part.45             (2)    

    
    
  前回に続いて、ぼくの花火によるちょっと風変わりな作品の紹介をしたい。
 ぼくの野放図ともいえる花火の撮影方法は前回にのべたが、毎回の撮影が未知との遭遇
であり、そこにあるモチーフを模倣も再現もしない撮影であり、これらは自然主義を超え
た表現になる。
 こうした写真表現の世界は多様で、花火とのコラボレーションは最高に面白い。 
    
 ぼくがここに紹介する作品は、従来の花火の概念で見ることは到底不可能である。そん
なことから、これらの紹介に当たっては未知のところが多すぎて、当惑しているのが現状
である。でも、見せる以上書く以上、納得がゆくものを残したいという心情は変わらない。
     
 ぼくは、これまで自分が体験してきた中で、創作上これだけは変わらない真実、確かな
歴史的な言葉の数々を紹介してきたが、花火のこうした表現への道はほとんど類例がない
ので、表現のルーツを初心に帰って見直すことで精一杯といったところ、今回はその解説
の一助として唐突かもしれないが、「ケルト美術」を参考・引用した話をしたい。
   
    
    
< ミクロからマクロへ > 
    
 ぼくは、プロ写真家としてほとんどの写真の結果は、撮影以前に80パーセントは予想
がついたが、この花火の撮影技法では50パーセントはまるで予想もつかない写真が続出
した。
  
  そんなことから、ある日ふと、「打ち上げ花火の多くは、円形の花と似た放射状の形に、
色光やリズムが生み出す豊穣性への感動を託したものであろうが、それに対して勝手なが
らぼくは、敢えてカメラを振り回し、抽象的なシュルリアリズムまがいの映像を追求して
いるのであろう。」と思ったときから、花火現場のダークなこの空は果てしない宇宙であ
り、ぼくが変貌させたこの花火による作品はミクロの世界、現実はもっとスケールの大き
いマクロの世界なのだ、そしてミクロの追求はマクロに通じることもあるのだ、と思うよ
うになった。
    
 といって、ぼくはこの風変わりな作品を否定したり、またことさらに賞揚するつもりで
もない。現在は、こうした創作を続ける事がどんなことになるのかを追求するだけである。
    
  好奇心が強く文化史好みのぼくは、東洋では紀元前200年前の前漢時代に造形の原理
が完成したといった自説から、ヨーロッパでの紀元前のそんな時期の、文字の使用を禁じ
られ、自身の手になる「歴史」記述を残さなかったケルトという、もう一つの古代西洋文
化にも、ぼくは強い関心をもっていた。
    
  ケルト人のその特異な抽象的で装飾性に富んだ造形はローマ帝國の繁栄にも冒されず、
広くヨーロッパ中央部から島嶼部まで拡がり、それぞれ地方のその後の造形の基礎的な役
割を果たしている。
 ぼくは造形の原点が、素朴にダイナミックに垣間見られるこの「ケルト美術」には、ぼ
くの捉えたある種の花火に共通したところがあるように感じ、その意想外の芸術表象の構
造分析をとおして、今回の一部作品の補助的な解説を試みることにした。
    
  例によって、題名はニックネーム代わりとして、これにとらわれず、自由勝手に
  見ていただきたい。作品ナンバーは前回に引き続いたものとしてある。

      

   

             作品 H < 飛び散る >           2004

     

             作品 I < 錯乱 >           2004

   

             作品 J < 首飾り >           2004

          

         

    作品 H  < 飛び散る >

      
 この写真には、春嵐に激しく花粉が飛び散るようなダイナミックな動感を感じた。
 花火の静と動の組み合わせを狙って1本を撮ったが、何とか見られるものはあったが、
思わずハッとするような、予想外にパンチがある作品はこれ1枚のみだった。
     
 その成因は、拡大された部分だけでのミクロ的な視覚の多重構成にあったようだ。
いくら無手勝流の撮影でも、まったくのイメージなしではカメラの振り回しようがない。
それが現場でのヒラメキとなる前提には、日頃からの失敗作の分析が必要だ。   
   

