part.26         
   

      (1)   

                

   前回は、ぼくが本職とした写真の特殊表現に関連する<特異な表現>をテ−マに 
   したが、このまま先へ進むにはすこし飛躍し過ぎるかとも思い、今回と次回に分け
    て、フォルムとその周辺についての基礎的な問題を話すことにした。     
      
 その前に用語について、ひとこと断っておきたい。
 ぼくはこの講座やワンポイント・レッスンの解説で、モチ−フ(主題)とかフォルム(形
態)、デフォルメ(変形・歪曲)などといった絵画の専門書によく見られるフランス語のよ
うなカタカナの美術用語をそのまま使うが、これは便宜上のことだけで他意はない。
      
 写真の歴史はまだやっと150年。同じ平面視覚芸術での絵画は、アルタミラの壁画以来
数千年の大先輩、学ぶべきことは山ほどある。良いところはどんどん頂けばいいのだと考え
れば、用語もそのまま使った方が表現の幅が広く便利なことが多い。
     
 例えば、「オブジェ」という言葉など題名にもよく使われるが、意味をそのまま日本語で
いえば「物体」ということ。しかし、ダダイズム・シュ−ルレアリズム以降の現代芸術の手
法のひとつとしての意味合いからいえば、オブジェと題すれば「日常の既製品、自然物など
を本来の機能やあるべき場所から分離して、そのまま独立した作品として提示し、日常的な
意味とは異なる象徴的・幻想的な表現をした作品」ということになる。         
 つまり、これらのカタカナ用語には、歴史的な意味があるので内容は深くなる。ぼくはそ
れを流用したつもりで利用している。
     
 といって、ぼくは写真が絵画に一歩劣るなどという考えは毛頭ない。
 われわれの先輩には、すばらしい人がいる。前世紀の1947年に死去したモホリ・ナギ
−は、1919年、ドイツのバウハウスで画家から写真家に変身し、前衛的なリ−ダ−とし
て、いち早く写真の近代的な効用を下記のように述べている。
     
 『写真術のように「機械的」なもので、創造的な意味においては軽蔑の念をもって見られ
ていたものが、ものの一世紀もたたない内に、われわれの生活の中の第一義的な<視覚的な
原動力となり得る力を獲得した>ということは未曾有のことである。以前には画家が自分の
ヴィジョンをその時代に印したのに、今日では写真家がそれをなしている』
                         ( ラズロ・モホリ・ナギ− ) 
    
  ぼくは、1955年、この先達の言葉を聞いて感動した。今日では、美術大学の油絵科  
  の卒展に、油絵ばかりでなく何点もの写真作品も展示される時代になったのだ。


                 

            ヌード A     玉井瑞夫 1951

           ヌード B    玉井瑞夫 1951

         

             

  

    
   
  ヌ−ドは芸術のなかにあってユニ−クな位置にある。ア−チストにとってヌ−ドはある意
味で自己を描写することであるともいわれている。
    
 その直接的なものは性的なものから発生する。自分はセックスと無縁であると如何に信じ
ようと官能的あるいはエロティックな要素のないヌ−ドの習作はあり得ない。また見る人々
はほかのものを見るときとは違った見方でヌ−ドを見る。そこに性的なものがあるからだ。
     
 ア−チストは理想像の追求もした。人間は六頭身半くらいが平均で、七頭身もあればかな
りスマ−トだ。しかし彫刻では七頭身でもずんぐり見えてしまう。人間の標準形を最初につ
くったのは、古代ギリシャのポリクレトス。オリンピックの優勝者をモデルにしたといわれ
るが、ダ・ビンチは造形的にではなく解剖学的に肉体をとらえようとして七頭身半の理想像
を描いた。現在では八頭身は理想のサイズとしてヨ−ロッパ美術の常識である。
      
 ミロのヴィ−ナス、クラ−ナハのイヴもほぼ八頭身だ。特にミロのヴィ−ナスは全体のバ
ランスが重視されており、腰や腕など部分的に見ると、意外に太く力強いデフォルメがなさ
れている。
     
 ヌ−ドは写真の生まれたヴィクトリア朝の初期に、はやくも写真の重要な題材になった。
しかし、それらは当時の好みを反映して感傷的、好色的という奇妙な混合による作品が多か
った。また写真芸術に対する写真家の自信のなさもあって無難なクラシックな手法、ルネッ
サンス絵画のまねをした非現実的なぼんやりした背景のなかで肉感的なポ−ズをとらせた写
真、あるいはつめたく生気のない彫刻を絵にしたような写真しか生まれなかった。
      
