タイトル | : コーランのみに固執するのは誤っているのではないでしょうか |
投稿日 | : 2012/08/30(Thu) 00:20 |
投稿者 | : 日本丸 <mitama36@kih.biglobe.ne.jp> |
同じことを繰り返すようで気がひけますが、
「もしあなたがたが、わがしもべ(ムハンマド)に下した啓示(クルアーン)を疑うならば、それに匹敵するものを1章を創ってみなさい。そしてもしあなたがたが正しいと言うのならば、神以外のあなたがたの証人(支持者や援助者)を呼んでみなさい。もしあなたがたにそれができないならば、―いや、出来るはずもないのだが―人間と石を燃料とする(地獄の)業火を恐れなさい。それは不信心者のために用意されている。(ムハンマドよ)信仰して善行に勤しむ者たちには、彼らのために、川が流れる庭(楽園)についての吉報を伝えなさい。...(クルアーン2:23-25)」
というコーランの文章を知りました。
でも、これはコーラン自身も自分の絶対性を疑っているのではないでしょうか。こんなコーランに匹敵するものなど書くことがありえないと言うほどコーランが絶対のものであるなら、こんなコーランに疑う余地があるかのような弱音を吐く必要はないでしょうし、あまつさえコーランを疑い批判する人たちを弾圧し、地獄の業火に焼く必要が慈悲深いアッラーにあるのでしょうか。
自分たちの御先祖様や土地、家族や国を護るために戦争するならともかく、イスラムを信じないで拒否する人たちを信仰の違いのみで地獄の業火に会わせるのは間違いではないでしょうか。一つの信仰に限るのではなくもう少し、寛容な精神があっていいのではないでしょうか。
コーランだって、すべてのことが完全に書かれているのではないでしょう。現代科学や、新しい発見やこれからの人類の未来のすべてがすべてコーランに書き込まれているわけではないし、コーランだけで用を済ませることはできないと思います。だから、コーランも絶対のものではないと思います。