誰でもすぐに理解できる内容ですが、あなたがまだ学習中だということですので、ご質問に対して説明していきたいと思います。これからも学習を是非続けてください。

すみませんが、もうイスラム教はいいって感じになってきました。コーランを読むとあまりにも排他的なことが書いてあるからです。
あとディベートにならないのでもう返信しません。

> ーーー>預言者モハメッドを預言者だと認めているとすれば、イエスと同じくアッラーから使わされた預言者を別物扱いする必要があるでしょうか。預言者モハメッドも、預言者モーゼもアッラーの言葉を聞き、天使とも会話をしています。多くの奇跡も起こしています。イエスだけではありません。ヒンズーの教典に関しては以前に学者から話を聞いた事があるまでの知識ですので、どれかは知りませんが、機会がありましたら聞いておきます。

イエスは神の御子であり、その点で預言者ムハンマドさんとは別物だと考えられています。

> ーーー>そうするとナポレオンの存在も、織田信長の存在もすべて仮定という事になりますが、それを知るすべは歴史を書き連ねてきた記録があり、彼の存在が明らかであり、ナポレオンが存在した事を見てもいないのに信じることができるのは揺るがない歴史の記録があるからです。それは別として、わたしの言っている仮定は、4つの違う出来事が書かれた本を集めて、そこに真理を見つけることはできない。という意味です。真実は必ず1つであり、仮定を4つ集めても真実にはなり得ない。

新約聖書を読まれましたか?4つの違う出来事が描かれているのではなく、ほとんど同じことが書かれています。
ナポレオンの存在については複数の証言があるから後世の我々はナポレオンが実在したと思っているのではないでしょうか。

> イスラム教徒とキリスト教徒の争い、イスラム教徒とユダヤ教徒の争い。。。とされている争いの根本は対外、宗教と関係のない所になります。パレスチナとイスラエルの戦いも、宗教戦争だとメディアでは言われていますが、実際は単なる政治であり、領土問題であり、宗教とかけ離れた理由で起こっているのが現実です。

パレスチナとイスラエルの争いは宗教抜きには考えられないと思います。それにそういった大きな戦争のことだけではなく、例えばSさんとsalamさんは争いましたよね。もし私が神だったら、即座に本当の知識を2人に与えたでしょうし、最初から人間に対して預言者を12万4千人も送り込まずにちゃんとした不死身の預言者を1人遣わしてその人を永久に生かしたことでしょう。そうすれば混乱は起こらなかったはずです。

> 仲間としてはならない、は何も戦わなくてはならないという意味ではないですので、ご留意ください。最初から仲間になれないと、突き放せばせっかく真実を伝える機会があっても壁ができてしまって伝えられない。そうすると、イスラムにとっても良くない結果となってしますことから、最初から壁は作らないのがベストです。そうでなければ今回のようなディベートはできませんでしたからね。などなど、他にご質問ありましたらまたレスください。

キリスト教徒もイスラム教徒も、それぞれの経典を真実としているなら、仲間にはなれないとわかりました。
でもsalamさんが一生懸命信仰してるのはわかりましたし、良いことだと思いました。

タイトルRe^3: こんにちは
記事No1372
投稿日: 2009/03/25(Wed) 15:45
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
あなたとディベートしているつもりは全くありませんでしたが。。。あなたはキリスト教徒でもないし、イスラム教徒でもないし、何を真実と理解されているのかすら知らないので最初からディベートするなど考えてもおりませんでしたよ。私がディベートと指したのは、キリスト教徒のSさんのみです。
それと別の方も質問されていますが、コーランが排他的とは具体的にどういう意味でしょうか。
私の伝えたいことはイスラムで一番重要な点’神の他に神はなく、預言者モハメッドが最後のかれの預言者である。’のみです。
あなたにはあなたの信じるものがあるでしょうし、私には私の信じるものがあります。
コーランを読まれてそれを否定するのであればアッラーがそう望まれたのでしょうし、アッラーにしかあなたの運命は分かりませんので私にはこれ以上伝える事もありませんので私もこの辺で止めておきます。
Salam

タイトルRe^3: こんにちは
記事No1397
投稿日: 2009/03/28(Sat) 22:02
投稿者moiz   <moizddin@gmail.com>
ちゃるさん

> キリスト教徒もイスラム教徒も、それぞれの経典を真実としているなら、仲間にはなれないとわかりました。

半分は正しい理解ですが、半分誤解しておられます。キリスト教徒の皆さんが大事にしている啓典は、ムスリムも大事にしないといけません。ムスリムにとって全人類がバヌー・アーダム(アーダムの子孫)であり全人類が兄弟であり仲間です。

タイトルRe: キリスト教徒とのディベート
記事No1392
投稿日: 2009/03/28(Sat) 04:08
投稿者piano
ムスリムがキリスト教徒とディベートを行う場合、心しておかなければならないことがあります。

1、「同じ神を崇拝していること」を肝に銘じる。

これを、心から感じているか、ただ、頭だけで分かっているかで方向性が大きく変わってきます。
頭だけで分かっている場合、気づかないうちに相手を軽蔑してしまっているからです。軽蔑を感じる相手は、話を理解しようとするのではなく、攻撃されたと感じて躍起になります。

2、「多くのムスリムがしっかりとクルアーンを理解していないのと同じように、多くのキリスト教徒も聖書をきちんと理解しているわけではない」ことを、念頭に置き、相手の宗教観に敬意を払う。

3、「高慢にならない」ように気をつける。
 
神は、かつて、ユダヤ教徒にこう言いました。「「自分を特別だ」としてはならない。」と。
ムスリムが、一番神に愛されているわけではありません。ムスリムが、一番真理を理解しているわけではありません。ムスリムが、一番人間的に優れているわけではありません。

タイトルRe^2: キリスト教徒とのディベート
記事No1393
投稿日: 2009/03/28(Sat) 11:43
投稿者うんむらふま   <ummu_rahmah@infoseek.jp>
こんにちは

横から失礼いたします。
教えてください。

例えば”宗教間の対話”のようなものも、ディベートと表現するのですか?
ディベートというもの(娘の高校の授業でありました)が、勝ち負けを決めるという印象が強くあります。

宗教間の相互理解をディベートと解してしまってよろしいのでしょうか?

よろしくご教授ください。





> ムスリムがキリスト教徒とディベートを行う場合、心しておかなければならないことがあります。
>
> 1、「同じ神を崇拝していること」を肝に銘じる。
>
> これを、心から感じているか、ただ、頭だけで分かっているかで方向性が大きく変わってきます。
> 頭だけで分かっている場合、気づかないうちに相手を軽蔑してしまっているからです。軽蔑を感じる相手は、話を理解しようとするのではなく、攻撃されたと感じて躍起になります。
>
> 2、「多くのムスリムがしっかりとクルアーンを理解していないのと同じように、多くのキリスト教徒も聖書をきちんと理解しているわけではない」ことを、念頭に置き、相手の宗教観に敬意を払う。
>
> 3、「高慢にならない」ように気をつける。
>  
> 神は、かつて、ユダヤ教徒にこう言いました。「「自分を特別だ」としてはならない。」と。
> ムスリムが、一番神に愛されているわけではありません。ムスリムが、一番真理を理解しているわけではありません。ムスリムが、一番人間的に優れているわけではありません。

タイトルRe^2: キリスト教徒とのディベート
記事No1396
投稿日: 2009/03/28(Sat) 21:50
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
> ムスリムがキリスト教徒とディベートを行う場合、心しておかなければならないことがあります。
>
> 1、「同じ神を崇拝していること」を肝に銘じる。
>
> これを、心から感じているか、ただ、頭だけで分かっているかで方向性が大きく変わってきます。
--->今回のこの特定な人物、Sさんとのディベートに関してだけ申し上げますが、この人の信じる神と、私の信じる神が同じ神でないことがそもそもの発端です。従いまして’「同じ神を崇拝していること」を肝に銘じる。’ことは不可能です。それをしてしまうと、私が背信者になってしまいます。別のキリスト教徒で私たちの神と同じ捉え方をしている人がいる事は知っています。その人たちに関してはあなたのおっしゃる事は間違いではないかと思います。全てのキリスト教徒に適応されるものではありません。


> 頭だけで分かっている場合、気づかないうちに相手を軽蔑してしまっているからです。軽蔑を感じる相手は、話を理解しようとするのではなく、攻撃されたと感じて躍起になります。
ーーー>お互い正しいと思っているうちはどちらも折れる所がないので話は平行線です。軽蔑するかしないかは、相手によると思います。攻撃されたと感じるのも、その人の話し方や話のもっていきようによります。
>
> 2、「多くのムスリムがしっかりとクルアーンを理解していないのと同じように、多くのキリスト教徒も聖書をきちんと理解しているわけではない」ことを、念頭に置き、相手の宗教観に敬意を払う。
ーーー>おっしゃる通りです。
>
> 3、「高慢にならない」ように気をつける。
>  
> 神は、かつて、ユダヤ教徒にこう言いました。「「自分を特別だ」としてはならない。」と。
> ムスリムが、一番神に愛されているわけではありません。ムスリムが、一番真理を理解しているわけではありません。ムスリムが、一番人間的に優れているわけではありません。
ーーー>モスリムが、なんとかというのではなく、この場合はイスラムが、と言い換える方が適切かと思います。違いはモスリムは人ですのでもちろん過ちを犯します。しかし、真実=イスラム=神に身を委ねる、に間違いはありません。預言者モハメッドが伝えてきたことだけがイスラムではありません、アダムの時代からノア、モーゼ、。。。イエス、モハメッドまでずっと同じイスラムです。アッラーの存在を伝えてきた預言者達は全てモスリムです。預言者たちを信じた人々も全てモスリムです。人の手によって書き換えられた本に書かれてることを信じると原本にある信仰と異なってくるのも当然です。’特別’や’高慢’という捉え方ではなく、異教徒ととらえるのは当然です。
Salam

タイトルRe^3: 繧ュ繝ェ繧ケ繝域蕗蠕偵→縺ョ繝繧」繝吶シ繝
記事No6255
投稿日: 2013/05/18(Sat) 18:48
投稿者Alisson   <janinemankin@yahoo.com>
参照先http://www.facebook.com/profile.php?id=100003433386343
The ability to think like that is always a joy to boheld

タイトル キリスト教徒との・・・
記事No1398
投稿日: 2009/03/29(Sun) 15:13
投稿者sloth
皆様、はじめまして

部外者(カトリックやアングリカンやイスラムが好きな、時々不可知論者の無神論者なので)ですが、昔、英国のD町というキリスト教の聖地に住んでいた時の経験を元に得た印象を少々・・・。

その町では、大学などでIslamic studiesやadvent of Islam以降のMiddle Eastern studiesや近現代の中東言語を研究している研究者達やその卵達は、
熱心なキリスト教徒であっても、イスラームをユダヤ教やキリスト教のようなセム的一神教のひとつであり、イスラム教徒を自分達の同胞であると認識していました。

けれど、Christian Unionという伝道活動もする熱心なキリスト教徒達の集まりにいた人達の場合は、事情がかなり違いました。

例えば、昔Kさんというヒトとdebateではなくdialogueをしたことがあるのですが・・・。

アブラハムが信仰している神を、イスラム教徒は信仰しているんだよ、と言ったら、とても驚かれてしまいました(笑)。
そこで、Kさんのイスラムへの認識が、一旦、書き直されました。
けれど、今度は、イエスをムハンマドに置き換えた宗教だと、誤解されてしまいました。イスラームにはキリスト教におけるイエス・キリストに相当するものは存在せず、
ユダヤ教のように預言者しかいないということを理解してもらえるまで、少々時間がかかりました。
次に、彼女が気になったことは、イスラム教徒のイエスとキリスト教徒への認識でした。私は、イエスはアブラハムやモーセやムハンマドのように、イスラム教徒に尊敬され愛されていると、
ただ、カレのコトを神と認識されることはなく、ヒトとして認識されているのだと答えました。そして、私が昔住んでいたエジプトのように、中東ではキリスト教徒も同胞として認識されている、と。
彼女は、イスラム教徒はキリスト教徒に強い敵意を持っているものだと思っていたらしく、とてもびっくりなさっていました。
昼食をとりながらの数十分の会話の中で、知識的にも英語的にもつたない私の説明で、彼女のイスラムへの認識はかなり変わりました。