 それが時代をへるにつれて、人体を物体そのものとして扱い、また時には環境のなかに存
在するものとして、もっと直接的にとりあげるようになる。
 今日では、ヌ−ドは完全に束縛から解放されている。屋内屋外を問わず、抽象あるいは現
実として、また構図の主要素あるいは実景として撮影されている。写真家は積極的に、主題
に合わせてあらゆるテクニックを混用したり、個々に使い分けたりしている。
   
 画家や彫刻家は過去2000年にわたって、人間に一番近いモチ−フとして、この<特殊
なオブジェ>を、如何に芸術的に処理するかに取り組んできた。それはまた写真家にとって
も涸れることのない魅力ある被写体である。

                 

      

     ヌード A・B  玉井瑞夫

       
  一足飛びに、1951年、半世紀前の話に移る。
 これは、ぼくが関西の前衛的な丹平写真倶楽部に所属して2年目に入ったころの作品。
ここでは作品としての鑑賞以外に、フォルムとその周辺としてのデフォルメについての話の
題材としたい。ヌ−ドほどフォルムにこだわらなければ、作品にならない被写体はないから
である。
 近代絵画では、形より色という画家さえいるが、写真では物がなければ写らない。もちろ
ん光もなければ写らない。物には形がある。光も形を変える。それらをどう表現するか。
      
 御存じのように、ヌ−ドのヘヤ−解禁は比較的最近のことで、この作品の制作時代はヘヤ
−厳禁時代で、展覧会にチラリズム程度のヘヤ−の見える写真でも展示されると、注意され
るといった実に堅苦しい時代であった。しかし、写真をやるものは一度はヌ−ドを写してみ
たいという憧れを持つのが一般のことであった。
    
 その頃、父に反抗して家を飛び出してきたぼくの安アパ−トには、1冊の本もなかった。
そこで、ヌ−ドを撮るための準備として「人間の形をどう見るか」というテ−マを、図書館
へ通って調べて見た。                               
 絵画と写真の本を飽きることなくひっくり返してぼくが得たものは、1.オブジェとして
のヌ−ド、2.デザインとしてのヌ−ド、3.デフォルメされたヌ−ド、4.環境のなかの
ヌ−ドといったものに分類されることとその代表的な名作が絵や写真に関係なくぼくの頭の
中にインプットされたことであった。
    
     
 その頃のぼくが写していたものは、ほとんどが風景か静物風なオブジェばかりだったが、
オブジェ風なヌ−ドならすぐ出来そうに思えたが、それがとんでもない間違いだということ
がすぐわかった。愚妻をモデルにはじめた撮影スタジオは、アパ−ト6畳1間の白壁バック
への100ワットの裸電球とヌ−ドへのメインライトは60ワットの電気スタンドだけであ
った。
    
 ところで、ぼくは講座の解説の中で、人は自分が見たあるシ−ンを他の人に伝えようとす
る時には、(1)単純化 (2)象徴化・抽象化 (3)数量化 するものだという話を何度もしてきた
が、それを思い出してもらいたい。(part 11「絵画と写真の造形性」を参照)
        
 「オブジェとしてのヌ−ド」は、ことさら単純化、次いで抽象化が必要だが、ぼくはそれ
まで表現技法としてのライティングの経験が、殆どなかった。図書館で仕入れてきた頭の中
にある絵や写真の名作には程遠いライティングの無知と自分の力量不足を思い知らされた。
自分なりのライティングで、何とか自分なりに納得のゆくものにたどりついたのがこの作品
で、1ケ月後位であったろう。                           
     
          
 この1ケ月の苦闘は、ぼくにとって1年分以上の貴重な体験になった。もし、はじめに図
書館通いをしていなかったらこの結果は得られなかったであろう。
     
 初めてのヌ−ド撮影直後のプリントを見た時、あまりのライティング無知のために、頭の
中のサンプルとしての名作とは違いがあり過ぎて、これでは天地以上だと思えた。    
 その後は、再撮の連続で10回を越えた。名作にそっくりでは盗作になる、どの名作にも
似せないで名作並みをという高望みだから容易なことではない。
    
 途中で、ふと思いついて、宗達の1対絵「風神・雷神」のように、前向きと後ろ向きの1
対のヌ−ド作品をつくろうと考え始めたことが良かった。               
 女体の前後を特長づけ、その差の鮮明な表現をポ−ズ、ライティングとデフォルメで演出
することを考え出した瞬間から、厳しいフォルムとライティングの選択に、明確な意味合い
と方向がわかってきたからである。  
  
