part.29          

< ゲーテは色彩学者でもあった >

   
     
      
   ぼくの写真家としての特色は、色彩による写真特殊表現というのが、写真界
  での通り相場だが、このところはまだ一般的な写真の入口での話が続いていた。 
  この辺から徐々に本筋に入ることにする。
    
   
 さて、色彩を物理理論だけでなく、幅を広げて文化史的にも眺めると、ゲ−テの色彩論の
意義を再評価することになる。ぼくが学生時代には、ゲ−テは「ファウスト」や「若きヴェ
ルテルの悩み」などが必読書といわれ、写真家になるまでは、ドイツの詩人、作家というこ
としか知らず、彼が自然科学者、政治家であり、色彩学、形態学をはじめとする膨大な自然
研究をしてきたもっと幅広い、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲ−テ」であったとは
知らなかった。

 ニュ−トンが研究していたのが光学であるの
に対し、ゲ−テの研究対象は色彩であり、色彩
学は光学とは異なる。
   
 ゲ−テがこれを誤解し、誤ったニュ−トン批
判をしたのは致命的であった。しかし、ぼくが
ゲ−テに興味を持ったのは、彼が色彩論に向か
った動機が、美術であり、ことに当時の画家の
色彩にたいする知識の幼稚さに研究の必要を感
じたのがキッカケだということであった。
     
 その根源はアリストテレスになるが、モダン
ア−トにつながるギリシャの色彩学は、ゲ−テ
によつてその色彩学史に紹介されている。
    
 ゲ−テの誤ったニュ−トン批判というのは、
ある日、彼がビュットナ−顧問官から借りてい
たプリズムの返却を催促され、返す前にいわゆ
るニュ−トンの光の分散を実験しようとして、
手にしたプリズムを透して外界の白壁を見たの
が、決定的な間違いであった。

   ゲーテ (1749-1832)

 彼は、この白壁はニュ−トン光学によれば数種の段階に染め分けられた色彩が見られるも
のと期待していたのが、何の変化も見られなかったので、本能的に「ニュ−トンの学説は誤
りなり」という固定観念にとりつかれ、攻撃をしはじめたことである。彼がプリズムを目に
当てず、プリズムに太陽光を直射していたらこんな間違いは起こらなかった。
    
 しかし、彼のニュ−トン光学の誤解と実験の幼稚さは別として、彼の現象への取り組み方
の根の良さと感覚の鋭さには感嘆する。ゲ−テは徹底的に色を見ており、また考えている。
    
 詩人としての彼が着眼したものは、それまでの物理的なものを主体とした分野を越えて色
彩が及ぼす生理色彩学、心理色彩学や主観と客観、すなわち人間の目と対象である事物の間
に観察される多種多様な色彩の現象学を、1790年ごろから1810年まで20年間を費やして書
き上げたばかりでなく、その出版後も一生の間色彩研究をやめることはなかった。    
    
 こんな彼を支持し、激励したのは貴族だけであり、彼を助けた学者のなかには一人の物理
学者もいなかったことは特筆すべきであろう。ゲ−テの色彩学の20世紀における継承者は
ノ−ベル賞をうけた偉大な大化学者ヴィルヘルム・オスワルドで、その色彩学の構成にゲ−
テのそれと共通する生理色彩学、心理色彩学が含まれていることは興味深い。
    
 「直感」とは、「肉眼をとおして心眼で見るというきわめてゲ−テ的な概念である。」と
いった具体的な話はまた折々に触れることにして、今回は、ゲ−テの『色彩論』は彼の主著
とみなしてさしつかえないほどの再評価、現代的関心のあることを紹介した。
   
     
   
    
  今回のテ−マが「色彩論の原点」ということで、「玉井瑞夫インタ−ネット写真展」
  は、色光そのものによる作品を選んで見た。これらの作品はそれぞれ実験期のもの
  として想い出深いが、制作のプロセス公開は初めてである。






      色光は踊る     1970               

  色光は踊る  
   
 光は、色という感覚をよびおこす刺激である。
 黒のほかのすべての色は、光による色刺激の変化によって感じられる。380から780
ナノ・メーターの間の波長の光が眼の網膜に達すると、それらが一様に分布していれば白で
あり、長波長部から短波長部まで局部的に光をとり出すと、赤、橙、黄、緑、青、青紫など
に見える。小さくても、点光源だけの純色は、彩度が高く、強い。
    
 そんなことを考えながら、<色光だけでの写真表現>を実験的にやってみたのがこの作品
である。被写体となる色光の装置は、黒いケント紙に適当に針で穴を開け、その穴に向かっ
て後ろから各色の照明用のカラ−・ゼラチンをつけたピン・スポットライトを当ててある、
ただそれだけのものである。撮影は下記の要領での1.2.の多重露光による。
    
     
1.4×5カメラのピント・グラス上では、真っ暗な闇のなかに点々と各色の星が輝いてい
  るように見える。ぼくはこの色点を早く遅く動かした軌跡を撮るために、露光中にカメ
    ラを乗せた三脚のパン棒をリズミカルに動かした。
  レンズはシャ−プさのなかに、幾分かフレヤ−も添える表現のため、ソフト・フォ−カ
  ス専用のイマゴン・レンズを使用した。
     
2.画面下部に見られる丸いリング状の色光は、レンズの前玉を取りはずし、後玉だけにし
  て、ピントを少し前方にはずして撮っており、色収差をふくむ実にデリケ−トなカラ−
  ・グラデ−ションが見られる。ピントを後方にずらせてはこのボケ味は出ない。   
  おそらくこんなレンズの使い方をした写真はないであろう。            
         