ただ、私との会話の後も、彼女にとって、イエス・キリストは人でも神でもある存在でした。

また、私も、Kさんの質問に答えるだけでなく、神学部修士を取った彼女に質問をしました。

S:私は、イエス・キリストは神ではなく人だと思うんだけど?!
K:イエス・キリストは確かに人だけど、同時に神でもあるの。
S:聖書を読んだ限りでは、カレは自身を神であるとは自称していないし、また、聖書のドコにもカレをして神であると直接、明らかに述べている箇所がないじゃん。
K:彼は、信徒との会話の中で、自身が神であることを黙認しているわ。また、間接的に比喩のカタチでカレが神であると聖書は述べているのよ。
S:仏陀やがカレを愛する後世の人達によって神に祭り上げられてしまったように、イエス・キリストはカレを愛する後世の人達によって神に祭り上げられてしまったんじゃない?
K:イエス・キリストは、後世の人間によって神に祭り上げられたのではなく、カレが生きている時から神なのよ。
S:でも、一神教では、神道やヒンズーみたいな多神教と違って、神はthe God Almightyでimmortalなんでしょ?
じゃあ、イエス・キリストは何故、死んじゃったの?
K:ソレは、全人類の過去・現在・未来の全ての原罪を肩代わりして、私達全員を天国へ行くことが出来るようにするためよ。
S:う〜ん、でも、じゃあ、何故、磔にされたときに「神よ、神よ、何故私を見捨て給うか」といいながら、死んだの?コレは、イエスが神様とは別存在だからコソじゃないの?
K:磔の時に、カレは、一旦、神とは別の存在になって、人の身に戻ったの。そして、神とひとつとなって、カレは再生・復活を果たしたの。
S:イエス・キリストは人間で神の預言者ってゆーイスラム教徒の説の方が、無神論者の私には理解しやすいんだけど?
K:そうかもね☆でも、イエス・キリストは神なのよ。神様が貴方に教えてくれるときがくれば、自然と理解できるわ♪
S:でも、イエス・キリストにはマリアっていう親がいるじゃん。
全知全能の神様って、人間から生まれるもんなの???
K:確かに、カレは、生まれ落ちた瞬間は、ヒトだったわ。
でも、あるとき、神になったの。
そして、ヒトとして死んで、神として再生・復活を果たしたのよ。
S:んでもさ〜・・・、イエスも神で、アブラハムの神も神なら、神が2柱いることにならない???
K:ならないわ♪だって、イエス・キリストはアブラハムが信仰した神ですもの。

と、まぁ、他にも色々話した記憶があるのですが、思い出せないので・・・。Kさんとの会話は、思い出せたら、又、コメして補足するかもしれません。

また、Kさん以外のChristian Unionの方とも話をしたことがありますが、キリスト教は排他的だなぁ〜・・・と、思いました。
神学部学士過程1年生だか2年生のJ君1号(同名のオトコノコが何人もいたので・・・)と話をした時のことですが、カレはコプト教はキリスト教ではナイと、否定しました。
また、別のヒト(名前が思い出せない。カレは神学部には一度も所属したことのないコです)は、アリウス派やユニテリアン派は、キリスト教ではないと、言ってましたし・・・。

一方、知り合いのイスラム教徒の人達は、シーア派のヒトもスンニ派のヒトも、お互いにお互いのコトをイスラム教徒として認識していました。

それに、日本のクリスチャンが、ペットのお葬式を日本にあるカトリックやプロテスタントの教会に頼んだら断られたので、泣く泣く仏教のお寺へ行ってお葬式を頼んだって話も、聞きますし・・・。
(「七五三は教会でやるのに変なの???」って、この話を聞いた時には思いましたね〜・・・。っつーか、その前に、七五三を教会でやるって聞いた時にも、一神教なのに変なのって思いましたが。)
などなど、色んな体験のもとに、キリスト教はある部分ではとても狭量で非寛容な宗教なのだな、と、個人的には思っています。
(「まぁ、それもキリスト教をアンタが真に理解できてないからだから、気にするな。イエスの愛と恵みを受けていることを自覚できれば考えがかわるから」とクリスチャンの友人達には言われますが)

>debate, discussion, dialogueの違い
私も、最後のダイアローグの意味は、よくわかんないんですが・・・。
ディベート:自分の主張が間違ってて、相手の主張が正しかったとしても、相手を言い負かすこと。自分の主張が正しくて、相手の主張が間違っている時は、なおさら、そう♪
ディスカッション:相手を言い負かすための会話ではないもの。
相違点を見つけたりする時や、相似点や共通点をみつけたりする時、また、異なる立場動詞のものがお互いの差異を認めながらも共同作業で解決策を模索する時のもの。
ダイアローグ:相手を言い負かすための会話ではないもの。
ディスカッションと違って、発展性がなくてもいいもの、かな?
質疑応答も、コレのうちだと思う・・・。
ディベートとディスカッションの定義には自信があるけど、コレにはないな〜・・・orz。

タイトル不十分な説明になりますが・・・
記事No1399
投稿日: 2009/03/29(Sun) 15:34
投稿者sloth
私が、昔、神父様や修道女様達、<未来の牧師>達に聞いた話になりますが・・・。

アングリカンなどのキリスト教では、アブラハムやムハンマドが信仰した神と私達ヒトとの間にイエス・キリストという仲介者の存在が必要になります。

これは、唯一神が全知全能の絶対者であり、完璧な存在であるために、不完全な私達とは全然違う存在なので、仲介者の存在抜きには神のメッセージを理解することも出来ないし、神へ働きかけることも出来ない為なのだそうです。
そして、神はヒトの子を哀れまれ、彼らに自発的にいい方向へと歩んで欲しいと思ったから、人でもありながら同時に神でもある仲介者を人の世に送ったのだと。

他のことについては、また思い出したときに。

タイトルRe: キリスト教徒との・・・
記事No1400
投稿日: 2009/03/29(Sun) 17:21
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
Slothさん、こんにちは。
大変勉強になります。
キリスト教はたくさん分派があるんですね。違いを一つ一つ見るのも面白そうです。
私もご紹介いただいたSさん、Kさん間の対話によく似たものを何度か経験があります。結局私の中で、???という感じで終わるのがいつもの締めくくりなんですが、未だに理解できないのが、キリスト教徒の人は本が書き換えられたことを知っていながら、原本が隠されていることを知りながら、それでも書き換えられた本を信じる事に疑問を感じないのかと。もし疑問に感じるのであればそこを追求しようとする人もいるでしょうし、追求した暁には書き換えられたものに真実100%ではない事が分かる気がしますが、そこをたいていの人は無視するのでしょうか。どうなのでしょうか。ずっと疑問でした。私の知り合いにオーストラリア人の女性がいますが、彼女も’自称’キリスト教徒です。自称と言いますのは、カソリック(親がカソリックなので)です、とは言いますが、話を聞いてみると彼女は神は全能全知の神ととらえ、イエスも預言者と理解しています。しかも言い分は、ほとんどモスリムと変わらない理解をしているためこれは彼女独自の理解の仕方かもしれない、と私は思っています。なので’xxx'キリスト教というのに属さない人、という意味で自称です。また彼女によりますと、この私が話をしたSさんに対して、他のキリスト教徒からディベートされるだろう、と言っていました。彼女の考え方がキリスト教徒としても正しくないということのようです。

ちなみに、それぞれの言葉の意味ですが辞書で調べたところ、下記になります。ネット辞書のgoo辞書からの引用です。
Debate: 1. 討議{とうぎ}、討論{とうろん}、論議{ろんぎ}、議論{ぎろん}、論争{ろんそう}、熟慮{じゅくりょ}◆改まった場で、ある問題について論者が「賛成」と「反対」に分かれて交互に発言しながら議論すること。
2. ディベート
Discussion: 話し合い{はなしあい}、論議{ろんぎ}、討論{とうろん}、議論{ぎろん}、討議{とうぎ}、審議{しんぎ}、協議{きょうぎ}、論考{ろんこう}、考察{こうさつ}
Dialogue: 1. ダイアログ、会話{かいわ}、対話{たいわ}(の部分{ぶぶん})、対談{たいだん}、掛け合い、問答{もんどう}、話し合い{はなしあい}、やりとり
2. せりふ
今回ディベートという言葉を用いたのは、勝ち負けがどうという意向ではなく、真実を伝えるか伝えないかですので、お互い真実だと信じている事に対して私の信じる真実はこうで、あなたの信じる真実はこうで、どちらがどこまで理解できるか、に行き着くための論議でした。最終的にはSさんは、イエスの存在をもう一度考え直してみて、私は神の存在をもう一度考え直してみて、結局おんなじところなんですよ。伝えたかったのは。お互い納得することができなくて平行線で終わったのはお互い理解できなかった証拠なのでしょうけど。
Salam

タイトル蛇足です1
記事No1414
投稿日: 2009/03/31(Tue) 00:38
投稿者sloth
ご丁寧なレス、ありがとうございます。


>未だに理解できないのが、キリスト教徒の人は本が書き換えられたことを知っていながら、
原本が隠されていることを知りながら、それでも書き換えられた本を信じる事に疑問を感じないのかと。

う〜んと、在英時代の個人的な知り合いのケースの場合、キリスト教徒の人達は「聖典(タナッハと新約)が、根本のところが書き換えられたり、聖書の原本が隠されている」とは、認識していないように思えます。
「時代を経たり、翻訳から翻訳するなどして、細かいところが欠落してしまったり、ニュアンスが伝えきれなくなってしまった部分がある」とは思ってるみたいですが、でも、「主要な部分や一番大事な部分は、きちんと、伝えている」と思っているみたいです。

で、トーラーやナビーム、フトゥビーム等の旧約聖書の全てが、イエス・キリストを「神の子」や「救世主」であると立証している、と、思っているみたいです。新約については、言うに及ばず(笑)☆

旧約ならともかくとして、新約については、書き換えられていると認識しているキリスト教徒には、あまりお目にかかったことがありません。(まぁ、私の世間が狭い所為なんですけど(笑) )


>キリスト教の宗派
そうですね、だいたい4つくらいの宗派があります。
カトリックとかカソリック、旧教と呼ばれる西方教会。
オーソドックスとか正教と呼ばれる宗派。
旧教から分かたれたプロテスタントとか新教と呼ばれるもの。
また、正教から分かたれた単性説派や非カルケドン派などEastern Christian Churches(コプト教はコチラに入ります)。

あと、これら主要キリスト教派の他に、
キリスト教史の初期に異端とされてしまったアリウス派や、近現代に生まれたプロテスタント系のユニタリアン派などのマイナーな宗派もあります。

これらの宗派は、キリストの神性や人性についての解釈や、カレの生母に対する解釈、教会組織の必要性に対する考えが異なったために分かたれたものですので、
どのクリスチャンと話をしているかで、大分会話の内容が変わってくるかもしれませんね。


>debete,discuss
英和辞書だとdebateとdiscussの間にさほど差はありませんが、
英国のAcademic Englishの場合には、先のコメで述べたような確固たる違いがあります。(例文:とある事故の原因をディベートした後、事故の再発を防ぐためのディスカッションをした。)

一般的には、debateもdiscussも同じように使われてますケドね(爆)☆

タイトルRe: 陋閭Jウ縺ァ縺呻シ
記事No6217
投稿日: 2013/05/17(Fri) 07:06
投稿者Honney
参照先http://www.bing.com/
Okay I'm convinced. Let's put it to actoin.

タイトルRe: キリスト教徒とのディベート
記事No1404
投稿日: 2009/03/30(Mon) 04:33
投稿者piano
『 主は仰せられた。
「この民は、口先で近づき、唇で私を崇めるが、その心は私から遠く離れている。
彼らが私を恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことに過ぎない。
それ故、見よ。
私はこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」』

「この民」とは、誰か?

自ら、「唯一神の崇拝者」「唯一神の僕」「唯一神の帰依者」「唯一神の証人」「唯一神の奉仕者」、、、、、と言っている者たちです。

この言葉を伝えた預言者イザヤは、その民からのこぎりで切り裂かれ殺されました。





では、全ての預言者が伝えたメッセージとは一体何なのでしょうか?

それは、
『全てのものの上にあり、全てのものを貫き、全てのものの内におられる、全てのものの父なる神は、一つ』ということです。

この言葉を書き残した預言者パウロも、皇帝ネロの時代に殺されました。





ユダヤ教徒、クリスチャンやムスリム、、、、、で、「神の唯一性」の『奥義』を理解して悟っている(隠された物事に気がつき、感じること)人は、非常に少ないのです。

『彼らは、神を知っていながら、その神を崇めず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなったからです。、、、、
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、その為彼らはしてはならない事をするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪と貪りと悪意とに満ちた者、妬みと殺意と争いと欺きと悪巧みとで一杯になった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえの無い者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛の無い者です。
彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。』




クルアーンにも出てくる『福音』の意味は、福音の中に説明されています。
『福音は、ユダヤ人を始めギリシャ人にも、信じる全ての人にとって「救いを得させる神の力」です。
福音の内には、「神の義が啓示」されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。』


「信じる人全て」、、、、一体、何を信じる人でしょうか?



それは、
「神の唯一性」です。

『人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による、、、。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか?異邦人にとっても神ではないでしょうか?
確かに、神は異邦人にとっても神です。
神が唯一ならば、そうです。』福音より


もし、自分が「唯一神信仰者」であると自称し、自分たちだけの神であると考えるなら、それは、神の唯一性を理解し悟っていることになるでしょうか?