      
 変な話だが、これは貧乏の効用でもあった。あの頃のぼくは無職で写真はできても一枚も
売れず、貧乏所帯では35ミリのフィルム1枚、1枚が非常な貴重品であった。漫然とヌ−
ドを写すなど許されない状況から、フィルム節約の目的から図書館へ行ったのだ。    
    
 もし図書館で頭に焼きついた名作の幻影がなかったら、せいぜい1、2度の撮影で何とか
それらしき写真を撮り、それで満足して終わっていたに違いない。ぼくが1ケ月も執拗に取
り組めたのは、頭の中の名作たちが「まだまだ」「ノ−」を叫び続けたからである。
    
 この生真面目な作品は丹平の例会に出品したが、先輩方から激賞され、初めてのヌ−ド撮
影でどうしてこれだけのものが出来たのか不思議がられた。ぼくはこの体験からフォルム、
デフォルメ、ライティングに多少の自信がつき、その後の造形、構成に非常に役立った。
(ライティングについては、スタジオを持つようになってから、あんなせまいアパ−トの 
 状況・設備では、偶然といえるでき過ぎだったことがよくわかった)
    
   
 ぼくは仕事柄その後いろいろとヌ−ドを写してきたが、ヌ−ドは、<特殊なオブジェで、
無限に変化する生きものだ>というのが実感である。
 普通、ある被写体のフォルムといえば、シルエット風の全体像を思い浮かべるのが一般で
ある。そして、その中から単純化、抽象化する表現目的にあったフォルムを選択し、構成す
る。ところがヌ−ドは、動き、走り、ジャンプし、体を曲げ伸ばし、ポ−ズをちょっと変え
るだけで、瞬時に感情的、形態的なフォルムの非常な変化が見られ、それがライティングで
更に変化し、増幅されることから<特殊なオブジェ>と呼んだわけである。
    
 この作品は、説明するまでもないと思うが敢えていえば、ヌ−ドAは前向き、Bは後ろ向
きのフォルムを白バックによるシルエット的輪郭でみせるフォルムと胸部、腹部の部分的な
照明で選択されたフォルムのバランスで構成されている。また短焦点レンズによる部分的な
デフォルメとライティングによるボリュ−ム・アップも目的を強調する手段になっている。
 ぼくがどんなフォルムを選び、また省略したかを参考にされたい。
      
 このヌ−ドの基本的なポイントは何かと問われれば、これは「ぼくの主観的な再構成によ
る作品」だということ。またそれは「感情から始まる」ことである。          
 「或るものを写す時、誰しも何らかの個人的な感情は常にある。ぼくはそれを押え込むの
ではなく、あえてこだわるところからデフォルメが始まる」と思っている。
     
 これはヌ−ドとして発表した第1号の作品だったが、たまたま入賞という幸運に恵まれ、
 いまは亡き彼女のいいメモリ−になった。(第8回 全日本写真連盟展 第一部 特選)
     
    
     
 ついでながら、昨今のヌ−ド写真について一言。
   
 ヘア−解禁になって、ヌ−ドはよくなると思っていたが、美しいヘア−の作品もない、現
実は正反対である。週刊誌のヌ−ドなど、何とも言えない哀れを感じる。作者もモデルも何
を考えているのだろうと思う。写真誌のヌ−ドも不真面目な写真が多く、格調高い本物の作
品はめったに見られない。これでは見る人の鑑賞眼も失われてゆくだろう。       
   
 ヌ−ドが、商品化されてしまった才能や技術と虚名によって支えられている幻影のような
写真は見苦しい。現在の写真は、ぼくは、これが杞憂に過ぎないと思いたいのだが、確かに
危機を迎えているように思える。
    
(社会のひずみは溜るばかりで、過去には考えられなかったような犯罪が頻発・通常化さ 
 れ、悪い意味でのデフォルメされた写真が横行する、そんな未来はやりきれない。ぼく 
 が今少し若ければ、写真で人間性を回復する浄化運動をやりたいところだが)

  

    

   
   
  
    
    
 


                

< 思考錯誤・試行錯誤 >

   
 ここから先は、初心者の誰でもが経験するであろう暗中模索、試行錯誤・思考錯誤のプロ
セスのサンプルのようなぼくの古い体験の記録を敢えてお目にかけ、何らかの他山の石にな
ればと、掲載したものである。                           
 それらは、捨て石になり、あるいは足がかりになる貴重な試行・思考になることもある。

   


