M-001

Brother G. Beck message on the ceremony for Sist. S. Mori in Imabari City
私達の愛する森菅子お母様の葬儀で、皆様方と共にイエス・キリストの御名を褒め称えることが出来るのは本当に感謝です。死んで別れることは誰にとっても等しく寂しいことですし、悲しいことです。けども、愛する者とまた会うことが出来ることとは、考えられない素晴らしい事実なのではないでしょうか。愛する菅子お母様の所謂死の別れとは一時的なものに過ぎません。必ず再開出来ると考えるとやっぱり違うなのではないでしょうか。多くの葬儀の場合は、旅に出かけたという人もいます。私達は、お母様は旅に出かけたのじゃない、ゴールインしたと確信できます。ほんとにうらやましい。まあ、葬儀とはちょっと変わった集いなのではないでしょうか。普通の人は、一番まあ、面白くないなのは、死ぬこと、死について考えることなのではないでしょうか。けども、葬儀のときやっぱり、皆認めざると得ないでしょう。もう、私達の愛する菅子お母様はもういない。認めても、認めなくても関係無い事実です。まあ、ドメオという所で非常にちょっと変わった習慣があります。結婚式の時に新郎と新婦の間に、死んだ人の頭蓋骨を置くという風習なのです。ちょっと、可笑しいなのではないでしょうか。最も幸福な時に、死を忘れない様にということなのです。まあ、何年前だったかちょっと忘れましたけど、ある九歳のかわいい女の子がいまして、まあ、松波美由紀ちゃん、九歳なんです。けど、白血病になり、そして段々身体弱くなって、やっぱりあの子供は、私は死ななくてはいけないと分かったんです。そして心配そうな顔で、「ママー、死んでから何処行くの?」と聞いたんです。けど母親は答えられなかった。ちょっと、悲劇的なのではないでしょうか。けど、あの母親の親戚は、やっぱりあの母親は必ず悩んでいる筈ですから、結局まあ、死を恐れる恐怖から解放されるために、まあ、あのお母さまに一冊の本、あの「光よあれ」の第四集を上げたんです。まあ、あのお母様はどういうもんかなと思って、開いた瞬間、「死」という言葉が眼にはいちゃったんです。もう、お仕舞い。そんな本読む、もう読みたくない。結局、娘は死んではいかん。ねえ、母親の気持ち、誰でも分かる。けども、まあ、娘は亡くなったんです。母親はもうどん底に落ちてしまったし、それで、あの読みたくない本、また探して、読んでイエス様を信ずる様になっちゃたんです。と共に、「死は終わりではない、死んでから始まる」と確信する様になったんですけども、あの本もうすこし早い目に読んだら良かったのにと、思ってたんです。まあ、死について考えることは、本当に大切です。
まあ、私の切なる願いなる祈りは、使徒パウロの書かれた言葉です。ロマ書15章の13節、お読み致します。まあ、私にとって忘れられない言葉なんです。何故ならば、私は日本に来てから初めて行わなければならなかった葬儀は、自分の子供の葬儀だったんです。また、ドイツで初めて行わなければならなかった葬儀も、自分の子供の葬儀だったんです。まあ、うちの子供三人先に召されたのは、けしからんね、神様は何を考えているの? まあ、確かに分かりませんけども、いつか分かるよ。私は一秒も悲しくなったことがない。ほんとにうらやましいと思っとるんです。今の人生はそんなに面白くないでしょう。ねえ、菅子お母様は八十二年間苦労したよ。何回もね、人生とは一体何なのでしょうかと思ったに違いない。まあ、初めての自分の子供の為の葬儀を終わってから、まあ軽井沢だったんですけども、まあ、一人の婦人が私のところに来て、聖書を開いて、「この言葉はあなたのために書かれているよ」と言ったんです。まあ、この言葉だったんです。だから、忘れられない。「どうか望みの神は、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし、聖霊の力によってあなた方を望みに溢れさせて下さる様に」。 結局、人間は喜びと平安と望みに満たされなければ、人生は面白くない。まあ、イエス様のひとつの名前とは、「望みの神」です。望みの神が生きておられる限り、希望がある。喜びがある。望みの神だけが望みなく、悲しくなった、寂しくなった人々の神です。まあ、どんなことが起こっても、主なる神は永遠に変わらない、望みの神です。けど、この望みの神は一体どうしたら、我々の心を絶えざる喜び、まことの平安に満たすことが出来るなのでしょうか。まあ、この聖書の個所によると、答えとして書かれているのは、まあ、信仰によって、もちろん、信仰と云う言葉は、僕はあまり好きじゃない言葉なんです。信仰というと、何を信ずべきかすぐ聞かれます。そういう意味じゃないんです。聖書の出てくる信仰という意味は、信頼することです。一つの教えを信じ込むことじゃなくて、望みの神に頼ることです。それによってのみ、喜びと平安と希望に満たされる様になります。