   作品 I   < 錯乱 >  

   
 これを見た瞬間のショックは、心理的な「狂乱」を感じたことである。ありそうでない
作品。線状にシャープに飛び散る火玉の一瞬と煙だけのエッセンスを克明に捉えるつもり
がこの作品になった。この印象は、ある時期のケルト芸術に見られる奇怪でデモーニッシ
ュなものを思わせる。
       

   作品 J  < 首飾り >  

    
 この写真から受けたぼくのイメージは、どういうわけか遥かピラミッド時代の古典的な
女性像のプロフィールと超モダーンなシルバーに輝く首環とのダブル・イメージであった。
 西洋の古代の戦士は男女共に、トルクと呼ばれた華麗な首輪をつけた時代があったこと
は知っていたが、その発展系を思ったのであろうか。
    
 撮影は丹念に小さな円を描きながらの多重露光。対角線に入った長楕円の環がこの作品
を生んだ。
   
   
 ぼくは、こうした花火と全くかけ離れた作品を見ながら、ふと思う。
「人間こそが万物の尺度なのだ。そしてあなた自身がその尺度になって、レンズをもって
ミクロやマクロの世界を創れるのだ。自分の世界を創りだすことこそ人間の宿命なのだ」
と、これはだれかの言葉だったが、その人の名前が出てこない。
   
    
  以上3点の作品は、なるべくカメラは大きく動かさないで、単一な被写体の動き
  の変化を見ながら、ある一瞬のフォルムや色彩のバリエーションを選んでの組み
    合わせ、多重露光による構成を試みたものである。
     

    

       
            

< ケルト文化について >
    
 これらの作品の基本的なヴィジョンの解説は、ケルト文化の概観を知るだけで
もぼくの言いたいことの大半がわかると思うので、以下にそのスペースを設けた。
    
 ケルト文化をぼくが知ったのは、1960年だったが、これを簡単に説明する
ことは、非常に困難でここでは故事来歴を詳しく述べる暇がないので、骨組みだ
けを簡略に知ってもらうために、昨今のケルト・ブームの火付け役になったとい
われる、この道のスペシャリスト鶴岡真弓氏の著作「ケルト美術への招待」から
そのキーポイントを引用しておくことにした。

          
    
   
   

 ヨーロッパの古典文化に権威を与えるギリシャ・ローマの「書き言葉」とケルトという
書き言葉非在の文化には、鮮明な文化的コントラストがあった。
    
    
  ギリシャ・ローマは世界の中心に「人間」をおき、可視的世界を模倣的に描き、安定し
た遠近法の中でものを捉え、そのあるべき姿の全体を描写しようとする。
    
  しかし、ケルトは三次元のイリュージョンを懐疑し、部分を細密に誇張し、それを真新
しい奇怪な存在として現出させる。彼らが創ったものは「それが麦畑であるあることがわ
からなくなるほど、対象にぐっと近づく」位置で、「指と化した目」のみが触覚できる存
在のカオスである。(「指と化した目」については、巻末に詳述する。)
    
 ケルトの目は、眼前に展開している可視の世界像を客観化し、三次元の奥行きのなかに、
その全体を統一的に再現させようとするのではなく、ものの質感や色彩やフォルムを、可
能な限り微細・極小の中に拡大し、細部の存在性を強調して、ある生成的な運動のミクロ
コスモスを現出させようとする。遠近法の無効によって信じられた世界像を、顛倒させる
こと、そして視覚を全体から細部へ集中させる能力によって、世界に潜む小さな存在や周
辺に棲む要素が、眼前に踊り出るシステムをつくり出すことである。
    
 まさにこの光景こそ、ケルトのミクロな文様空間の内側に隠された構造である。小さな
壷の中に大宇宙があったという中国の「壷中の宇宙」のたとえのごとく、極小世界の中に
こそ極大世界が生まれてゆくという視覚(ヴィジョン)なのだ。