『神の御心』を知っていると言えるでしょうか?



預言者ムハンマドの言葉より
『あなた方は、あなた方より前の人々の慣わしに寸分違わずしたがっており、もし彼らが、とかげの穴に入るならば、あなた方もそれについていくだろう』

「神の唯一性」への無理解、そして、自分は理解していると言う自惚れと高慢は、正に現実となっています。


イスラム教徒だけの神ではありません。クリスチャンだけの神でもありません。ユダヤ教徒だけの神でもありません。

日本人の神でもあります。

日本は、「八百万の神」と言われますが、日本人は、『なぜ、そうなったか?』を、理解していません。

また、日本の古代の書物の中に、『独り神』という記述があることを。




『多くの神や多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、全てのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。』福音より

自分を『世界中に、たくさんの神々がいることを信じ、その中の○○語の神一つを選び信仰しているから、唯一神信仰者』であると考えますか?
それとも、
『人間の理解不足や誤解から多神が存在しているが、
元来、神は一つ』であると考えますか?

タイトルRe^2: キリスト教徒とのディベート
記事No1413
投稿日: 2009/03/30(Mon) 23:19
投稿者うんむらふま   <ummu_rahmah@infoseek.jp>
とても参考になりました、ありがとうございました。

いくつか質問させてください。

> 「この民」とは、誰か?

イザヤは旧約の中の預言者ですが、ユダヤ教の伝承によれば「ユダ王の一族に属する」ようですね。バビロン捕囚を予言したのでしたね。したがって「この民」とは、ユダヤの民のことになりますか?
>
> 自ら、「唯一神の崇拝者」「唯一神の僕」「唯一神の帰依者」「唯一神の証人」「唯一神の奉仕者」、、、、、と言っている者たちです。
>
> この言葉を伝えた預言者イザヤは、その民からのこぎりで切り裂かれ殺されました。


> この言葉を書き残した預言者パウロも、皇帝ネロの時代に殺されました。

パウロは預言者という認識ですか?使徒であるかの問いはキリスト教の中で諮られたようですが…


> クルアーンにも出てくる『福音』の意味は、福音の中に説明されています。

クルアーンの中の『福音』にあたる、アラビア語は何ですか?
福音書(インジール)とは違うのですね…


> 預言者ムハンマドの言葉より
> 『あなた方は、あなた方より前の人々の慣わしに寸分違わずしたがっており、もし彼らが、とかげの穴に入るならば、あなた方もそれについていくだろう』

典拠とするのは、どのハディースですか?


> 日本は、「八百万の神」と言われますが、日本人は、『なぜ、そうなったか?』を、理解していません。
>
> また、日本の古代の書物の中に、『独り神』という記述があることを。

天照大神?ですか…日本人の宗教観は、無神論や汎神論ではなく確かな多神崇拝ではないでしょうか。


> 自分を『世界中に、たくさんの神々がいることを信じ、その中の○○語の神一つを選び信仰しているから、唯一神信仰者』であると考えますか?
> それとも、
> 『人間の理解不足や誤解から多神が存在しているが、
> 元来、神は一つ』であると考えますか?

”創造主”としての神は、一者である以外にありません。神は唯一であると信じる者はムスリムと呼ばれます。(クルアーンにあるとおりです)

しかし、信仰者とはいかなるものを言うかに関してはさまざまな論議がありました。

神の唯一性(タウヒード)は、宗教の要です。これを学ぶことは必然とされることだと思います。

では以上、お教えください。
よろしくお願いいたします。

タイトルRe^3: キリスト教徒とのディベート
記事No1423
投稿日: 2009/04/01(Wed) 03:58
投稿者piano
あるユダヤ人は、アメリカのニューヨークで育ちました。その人の町は、半分くらいがユダヤ人でしたが、その人の家庭は、ユダヤの慣習や伝統を熱心に守ってはいなかったそうです。ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)には、数回くらいしか行った事が無いし、聖書のことも、よく知らないと。ただ、「新約聖書は読むな!」と言われていたそうです。また、「クリスチャンになったりしたら、迫害される」と。ユダヤ人社会では、一般に、クリスチャンになったら、家族から捨てられるそうです。

そのユダヤ人は、成人して日本で就職しました。その人の上司は、クリスチャンで、ユダヤ教に興味がある人でしたが、当の本人は聖書のことをあまり知らない。ただ、大学時代に学んだ仏教などの方が知っている。

そのユダヤ人は、「私は、ユダヤ人ですから、新約聖書や預言者イエスに対して抵抗がありました。」と。でも、「イエスの時代、ユダヤ人がクリスチャンになっている」という、事実を熟考した時、『目からうろこ』状態になったということです。

そして、そのユダヤ人は祈りました。
「神様、あなたは私たちユダヤ人の神様です。そして本当の神様です。もし新約聖書を読んでイエス様が本当にメシアであれば、私にそのことをはっきりと示すことができるのではないですか。」


 さて、なぜ、私がそのユダヤ人を例に出したかと言うと、今のムスリムも似たような状態になっているからです。

1、『「聖書は改ざんされている」から、読むな!読む価値なし!!!』としている人があまりにも多い。

2、他宗教に対する「無知から来る」偏見と、抵抗感、及び優越感

3、「神の唯一性」の理解の欠如



ところで、私に神道の友人らがいますが、その人は、「神様は、唯一」と、言っています。以前、話の中でイスラムの話題になり、「その人の信じるアッラーの神が、、」と言いかけたので、私が、すかさず「神様は、唯一なんだよ。そうでしょ?アラビア語で神様を、アッラーと言うだけでしょ?」と言うと、「あっ!!!そうだった。そうだった。そうだよね!」と、言いました。

「神の唯一性」を学んでいるにも関わらず、うっかり、「別物の神」と考えてしまうのです。

別のクリスチャンの友人は、毎日のように聖書を読んでいます。その人も、「神は唯一」と知っています。でも、「ヘブライ語読みの神の名」に非常なこだわりを示しています。その人は、ユダヤ教とキリスト教は同じ神を崇拝していることは知っています。その人に、「アラビア語では、それをアッラーと言い、ヘブライ語ではヤーウェ、または、エホバと言います。そして、イスラム教徒と同じ神ですよ」と言ったら、非常にビックリしていました。

「自分たちだけが唯一の神を唯一の正しい神の名の呼び方で、そして、唯一の方法で崇拝している。他の宗教や宗派は間違いだらけ。他宗教は、悪魔の影響!」と、心底信じています。だから、非常にビックリするのです。

「神の唯一性」を知りながら、理解できていないのです。神は、特定の集団を差別あるいは、ひいきされる方だと感じているように見受けられます。

色々な宗教との対話は、非常に楽しく、有意義です。いつも時間がアッという間に過ぎてしまいます。また、「神は唯一」と知っていて、神が慈愛に溢れている方というのを体得していればしている程、その人は親切で慈愛に溢れています。

私は、まだまだ未熟者です。

ところで、そのクリスチャンに、「神の唯一性」を説明するために、

1、「ユダヤ教とキリスト教、イスラム教は、アブラハムの宗教」であると、伝える。

2、アブラハムの時代、『彼だけが唯一神の信仰者ではなかった』ことを聖書の中の部分を指し示して伝える。これは、「神からひいきされている」と考える人にとって受け入れ難いことですが、非常に重要です。これも、その人に伝えた時、ビックリしていました。

『 アブラハムは、サレム(シャレム)の王メルキゼデクより、祝福されました。
「祝福を受けよ。アブラム(神からアブラハムと名乗るように言われる以前の名)。
天と地を造られた方、いと高き神より。
あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ!!」

サレムの王を訳すると、義の王であり、平和の王です。彼は、いと高い神の祭司、優れて高い神の祭司でした。

また、「イエスはメルキゼデク王の位に等しい大祭司」とあります。

族長であるアブラハムでさえ、戦利品の十分の一をサレムの王メルキゼデクに渡しました。』
 旧約と新約より


  とても悲しいことですが、『聖書を読むこと』や『聖書を読んだことのある人』を軽蔑したり、疎んじたりするムスリムがいるというのを聞いたことがあります。

 中世時代、ヨーロッパでは、上流階級者や聖職者たちは、民衆が聖書を読み賢くなることを嫌がりました。彼らの悪行がばれないように。同じことみたいです。「歴史は、繰り返す」です。

 中には、「聖書はかいざん」されていると言う人もいますね。
預言者エレミヤは、聖書の中で、その事を指摘しています。ユダヤ教徒、キリスト教徒の持っている旧約聖書の中にあります。クルアーンの中にもありますネ!

 でも、「アッラーは、お優しい方」です。そんな、放っておくわけ無いではありませんか?

 読んでみたら、お分かりになると思いますが、「神の唯一性」は、全くぶれておりません。そして、「アッラーが、慈悲あまねく慈悲深いお方」であるということも。

 問題は、聖典にあるのではなく、聖典を持っていても、「理解しようとするか、理解したか」という、人間側の問題なのです。

タイトルRe^4: P.S
記事No1424
投稿日: 2009/04/01(Wed) 05:26
投稿者piano
旧約聖書に書かれており、「この民」とは、ユダヤの民のことです。
次に、パウロについてですが、かれは、新約聖書の中にある福音書(アラビア語では、何と言うのか詳しくないので分かりません)の中に、『「啓示」をうけた』ことが書かれています。また、預言と異言、また、使徒についての説明が福音の中でなされています。

「御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。

預言する者は、教会の徳を高めます。

私は、あなた方が皆、異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなた方が、預言することを望みます。もし、異言(自分の徳を高める宗教の話)を話す者が、その解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者の方が勝っています。、、、、

異言を語る者は、それを解き明かすことが出来るように祈りなさい。、、、、

異言は、信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は、不信者でなく、信者のためのしるしです。
ですから、もし、教会全体が一箇所に集まって、皆が異言を話すとしたら、初心の者とか信者で無い者とかが入ってきたとき、彼らは、あなた方をキチガイと言わないでしょうか?

しかし、もし皆が預言をするなら、信者でない者や初心の者が入ってきた時、その人は皆の者によって罪を示されます。皆に裁かれ、心の秘密が露にされます。そうして、神が確かにあなた方の中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
、、、、、、
預言者たちの霊は、預言者たちの霊に服従するものなのです。

それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。、、、、、

私は、使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、神の教会を迫害したからです。

ところが、神の恵みによって今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、無駄にはならず、私は他の全ての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは、私ではなく、私にある神の恵みです。」福音より





また、ハディ−スですが、<傑出した者たちの章>の前あたりです。今、手元にないので、日本語訳の3巻のうちのどの巻で、何ページかをお伝え出来ません。申し訳ありません。
 
その前に、
預言者ムハンマドの言葉として、
「かつてのイスラエルの民は、預言者達に治められており一人の預言者が死ぬと、他の預言者が後を継いだが、私の後には預言者というものは無く、ただ、代理人がいるだけで、その数は多くなるであろう」

だから、

「彼らのそれぞれとの約束を守り、彼らに対する義務を果たせ。アッラーは、彼らに与えた指揮権について、責任を問うであろう」

という、ハディースがありました。その後には、

『以前、ある人が傷を受けたとき、その痛みに耐えかねて、小刀で手を切り落とすと、血が流れ続け、遂にその人は死んだ。これについて、いと高き神は「この人間は、私が定めた死の時期を勝手に早めたので、天国に入ることを禁ずる」と言われた』

という、ハディ−スがあったと思います。

タイトルRe^5: P.S
記事No1425
投稿日: 2009/04/01(Wed) 15:24
投稿者SULTHONI   <otani_shin@yahoo.co.jp>
Assalamu'alaikum wr wb

自分は東南アジアのイスラム圏に住んでいるものです。
他教徒との接触について色々書かれていますが、ついていけませんので自分のイスラム指導者の教えと違う点だけを記させて頂きます。

> 1、『「聖書は改ざんされている」から、読むな!読む価値なし!!!』としている人があまりにも多い。

先ず、聖書が人間によって改ざんされていることは知れ渡っておりキリスト有識者も認めている事実です。
聖クルアーンにもあります。

5-15. 啓典の民(ユダヤ,キリスト教徒)よ,使徒(ムハンマド)が正にあなたがたの処へ来た。あなたがたが啓典(律法,福音)の中の隠してきた多くのことをあなたがたに解明し,また多くのことをそのままにした。アッラーからの御光と,明瞭な啓典が今正にあなたがたに下ったのである。

57-27. それからわが使徒を,かれらの足跡に従わせ,更にマルヤムの子イーサーを遣わし,福音を授け,またかれらに従う者の胸に博愛と慈悲の情を持たせた。だが禁欲の修道院制は,かれらが自分で作ったもので,われがかれらにそれを指示してはいない。アッラーの喜びを得たいばかりにしたことだが,かれらはそれも守らねばならないようには守っていなかった。それでわれは,かれらの中の信仰する者には報奨を与えた。だがかれらの多くの者はアッラーの掟に背く者たちであった。

ニュアンスの違いだけかも知れませんが、
「一般信者は見ない方が良い。何故なら、人によって変えられた箇所が何処かはっきりしない聖書を読むのはある程度の有識者でなければ危険」と理解しています。

> 2、他宗教に対する「無知から来る」偏見と、抵抗感、及び優越感

上と同様に、一般信者が他宗教を勉強するのは次の段階もしくは、有識者になる必要のない人は他宗教は知らなくても良いように思います。

> 3、「神の唯一性」の理解の欠如
> 「神の唯一性」を知りながら、理解できていないのです。神は、特定の集団を差別あるいは、ひいきされる方だと感じているように見受けられます。

欠如しているとは思いません。ALLAH(SWT)は全ての人間にご慈悲を与えて下さいます。それを感じるか受け取るかはその人によることをイスラム教徒(無知でない人を除いて)は理解しています。

>  読んでみたら、お分かりになると思いますが、「神の唯一性」は、全くぶれておりません。そして、「アッラーが、慈悲あまねく慈悲深いお方」であるということも。
>  問題は、聖典にあるのではなく、聖典を持っていても、「理解しようとするか、理解したか」という、人間側の問題なのです。

その部分は改ざんされていないのかも知れませんが、上記同様に有識者でない一般信者は判断できませんので見ない方が良いと思います。
変えられている箇所がはっきりすれば、オリジナル部分だけは聖典の価値はあるでしょうが、その区別は不可能ですので、聖書は聖典としての価値はなくなっていると言うのが指導者の見方です。

これは如何お考えでしょうか?