まあ、今日の葬儀は何のためでしょうか。聖書の答えは、「彼らの生活の結末をようく見て、その信仰に習いなさい。」 へブル書の13章の7節です。結局、愛する森菅子お母様の生活の結末をようく見て、彼女の信仰に習いなさい。まあ、私は何回も何回も、まあ、お母様と会いました。何時も嬉しかった。本当に素直で、やっぱりイエス様しかない、そういう確信に満ち溢れたお母様でした。まあ、今日の葬儀の目的とは、結局、愛する森菅子お母様の生活の結末を見るためです。彼女の82年間の生活について考えるためではない。大切なのは、人間はどういう気持ちで、死に向うなのか、ということです。まあ、「結末を見なさい」、適当じゃなくて、聖書はようく見なさい。そして、「お母様の信仰に習いなさい」とあります。結局、まあ、「習いなさい」。習うために、考えなければならない。そして本当に考えている人は、信ぜざるを得ません。そして信じてる人は、目先のことだけ考えないで、将来のことについても考えます。自分の死についても考える様になります。自分の死について考えない人は本当に愚かです。何故ならば、決まっているからです。丁度今、何ですか、東大の大学院で試験があるんですって? ふっふ、ですから、公人兄弟今日来られるかどうかと、非常に心配したんです。けど、まあ、彼に聞くと分かると思うよ。学生は必死になって準備するんですよ。試験の前に勉強するんです。結局、勉強しないとだめだと分かってるんです。けど、死について準備する人は余りいない。ね、「備えあれば、憂いなし」、なければちょっと大変ですけど、まあ、愛するお母様は、結局我々の模範だったんです。彼女は、「もう長くない。けど行く先は決まってる。死は終わりではない」とお母様は確信したのです。すなわち、「私はもう82歳になっちゃったから、もう長くないなのではない。やあ、身体あまり丈夫じゃないから、病気のために死ぬなのではない。年のためじゃなくて、病気のためじゃなくて、「主が私を召して下さる時、私は死ぬのです」 そして主が召して下さる時とは、最善の時です。「私の行く先は決まってる。私の国籍は天国です」と、愛する菅子お母様は確信したから、幸いでした。まあ、幸いでしたじゃなく、幸いです。彼女は今嬉しくて、嬉しくて仕様がない。生きてる間に悔い改めた恵みに与えられたのは「有難う、イエス様有難う。あなた様に頼ることが出来たのは、感謝です、そういう気持ちで一杯です。」 結局お母様は、非常に賢いお母様でした。彼女は何を確信したかと言いますと、創造主との関係がなければ、全てはむなしい。まあ、お母様は無意識の内に感じたでしょう。即ち、誠の幸せとは、自分の心を満たすことが出来るお方、全ての問題を解決出来る方を知ることです。どうしてかと言いますと、それによって自分の悩み、苦しむ問題はその方によって、何時も解決されるからです。もちろん、全ての問題を解決出来るお方は人間ではない。この大宇宙を創造されたお方だけです。そして、愛する森菅子お母様は、この創造主なる神、支配者なる神と繋がる様になったから、結局まことの幸せを知る様になったのです。この幸せを得るために、どうしたらいいなのでしょうか? まあ、聖書は簡単に言っています。「悔い改めて信じなさい」、意味は悔い改めてから信じてもいい。すなわち、真心から私も完全ではない。私も過ちを犯す者です。ごめんなさい。そういう心構えがあればOKと聖書は言っています。お母様はそれを素直に信じることによって、やっぱり重荷から解放され、前向き生活する様になり、結局希望をもって向うことが出来たのです。
まあ、パウロという男はテサロニケという町に住んでいる人々に次の様に書き送ったのです。「あなた方こそ私達の誉れであり、また、喜びです」 まあ、一足天に召された菅子お母様も、まあ、この言葉の示す様に、私達の励ましであり、喜びでした。イエス様を信じる者との交わりは、お母様にとって非常に大切だったんです。けどもお母様は、信ずる者の交わりの大切さを知る様になっただけではなく、機会があれば皆と一緒になりたいと切に望む様になったのです。一体どうしてこういうふうになったなのでしょうか?