「金貨」裏 径 2.1cm 重さ7.75g 年代不詳
金貨のデザインは、その国の帝王の顔など権
威をしめす物が多いが、このケルトのものは
人間の顔の馬が走り、唐草文を手にした女御
者と下には車輪文がある。 (拡大図)

「水差しの装飾部品」 紀元前3世紀
複雑な構成の中心に、動物の顔があらわ
れている。把手の下には怪物の顔がある。
ケルトの造形価値は、独自の象徴物を駆
使して自分達の表現を追求した点にある。
      
                                            

            作品 K  < 流れ > 1       2004

                              

            作品 L  < 流れ > 2       2004

    

            作品 M  < 流れ > 3       2004

             

    
   
  

作品 < 流れ > 三態

       
 作品Kは、はじめ、タイトルを<ゴールデン・ジェットストリーム>と題して、1点の
みを掲載する予定であったが、その変化が面白くバリエーションもあわせて解説すること
にした。
   
  これは去年、多摩川・調布会場でのこと、この日「そろそろ思い切ったことをやらねば、
変わりようがない」といったことから、周囲の不審な眼をかえりみず、思い切りよく、フ
リーハンドでカメラを上下に動かしながら、水平に、左向け左の要領で90度、最後には
180度と、いろいろ体ごと振り回してみた。
  結果は90度がまとまりよく、何とか揃って不思議な映像となっていたのがこれである。
それにしても、このバラエティある3点が1本のフィルムに収まっていたことには驚いた。
何度も同じことをやっていたが、それだけ花火の方が多種多様といったことであろう。
    
  ぼくとしては、あんな乱暴な撮影で、これだけ品のいいのんびりした写真ができてくる
とは思いがけない僥倖で、多様な色光の流れとマクロ的なスケールが味わえる望外の作品。
  こんな風景は、どこにも見られない自分の触覚が創った世界。お気に入りである。

                

              作品 N  < 仄かな律動 >             2004

          

    
    
   

作品 N  < 仄かな律動 >
                         
  はじめ、この写真の小さなプリントを見たとき、シュワーと泡立つサイダーのような印象
を感じたが、パソコンの画面上で拡大したり、トリミングしたり、と眺めているうちに、
だんだん印象が変わってきた。
      
 それが心臓が動いているように感じ始めたのは、撮影時にベランダに両肘を付き、カメラ
を細かくブルブル震わせていたことに原因があったとおもわれる。密度のある細い線が微妙
に交わり、それらが左右に直線状にも繋がっている。
     
  このミクロ的な視覚の画面には、遠近法の固定的なパースペクティヴや中心がないことか
ら何処までもずれてゆく視点を促す。視点には指先にカメラの目があるような触覚もあり、
ミクロとマクロの世界を行き来するような感じの作品である。
友人たちはプロ好みという。

   

                                

 

               作品 0  < 浮遊する >            2004

                   

     
    
   

作品 O < 浮遊する>

     
   
 このクラゲか綿菓子のような写真は、どうして出来たものか、まったく見当がつかない。
花火の核となる部分がどんな物だったのか、全体を包む柔らかい線、足のような線など、
まるで鉛筆のスケッチ画のようだ。
      
  打ち上げ花火でこれだけ単一単純な物は思い浮かばず、いまだによくわからない。
  そのままでは、単調に過ぎるので、下部に色光をグラデーションで入れた。
  突然変異の典型的な作品だが、4,5歳児の落書きのよう、かわゆくてお気に入りのひ
とつである。 

    

                                        

               作品 P  < 饗宴の華 >             2004

                   

     
    
   

作品 P  < 饗宴の華 >

   
   
 この作品は、ぼくからの「花火たちへのオマージュ」のつもりで、ラストに掲載した。
普通の花火写真では、このシリーズにはふさわしくないような気分から、絵画風、パス
テル調のグラデーシヨン、色相に変えてみた。
    