3-85. イスラーム以外の教えを追求する者は,決して受け入れられない。また来世においては,これらの者は失敗者の類である。

我々の義務はイスラムを他教徒に知らせることです。受け入れるかは先方次第です。議論は平行線になる場合が多いように思います。
本当はALLAH(SWT)のご慈悲を受け入れるかなのでしょうが。

因みに、生活習慣で大切なことは3Fです。
@FOOD
AFASHION
BFUN

これらがイスラムの教えに反するようですと信仰の妨げになりますので、遠ざけるように教えられています。

例えば、贅沢な飲食は必要ありません(たまの息抜きは別)。
裸同然のファッションは何処から来ましたか?イスラムの教えを崩そうとしているかのようです。
娯楽も同様ではありませんか?ギャンブル、酒、風俗、テレビゲームなどは人の生活を腐ったものに誘うものではないですか?

これらの悪行はシャイターンの誘いにのった人やシャイターンの仲間の人間が作ったものと理解しています。イスラムの教えはこれらの悪行を遠ざけること、関与しても強い信仰心を持ち続けること、等だと思います。

脱線しましたが、皆様の信仰心が高まりますように、Amin。

Wassalam

タイトルえっと〜???
記事No1429
投稿日: 2009/04/02(Thu) 02:07
投稿者sloth
>1、『「聖書は改ざんされている」から、読むな!読む価値なし!!!』としている人があまりにも多い。

えっと、この間発掘されたユダのゴスペルとかについては、どのようにお考えでしょうか?
改ざん・・・とまでは行かなくても、「ユダのゴスペル」やアリウス派的考えのように、今のキリスト教の体制にする為に切り捨てられたモノは沢山あると、思います。

それから、知人のムスリム達は「聖典はクルアーンだけダケド、ハディースや聖書などの参考書を読むことも大切なんだ」ってよく言ってましたよ♪
「タナッハや新約聖書を読むな」というイスラム教徒の方達もいますが、
クルアーンを学んだアトにという条件はつきますが新旧の聖書を学ぶことを大切だと思っているイスラム教徒のの人達も、結構いますよ♪♪♪

キリスト教徒だって、喩伽論やクルアーンばかり学んで新約をあまり学ばないってコトはないでしょう?!
キリスト教徒が一番重点的に学ばなければいけない聖典が新約なのと同じように、イスラム教徒にとって一番重点的に学ばなければいけないのがクルアーンなダケなのだと、経験から、そのように思います。


>2、他宗教に対する「無知から来る」偏見と、抵抗感、及び優越感

これは、イスラーム独特ではないと思います。
仏教の人も、キリスト教の人も、イスラム教の人も、この点では50歩100歩に、見えますね。

先にあげた、神学部で学問を修めたプロテスタント系evangelicalな方々の場合、キリスト教のことは物凄くご存知でしたけど、仏教のこともイスラームのことも、ほとんどご存知なかったですよ(笑)。
で、まぁ、プロテスタント系evangelismの人達について言えば、イスラームに大しては、偏見と被害妄想を、仏教に対しては偏見と優越感を見せていましたけど(笑)。

イスラームや仏教の人の他宗教へのリアクションも、私から見たら似たようなもんだし・・・。(イスラームやキリスト教を良く知っている仏教のお坊さん(日本人)って、あまり聞きませんしね〜・・・。で、他宗教をよく知らなくても、仏教が一番って、悪気ナシに太鼓判おしてくれます☆)

それに、どの宗教の人も、「無神論なんて信じていて、信仰の道に導かれていないなんて、なんて愚かでかわいそうなひとなんだろう・・・」って私のコト、皆さん憐れんでくれますよ(笑)
(このように憐れんで下さる方々は、大抵私に対して好意的な方達ですね)。
そうでなければ、バチアタリな遠ざけるべき悪徳扱いされるかの、どっちかです
(コチラの方々は、私に対して友情などの特別の感慨を持たない方々ですね)。

まぁ、憐れまれることも敬遠されることも、しょうがないことですけどね〜☆
(わたしは、自分のコトをかわいそうなヒトとは思ってないんですが、でも、このように見られていることにはなれました。
とりあえず、他宗教の人たちを憐れむ人々は、他宗教の人達を侮辱したいのではなく、他宗教の人達に友好的な人々なのだ、ということは、今では理解しています。
優越感に溢れているように、見えてしまう時もありますが)


>3、「神の唯一性」の理解の欠如

う〜んと、日本人の場合は、<××の神様・・・>という言い方が身に染み付いてしまっているから、仕方が無いとおもいますよ。
<○○の神様・・・>という表現をすること=「神の唯一性の理解の欠如」では無い、と思います。(それ以前に、神道は多神教だったような気が・・・。神の唯一性を理解してるだなんて、先祖代々神道なダケな人なんだろうか???)
その人が、本当に神の唯一性を理解しているか否かという問題は、challengeしてこない限りは、外からはかるような問題ではないと思いますが。

それよりも、ユニタリアン派の某セクト以外のキリスト教での神の唯一性に対する考え方が、何度説明されても私には謎です(イエスとか聖霊とか・・・)。


>アブラハムが信仰した神の呼び方

アラブ人だと、ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も、アッラーとかラッビナー(われらの主)とかアッラフンマ(神)とか言ってましたね〜・・・。

で、アッラフンマ(神)に相当するヘブライ語がエロイヒムで、
ヤハウェやエホヴァのようなテトラグラマトンはas soon as possibleをASAPと呼ぶような省略形であって、神の名前では無かったような???

マリアの息子をイエスと呼ぶのか、メシアとかハリストスとかキリストとか、カレのコトをどのように呼ぶのか、また彼の母をどのように呼ぶのかといった神学上の大問題と違って、
これら様々な「唯一神」の呼び名は、タダの語学的な、テクニカルな枝葉の問題に見えるんですけどね☆


キリスト教もイスラム教も好きな、でも、完璧に部外者な意見ですけど(笑)☆

タイトルRe^5: P.S
記事No1428
投稿日: 2009/04/02(Thu) 01:50
投稿者MI
パウロについてですが、預言者イエス(AS)と預言者ムハンマド(SAW)の間には預言者はいないというハディースがあります(日訳サヒーフムスリム第三巻359ページ)。



pianoさんが紹介されたハディースですが、日訳サヒーフムスリムだと第三巻588ページに載っていました。

アブー・サイード・フドリーは伝えている

 アッラーのみ使いは、「あなたたちは、ほんの僅かずつ進んでゆき、あなたたち以前の者らと同じ轍を踏むことになるであろう。たとえば、もしも彼らがとかげの穴に入ろうとしたならば、あなたたちも彼らに従うことだろう」といわれた。それに対し、私たちが「み使い様”以前の者ら”とはユダヤ教徒やキリスト教徒のことですか」というと、み使いは「彼ら以外にだれがあるのですか」といわれた。

タイトルRe^6: P.S
記事No1433
投稿日: 2009/04/02(Thu) 23:03
投稿者うんむらふま   <ummu_rahmah@infoseek.jp>
 MIさん、お礼が遅くなりました。

調べていただいてありがとうございました!

何でも自分で調べなければいけないと思いながら…早速のご教授感謝いたします。

 







> パウロについてですが、預言者イエス(AS)と預言者ムハンマド(SAW)の間には預言者はいないというハディースがあります(日訳サヒーフムスリム第三巻359ページ)。
>
>
>
> pianoさんが紹介されたハディースですが、日訳サヒーフムスリムだと第三巻588ページに載っていました。
>
> アブー・サイード・フドリーは伝えている
>
>  アッラーのみ使いは、「あなたたちは、ほんの僅かずつ進んでゆき、あなたたち以前の者らと同じ轍を踏むことになるであろう。たとえば、もしも彼らがとかげの穴に入ろうとしたならば、あなたたちも彼らに従うことだろう」といわれた。それに対し、私たちが「み使い様”以前の者ら”とはユダヤ教徒やキリスト教徒のことですか」というと、み使いは「彼ら以外にだれがあるのですか」といわれた。

タイトルRe^5: P.S
記事No1430
投稿日: 2009/04/02(Thu) 13:46
投稿者うんむらふま   <ummu_rahmah@infoseek.jp>
お返事ありがとうございました。

少し調べてみましたので、またお話させてください。

福音書(al-injil):新約聖書のなかで直接にイエスが語った言葉を意味するが、クルアーンでは、キリスト教の聖書の意味で用いられる。原語のインジールは、ギリシャ語のeuangelionがエチオピアを経由してアラビア語化されたものである。―イスラーム辞典より

啓示:唯一神が預言者を選んで人間にことばを与えること、また、そのことば。イスラームにおける啓示は、ムハンマド(彼の上に祝福あれ)のことばではなく、神がアラビア語で語ったことばそのものである。啓示は天に保存された書板(ラウフ・マフフーズ)のアラビア語版である。このような書板概念は、旧約聖書にも見受けられる。(略)啓示に類似したことがらにイルハームがある。これは照明ないし照明体験において一種の直観知を得ること、あるいはその直観知を意味する。通常の認識によらない知識という点で共通するが、預言者に与えられる啓示とは区別される。―イスラーム辞典より

預言者:啓示された神の言葉を預かる者。旧約聖書でいうナービー(ヘブライ語)に相当するが、アラビア語の原義としては”知らせnaba”から、神について知らせる者とするほか、”屹立するnaba/最後のaは伸ばす”から転じて神に選ばれた(高位の)者などの説がある。預言者のなかでも、とくに天啓の法(シャリーア)をもたらす使命をもつ使徒(ラスール)がある。―イスラーム辞典より

パウロについて:
「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、」―ローマ人への手紙1-1
「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、」―コリント人への手紙第一1-1
「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、」―コリント人への手紙第二1-1
「兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。」「私はそれを人間から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。」―ガラテヤ人の手紙1-11・12
「私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも預言する者のほうがまさっています。」―コリント人への手紙第一14-5
「そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語るものなどです。」―コリント人への手紙第一12-28

以上から考えました。

預言:神の信仰に基づいて語る(神の言葉を語る者)
異言:明らかな信仰に未だ至らずに語る(人間の舌で語る者)

ちなみに、”パウロの回心”に至った経験〜ダマスコへの途上「サウル・サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と復活したイエス・キリストに呼びかけられ目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロ(パウロ)のために祈ると、目から鱗のようなものが落ちて目がみえるようになった。〜これも啓示という判断なのでしょうか。