菅子お母様は、次のちょっと面白くないことを確信したのです。即ち、人間は生まれつきわがままなんです。過ちを犯すことによって罪人になるなのではない。罪人として生まれちゃったから、過ちを犯したくないけど犯す。私は自分で自分の救うことが出来ない。所謂良い行い、如何なる努力も自分の救うことが出来ない。ただ、代わりに十字架の上で犠牲になったイエス様だけが、救いをもたらすことが出来る。イエス様が私の一切のわがまま、過ちを贖う救いの代価を払った。救われる条件とは、聖書の知識を得ることでもないし、より良い人間になるのでもないし、献金することでもない。条件とは、ただ悔い改めることと信じることだけです。もちろん、人間は悔い改め様と思っても無理です、出来ません。光が光によって照らされなければ、信じ様と思っても無理な話です。信仰の創始であるイエス様によって、信仰が与えられなければ無理な話なんです。ですから、お母様は確かに、もう、ゴールインした。けど、天国で、やあ私は悔い改めたから、私は信じたから入っちゃった。と、言えないと思う。どうして入っちゃったのか、幾ら考えても分からない。やっぱり、全部イエス様のお蔭ですとしか言えない。
まあ、ローマの刑務所の中で、パウロは次の様に書いたのです。「私にとっては生きることはキリスト」 意味はキリストから離れたらもうお仕舞い、一歩も歩むことが出来ない。守られ支えられなければお仕舞い。「私にとって生きることはキリスト、それから、死ぬこともまた益です」、損ではない。「しかし、もし肉体の命が続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだら良いのか私には分かりません。私はその二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。実はその方が遥かに優っています。」 お母様も同じ気持ちだったんです。世を去ることとは、お仕舞いじゃなくて、キリストと共になることです。そして、ほんとはそれはずうっと優っている。まあ、私達の愛するお母様は、遥かに優ったものを得たのです。ほんとにうらやましい。私達はみんな追い越されてしまった。ねえ、今度、シドニーでね、オリンピックあるでしょう。もうみんな必死になってね、もう練習して頑張っているんですけど、今現在、ドイツのベルリンでもうみんな馬鹿らしく練習するんです。まあ、一番になるとね、金メダルもらえますから、みんなもう大騒ぎでしょう。ね、お母様はゴールインした。もう、私達はちょっと気の毒な連中たちで、本当にそうよ。私は死ぬと先にイエス様と一緒になる、本当に、うらやましい!。結局、お母様は死を恐れる恐れから、解放されました。お母様は希望を持って、安心して死に向うことが出来たのです。そして、彼女はイエス様の元であれば、如何なる苦しみも欠乏も悲しみもないと確信したからです。
このパウロとは、まあ死ぬ前に、殉教の死を遂げる前に、彼の最後に手紙の中で次の様に書いたのです。「私は勇敢に闘い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、木の栄冠が私のために用意されているだけです。彼の日には、正しい審判者である主がそれを私に授けて下さるのです。
私だけでなく、主の現われを慕っている者には、誰にでも授けて下さるのです。」 まあ、パウロは、「私は勇敢に闘った」、お母様も「私は闘った」 と言えたのです。結局、人生とはそんなに楽なもんじゃない。
