part.44             (1)    

    
    
 現代美術用語に、キネティック・ア−ト(Kinetic・art)という言葉がある。
これは「動く美術」といった意味で、美術に動きをとりいれる試みは、カルダ−のモビ−ル
などかなり早くからあったが、現在では光そのものを素材とするライト・ア−トと結びつい
て単なる動きの美術から、「光と動き」の芸術へと進んでいる。
      
 ぼくはそんな世界をかいま見ながら、花火という色光を素材とした自由な動きのある表現
を試み、これに「花火によるキネティック版」という勝手なタイトルをつけた。
     
     
 ぼくのこうした試みのルーツは、丹平写真倶楽部に入会した1949年当時にあった。
 新入門のぼくは、諸先輩の恐ろしくバラエティのある表現に刺激されて、何か変わったこ
とやらなければといった切迫感があった。 
                        
 ある夜、奈良に住んでいたぼくは、大阪からの帰り道、近鉄上六駅から近鉄奈良駅まで、
車掌さんに頼んで電車の最後尾の窓際に入れてもらい、小絞りにした35ミリカメラを後ろ
に向けてドンドン遠ざかる信号灯を写した。 シャッタ−はタイムにしてあるので、電車が
止まるとレンズを手で覆っていた。その繰り返しが終点まで続いた。
  
   

< 光 跡 > (路線 上六ー奈良)1949
     現像の結果は、信号の光源との距離による線の大小と電車の揺れによる不定型
   な軌跡の交錯に、予想外のおもしろさがあったが、あの当時はこれを例会に出品
     する勇気はなかった。
    (この古いキャビネ判の写真を見るとこの延長がPart29の「色光は踊る」
     に、更に今回の花火につながっていることがわかる) 
   
    
    
< 正確に写すことが能ではないこと > 
    
 ぼくは、テレビで花火を見る時は大人しく鑑賞しているが、それが現場へ行くと腹の中の
エタイの知れぬ虫が動きだし、それが時々暴れだして一種異様な作品をつくりたがるといっ
た自覚は昔からあった。それがあるキッカケからこの3年ほどは、カメラを振り回すことの
方が多くなった。 
                                    
 最近は三脚を立て、数発のきれいな花火をバランスよく構成するといった定型形の撮影に
はほとんど興味を失い、この巨大な超豪華な色光源を使って、今年は新しいどんなカラ−表
現ができるものか、そんな興味と期待に変わってしまった。
     
 もし、自前で被写体としてこれだけの色光源を打ち上げることなど思えば、こんなすばら
しいバラエティある色光源を、まったくタダで撮れるなど、大変なプレゼントをいただくよ
うで、本当に申し訳ないとよく思う。申し訳ないというのは、花火の作者が見せたいと思っ
ておられることとはまるで方向ちがいの見方、撮影・表現をするからだ。
     
    
 先頃たまたま、わが家にやって来たプロ写真家や弟子たち数人に、こうした15点ほどの
プリントを黙って見せたが、これがすぐ花火だとわかった者はほとんどいなかった。また、
その見方も評価もまったくさまざまであった。   
    
 こんな花火によるユニ−クな作品はあまり見かけないから、後2、3年撮り溜めて個展で
もやればとすすめる人もあったが、ぼくの余生は見当がつきかねるので、今回の講座と6月
の2回に分けて発表をすることにした。今回は比較的穏やかなものを、次回はもう少しまと
まったものを紹介したい。
     
   こうした作品はほとんどが偶然の所産で、撮影の技術も作品の内容解説も難しい。
  例によって、思い付くまま、気の向くままのよもやま話の中で、何とか説明したい
  と思うが、作品のタイトルもニックネ−ム程度のもの。題名にこだわらず、とにか
  く気楽にご覧いただき、読んでもらえればと希う。

          

             作品 A  < スパーク >           2003

          

         

作品 A  < スパーク >

      
    
 この写真を見た時は、作者のぼく自身がびっくりした。こんなアンテナがショ−トしてス
パ−クをしているようなシ−ンが写っていようとは、まったく予期しない出来事、撮影現場
での突然変異だった。
 その時、何かの本で読んだ「現場とは、未来を切り開いてゆく最前線のことである」とい
う言葉を、ぼくはハッキリ思い出した。
     
 これは誰が見ても、まさか打ち上げ花火とは思えないだろう。でも、これは正しく写真だ
からこそできるフォトジェニックな変身である。そんなところが、ますますぼくの好奇心を
あおり、深みにはまってゆくキッカケになった。
     