 色と諧調の単純化には、PhotoShopで、実験的な試みとして色相、彩度、カラ−バラ
ンスをかなり大幅に変えたコントロールをしてみたり、シャープネスのコントロールで
ラインの表情を変えてみた。
 色彩、タッチともややエキセントリックな表現が狙いである。

                      

                        

 < 思うがままにやってみれば… >

    
    
    創作の原点は、先輩司馬遼太郎のいう『高貴なコドモの心』好奇心である。
   それを枯らすことなく、もち続けるのが生きがいでもある。ぼくはこの撮影
   をはじめてから、寄る年波でなえかけた好奇心が甦ったことを実感している。
    
 ここは、「何でもやってみれば」のコーナーである。
 今回は、この講座を見られた方、全員にぼくと同じ花火のフリーハンド撮影法を、ぼく
は自信をもっておすすめしたい。超素人大歓迎である。小学生からご老体まで誰でも大丈
夫。ぼくの作品を越えるものが出てくる確率は、宝くじよりはるかに高い。 
    
 家庭や学校で、子供にわざわざ<子供っぽさ>を教育する必要はない。現代の子供の感
性の凄さは、一昔前の息子たちの子供時代とまったく違う。時折やってくる孫の行動に驚
かされることが、ぼくはしばしばである。以下は、ぼくが小学生諸君にこの撮影の話をす
るなら、こんなことであろうといった内容である。
    
  諸君は、カメラにカラーフィルムを入れたら、ピントは無限大に固定することだ
  けは忘れないように。後は絞りをF5.6からF8くらい、長い露出の時はF11くらい。
  日頃、注意されるカメラブレを問われることもない。カメラの動かし方はまった
  く自由勝手だ。適当に丸や三角に動かしたり、踊る宗教風でも、ヨサコイでも思
  うがままにやってみる。
  露出はぼくの例では、タイムにして露光時以外はレンズ・キャップをつけたり、
  手でレンズを覆ったりでの多重露光。またカメラを動かしながら、5分の1から
  1秒といったシャッターを切ることもある。
                                   
  とにかく、こうして2、3本写したら、後は現像の上がりを待つだけである。
  何も写っていないことはまずないだろう。後は作者である諸君の選択眼にまかさ
  れる。「名作と迷作」の判断を間違えなければ成功である。でも、あまりにも見
  慣れない写真でとまどい、わからなくなったときは、色がきれいとか格好がいい
  とかそれだけで充分だ。  
  何回か写すうちに選択の眼も養われてくるから、これも心配ない。そのうちにぼ
  くがシャッポを脱ぐような構成の傑作ができるかも知れない。誰に相談してもわ
  からないときは、ぼくのところへEメ−ルで送ってくれば、見てあげるよ。
     
 ぼくは、花火写真のコンテストに、こんな写真が出品できる<フリー>というコーナー
を設ければ、小学1年生の新人写真家がでてくるかもしれぬ、などおもうことがある。
      
   
     
< 指と化した目 >
     
    
 話は大幅に変わるが、文中に引用したこの言葉についてひとこと。  
 これは、若い写真家を除いてその昔から、暗室で4×5判のパック・フィルムの皿現像
などをしてきた中年以上の写真家なら、大方がこれに近い体験をしたものである。
    
 フィルムの端の直角で鋭いコーナーは、現像液でやわらかくなった幕面に、ちょっと触
れただけでキズを付けてしまい使用に耐えなくなる。
 1ダースのフィルムを頻繁に上下を入れ替えながら進行する現像で、要領を心得てくる
と暗黒中でも利き手の指の先端に目がついたような感じになり、明るいところよりも微妙
な働きをするので、キズをつけるようなヘマはやらなくなる。
 こうなるとこの指先はもう本能に近い目、触覚を持ち、全身を代表する。
    
 こうした延長は、ベテランになるとカメラのシャッター・ボタンからレンズの先まで、
触覚が働くようなところまでゆくといわれたものである。
 ぼくが講座の中で、最後は体で、全身全霊でぶつかれというのもその延長での表現であ
る。最近は自動現像でそんな体験をする写真家は少ないだろう。やや残念に思う。