信仰生活も散歩道じゃない。闘いそのものです。まあ、菅子お母様は、「私は闘った」ということが出来たのです。このお母様の生活の結末をようく見るべきです。まあ、たぶん世界一の音楽家、ヨハン・セバスチャン・バッハは何百年前に、もう素晴らしい音楽を作ったんです。彼は次の言葉を使って音楽を作ったんです。「私は満ち足りている」、満足しきっている、喜び、平安、希望に満たされているという意味、「私は今日にも喜んでこの世を去ろう。私は満ち足りている、例えこの世と別れる時が今であっても、私は喜んでいよう。私は満ち足りている」と。「さあ、別れを告げよう。この世よ、さようなら。私は喜んで死を待ち望む。」 まあ、この個所の音楽を聴くと踊りたい気持ちになる。もう、喜びそのものです。言葉で言い表せないこと、音楽で以って言い表すことが出来るのです。そして、バッハは、「喜んで死を待ち望む」と。聴くともうほんとにもう嬉しくなる。結局、死んでからイエス様と一緒になることとは、どういうものであるか、まあ想像することが出来ない。まあ、「私は喜んで死を待ち望む。ああ、今にもその時が来ますように。その時、この世に私を繋ぎとめる全ての苦しみから解き放たれるんです。」
まあ、愛する森菅子お母様も、結局同じ思いを持っていたのです。お母様の確信に満ちた言葉は、イサヤ書の12章2節に書かれています。「見よ、神は私の救い、私は信頼して恐れることはない。やあ、主は私の力、私の誉め歌、私のために救いとなられた。」 まあ、我々もう既にイエス様を知る様になった人々にとって、愛する森菅子お母様の天に召されたことは、一体何を意味しているなのでしょうか? ロマ書13章14節に、「争い、妬みの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をしようではないか」と書かれています。正しい生き方をすることとは、一体何なのでしょうか? まあ、眼を覚ますことであり、主の前に静まることであり、
祈り続けることです。初代教会の人々は、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私達の念願とするところは、主に喜ばれることです。」 お母様は人間に喜ばせようと思っても無理だと分かったんです。ね、人間を喜ばせようと思えば、ある人々は感謝して嬉しくなる。他の人々は誤解して批判する。人間はそういうものなんです。ですから、お母様も人間だってどうでもいい。
私の念願とすることは、主に喜ばれることです。そうすると人間の恐れる恐れから完全に解放されます。正しい生き方をする人は、自分のわがままを憎む様になる。まあ、自己実現じゃなくて、自己否定になる。面白くない。結局、人間の考えている思っていること正しいかどうかわからない。ですから、お母様も確信したんです。イエス様を信じることは自分を信じないことです。大変です。でも、解放を得る道であります。「私にとっては生きることはキリスト、死ぬことも益ではない。あ、損ではない益である」 とパウロは書いたのです。結局そういう意味で、私達の愛する菅子お母様は、圧倒的な勝利者になったんです。勝利とは一体何なんでしょうか。まず罪の問題の解決です。罪滅ぼしのために人間は何にも出来ません。どういう宗教に入っても、いくら聖書を読んでも、金を出しても何にもならない。愛する菅子お母様はそれを確信したんです。イエス様は宗教と関係のないお方です。もちろんキリスト教と関係のないお方です。当然です。イエス・キリストは罪滅ぼしのために死なれたから、だから私はこのイエス様に頼ります。第二番目、勝利とは孤独からの解放です。ちょっと寂しいけど、一人ぼっちではない。イエス様は何時もついてる。決して私から離れず、私を捨てないと愛する菅子お母様は確信したのです。もう一つ、勝利とは死を恐れる恐怖から解放されることです。安心して、希望を持って死に向うことが出来ることです。初代教会の人々は、そういう人々だったんです。彼等は次の様に書いたのです。「死よ、お前の勝利は何処にあるのか。死よ、お前の富は何処にあるのか。神に感謝すべきです。神は私達の主イエス・キリストによって私達に勝利を与えて下さいました。」 愛する菅子お母様は、ロマ書14章8節に書かれている様に言えたのです。「もし生きるなら主のために生き、もし死ぬなら主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても私は主のものです。」 これを確信出来る人は幸せです。私は主のものです。もちろん、それだけじゃなくて主ご自身が私のものです。私は迷いやすい、弱い、何も知らない、何も出来ない羊の様なものに過ぎませんけども、羊飼いなるイエス様は、私の近くにおられるから、だから、もう満足です。乏しいことはない、死の影の谷にあることがあっても、私は恐れません。主は共におられるからです。
