part.52          

     
    

      今回の話は、ドイツの哲学者カール・ローゼンクランツ(1805〜1879)が日本で
   いえば江戸時代の末期、1853年に刊行した『醜の美学』という古典的な名著の
   紹介が最終的な目的である。
     
 その非常にユニークな論旨は、もう半世紀も前に瑛九からその片鱗を聞いて相当な興味
をもったことがあったが、まとまった参考資料がなく、研究熱心な瑛九周辺の画家、写真
家たちの間でも話題にならず、時は過ぎ去った。  
     
 それが今年の2月、やっとドイツ文学専攻の翻訳家、鈴木芳子氏による本邦では初訳の
全文が出版された。ぼくには何よりの朗報で、新聞広告でそのタイトルを見た瞬間、書店
に電話して購入を申し込んだ。(発行所 未知谷)
    
  2週間後に手にしたこの著作は大変なボリュームで、もし夕刊の新聞小説並みに掲載す
るなら1年2ケ月分ほどもあった。
     
 文章は、万象をすべて整然と概念構築しなければやまないドイツ観念論の特色がみられ、
しかもドイツ人らしいわざとゆるいテンポで物事の真相に迫ってゆく方法は、一気に読破
できるといった本ではなかった。
   
 (以下は、この本の文章をそのまま引用した概略で、詳しくは原書を通読されたい。
  この本は識者の間では関心が深く、現在多くの図書館に収蔵されていると聞く)
      
    

< 新たなパラダイム >

     
 
 『醜の美学』の論旨のキーポイントは、着想のユニークさにある。ローゼンクランツは、
「美」の対極に「滑稽」を置き、「醜」をその中間の相対的存在として位置づけた。
     
 曰く「醜は美と滑稽の中間に位置する。滑稽は醜の要素なくしては成立しえない。滑稽
は醜から開放され、美の自由へと戻ってゆく。」
  「美は美であるために醜を必要とせず、引き立て役がなくても美しい。しかし醜は美を
脅かす脅威であり、美の本質を通して醜を有するというそれ自体矛盾する存在だ。美には
美の規準があるが、醜は美を自分の側にひきつけてのみ存在しうる。美は善と同様に絶対
的なものであり、醜は悪と同様に相対的なものである。」
     
 また、「醜のメタモルフォーゼ(変身)は、美への回帰が可能なカリカチュアになるが、
機智・自由・大胆さ・優美さ・しなやかさがなければ、カリカチュアは単なる厭わしい悪
魔めいた歪曲になってしまい退屈で耐え難いものになる。
     
 カリカチュアが不滅の明るさに満ちた美になることができるのは、空想へと駆り立て、
奇想天外なすばらしいものへとふくらませるユーモアの力によってのみである。攻撃性を
もつ風刺とちがい、ユーモアには寛容と慈愛の精神がある。」という。 
     
 ローゼンクランツの評論は、造形芸術ばかりでなく、精神・肉体や演劇・オペラ・音楽
から自然界の植物・動物・虫・結晶その他幅広い分野の具体的な実例を挙げながら延々と
展開する。
     
 これまでに知っていたぼくの知識では、醜については相当古くから論じられてきたよう
だが、醜は美の陰の部分にすぎないといった程度で、近いものでは肉体、容姿、都市や田
舎の景観などに関するものなどで読めるものは殆どなかった。
  

   
    

この本は論評もユニークなら
  装丁のイラストも異様な迫力がある
    こんな大口と言い争ったら
          負けてしまいそうだ

   
 広告では、<負の概念を発光させた古典的大著だ>といい、醜とは美という正の概念に
よって負に設定された省察概念であるとする抽象的な規定から出発して、『芸術は醜を浄
化して滑稽に転生させ、美の普遍的法則に服従させる。醜はまた喜劇として市民権を取得
する。』さらにまた、『死・腐敗・排泄・嘔吐といった生々しく有機的な事象をも呑みこ
み片っ端から咀嚼してゆく』といった刺激的な解説もあった。
   
 ある評論家は、この評論を<この「醜の福音書」は150年の歳月を隔てて今なお瑞々
しい。日々新種のウィルスのように醜が増殖する現代世界にあってこそ、美の恩寵をもっ
て醜を救済する希望はひとしお魅力的に輝く。>といい、読者も自分の審美眼で判定に加
われるから面白く読めるだろうという。
    
 ぼくはこの本を1ケ月にわたって何回も読み返したが、直読してすぐ答えがでるといっ
た内容ではなく、ぼくのごく初期からの写真藝術への想いやその変遷を振り返らせ、さら
にその先への問題を提起するものだった。

    
   