いろいろ勉強になりました、ありがとうございました。

追記:先のハディース、ブハーリーの伝承集成から見つけました。
中巻‐p.215、”傑出した者達”の前”預言者達”の中にありました。

タイトルRe^6: P.S
記事No1436
投稿日: 2009/04/03(Fri) 03:23
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
皆様、大変興味深い部分を詳しくご説明いただきとても勉強になりました。
パウロは預言者でも聖人でもないと、以前ファトワを教えているシェイクが言っていたのを覚えております。子供の頃から嘘つきで有名で、三位一体を広めた張本人である。預言者イーサの昇天の後、登場しイーサの教えを広める者だと語りながら全く違う事を広めた者、だそうです。
調べれば調べるほど分かりますが、キリスト教の本は現在ある聖書の他にもxxxによってかかれたxxxという本が存在し、それには真実があったりなかったり、すごく不安定な情報が寄せ集まった感じがあります。そのため、キリスト教は何種類にも分かれるのでしょうね。
スブハンナッラー、コーランが1冊しかなく、一字一句変えられることなく保護されている意味が良くわかります。
2:106. われは(啓示の)どの節を取り消しても,また忘れさせても,それに優るか,またはそれと同様のものを授ける。アッラーは凡てのことに全能であられることを知らないのか。
Pianoさん、
正しい知識を持つ事、探る事、伝える事、コーランが正しい知識であることを信じる事が高慢や自惚れであれば、高慢で自惚れでないユダヤ教徒やキリスト教徒、多神教とは自分たちの教典の他から知識を得ようとせず、なぜコーランを学ばないのでしょうか。トーラや聖書が一番正しくコーランを読む必要がないと思っているからではないでしょうか。しかしコーランにはこう書かれてあります。
68:52. だが,この(クルアーン)こそは,万有のための訓戒に外ならない。
77:50. この(クルアーン)を差し置いて,どんな教えをかれらは信じようとするのか。
81:28. それはあなたがたの中,誰でも正しい道を歩みたいと望む者のためのものである。
2:121. われから啓典を授けられ,それを正しく読誦する者は,これ(クルアーン)を信じる。それを拒否する者どもは失敗者である。

我々一般のモスリムがコーラン以外の本を読まない理由、(他宗教を学ぼうとしたり、比較してみたりする意欲的なモスリムは別です。)は別の方もおっしゃっていますが、読む必要がないからです。
2:2. それこそは,疑いの余地のない啓典である。その中には,主を畏れる者たちへの導きがある。
2:91. かれらに向かって,「あなたがたは,アッラーが下されたものを信じなさい。」と言われると,かれらは,「わたしたち(ユダヤ人)は,わたしたちに下されたものを信じる。」と言う。それ以外のものは,仮令かれらが所持するものを確証する真理でさえも信じない。言ってやるがいい。「あなたがたがもし信者ならば,何故以前アッラーの預言者たちを殺害したのか。」
2:111. かれらは,「ユダヤ人とキリスト教徒の外,誰も楽園に入いれないだろう。」と言う。それはかれらの(虚しい)望みである。言ってやるがいい。「もしあなたがたが真実なら,証拠を出して見なさい。」

先にも書きましたが、キリスト教の本をとっても真実がどこにあるかも分からない本を何冊も読むより、コーラン1冊を読めば真実が分かるのだから、わざわざ読む必要がないでしょう。それがあなたのいう高慢や自惚れであっても、真実であるコーランを差し置いて他の教典が正しいとは言えないので、それで結構です。アッラーのみがご存知ですから。また信仰心の向上はアッラーの存在を心と体で理解なしには、口先や頭で理解しているだけでは向上しません。従いまして、ここにいるモスリムは後者出ない事は確かです。毎日アッラーの存在を心と体で確認しながらアッラーに使えるのがアッラーに身を委ねる者です
2:146. われが啓典を授けた者たちは,自分の子を認めるようにそれを認める。だがかれら一部の者は,承知の上で真理を隠す。
68:8. それであなたは(真理を)否認する者に従ってはならない。

アッラーが我々をシェイターンからご加護くださいますように、我々に正しい情報のみを与えられますように、我々を正しい道へお導きになられますように、アーミン。
Salam

タイトルRe^7: P.S
記事No1437
投稿日: 2009/04/03(Fri) 05:02
投稿者piano
私は、仏教徒です。両親も仏教徒です。しかし、熱心な信者と言うわけではありませんでした。

私が、なぜ宗教について考えるようになったかは、さておき、、、。


仏は、何かと言うと、「全ての根源」です。『長者の譬え』で、仏が如何に人間に慈悲を与え、真理の道を歩んでほしいかが、表されています。

仏は、慈悲です。

『仏教も、素晴らしい宗教です』

ゴータマ=シッダールタは、仏の御心を伝えた者であって、自分のことを「神」とし、自分を崇拝とするよう言ったことは一度もありません。それは、イエスと同じです。彼が亡くなった後、人々が崇拝の対象としてしまいましたが。


 ところで、「こいつの背は低い。あいつは、目が細い。こいつは、目の色が自分たちの人種と違う。あいつは、デブだ、、、、、、、、」などと、自分と違う所を論じていく場合、どんなことになるでしょうか?

必ず、『話は平行線になるばかりか、敵意を生み、憎悪や軽蔑へと発展』していかないでしょうか?
 
でも、人間は、神が創造された『神の作品』と捉えると、どうでしょうか?

宗教も、同じです。世界には、非常に多くの種類の言葉がありますが、意味の無い言葉など一つもありません。

『全ての根源』を表すものが、言語により多くの種類があります。

アラビア語の元をたどれば、「神の聖なる文字」

つまり、ヒエログリフになります。

ヒエログリフから、アラビア語とヘブライ語は生まれました。

 では、「アリフ」という、アルファベットですが、生命を意味する「アンク」が基になっていると言われております。

まず、一を表す線を描きます。

そして、「ハムザ」。これは、ヒエログリフでは、「神の手」を表すものとして描かれております。そして、「神から照らされる光」。


『神の大いなる慈悲』をこの「アリフ」は、表しています。

「アリフ、、、、、、私たちの神は、唯一である」

「ミーム」それは、人間にとって一番必要なもの、『いのちの水』を表します。

『私たちの神は、唯一』

この共通点から、他の宗教を見ませんか?

タイトルRe^8: P.S
記事No1440
投稿日: 2009/04/03(Fri) 16:40
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
pianoさん、私も以前は仏教徒でしたよ。母方は浄土宗、父方は真言宗です。学生の頃は高野山に行き色々坊さんに質問もしました。でも坊さんが私の質問に答えられなかったことに疑問があったり、いろんな本も読みましたが結局なんの回答も得られず、毎日仏壇の前で坊さんに教えてもらったお経を読みました。しかしそれから何も感じるものもなく、探求していたものも見つからず、次第に私の心から仏教は離れていきました。完全に忘れた頃、自分しか信じられないとか、無宗教だとか言うようになっていました。その時、イスラム圏の地にてコーランを手にしそこに探していたものの答えがざくざく出てきて、探求すればするほど、自分の心が神(その時は何を感じているのかはわかりませんでしたが、学習した後で神だと分かりました。)の存在を始めて’あ’といったら、’い’と帰ってきそうな位の距離(ものすごく近い)に感じました。私が何かを言ったら必ず聞いている、事も分かりました。お願いをすれば現実になるし、やっと私の心が休息の場所を見つけたような気がしました。それから、私の疑問に対する回答があったこのコーランが、神のものでない訳がない、これが真実でなくしてどこに真実があるというのか、コーランにも書かれてある通り、そこに書かれてある内容をすべて信じることができました。
これは私の体験の一例にすぎませんが、ここにいるほとんどのモスリムの人は元仏教徒の人が多いとお思いますよ。みんな同じような経験を経て今に至ります。中には仏教に詳しいかたも何人かいらしゃいます。
しかし、真実を見つけた今、神に導いていただいた今、以前の拝んでも拝んでも何も聞いてもらえない宗教に戻れるはずもなく、オリジナルから変形されている事から理解できる訳もありません。仏教との人に対してダアワする事もありますので、知識として勉強しようとは思いますが、そこまでです。これが本音です。
一つ、仏教徒の頃から疑問でしたが、ゴータマシッダルータが悟まえに、断食をしすぎて体が弱っていた時、小川の水をのみ、提供された食事をとったことがありましたよね。弟子達はそれをみて親分は過ちを犯したと離れていきましたが、その時ゴータマシッダルータは誰かに’もし中道を行くべきであるという私の考えが正しいのであれば、このボールを川の逆流へ流してください。’、そうしてボールが逆流したことから中道を行くということが正しいことである事が分かりました。この考え方はイスラムと同じです。誰かに聞きましたが、この誰かは、誰でしょうか。これを今の仏教とに聞いても他の仏陀だ、とか言いますが、神ではないでしょうか。今の仏教徒の本にはそのようには書いてませんよね。
Salam

タイトルRe^9: P.S
記事No1446
投稿日: 2009/04/05(Sun) 04:09
投稿者piano
私も、仏教の話をされていましたが、神(仏)だと思います。その他にも、そう感じる所が多々出てきますよね。ですから、そういった共通点から、深く互いに思索することが必要だと感じます。

「親鸞や、日蓮、イエスやムハンマドやモーセといった仏からのメッセンジャーが一堂に会したら、宗教戦争なんか無くなるのに。仏からのメッセージは、表現は違っても一緒なんだから」

と、語っている友人の仏教徒もいます。

私は、同士だと思ってお話しています。敵意はありません。

「主を畏れる者たちとは、幽玄界を信じ、礼拝の勤めを守り、また、われが授けた者を施す者、またわれがムハンマドに啓示したもの、また、あなた以前の預言者たちに啓示したものを信じ、また、来世を固く信じるものたちである」


この、「信じる」というのは、『信じて疑わない』という意味ですが、サラムさんは信じていらっしゃるのですか?ただ、「以前の預言者たちに啓示された」というのを、知るというのとは、随分違います。

『「世界には、たくさんの神々が存在している」ことを、信じている』ということは、「多くの神の中から、『アッラー(アラビア語の神)』を選んだ」ということになりませんか?

『唯一の神』のみが存在しているのに。


「使徒は、主から下されたものを信じる、信者たちもまた同じである。皆、神と天使たち、諸経典と使徒たちを信じる。私たちは、使徒たちの誰にも差別をつけないという。、、、、

経典の民の中にも、神を信仰し、あなた方にくだされたものを信じて神に謙虚に仕え、僅かな代価で神の啓示を売ったりしない者がいる。これらの者には、神の御許で報奨があろう。本当に神は清算に迅速であられる。、、、、

使徒よ、互いに不信心に競う者のためにあなたの心を痛めてはならない。彼らは口で「私たちは信仰する」というが、心では信じていない。

また、ユダヤ人(ユダヤ人とは、「神は唯一である」と言いながら、その本質を理解していない人全般の象徴です。宗教名や宗派に関係なく)の中には、虚偽を聞きだすことばかりに熱心で、あなたの所に寄り付かない者がいる。彼らは、その言葉を歪めて言う。

「もし、これが、あなた方に与えられたものと同じであると思うならば、受け入れなさい。だが、あなた方に与えられた者と同じでないならば、用心しなさい。」、、、、、、これらの者は、神がその心を清めることを望まれない者である。」

クルアーンだけでなく、聖典を読むとき、2通りの読み方があります。
   1、私は、「失敗者」ではないし、「不信者」ではないし、、、、、、『自分は、本当の信仰者』であると自惚れながら読む。→得られる教訓は狭いものとなる上、読めば読むほど高慢さで膨れ上がります。

   2、思索に思索を重ね、悔悟しながら読む


様々な言語で色々な表現がある『唯一の神』に誓います。

『私は、神を信じ、私たちに下されたものを信じます。また、アブラハム、イシュマエル、イサク、ヤコブと、諸支部族に啓示されたもの、と、モーセとイエスに与えられたもの、と、主から預言者たちに下されたものを信じます。彼らの間のどちらにも、差別をつけません。かれに、服従帰依します。』

タイトルRe^10: P.S
記事No1447
投稿日: 2009/04/05(Sun) 14:54
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>

> 様々な言語で色々な表現がある『唯一の神』に誓います。
>
> 『私は、神を信じ、私たちに下されたものを信じます。また、アブラハム、イシュマエル、イサク、ヤコブと、諸支部族に啓示されたもの、と、モーセとイエスに与えられたもの、と、主から預言者たちに下されたものを信じます。彼らの間のどちらにも、差別をつけません。かれに、服従帰依します。』
--->あなたはモスリムです。スブハンナッラー
私たちの預言者はアダムから始まって一番最後が預言者モハメッドです。全ての預言者を私たちは信じます。彼らは全てアッラー(唯一の神、創造者)から使わされたメッセンジャーですので、私たちもそれに従います。最後は預言者モハメッドですので、我々は彼に一番近い世代なため、彼の教えに従います。それだけです。我々がアブラハムの時代に、モーゼの時代に、キリストの時代に生まれていたら、その当時の預言者の教えに従います。でも預言者モハメッドの時代に生まれた私たちは彼の教えに従います。(例えが悪いですが、コンピューターでも新しいバージョンを一般の人は使いますよね、今の時代にウィンドーズXPやMEでなく、2005を使う人はいませんよね、アップデートバージョンを利用する、という意味です。)

あなたと同じ考え方が仏教では伝わっていないですよね。そうであれば、あなたは仏教とではないのではないですか?あなたがそう考えるだけなのか、仏教との教典にそうあり、他にもあなたと同じ考えの仏教徒が仏教徒として存在するのですか?私の知っている仏教にはそれは存在しませんでしたが。もしあれば素晴らしい事で日本にイスラムが伝わった証拠になり、(預言者モハメッドのずっと前の時代)その名残が今でもあるという事は元をたどれば同士が存在した事が分かります。アッラーは全ての民に預言者を送ったと言いましたが、その揺るぎない証拠となります。