天国の状態について、まあ、聖書は沢山書いてない。人間の言葉で言い表せないからです。全く無理です。一箇所だけ読みましょうか。まあ、ピンと来ない。ですからちょっと寝てもいいかも知れない。「彼らの目の涙をすっかり拭い取って下さる。最早、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。何故なら以前のものは、最早過ぎ去ったからである。最早呪われるものは何もない。最早、夜がない。神である主が彼等を照らされるので、彼等には灯火の光も太陽の光もいらない。」 ピンと来ない世界です。ね、我々にとってこの太陽は、如何に大切であるか。まあ、言葉で言い表せないほど、もちろん、最近みんな不平不満言ってる。「暑い、暑い」 けどサウナだと思えば、サウナは身体のためにいいでしょう。そうしたら、ちょっと違う気持ちになる。けどもね、太陽の光、太陽の暖かさがなければ、僕専門家じゃないけども、恐らく5分以内、この地球は氷の塊になります。命は一遍に死ぬんです。そんなに大切なんです。太陽は、けど、天国で太陽だって要らない。ですから、想像出来ない世界です。もちろん死もない世界、考えてください。悲しみのない世界、孤独のない世界、全く考えられない。けど私達の愛する菅子お母様はゴールインした。この世界に入っちゃった。うらやましい。まあ、もし私達も早く来たいと思う様になれば、お母様は必ず大いに喜んどるのです。もし、お母様はちょっとだけ、挨拶のため来ることが出来れば、まあ言うでしょう。「私のために別に来なくてよかったけど、天国は考えられないよ、皆さん。お願い、イエス様を信じて、みんなと一緒になりたいから」 と言うに違いない。まあ、イエス様を信じることとは、キリスト教に入ることを意味しているんじゃない。イエス様を信じることとは、祈ることです。イエス様に話すことです。イエス様は、私もわがままなんです。過ち別に犯したくないけど犯す。けど、自分自身を変えられないし、罪滅ぼしのために何も出来ないから、ごめんなさい。憐れんで下さい、と祈った後で、許されたと信じることが出来る。どうして? 勉強して分かったからじゃない。分かるもんじゃない。いい気持ちになったからじゃない。気持ちと関係のないものです。私達はどうして信じることが出来るかと言いますと、まあ、お母様に聞くと言うでしょう。ね、イエス様言ってるから信じればいいだろう。イエス様は、人間だったら、やあ危ない。騙されるかもしれないからです。けども、十字架の上で人間一人ひとりの代わりに死なれたイエス様は詐欺師でもないし、うそつきでもないし、自分の約束を守るお方です。イエス様は、へりくだればOKと約束したから、だから、悪かった、ごめんなさい。許してという態度とった後で、イエス様は私をも受け入れたと、素直に信じ、感謝することが出来るのです。これこそが、私達の愛する森菅子お母様の経験だったのです。彼女の生活の結末ようく見て、彼女の信仰に習いなさいと提案されているんじゃなくて、命令されています。従わないと罪です。損します。お母様は、私は死んでもこれは決して損ではない。益であると確信すること出来たから、やっぱりイエス様は凄いと言わざるを得ないなのではないでしょうか。(完)

English

4 Sept 2000 Imabari City

Next

森菅子姉の昇天式でのベック兄のメッセージ全文

Back

資料の提供は松山キリスト集会の皆様のご好意による