             オブジェ     玉井瑞夫 1950

              




「 オブジェ 」

    
 これが、何を被写体にしたものかが分かる人はあるまい。
     
 そのころ26才のぼくは、オブジェに凝り、破壊された不思議な物体を捜して、木津川の
河原をあてもなく歩いていた。
 黒くさびついた異物が目につき、近寄って手に取ったのが、この子供用自転車のチエ−ン
カバ−であった。
                       
 ぼくは宝物でも拾ったような気分でこれにふさわしいバックを求めて砂の川辺を歩いた。
この場所に来たとき、カメラのフレ−ムは覗かないが、左手前の3つの小石や遠くのやや大
きい黒い石、その他の3つの石のあり方もピッタリだと思って、ていねいにセットした。
     
 これは、まさにオブジェという題名にふさわしく、本来の使用目的を離れ、独立した象徴
的なモチ−フであると思った。
     
 この頃のぼくは、滅び行くもの破壊されたフォルムに哀愁のような美学を感じていたらし
い。しかし、こうした繰り返しのうちに「写真は概念を撮らないし、撮ることはできない」
ことを体験し体で感じることを知った。(第17回 日本写真美術展 第一部一科 入選)
   

        

            黒い卵     玉井瑞夫 1950

              




「 黒い卵 」

   

 これは、ぼくがスランプの真っ只中で、なにをやっても気に入らず、放心状態が続いたあ
る日だった。          
                     
 どういう動機かは忘れたが、数個の卵を墨で黒く塗ったものを、木津川の川原で半日ほど
立てたり転がしたりしているうちに夕やみで薄暗くなり、最後はやや小高い砂山にたたきつ
け、ストロボなどまだない時代のこと、マグネシュウムを発光させて撮影した。
    
 こうした能動的な行動は、やがてこのスランプを越えて同じ河川敷で「フォルム」「ひわ
れ」(Part 5  参照) といった作品が生まれた。「オブジェ」「黒い卵」は、その先駆的な
もので、まだプロセスに過ぎないものと思っていたが、丹平の先輩の勧めもあって公募展に
応募してみた。しかし、これらが認められ入選と知った時には作者のぼくの方が驚いた。 
   
 われながら風変わりと思えるこんな写真、関東では偏執狂とも見られかねないこうした作
品は、関西写壇の個展のような丹平展でしか通用しないと思っていたからである。    
    
 その後、国際展では何点かが認められたが、少数派であることは間違いなく、こうした分
野での世界的な写真家は見かけない。友人たちは天然記念物だと笑うが、ぼくのカテゴリ−
には、依然として頑固に存在する。  (第17回 日本写真美術展 第一部一科 入選)

       

    犬と靴と       1952

          野犬      1953

            「 犬と靴と 」
  
     
 ぼくは、大阪から上京し、写真雑誌の編
集者になったが、生涯編集屋をやる意志は
なく、カメラをいつもぶら下げていた。
                   
 編集屋は超多忙でぼくの好きな風景を撮
りに行く暇はなかった。        
 住居はまだ敗戦の匂いがただよう場末の
ような池袋で、手近かな路地で遊ぶ子供や
犬などを気ままに撮っていた。     
                   
 しかし、開放的なスナップをと思いなが
ら大阪で学んだ身にしみた構成主義は、フ
ァインダ−を覗いたその瞬間に、がっちり
と身動きできないような写真、縦横十文字
の構成になってしまうことも多かった。 
    
 これも一長一短、功罪相半で、この犬の
場合も丸まった犬のフォルムと向こうに見
える靴の構成には玉井流がすぎてゆとりに
欠けるものになっている。  

            「 野犬 」
  
     
 前回、ぼくは石元泰博氏を造形の確かな
写真家として紹介した。        
    
 その彼がニュ−バウハウスで受けた造形
教育の影響は確かに大きく、そこからの脱
皮が問題だといい、最近まで撮っていたシ
リ−ズ「人の流れ」はカメラを腹のあたり
に構え、ノ−ファインダ−で歩きながらシ
ャッタ−を切る手法で撮っていた。
                    
 ぼくもまったく同様で、カルチェ・ブレ
ッソンの「決定的瞬間」に刺激され、自分
の殻を破るつもりで、膝の高さ犬の目で
見た池袋をノ−ファインダ−で撮っていた
ことがある。これはその一枚である。  
   
 こうした試みは、自分のフレ−ムが決ま
り過ぎ、その枠から脱出するするキッカケ
をつかむため、やってみることもいい。 
 ぼくにはこの手法がある程度役立った。