    

       

             作品 B  < フリーハンド >            2003

                

    
 
   

作品 B  < フリーハンド >

    
    
 ぼくが花火の写真を撮るようになったのは、もう20年以上前、都心から郊外の多摩市に
引越してからである。すぐ近くの多摩川の河川敷では、毎年多摩市と調布市が主催する花火
大会がひらかれ、大掛かりな隅田川の花火とちがって中規模のために、好みのカメラ・ポジ
ションが自由にとれることもあった。
     
 最初は基本どうり、三脚を立てカメラを固定して写していたが、やがて雲台のパン棒をゆ
るめて上下、左右リズミカルに振り回したり、ズ−ムを交えたり、例の「色光は踊る」の亜
流といった写真も撮りはじめた。でも、このバリエ−ションはパタ−ンとしての類型ができ
て仕上がり予想がつくために飽きがくる。それを打破するために、3年前から三脚の使用は
最低限にして、ほとんどフリ−ハンドでの動きを試みたのが「作品B」の類である。
      
 そんなフィルムの中に交って、突如現れた1コマが「作品A」であった。未だにこのどう
して出来たかよくわからない作品が、ぼくの次への新しいステップになった。    
 A、Bともにおおむね数回の多重露光だが、花火が開いた形を確認してからシャッタ−を
切るだけではおもしろくない。シュルシュルと尾を引いて上昇し、一瞬の間をおいて爆発す
る、この爆発寸前の一瞬にシャッタ−を開くと同時にカメラも動かし始めているといった際
どいタイミングも生かすことで、思いがけない、よりシャ−プな表現も捉えられるようにな
った。
      

    
   

              

            作品 C  < ラベンダー・グローリー >         2003

                 

    
   
    

作品 C  < ラベンダー・グローリー >

   
   
 この写真を一見した印象は、日本の国民的愛好色といわれる紫と、光り物の代表といわれ
るダイヤ的ダブル・イメ−ジがあるので、多くの人の目を引き女性には好まれるであろう。
    
 古代ロ−マでは、紫は皇帝にのみ着用がゆるされていた禁色であり、クレオパトラもたい
へん紫を好み富と権力の象徴とされてきたが、日本や中国でも高貴な人の色とされていた。
 青紫の色名は藤色、英名は「ラベンダ−」、紫への憧れはこの色がもつ優雅さと神秘的な
美しさにたいしてのものでもあったのだろう。
    
 ダイヤ的というのは、この画面中央の丸い強いハイライトのあるブル−・ホワイトの部分
をダイヤモンドに見立てれば、といった勝手な仮説である。それは多くの女性が光るものが
好きで、光りにたいする執着は、その輝きに透明感を伴えばきわめて高い確率で好感を持つ
といった色彩学の引用である。この場合、縁起物で見る御光(グロ−リ−)のような効果も
あろうか。
   
 技術的には、単純な二重露光だが、平面的な色の拡がりと立体的な光の2点の中心がピッ
タリ重なりあったところがキ−ポイントであろう。

                

              作品 D  < 墨絵風 >             2003

          

    
    
    

作品 D  < 墨絵風 >

     
   
 これは、色彩のある原画の色を真っ白に抜いて、後から真っ黒な空に色光を加えた墨絵風
な試作である。普通ならこの真っ白いところを白黒の濃淡にするところだが、それは平凡過
ぎて面白味がなかったのでこんな表現になった。                   
 バックへの露光は、「Photo Shop」のグラデ−ションで入れたり消したり、結
構楽しめる。

   

                                

 

     作品 E  < 光の噴水 >   2003

                   

     
    
    

作品 E  < 光の噴水 >

     
   
 これは、花火の発射基地を見下ろせる高いビルからの俯瞰撮影である。
 高い上空で見せる花火の発射時は、足下の形はまばらで散漫になる。何回か花火の現場を
経験すると、地面近くでの派手な演出とそれにふさわしい上空への花火の打ち上げ順序もだ
いたい予想がついてくる。
     
 これは2時間程のショ−・タイムの終盤近くのそんな頃合いをねらい、光の泉から上空へ
光の噴水を見るようなチャンスをとらえることができた。
 こうしたはっきりしたフォルムの場合は、主題を弱める雑音のような光りは、ある程度消
去、整理する必要がある。

    

                                        

               作品 F  < 手毬 >             2003

                   