ぼくの芸術観の変遷

    
  ぼくは、中学2年生のときベスト判カメラを入手し、同じ中学の物理の教師で大名刺判
のカメラをもつ叔父と一緒にお座敷暗室をやっていたせいもあり、入門時から昔風にいえ
ば藝術写真を志していた。
   
 小学4年から世界美術全集を見始めたぼくの好みは、モネの優雅な睡蓮やキリコのパー
スペクティブと明暗の強い風景だった。
 そんな風景や花だけがぼくの被写体で、芸術は美の表現なのだという観念しかなかった。
    
 それが25歳で丹平写真倶楽部に入会してからは、捉えどころのない美について語りつ
くすことは困難だ。美意識は一様ではない。などと思いながら、先輩たちの刺激で、異様
でスケールの大きい風景、不思議なオブジェといった、よくわからないがぼくの心底に響
く写真をと心掛けるように変っていった。
    
 こうなると芸術は美だけではおさまらず、そこで思いだしたのが三位一体「真・善・美」
という言葉だったが、後にヘーゲル美学にその詳しい解説があることを知った。
     
 でも、それだけでは足りず、意識はやがて枯死寸前の花や崩壊するビルなど迫力ある瞬
間への興味から、更に凄惨、虚無美の萌芽、悪魔的様相にまで拡がることになった。こう
なるともうその辺の美学では間にあわない。
 そんなとき、瑛九から聞いた言葉が「醜の美学」だった。
 

   

< ローゼンクランツによる「醜」の宇宙 >          これは、「醜の美学」を理解しやすくするための概念図である     

    

< 気になる写真 >
   
 ぼくの長い写真生活で、なんとなく気に入った写真だが、全紙に伸ばして展覧会に出す
場合や一般的な応接間での鑑賞向きにはどうか? といった写真がキャビネ・サイズのま
まで現在も手元にあり、いわば門外不出の作品として大切に保存されている。
    
 そんな写真は、壮大とか崇高には程遠い。それらは、ぼくの生い立ち、少年期や青年期
の入口時代を原点とした身辺雑記のようなものだが、作品としてはどんな位置づけがされ
るのだろうか。
    
 ここにそんな写真の一部をあえて掲載し、醜の美学との関連を考えてみることも、すべ
ての写真をさらに広い視野からみる一助となればとも思う。

    
                         
          

高原の湖への逃避行

     
 これらの写真は、その傾向を明確にするために、ある特定の時期と場所で撮られたもの
を掲載することにした。
 その場所は、高原の湖<野反湖>、時期は30歳から34歳までの5年間であった。
     
 ぼくの27〜29歳の2年間は、写真誌の編集部に勤務。その後はフリーで34歳まで
は写真誌に口絵作品を掲載したり、アマチュア向き技術指導の原稿書きをしていたが、ど
ういうわけか小学館や学習研究社の幼少年向きの月間誌の表紙撮影の依頼が多く、しまい
には遊園地の広告までやることになった。
    
    
 そんな毎日は自主性が無く、プロへの毅然とした目標もなく、その日暮らしのような生
活に追われるのが嫌で、ちょっとした暇を見つけては喧騒な東京から逃げ出した。
   
 行く先は、群馬県六合村にある野反湖。毎度、アシスタントや友人たちを引き連れて何
度も出かけ、各自まったく勝手ままフリーな数日を過していた。これはストレス解消の特
効薬になった。
    
 ぼく自身は、この高原のこの上なく清浄な空気を吸いながら、ふとした記憶の再現から
新たな発想と勇気を得た。
 その記憶は、どこかで見た『世界の共通語?それは科学だ』という言葉で、「科学は平
凡人でも解明できて、それは誰にも理解でき、共有できる世界だ」ということであった。
(宗教などはかけ離れて,万人にわかるものではない)
     
 この発想は平凡人のぼくでも、コツコツ辛抱強くやる気なら、写真の新しい特殊技法の
開拓も無理ではなかろうといった気楽な気分になれ、その数年後には本格的な実験に入れ
た貴重なチャンスをあの時に得たという想いがある。
   

「野反湖の遠望」
 野反湖は2000m級の山々に囲ま
れた1500mにある小さな湖だった。
  
 当時の此処の特色は、バンガロ
ーには電気もないランプでの素朴
な生活で観光地にありがちなマイ
クの騒音が全くないところが気に
入った。
     
 ノゾリキスゲをはじめ300種以
上の高山植物があるといわれたが、
ぼくが気のゆくままに写した写真
には、美しい花はほとんど無く、
まだ丹平写真倶楽部時代の延長だ
った。

                     < 気になる光景 >              

     高原の野草たち  (1954)

              