全ての宗教が同じ根源からきている事は多くの人は気づいていても、実際にそれをプラクティカルに当てはめられないのは、それらの教徒の行動が伴っていないためだと思います。例えば、日本にいる多くの仏教とに神はたくさんいるものではないんですよ、山の神も川の神もいないんですよ、釈迦は神ではないんですよ、といっても誰も信じないし、彼らは同じ仏教とでもあなたと同じ考え方には到底たどり着きませんよね。それを私があなたの信じる神と私の信じる神が同じです。と言ってしまえば私が間違っていることになる、なぜなら明らかに彼らの今信じている神と私の信じている神は別ものですから。あなたが信じている神とは同じかもしれませんが。仏教と共通点はあります。日本人の文化とイスラムの文化の共通点もあります。私が仏教との人にダアワする時はそこを強調する事が多いです。もちろん、共感を持ってもらえるとお互い話やすいですから。


今起こっている戦争で、宗教戦争はないと思いますよ。結局国の政治的な問題やどちらかの国が特するためだけの戦争で、宗教、という名前を前に出しただけの宗教戦争ではない、ただの欲深い人々の戦争です。そのせいでその国の国民が被害者になるだけです。
アッラーの性質という題で資料を貼付けますので、参考までに読んでください。
Salam

タイトルアッラーの性質
記事No1448
投稿日: 2009/04/05(Sun) 14:56
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
アッラー(創造者)の性質
全能のアッラーに称讃あれ。アッラーが預言者モハメッドとその仲間の位をあげてくれますように、そして彼の民を彼の恐れるものからお守りになりますように。

モスリムとして、アッラーを信じ、アッラーの性質を知ることと、アッラーの性質であることの判別(かれの性質として当てはまるのが可能なことと、不可能なこと)ができるようになることは必須である。そして、預言者を信じることと、彼に当てはまることを知ることと、その判別ができるようになること。そして、これらの信仰の証として、2つの信仰告白(シャハーダ)をすることは必須である。これら2つの信仰告白をアラビア語、もしくはそれと同じ意味のほかの言語で確信をもって告白すること。

アッラーとかれの預言者を信じない者は不敬者として、永久に地獄へはいるだろう。その定義に進む前に、大きく分けた3種類の思考の分類をする。
1.理知的な必要性:非存在の認知(非存在はアッラーの性質ではない。)アッラーの存在なしには何も存在しない。
2.理知的な不可能性: アッラーに配偶者があることや、アッラーに体があることや、場所が存在することは不可能である。
3.理知的な可能性:一時にアッラーがあるときは存在して、あるときには存在しないことは不可能である。アッラーが人間の存在を可能にし、絶滅も可能にする。人間であることはアッラーが可能にしたことである。

アッラーの性質を知ることは、思春期を迎えたもの、知的正常なモスリムにとって義務であります。‘アッラーの性質はかれそのものではなく、かれ以外の誰でもない。’
1-Existence (al-Wujud): アッラーは存在する。

アッラーの存在を信じること。アッラーは永遠で終わりが無い性質、アッラーは始まりも終わりもなく、場所なしに存在する。
2- Oneness (al-Wahdaniyyah): 単独の存在

アッラーに類似、同類するものはなく、配偶者をもたない。‘アッラーは創造者であり、アッラーの他に創造者はいない’
3- Eternity (al-Qidam):永遠の存在アッラーは永遠である。始まりもなく、終わりもない。かれの以外は始まりがあり、終わりがある。
4- Everlastingness (al-Baqa'): 終わりが無い存在。

終わりが無い。かれの存在は終わりがない。全滅はかれにはあてはまらない。楽園と地獄にも終わりが無い。なぜならアッラーがそう望み、そう創造したからである。
5- Non-neediness of others (al-Qiyamu bin-Nafs):創造物を必要としない。:

アッラーは創造物を必要としない。アッラーは創造物である人間やその他の創造物がアッラーを崇拝しなくても存在する。創造物がアッラーを必要とするのであり、アッラーは創造物を必要としない。アッラーは始まりもなく、終わりもないからである。
6- Non-Resemblance to the Creation (al-Mukhalafatu lil-hawadith): 創造物に類似しない。アッラー自身も、アッラーの性質も創造物に類似することはない。アッラーのほかに同等のものはない。

7- Power (al-Qudrah): アッラーの力は永遠なるもの。アッラーは全てを可能に不可能にするちからがある。人間を存在させる力も絶滅させる力もある。

8- Will (al-Iradah): 意図。理知的可能性。善と悪、不敬と信仰、勝利と敗北、など理知的可能性。
9- Knowledge (al-^Ilm): 知識。アッラーは心に隠すことも、頭の中で想像することも知っている。
10- Life (al-Hayah): 生命。アッラーの生命は我々の生命とは異なる。人間の生命は魂や身体を必要とするが、アッラーは必要としないで存在する。

11- Hearing (as-Sam^): 聴く。アッラーは全聴である。聴こえるものは全て聴くことができる。人間のように一定の範囲でしか聴こえないということはない。人間は耳を必要とするが、アッラーは器官なしに全て聴くことができる。

12- Sight (al-Basar): 見る。アッラーは全視である。人間のように目を必要とせず、見ることができる。アッラーは一定の場所に存在しない。場所なしに存在する。
13- Speech (al-Kalam) : 話す。アッラーは器官無しに話す。言葉や音を使用することなく、アッラーは伝えることができる。


預言者モハメッドの性質
2つ目のシャハーダとして、モハメッド(彼の上に平安あれ)をアッラーの預言者として信じることを告白します。
どの人物を指しているのかも知る必要があります。
-、部族Qurayshの Abdu-Manafの息子のHashim の息子の、Abudul Muttalib の息子の、Abdullahの息子。
-アッラーの僕で、全てのアッラーの創造物の使徒で預言者
-メッカに生まれ、メディーナに移住し、そこで墓に埋められた。
-全てにおいて信用のできる、アッラーの教えを伝えた。
-その中には、墓の中で罰と喜びを経験すること、その時2人の天使(Munkar/Nakir)によって質問されること、復活、最後の日、集結、善行と悪行の提示、報酬、刑罰、バランス、地獄、橋、水桶、楽園、アッラーと出会う、楽園・地獄で永遠に住むこと、天子を信じること、使徒預言者を信じること、運命を信じること(良いことも悪いことも)、そして預言者モハメッドが最後の預言者で、アダムの子孫で最高の人物だと信じること、などを伝えました。
-信頼、真実、聡明

6.どうすればイスラム教徒になれるのか

イスラム教徒になるのは極めて簡単です。要求されるのは心を込めてアラビア語、もしくは同じ意味に当たるその他の言語で確信を持って、「ラーイラーハ・イッララー、ムハンマドゥン・ラスールッラー」と言うこと。意味は「神(アッラー)の外に真の神はなく、ムハンマドは神の使徒(預言者)である。」最初の部分である「神の外に真の神はない」は、神の外に崇められる権利を持つものはなく、配偶者も息子も持たないという意味で、信仰告白はシャハーダと呼ばれ、イスラムに入信するために確信をもって証言する単純な儀式であり、信仰告白はイスラムの柱で最も重要なものであります。証人を立てることも、特別なお祝いをすることも必要なく、ただあなた自身と神との間でこの誓いを立てます。グスルといわれる全身シャワー(洗礼)をとり、そして告白します。アラビア語を事前に知っておく必要もありませんし、コーランを暗記しておく必要もありません。巡礼をするときなど特別な時はイスラム協会の発行するイスラム教徒証明書が必要になることも時としてありますが、それ以外では特に証明する必要もありません。
*上記アッラーの性質を理解することもシャハーダの前に必要。

タイトルRe^11: P.S
記事No1450
投稿日: 2009/04/06(Mon) 14:32
投稿者piano
私は、仏を信じる者です。そして、もし、アラビア語で言うならば、「ムスリム」です。

また、神の道理、つまり、『神の道』を伝える宗教、神道を信じる者です。

先日、70代の仏教徒の方とお会いしましたが、とある先祖代々続くお寺の家系にお生まれになった方です。その方は、「神=仏」と仰っております。そして、その方のお父さんである住職の方もです。全ての仏教徒が理解しているわけではありません。また、「アッラーは、日本語の神をアラビア語で言ったもの」と理解していらっしゃいます。

前回、仏教徒の友人の話を書きましたが、その方とは違う宗派です。


さて、神の奥義とはこうです。

『多神教徒』とは、クルアーンにある「人間が神々を虚構した」と言う真実を理解せず、『「世界には神々が存在しており、自分は、その中から選んだ神を崇拝している」と考える者達の事』です。

また、『ユダヤ教徒』とは、『世界には神々が存在しており、自分は、その中から選んだ一つの神を崇拝している」と考える者達の事』です。単に、「血統がユダヤ人である」などと理解されているのであれば、理解が全然足りていません。

また、『キリスト教徒』とは、『前者の犯してきた間違いを知りながら、結局同じような間違った神の理解をしている者達』のことです。単に、「クリスチャン」と称する人たちだけのことを指すわけではありません。



『神は、唯一』


古代のペルシャでは、ザラスシュトラという預言者がおりました。一般に、ゾロアスター教の開祖と言われております。または、「拝火教」とも。彼が伝えたこと、それは、『「神は、唯一」である』と言うことです。古代ペルシャの言語では、神を『アフラ=マズダ』と言います。

「MAZDA」という、有名な会社が、日本にありますが、その名は、唯一の神、古代ペルシャの言語で「アフラ=マズダ」から、とったものです。

その「アフラ=マズダ」は、古代のエジプトの言語では、「アメン=ラー」と言います。

『“ア”メン=“ラー”』から、アラビア語の『アッラー』になっただけのこと。

「アフラ=マズダ」を基にしたのが、「阿弥陀仏」です。

インドでは、「ビシュヌ=クリシュナ」が、それに当たります。その言語を元にしたのが、「毘沙門天」です。

中国では、古来から、「天」あるいは、「天帝」と言っています。偶像にしたものを「天帝」と分ける場合もあるようです。


   「天は、人の上に人を造らず、、、」
これは、真理を理解しているからこそ言える言葉です。




まだ、『世界には、多くの神々が存在していると考えますか?』    

タイトルRe^12: P.S
記事No1451
投稿日: 2009/04/07(Tue) 01:32
投稿者sloth
pianoさんの仰ってることが、全然わからない・・・。

とりあえず、false informationを訂正。

>ほとけを信じているムスリム
ありえません。
ムスリムっつーのは、アブラハムが信仰していた神に帰依しているヒトのことです。神様以外(ほとけ)を信じてる時点で、アウトです。

>ほとけ
仏教は、大乗仏教なら、完璧に多神教ですし、
(上座部仏教についてはよく知らないのでコメントを控えたいと思います)
宗教になる前の仏陀の教えなら、唯物論とか社会主義とか共産主義とかそーゆージャンルのものですから、イスラームの教えとは違うような気が???

仏陀自身については、神を自称したことも、神の預言者を自称したこともない、インドの大昔の元王子様だし・・・。

>阿弥陀仏
阿弥陀仏という概念自体が大乗仏教独特のモノ(如来)ですので、多神教のジャンルに入るものです。アッラーとは全然違う概念のものです。
阿弥陀仏というコトバは、アミターヴァとかアミターユスというサンスクリット語の漢訳で、アフラ・マズダとはえんもゆかりもありませんが・・・。(寡聞にして私が知らないだけもありえますが)

>毘沙門天
コレは、ヴァイシュラヴァナ(神の息子)というサンスクリットの漢訳であって、ヴィシュヌじゃありませんよ〜・・・。それに、クリシュナはラーマのようなヴィシュヌの化身のひとつなダケだし・・・。
まぁね〜・・・。ブッダもイエスもヴィシュヌの化身のひとつってヒンズー教の宗派があったような気がしますけど、ソレは立派な多神教ですしねぇ〜・・・。

>古代エジプトの神
古代エジプトにおける唯一神信仰は、イクナトンによって為されたアテン神信仰(太陽神信仰)ダケです。
アメン・ラーは、テーベの主神のアメン神と、古王国時代から権威のあった太陽神ラーの融合体です。この2柱の神々は、古代エジプトの多神教の代表格で、彼らの名前の綴りは、amnとrです。
ですので、アッラー(al+ilaaha)とは全然違います。

>ゾロアスター教が一神教
ゾロアスター教は多神教ですが・・・。
(アフラ・マズダの他に、アンラ・マンユやミトラ、ヴァルナなど多くの神々がゾロアスター教的世界観には存在してますから)

>アッラー(概念)
これは、日本語の神をアラビア語で言ったものでは、ありませんが・・・。
(ジンやマラクといったアラビア語の方が日本語で言うところの神に近い概念のような・・・)

>アッラー(アラビア語)
これは、ilaahaイラーハ(神・a god)に定冠詞のalアルをつけたダケのものです。アメン・ラーとも、アフラ・マズダとも語学的には何の関連もありません・・・。


ところで、pianoさんはナニを仰りたかったのでしょうか?
また、ナニをなさりたかったのでしょうか???

pianoさんご自身が全知全能たる唯一神を信じているのだとここで表明なさりたかったのでしょうか?
それとも、ユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒やサービアだけが唯一神を信奉しているものではない、と仰りたかったのでしょうか?
それとも、イスラム教徒の人達にchallengeして言い負かして、pianoさんの考える一神教に導きたかったのでしょうか?

