part.25     
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  もう年の瀬、初日の出のことを考えていたら、太陽のいろいろが浮かび、そのな
かでも写真表現にも関係する<特異な表現>をテ−マにして、話すことにした。 
 後半でとり上げる三人の画家は、まるで写真家の先達のような作家であり、文化
史として実証的な江戸時代の歴史的事実とその慧眼を解説したい。
    

          太陽と鉄 玉井瑞夫 1968

              
ソラリゼ−ションとその周辺   
 まず、最初に写真ではかなり特異に属する「ぼくの太陽」をお目にかけることにしたが、
個展でこの作品を発表したとき、「どうしてこれが太陽なのか、写真なのか、絵なのか。赤
くて強いから月ではあるまい。」などというのが見た人々の第一印象らしく、いろいろと質
問をうけた。         
 この講座でも、そんな疑問をもたれる向きもあるかとおもい、因果関係といえばおおげさ
だが、制作のプロセスに少し触れておきたい。
     
 その前に、この作品は明らかに写真による抽象的な表現で、基本的な写真技法のうち、ソ
ラリゼ−ションの発展的手法を基礎としてでき上がっているので、初歩的なソラリゼ−ショ
ンの実例をあげておくことにした。
    

  

   
ソラリゼーションによる      

 ヌード  

 このモノクロの「ヌ−ド」は、1950年
ぼくが25歳当時、関西の丹平写真倶楽部に
入会後、はじめて試みたソラリゼ−ションに
よる実験的な習作である。
 近頃はパソコンのフォト・ショップなどで
簡単にソラリゼ−ションらしきものができる
が、アナログでのソラリゼ−シヨンとは全く
異なるので、さわり程度だがその内容にふれ
ておく。
        
  本来、非常に極端な露出オ−バ−のためシ
ャド−部分まで光が回ったモノクロ・フィル
ムを現像した時、被写体の強い明暗の境に線
状のスジが現れるという現象があり、これを
サバチェ効果といったが、これと似た効果を
意識的に表現する写真の技法をソラリゼ−シ
ョンと呼ぶようになった。

ヌード    クリックすると大きい作品を見れます。

 この制作方法はいろいろあるが、非常に大ざっぱにいうと適正露出を与えたフィルムを暗
室で現像中、かなり現像が進行したところで、一瞬間、電球の白色光をフィルム膜面に露光
し、そのまま現像を続けると未露光だった部分の現像が追っかけて進むが、このとき強い明
暗の境目では、この第2露光と現像の進行に微妙な変化が起こり、このネガをプリントした
とき、黒いスジ状のラインが現れ、画調はおおむねハイキ−・ト−ンになる。
    
 露光を与えるタイミングと現像のコントロ−ルで、完全なソラリゼ−シヨンやハ−フ・ソ
ラリゼ−ションなど微妙な画像になる。カラ−・ソラリゼ−ションはカラ−フィルムの現像
時、普通、白色光の代わりに色光を露光することになる。
 いづれにしても、被写体のコントラストや暗室での第2露光の量やタイミング、現像時間
の長短で千変万化して非常におもしろいが、厳密さを要求すれば複雑でむつかしくもある。
   
 この「ヌ−ド」は、黒バックで体の一部だけを照明してあるが、第2露光のために黒バッ
クも白くなり、腕の外側のラインや乳房の一部にソラリゼ−ション特有の効果が見られる。
   
 調子は、おだやかなハイキ−ト−ンでややハ−フ・ソラリゼ−ションといった作品になっ
ているが、こうした実験がやがてぼくの「特殊表現」への道標を暗示するものになった。

                    

 太陽と鉄 

 これは三島由紀夫氏の切腹直前の著作、「太陽と鉄」の表紙のために創った作品である。
三島氏は、彼の好みからギリシャの神殿、パルテノンの大理石の柱の上に輝く太陽のような
シ−ンを望んでいたようであった。                         
 また出版する講談社は、個性の強い三島氏の本の表紙として相当変わった強くユニ−クな
ものをという注文であったが、ぼくは自分の個性の赴くままに勝手な表現をすることを条件
にこの仕事を引き受けた。
    
 当然、ぼくが創ったものは、三島氏の期待したギリシャ風なイメ−ジとはまったく異なっ
たものになったが、自己主張の強い彼も予期以上のものとして非常に気に入られ、丁重な礼
を言われた。                                 
     
   
 制作の話に移る。
 ぼくがこの本の抽象的で詩的な内容から表紙としてイメ−ジした究極の映像は、「見る人
の視線を拡散させることなく、瞑想的な思考に引きずり込んで行く」そんな作品にしたいと
いうことであった。
    