    
 こうした作品は無から有、自らが創り出すものだけにイメージは交錯する。この撮影中に
僕の脳裏に浮かんだ言葉は、『色の音符が花びらのように空に舞い、天空から光りが指し、
宇宙とひとつになれる時があるだろう。気の遠くなるような日々、そんな年月の中で−−』
といったことであった。
 これは、4×5で50枚ほどの実験をした中の一点である。

         

      

      

        

      プロフィル    1970                        

           

 プロフィル   
 この作品の下絵は、イラストレ−タ−横山明君が描いたものである。彼は若い時、アメリ
カでみっちり基本を学び、今や日本ではトップクラスのイラストレ−タ−・画家である。 
 二年程前まで、彼が描き連載されていたプレジデントの表紙、著名な文化人の油彩による
肖像画はすばらしく、高い評価を得ていた。
     
 彼とはイラストと写真を合成した作品で、単行本や雑誌の表紙をつくっていた。    
 ある日、雑談している時何気なく女のプロフィルを頼んだら、即座に黒い紙に鉛筆でさら
さらと描いてくれた。 
 ぼくは、その線を1ミリ幅のスリットができるようにナイフで切りぬき、それを被写体と
した。バックからプロフィルのラインが白く輝く線に見える照明をし、ところどころに色光
をピンスポットで入れた。それだけのことだが、構成上の唯一のキ−ポイントとなるこの数
個の色点には神経を集中し、相当な時間をかけ、慎重な照明をした。
     
 ぼくは、広告写真を始めたごく初期に、確かな造形の練習をするために、碁盤を画面に見
立てて1個から数個の碁石をバランスよく並べる遊びをよくやっていた。初めは陳腐な配置
しかできなかったが、やがてアンバランスのようで面白いバランス、アンバランスのバラン
スもわかるようになり、結構これが実戦で役立った。
 この作品は、最小限の色光数での構成を見せたものである。
     
 こうした話では、石元泰博氏がニュ−バウハウスに入学した当時の話があった。
 この学校は、1年生は感覚を鍛える訓練が大半で、毎日落書きばかり10日間もさせられ
たが、彼は日本の学校で書道を教わっていたので、生きた線とか死んだ線といったことが頭
にあって、しばらくはそれに凝り固まっていたという。
 しかし、そのうちにもっと自由に、さらにいろいろな線がつくる造形の美しさに気づくよ
うになり自分の好みの形ができてきて、それがフレ−ミングにつながっていったという。 
 アメリカでの写真撮影の授業は、やっと2年生からだったというのも徹底したものだ。

         

                                  

      クリスタル    1971                      

            

 クリスタル 
    
  これはクリスタル・ガラスが、カメラ・レンズになる途中の姿である。
    
  以下は、ニコンF1. 4レンズの設計者として世界的に著名な堀邦彦氏の解説である。
 堀さんとは長いおつき合いで、よく僕のスタジオに来られたが、お互いに凝り性だか  
 ら話は弾んだ。この氷の塊のようなクリスタルは両手に乗る程の大きさで、掘さんを
 通じてニコンから戴いたように思う。      
    
 こうしたガラスの塊りは、1個1個計量しながら一定の体積に切り揃えられ、目的のレン
ズに近い形にプレスされ、変形や破損を防ぐため、350〜600℃で焼きなましされて、やっと
磨く前の素材レンズになる。
    
   
 カメラのレンズになるガラスの原料は、ケイ酸、硼酸、炭酸ソ−ダ、炭酸カルシュ−ム、
亜鉛華、炭酸バリウム、酸化鉛、あるいはアルミナなどだが、特殊ガラスでは、これらのほ
かランタン、トリウム、チタン、アンチモン、ジルコニュ−ムあるいはタンタルなどの金属
を用いる。                                    
        
 これらの材料は、3ケ月以上かけて成型し乾燥させたルツボを 1250〜1450℃に加熱して
おき、その中へ5〜6時間かけて、少しづつ繰り返し投入される。全部溶けたところで撹拌
をはじめるが、この作業はルツボを取り出す最後まで休みなく続けられる。       
 ガラスの種類によって溶解の温度や時間、撹拌などの条件は異なる。これらは非常にデリ
ケ−トな作業で、レンズとしての使用価値の可否を大きく左右するため、熟練した溶解の技
術者さえ息をこらす緊張の時間が長々と続き、溶解炉に入ってから36時間後に取り出し、
さらに、6日ほど徐々に温度を下げてからルツボを割って取り出される。        
    
 上部やルツボに近い周辺部のガラスは、レンズとしては使い物にならず、脈理や失透など
の欠点のまつたくない中央部だけが、手作業で所要の大きさに打ち割られて、検査選別され
る。この段階のガラスの塊がこの写真の被写体である。とにかく、ルツボつくりから始まっ
てレンズの鏡胴に納まるまで半年以上もかかるという。
    
 レンズ製造の話が長くなってしまった。
 さて、こうして生まれたこのガラスの塊の中心部には、ある種の不思議な存在感があり、
現実にはありえない空間でその力が時には静かに生動し、時には激しく躍動しているように
ぼくには思えた。この作品はこのクリスタルから生まれてくるもののその先々、数々の未来
を思い、ぼくはそんなイメ−ジを光のフォルムとしてこの空間に入れたのであろう。   
    
 一風変わった異様ともいえるこの光は、どんな方法で写し込んだのか、夢中でそれに熱中
したときのライティングは意識に残りにくいものか、当時の記憶は霧の中、どうしても浮か
んでこなかった。