謎です。

とりあえず、誤情報を訂正したかったので、コメしてみました☆

タイトルRe^12: P.S
記事No1458
投稿日: 2009/04/07(Tue) 18:53
投稿者うんむらふま   <ummu_rahmah@infoseek.jp>
少しお話しさせてください。

イエズス会の宣教師として生涯を中国の布教に尽くしたマテオ・リッチ(1552−1610)は、キリスト教を中国語で解説した教理問答書カテキズモ『天主実義』を書いています。
 「天主という呼び名は、万物の根源を意味します。もし何かによって生み出されたというのであれば、それは天主ではありません。(略)天主というものは、始まりも終わりもなく、万物の始源、万物の根源となるものです。天主がなければ万物は存在しません。万物が天主によって生み出されるものであって、天主は何かによって生み出されるのではありません。」(首篇)より

「儒教を学び、四書のラテン語訳をしていたリッチは、仏教の”空”を道家の”無”でとらえることで仏教が中国に受容さやすくなったかのように、”神”を”上帝”や”天主”と同一視することでキリスト教にたいする理解が得られることを期待した。しかし、神による天地の創造とキリストによる救済というキリスト教の教えは儒教の教義とは異質のものだった。1707年には、ローマ教会も中国人信者の祖先崇拝と儒教信仰を禁じた。さらに、”神”と”天”の同一視を退けた。(中国は、1723年キリスト教の禁止を断行)」〜『東と西の宇宙観・東洋篇』より

「”神”は純粋な大和言葉(日本語)である。明治4年プロテスタント・キリスト教者が日本布教に当たり新約福音書の翻訳に初めてこの語を用いた。『古事記』神話の語り始めは「天地はじめて開らけし時、高天原に成りませる神」という。神が天地を創造したのではない。(略)存在は生命を持ち、その生命の力は始めから複数三即ち”天御中主””高御巣産日””神産日”として発想されている。本来自然の中に力を見、それを尊いもの聖なるものとして礼拝の対象としてきた。」〜『世界「宗教」総覧・神道』より

最後に、これはイスラームの神学者アブー・ハーミド・ガザーリー(1058‐1111)の言葉です。
「神の正義は人間の正義によって推し量ることはできない。なぜなら、人間の場合、他人の所有物に対して勝手な振る舞いをすればそれが不正と考えられるが、そのような意味での不正は神には考えられないからである。神は信じる僕の服従行為に報いを与えるが、それは神の寛大さと約束によるもので、人間の側の当然の権利としてではない。なぜなら、神には誰に対しても行為をしなければならないということはないからである。」

現前するものにはすべて神の示唆があり、私たちは現世において神に試されています。ただ思索だけに止まらず、私たちは行動の中で信仰を体現していかなければならない、と考えます。

長くなって申し訳ありません。








> 私は、仏を信じる者です。そして、もし、アラビア語で言うならば、「ムスリム」です。
>
> また、神の道理、つまり、『神の道』を伝える宗教、神道を信じる者です。
>
> 先日、70代の仏教徒の方とお会いしましたが、とある先祖代々続くお寺の家系にお生まれになった方です。その方は、「神=仏」と仰っております。そして、その方のお父さんである住職の方もです。全ての仏教徒が理解しているわけではありません。また、「アッラーは、日本語の神をアラビア語で言ったもの」と理解していらっしゃいます。
>
> 前回、仏教徒の友人の話を書きましたが、その方とは違う宗派です。
>
>
> さて、神の奥義とはこうです。
>
> 『多神教徒』とは、クルアーンにある「人間が神々を虚構した」と言う真実を理解せず、『「世界には神々が存在しており、自分は、その中から選んだ神を崇拝している」と考える者達の事』です。
>
> また、『ユダヤ教徒』とは、『世界には神々が存在しており、自分は、その中から選んだ一つの神を崇拝している」と考える者達の事』です。単に、「血統がユダヤ人である」などと理解されているのであれば、理解が全然足りていません。
>
> また、『キリスト教徒』とは、『前者の犯してきた間違いを知りながら、結局同じような間違った神の理解をしている者達』のことです。単に、「クリスチャン」と称する人たちだけのことを指すわけではありません。
>
>
>
> 『神は、唯一』
>
>
> 古代のペルシャでは、ザラスシュトラという預言者がおりました。一般に、ゾロアスター教の開祖と言われております。または、「拝火教」とも。彼が伝えたこと、それは、『「神は、唯一」である』と言うことです。古代ペルシャの言語では、神を『アフラ=マズダ』と言います。
>
> 「MAZDA」という、有名な会社が、日本にありますが、その名は、唯一の神、古代ペルシャの言語で「アフラ=マズダ」から、とったものです。
>
> その「アフラ=マズダ」は、古代のエジプトの言語では、「アメン=ラー」と言います。
>
> 『“ア”メン=“ラー”』から、アラビア語の『アッラー』になっただけのこと。
>
> 「アフラ=マズダ」を基にしたのが、「阿弥陀仏」です。
>
> インドでは、「ビシュヌ=クリシュナ」が、それに当たります。その言語を元にしたのが、「毘沙門天」です。
>
> 中国では、古来から、「天」あるいは、「天帝」と言っています。偶像にしたものを「天帝」と分ける場合もあるようです。
>
>
>    「天は、人の上に人を造らず、、、」
> これは、真理を理解しているからこそ言える言葉です。
>
>
>
>
> まだ、『世界には、多くの神々が存在していると考えますか?』    

タイトルRe^13: P.S
記事No1460
投稿日: 2009/04/08(Wed) 10:46
投稿者piano
”聖戦“と言う言葉が、聖書の中何度も出てきますが、クルアーンにも出てきますね。

大本の意味は一緒でも、「理解の程度」は人によってまちまちです。

仏教に“空”と言う言葉があります。聖書の中にも、ソロモン王が「全ては空である」と、言っています。その意味を、根本の意味を同じと考えるか、使用されている用方が違うから全く別物だと考えるか、、、

それは、人によってまちまちです。

宗教名が違うから、全く別物と考える場合、『話は平行線をたどるか、決裂』するのではないでしょうか?

でも、「本当の意味」、「根本はなんだろう?」と、一緒に考えていった場合、お互い切磋琢磨できるのではないでしょうか?


Sloth様

 あなたは、仏を信じている時点で「アウト」と仰いましたが、私は、「万物の根源、私を創造され、慈悲に満ちている御方」で、仏像や仏陀ではないことを理解している者です。「根本の意味の仏」と「アッラー」は、一緒であると、心から信じているのです。

 あなたは、神でもないのに、「神道信者や仏教徒である」ということを理由に、日本だと、一億人の人間を『地獄行き』宣告ですか?



あなたが、私の言っていることを全く理解されないのは、クルアーンに説明があるではありませんか?


『心が覆われているから』と、あります。聖書にも、同様のことが書かれています。

何で覆われているか?

「神は、自分たちを一番愛でられている」とし、他の宗教名の人間は「下等」としているからです。他の宗教名の人間でさえ、「神は、全てあまねく慈悲を、愛を、降り注ぎ、慈悲深い御方」と言うのを認めたくないために、嫉妬しているのです。その嫉妬から、軽蔑が生まれ、あなたは、高慢に陥り、傲慢になっているから、「地獄行き宣告」が出来るのです。

あなたの心から、自惚れ、高慢、傲慢、嫉妬や憎悪、軽蔑、、、、をなくすこと

つまり、『神は、慈悲あまねく慈悲深い御方』ということを、真摯に理解しようと努めていく時、


『心の覆いが取れる』のです。

タイトルRe^14: P.S
記事No1463
投稿日: 2009/04/08(Wed) 14:46
投稿者うんむらふま   <ummu_rahmah@infoseek.jp>
横から失礼いたします。

本当にうるさいおばさんで申し訳ありません。
また、少しよろしいでしょうか?(とても興味があるので…)

ソロモン(スライマーン)の言葉に関して:
これは旧約聖書の中で「伝道者の書・コヘレト」といわれているものですね。「空」と訳され<むなしい>を意味するヘブライ語「ヘベル」は、「息」「蒸気」をいい、そこから「空しい」「無」の意に用いられたとあります。アラビア語訳聖書においは、”batal(tは下に点が付く重たいt)という語が使われ、意味は無価値な・偽りの・無意味・根拠のない・たわごと、等々です。これを、仏教用語の「空」と同一視できるかどうかに関しては、ヘブライ語の先生も首を傾げておられましたが…。しかし、私たちは認識できる知識の範囲内でこれを捉えることしかできません。ある著名な方は、これに関して”ニヒリストとしてのコヘレト”という論文を書かれているほどです。
私は、特に多く用いられている「空しい。風を追うようなものである。」という表現に関して、「常ならぬことを、思いあぐねることは徒(いたずら)に時を過ごすことである。」という意味に捉えらました。(これも、個人の見解に過ぎませんが…)しかし、”いたずらに”時が過ぎていこうとも、それは「空しい」ことではありません。また”いたずらに”思えることにも、見えない意味が隠されており、私たちには目を見張っても見えないことがあり、顕われているのに見過ごしてしまうこともあるのです。
この「コヘレト」を読んで私が得た結論は―憂いたり、嘆く前に風の音の中に神の顕現を見出し、「満足」と「感謝」を知ることが何より大切である―というものでした。

「空」の教えとされる「般若経」の”般若”(パンニャーの音写)は、”智慧”を意味しているとありました。その「空」は、全ての固定観念を否定することを主目的としている…のだそうです。
知恵を持って思索することは大切ですし、それは人間に与えられた権利でもあり義務でもあります。

ところで、宗教には凡てを神に委ね、神の”せよ!”という命に従い、”してはならない!”という規範を守ることが何より重要なこととして付加されています。
また、「神の唯一性」に言及するならば、それは”神と同等に他を配さない”という多神教の確固たる禁止を意味します。
どんな神を信奉しても結局は唯一、同じ神を崇めているのだということは、どの神も等しく尊いものであるということに進み、神はその人が信じられる姿で顕現し逆にその人が信じられるものが神であるということになってくる、という危険を孕みます。すると一様にみながみな同じ神を信仰する必要はまったくなくなり、人の数だけの神があるということを認めることに繋がってゆく…これは、当然考えられることだと思います。

従って、イスラームにおいてシルク(多神崇拝)は、大罪なのです。

これは、イスラーム神秘思想家最高峰と言われているイブン・アラビー(1165‐1241)が詠んだ詩です。
私の心はあらゆる形態を受容するようになった
私の心は、ガゼルのための牧場、キリスト教修道僧のための修道院
また偶像のための寺院、巡礼者のためのカアバ神殿
トーラー(律法)の銘板、クルアーンの書
私は愛の宗教を告白する
私のラクダがどこに向かおうとも
愛こそ私の宗教であり、私の信仰である

これらを字義通りに捉えると、私にとって?と思えるところも多々ありますが…
しかし、ここに至るまでの徹底的に神と対峙した深い信仰を考えると、イスラーム神秘思想家が到達した観想は我々には計り知れないものがあるのだとういう印象を得ます。
思索は、行動を飛び越してあるものではなく、行動の先に見えてくるものを探す行為でもあります。ただ思索だけに止まらない行為であるからこそ、その言葉に重みが加わるのだと思います。

夢中になって長々と申し訳ありません。
またお話しできる機会があれば幸いです。

タイトルRe^3: 繧ュ繝ェ繧ケ繝域蕗蠕偵→縺ョ繝繧」繝吶シ繝
記事No6199
投稿日: 2013/05/16(Thu) 18:29
投稿者Johnetta
参照先http://www.bing.com/
Stands back from the keyboard in amzaeemnt! Thanks!

タイトルRe^3: 繧ュ繝ェ繧ケ繝域蕗蠕偵→縺ョ繝繧」繝吶シ繝
記事No6240
投稿日: 2013/05/18(Sat) 15:10
投稿者Rakeshkumar
参照先http://www.facebook.com/profile.php?id=100003432804301
Home run! Great sulgigng with that answer!