「 高原の野草たち 」

    
 植物はほとんどが美しい。ぼくは懸命に生きている野草たちを雑草とは呼べない。どん
な小さな草にも名前があるからだ。
 
 彼らは群生すると一面にはびこり自己増殖して醜くなることもあるが、ぼくは彼らが混
在してそれぞれが程よく共生しているこんなシーンが好きだ。
      
 全山が野草いっぱいというこんな山でも、じっと見つめていれば、何を何処を写すべき
か、彼らのほうからサインが送られてくる。その構成部分にはエネルギーと音楽のような
リズム、またアンバランスなバランスといったものがあるからだ。
    
 こんな写真は、小さいサイズでは地味だが、全紙くらいに引き伸ばすと、その持ち味を
発揮してかなり見栄えする画面になる。

       

         

    虫喰い葉  (1955)

             

            

「 虫喰い葉 」

     
 ローゼンクランツ流に言えば、「生きた植物が病気になり、そのために正常だった形が
腫れあがり干からび、矮小化し奇形になり、常態の色彩が色あせ変色しても自然発生的な
ものであって、異質で残酷な掟ではない。植物にとって異質なものは、嵐、水、熱、動物
や人間から加えられる暴力だ。」ということになる。
 
 しかし、これだけ虫に喰われた場合は、自然の摂理に含まれるものといえるだろうか。
ぼくはこんな写真を撮りながら、「生きものは、かくあるべき姿でなく、かくあることが
できた姿で存在する。此処ではそれらが実に明快にわかる。」と思った。
             

                                  

      霧の中の古木  (1956)

                   

            

「 霧の中の古木」

   
 この古木は山頂近くにあり、目立つ存在でこの山の主のように見えたが、まだ若木の
ころからその枝は、きびしい季節風に耐えながら捻じ曲げられ、幾星霜を経てきたのだ
ろうか。あまりの異様な枝ぶりで痛ましく、カメラを向ける気にならなかった。
                                 
 それが翌々年訪れたときには、深い霧のためであろうか、その姿は和らげられ、突然
メタモルフォーゼしたかのような変化に、阿修羅像のイメージが生々しく甦ってきた。
 この写真は、決定的なその瞬間、そのときの感動のままに撮ったものである。
       
 奈良、興福寺の阿修羅像は三面六臂。その異形の六本の腕の肩のあたりに似た印象が、
よみがえったのであろう。ぼくはこんなイメージの転換、とんでもない飛躍に我ながら
驚いたものである。
 
 その日以降は、もうもう痛ましい見方はすっかり消え、親しく懐かしい古老の人に接
するような木になった。

   

        

         

「阿修羅像」
 これは成年男子のプロポーションであ
りながら、無駄な筋肉をすべてそぎとっ
た、仏像には珍しい細身の体で外敵と戦
う八部衆のひとり阿修羅像である。
   
 その眉根を寄せた眉間の凛凛しさ、怒
りを込めながらも涼やかに澄んだ眼差し
は、天平の昔とはとても思えない現代の
少年を、いや平成の少女をもおもわせる。
   
 ぼくは怜悧な知と優しさを備えている
この像に形容しがたい親近感を奈良に住
んだその昔から覚えてきた。
   
  仏の真実がこれほど芸術の香気高く表 
現された例はまれであり、超現実性と現
実性の調和的統一を追及する天平芸術の
精華が、まさにここにある。
   

       

   夜明けのシルエット (1957)          

                    

            

「 夜明けのシルエット 」

     
 このシルエットの黒は、機能性が強調され、音楽のようなリズムがある。
ぼくは、月明の深夜に、この密度あるシルエットのシーンを眺め、湖のある高原の気配と
遠い宇宙を感じ、そして夢を見た。
 黒は夜の色。闇の色。陰の色。すべてを包み隠して、そこは神秘の世界か。世俗を脱し
た静寂の色でもあった。
           

  

       

「30代初期の玉井」
 アシスタントが撮ったこの当時の玉井の顔つ
きは、野放図そのものといった感じ。
 この数年は、まだ六帖一間のアパート暮らし。
スタジオも持てず、写真の特殊表現や本格的な
コマーシャルも五里霧中だった。
              
 それでも「夢と希望を持たねば男ではない」
と広言していたぼくは、まるで少年のように宇
宙にあこがれ、天文・気象・科学・哲学・その
他もろもろに通じ、森羅万象と話し合えるとい
う宮沢賢治のような人物になりたいと願い、
 写真の方は、ゴッホの<烏の群れ飛ぶ麦畑>
クラスの作品を夢見ていた。
     
 しかし、日々飛び込んでくる仕事は、生活の
糧としては有難かったが、そのギャップがあり
すぎて、フリーターのような気分はぬぐえず、
 夢を持ちながら開き直ったような生活が、こ
んな顔になっていたのだろう。
 とにかくそんな当時の唯一の記念写真として、
ここに残しておくことにした。