     
    
    

作品 F  < 手毬 >

   
   
 これは、何か童話的な画面になっている。毬のような花火の前にある白いものは、多重露
光の間にできたものだろうが、何を入れたかはっきりした記憶はないが気になる形である。
    
 瑛九のリトグラフ「風が吹きはじめる」(part 10)を細かく見ると、「鳥のよう
で鳥でない、魚のようでいて魚ではない、といったすべてがそのもの自体ではないものが描
かれている。そんなものの集積は、それが明確でないだけにイメ−ジがふくらみ、いつまで
も興味がつきず飽きることがない」といった半抽象的な画面である。
    
 ぼくは、こうしたほとんど何者か判別できないこのような作品に、惹かれることが多い。
 花火の場合も、こんな撮影による映像は、常識をかけ離れており、深層心理が刺激され、
何かの代理体験をしているような気分になる。

             

               作品 G  < 銀河系 >             2003

                   

     
    
    

作品 G  < 銀河系 >

   
   
 この作品の誕生に関する記憶もほとんどない。おそらく広角レンズを使って、満天の星を
描くように何回も露光し、最後にアクセントになりそうな強い光りをバツ印に入れたのでは
なかろうか。
   
 この夜の撮影は、イメ−ジの赴くままに、2時間近い花火の祭典を夢中でご機嫌よく撮り
続けた記憶があるだけだった。現像が上がってきて、まさかこんな「銀河系」とネ−ミング
できる写真が生まれているとは、思いがけない収穫であった。

                 

                   

 < 思うがままにやってみれば… >

    
    
 このままで終わると、ぼくがどんなことをしながら撮影するのか、見当がつきかねるとお
もうので、少し技術的な蛇足を加えておこう。
    
 ぼくは前書きで「カメラを振り回す」といったのは、一言でいえば第三者には異常に見え
る様子を指すが、ぼくがやるカメラの振り回し方は、本人にとっては理路整然、筋の通った
行為である。
 話が長くなるので、カメラの動かし方の結論を述べる。
 花火のフォルムにとらわれて、ノンビリ、あるいはモタモタ動かしていると、単なるカメ
ラブレか、超下手な、みっともない花火写真になる。それがリズミカルな、あるいは圧縮、
伸長なら変わった表現の花火になる。圧縮、伸長は、花火が飛び散る方向へカメラを動かせ
ば軌跡は伸長し、反対方向なら圧縮されるといったこと。
    
 ぼくのフリ−ハンド撮影は、花火に向かって、下手なオ−ケストラの指揮者のような手つ
きかも知れないが、必要に応じて、一定の基準を入れる時は、カメラの底をビルの垂直壁に
押し当てたり、ベランダの手すりに乗っけたりしながら上下、左右に緩急をつけながら動か
し、途中から支持物を離れてフリ−ハンドにすることもある。もちろんそのままではカメラ
がキズだらけになるので、タオルなど下敷きは用意してある。レンズの選び方も使い方も常
識の正反対をゆくといったこともしばしばである。
    
 究極は、既成の花火の概念を捨て、巨大な動く色光の塊を相手に、自分が考える、写真に
よってしか出来ない方法と行為によって、現実にかかわって行く。           
 そんな造形の結果が花火を感じさせなくても差し支えないと思う。ぼくは写真によるそん
なキネエティック・ア−トを目指そう。
    
    
 花火の会場でのこんな撮影法は、時折奇異な目でみられるいると感じることはよくある。
それでもめったに声をかけてくる人はいないが、中には親切な人もいて、去年は後ろの方か
ら若い声がかかった。「おじさん、そんなにカメラを振り廻しては、花火は写らないよ。」
という。一瞬ぼくは戸惑ったが、こんな雑踏の中では、説明のしようもない。とりあえずぼ
くは、「どうも、ありがとう」と礼を言いながら振り返ると、薄暗くて顔はよくわからなか
ったが、まだ若い20歳前後のお兄さんだった。
    
 ところで、その彼はしっかり三脚を立てていたが、それらしき前景もないのに、35ミリ
カメラでピカピカ、ストロボを発光しながら、中天の花火を狙っていた。        
 とっさに、ぼくもお返しのつもりで、「あの遠い花火にストロボは届かないと思うし、届
いても相手は光源だから−−ネ」といったら、彼も「アッ 、そうだ。ドウモ、アリガトウ」
と礼を返してきた。これはなんとも愉快な良い想い出になった。