タイトルRe: キリスト教徒とのディベート
記事No1467
投稿日: 2009/04/09(Thu) 15:57
投稿者piano
以前、アラビア語の「アリフ」と、「ミーム」について、記述しておりますが、それは、ユダヤ人(以前は、正統派や、改革派など色々な派に属し、神を探求してきた方)で、かれは、今、「自分は、何の宗教にも属さず、神を探求する者」と言われております。そして、ヘブライ語の起源などを調べていらっしゃる方の本から引用しました。

さて、「マテオ=リッチ」についてですが、その本は、私は拝読したことがありません。でも、彼の言わんとしている事は、とてもよく分かり、凄く嬉しくなりました。有難う御座います。

また、彼の記述に関する説明が、後世になされていますが、マテオ=リッチの言っていることを理解していない者が説明をしている文章になっております。

   “天”(アッラー)が、物事の道理、つまり“理”を顕し、人間の“王“でもあり、全ての源である”命“

  日本で、『天理王命』と言う神を崇拝している人たちがいます。一神教です。

さて、「アッラー」という、アラビア語ではないから、「絶対に認められない」とするか、『こいつらは、死んだら、地獄へ行く、「クダラン神」を崇拝している「クダラン奴等」とみなし、「(死んだら地獄へ直行する)かわいそうな人たち」』とするのか、それとも、『共通点を互いに認め合い、更に、お互い神を探求し合って高めていこうとするのか』、

人それぞれです。


全てを、探求すれば、根本は、1つです。

人類も、一つです。

それから、多種多様に分かれてきました。

『遡って、全ての根本を見つけていく』

とても、面白いです。

因みに『天理王命』についてですが、中山さんが存命中、悟った者は一人もいなかったことが、彼女の亡くなる前、「まだ、悟る者はおらぬか?」と言う言葉から分かります。

イスラム教でも、ムハンマドの存命中、悟った者がいたのか?

クルアーンの中で、「イエスの存命中、悟った者は一人もいなかった」ことが記されているはずです。毎日、寝食を共にし、直接彼から教えられていたのにも関わらずに、です。

その時の弟子たちは、『「馬鹿」だから』、と言うことが出来ますか?

ムハンマドの言葉を直接聴いた人間だからと言って、彼の言うことを理解できたわけではありません。

理解できたのであれば、ムハンマドが亡くなった後、分裂することは有り得ないからです。「神が慈悲あまねく慈愛深きもの」、つまり、『神は唯一』ということを、理解して悟っている信者同士で憎むことは、有り得ません。また、信じない者たちに対して、憎むことも有り得ません。


「全てのイスラム教徒の上に、そして、全ての人々の上に、平安がありますように」


あなた方に、平安がふさわしければ、あなた方の下に平安はとどまるでしょう。

タイトル他人様の庭先なので、これにて、一旦下がります。
記事No1469
投稿日: 2009/04/10(Fri) 02:18
投稿者sloth
簡単におさらいすると、このツリーはsalamさんが「イスラム教徒がキリスト教徒と宗教について会話をする時のポイント」について述べるというところから始まったと思っています。

そして、salamさんのコメントに対して異議や質問が起こり、それについてイスラム教徒の人達が、辞書や事典、コーランやハディースを元に説明をなさった(本やネットなどで検証できる限りでは、彼らは情報を捏造してはいません)。

そして、部外者の私が、「似たような経験をしたコト」を蛇足な追加情報付でコメをしました(そして、私も情報の捏造をしてはいません)。

で、私の心のコトですが・・・。
「覆われている」と思いますよ。だから、salamさん達にとっての真実を私の真実として受け入れられないのだろうと思います。でも、イスラムをはじめとして、各メジャー宗教に対して萌えています♪(ああ、歪んでる(笑)♪)

でも、私の心が覆われているからこのツリーにおけるpianoさんのコメのほとんどが理解できないというワケではないと思います。
1392におけるpianoさんのコメなら、その趣旨と目的を推察することが、出来ますから。

でも、1392以外のpianoさんのコメの趣旨と目的が、理解できないのです。

例えば、「イスラム掲示板」で、「神の奥義はこうです・・・」とpianoさんが大上段に構えて演説しなければいけないのは、どうしてなのでしょうか?
しかも、その演説の要旨(?)の根拠は、間違いだらけですし・・・。

根拠が正しくなければ(間違っていたり捏造されたり、曲解されたり歪曲されたものであれば)、その根拠に基づいた主張自体が成り立たなくなります。
そのような主張を維持し続ける目的がわからない、と言っただけのつもりだったのですけれど・・・。

とりあえず、pianoさんの「仏教徒や神道の人達が地獄へ行くというのか」という問いに対する答えは、
イスラーム的、またはキリスト教的価値観なら、Yesでしょうね。預言者ムハンマドも、ジャーヒリーヤのまま死んだご先祖達について似たようなコトを仰ってましたから。
ただ、私は、「神はいないから、天国も地獄も存在しない」派ですから、キリスト教徒やイスラム教徒じゃない人達が死んだからと言って地獄へ行くとは思いませんし、キリスト教徒やイスラム教徒が死んだら天国へ行くとも思いません。

さて、ここから、対誤情報ツッコミ・コーナー。

>(聖なる)戦争
ジハードと言うコトバは、聖戦というコトバによく翻訳されますが、努力って意味もあるんですけど〜・・・orz。
こんな風に、ひとつの単語に色んな意味があるから、コーランの翻訳は難しくて、
翻訳されたコーランは、コーランの参考書であってコーランじゃないっていわれるんですよ〜・・・。
努力とは関係のない「戦争」にはハルブとか別なコトバがちゃんと、しかも沢山あります。

>多神教教徒・ユダヤ教教徒・キリスト教教徒
多神教というのは、神が2柱以上存在すると考える人たちのことですが・・・。(複数の神から選んだ1つの神を信仰している人も多神教教徒ですが、Aの神もBの神もCの神もと複数の神を信仰している多神教教徒もいます。)
だから、神が1柱しか存在しないと考えるユダヤ教徒やキリスト教徒、イスラム教徒やバハーイーの人達は多神教徒とはいえません。
で、ユダヤ教教徒やキリスト教教徒はアブラハムの神に帰依する人々で、この2者の間には色んな違いがありますが(例えばマリアの息子を救世主として認めるか否か、神とするか否かのちがいであって)、pianoさんが仰ったような意味での違いじゃないです・・・。

>宗教名が違うから全く別物
宗教の名前が違うから、違う宗教になるのではなく、
宗教の性質が違うからべつの宗教名がつくのだと、思います。
たとえば、キリスト教はユダヤ教の分派として出発しましたが、「マリアの息子を救世主とみなす」というユダヤ教にはない思想を持つために、別の名前を持つ宗教になりました。このように、各宗教が独自の名前を持つのは、それぞれが性質を異にする宗教だからだと、思います。
また、バハーイーもイスラームから出発しましたが、イスラームとは違う要素を持つためにバハーイーという名前になったのだと思います。

>別物と考えるから平行線か決裂
決裂はともかくとして、平行線はいけませんかね?
ラクム・ディーナクム、ワ・リヤ・ディーンって言いますしね・・・。(イスラームのこーゆートコロが、部外者の所為でしょうか、私は好きですね♪)

>仏の定義
初期の仏典を見れば、仏陀が因縁説を採り、「万物の根源、私を創造され、慈悲に満ちている御方」@多神教バージョンの梵我(ブラフマン)や真我(アートマン)のコトを、否定していたのは、明らかです。

仏像や仏陀を信じてらっしゃらないのならば、pianoさんは偶像崇拝者ではないのでしょう。
でも、阿弥陀仏というのは、大乗仏教的如来思想のモノです。
大乗仏教は、唯物論たる仏陀の教えとは違い、多神教です。
阿弥陀仏を信じてらっしゃる時点で、唯一神を信仰しているコトにはならないのです。
多神教教徒のカテゴリーに、宗教学的には入るのです。

阿弥陀と言う名前がアラビア語のアッラーという名前とは違うから、別物であると捉えられるのではなくて、阿弥陀という存在の性質が唯一神の性質とは、宗教学的には違うのです。
阿弥陀と言う観念は、唯物論な仏陀の教えを捻じ曲げて発展させた大乗仏教の如来思想(多神教思想)に則っているものですから、どうがんばっても、アッラーとは違うものでしか、ありえません。

仏陀が否定した梵我や真我をアッラーと仰るのならば、まだわかりますが・・・。
(梵我も真我も多神教的発想ですが、創造主としての性質を持ちますので)
「アッラーを梵我や真我と呼んだのだが、時代を経るに従って多神教の形になってしまったのだ」という主張なら、まだ、理解可能なのですが・・・。


キリスト教には、ecumenical movementと言うものがあります。

あなたは宗派を超えた宗教でのecumenical movementをなさりたいのかも、しれません。
でも、そのようなコトを仰りたかったり、「アブラハムの神たる唯一神を、ユダヤ教やキリスト教やイスラームとは違ったカタチで信仰している人達もいるのだ」という主張をなさりたいのならば、「ほとけ」とかいう、わけのわからない無意味な概念を持ち出すよりは、バハーイーの方々を証左にした方が、話はずっと通りやすくなると思います。


まぁ、色々と突っ込みたいことは山ほどあるのですが、
ツッコミどころがありすぎるし、
ここは他人様の庭先だしというコトで、
これからどんなにヒドイ誤謬をこのツリーで見ても、
ここら辺で、一旦、下がろうかと思います。

(ただ、明らかな誤謬をモトに、論理を構築・発展させて主張するのは、どうなんだろうかと、
また、意図的に、自分の都合の良いように情報を捻じ曲げるのも、いかがなものかと、
そう、思います。(うんむ・らふまさんの仰った利瑪竇の話をドコをどう捻じ曲げたらそんな風に受け取れるんだか・・・) )

タイトルRe: 他人様の庭先なので、これにて、一旦下がります。
記事No1470
投稿日: 2009/04/10(Fri) 14:58
投稿者Salam   <spiderwort77@hotmail.com>
すみません、しばらく庭の外から傍観させていただいておりました^^。皆様の引き出しの多い知識に圧倒されておりました。またSlothさんに同感でpianoさんの趣旨が途中で分からなくなったことから、どうお返事してよいのか分かりませんでした。(でもご遠慮無用です。恐縮です。)
pianoさんのおっしゃる事は全ての宗教を並べてみて、根源は同じなので、人類みな兄弟ということだと理解していますが、実際それぞれの宗教を持つ人はその根源を(特に偶像崇拝者、多神教)pianoさんのように知っている人がほとんどいないことから、同じ神を崇拝している、とは到底言えないです。これらの人々が根源を探るまで、彼らは気づかないだろうし、それまでは同じ神であり得ないわけですから。
私も元々、根源が同じだという理解からイスラムに興味を持ったので、そこは理解できます。でも彼らの今信じている神は、我々の信じているものとは異なります。pianoさんの意見に対してSlothさんが正反対の事を指摘するということは、そう思いたい事実と、事実が違うからかと思いますが、ここがクリアになれば我々だけでなく納得する人々も多神教や偶像崇拝の人々にも出てくるかと思います。

一つ今更ですが、pianoさんに質問があります。
『私は、神を信じ、私たちに下されたものを信じます。また、アブラハム、イシュマエル、イサク、ヤコブと、諸支部族に啓示されたもの、と、モーセとイエスに与えられたもの、と、主から預言者たちに下されたものを信じます。彼らの間のどちらにも、差別をつけません。かれに、服従帰依します。』
、とおっしゃいましたが、なぜここに預言者モハメッドの名前がないのでしょうか。単に書かなかっただけなのか、それとも他の預言者は全て信じるけども預言者モハメッドだけは信じられないのか、が疑問です。全ての預言者を信じられるのであれば、あなたは間違いなくモスリムです。

pianoさん、もしそうであればご自身を仏教徒と、呼ぶのはふさわしくないかと思います。あなたの考えかたや信仰は仏教徒(あなたのおっしゃる根源を知らない仏教とと一緒にされるため)とは異なりますので、モスリム(神に身を委ねるもの)と称すか、’モスリム’という言葉に抵抗があるならば、’神に身を委ねるもの’と称など、がpianoさんにふさわしい称し方ではないかと思います。よけいなおせっかいかと思いますが。。

Slothさんもこれまで大変な知識をご披露いただき感謝しております。しかし、いまだにあなたの信仰するものを私は理解できておりません。これだけ知識がおありなのでどれが一番正しいのかを見極めることもできるかと思いますが、いかがなのでしょうか。ひと言に’心が覆われている’とすればそれまでですが、さらに探求が必要な場合もありますし、善行を重ねることによってその覆いが省かれることもありますし、道理/合理を理解することでイスラムを理解することもあります。私は全ての創造者であり、唯一の神であるアッラーに身を委ねるものですのでその観点からしかあなたに言う事ができませんが、あなたが正しい道に導かれますように。あなたの心がアッラーを感じることができるようになりますように。あなたに正しい知識を与えられますように。アーミン。

皆様のおかげで長々とこのツリーも伸びてきましたので別の表題で再会するのがふさわしいと思われるのであればそれでも結構です。このままここで続けるのも結構です。よろしくお願いいたします。Salam