 こうした本の内容は相当に難解で、それを抽象、象徴するのは非常に困難である。ぼくは
2、3日考えた末、「太陽と鉄」というぼく好みのタイトルから、視覚的には徹底的にこの
言葉にこだわり、その抽象的な表現から予兆のように何かが伝わればよいがと思った。  
    
 やがて鉄は、磁力をおもわせる砂鉄が高熱で溶解するありさまがコロナのように浮かび、
太陽は、色温度が高く冷たく燃えている。ぼくはそんな表現を試みることにした。少年のこ
ろから天体が好きだったぼくは、銀河系の彼方に幾つもの太陽を想像していた。     
 ぼくのイメ−ジした太陽は、暗く遠く果てしない宇宙に、冷たく輝く太陽であった。  
    
 「言うは易く、行うは難し」。計算通りにできると大体つまらない。如何にはずすかか問
題である。出来上つた作品は、一見単純に見えるが、かなり手が込んだものになった。  
    
 太陽の周囲の燃えるような表現は、スクリ−ンに投影した光りの円形を35ミリで撮影し
た高感度フィルムを高温現像で粒状性を荒したものを拡大し、さらに製版用4×5フィルム
で黒を強調し、トリプル・ソラリゼ−ション(3回のリスフィルムによるソラリゼ−ション
を施したポジ)でできている。(これは、一見ではソラリゼ−ションとは解らない発展的な
応用である。)     
    
 ぼくはそれまでに粒子印画の実験をしたことがあったので、この場合は粒子の拡大を応用
したわけだが、拡大すると砂目のような粒子にも個性ともみえるいびつなところがある。 
 これらは、ソラリゼ−ションを繰り返すたびに拡大されつつ繋がって行き、ある部分は触
手を伸ばし網目のようになってゆく。そんな有様に、ぼくは頭脳という小宇宙でちょうど脳
細胞がお互いに手を伸ばしてつながる神秘的なシ−ンを見ているるような感銘を受けた。 
 粒子もつき合っていると可愛いものである。(画面の上下に、黒い網目状が見られる)
    
 画像の骨格となるものは、太陽の輪郭をなすやや細かい粒状と、砂鉄が高熱を浴びて溶解
するイメ−ジを思わせるトリプル・ソラリによる強く変形した粒子との合成である。   
 色彩は、中心部をうすく透明で冷たいシアン・ブル−、外側は強く激しいダ−ク・レッド
を、それぞれマスキングをしながら、色光を生フィルムに露光した。  
    
 最終的な調整は、幅のあるブル−系の円周をつくるグラデ−ション、外に広がる赤色濃度
の変化、黒くダイナミックな粒子の流れなど、これらの要素をバランスよく融合させるため
に、デ−タ−をとりながら骨格の微妙な修正と色光を変えての習作が繰りかえされた。  
         
 これらは、プロとして何時でも安定した手法が駆使できるよう開発し、システム化した 
 「玉井流の特殊技法」ノ−トといわれるもののひとつである。  
   

  表紙 玉井瑞夫     裏表紙 篠山紀信

  裏表紙は、篠山紀信氏が撮ったもので、三島氏がふんどしで腰に日本刀を指している写真
でこれが初版である。この裏表紙は三島氏死後の再版時に、奥方がふんどし姿がお気に召さ
ず、空手着の写真に入れ替えられた。

 ん        

    

     

   宗達

   

   太陽   宗達

 太陽と月 

    
 あれは1966年のことである。ある日、新聞の下段に花札ほどの大きさで、極端にトリ
ミングされた「月」と「太陽」の絵が目についた。「何だ、これは−−?」というショック
は、頭にパンチを食つたようで、一瞬してやられたといった強烈なものであった。  
    
 これほど大胆不敵に月と太陽を描いた絵は見たことがなかった。写真家は現実を容赦なく
切り取ってくるが、月や太陽をここまでトリミングした図柄は見たことがない。
    
  これらの作品は、20世紀の初頭(1908年)に、日本から流出した「光悦色紙帖」の
なかにある。ぼくが新聞で見たものは、俵屋宗達の絵の上に本阿弥光悦が歌を書いたものを
集めたこの「光悦色紙帖」がドイツ・ベルリンの国立博物館から一時里帰りして、複刻版が
売り出されたという広告の挿絵であった。                    
 ぼくは即刻、これを注文したが何人かの友人も驚いて入手したことを後で知った。 
 ぼくは、この月と太陽の2枚の複製を机の向こうの壁に貼りつけたまま15年を経過し、
すっかり黄変させてしまった。                       
    
 ところで、この絵は汚れているように見えるが、それは次の理由による。      
 太陽は、金泥で塗られた上に白銀がまだらに塗られていたが、銀は酸化し黒変して、墨で
書かれた文字と紛らわしくなっている。これが描かれた当時は金色の上の白銀がギラギラと
むら状に光り輝き、すばらしく豪華で迫力があったろう。          
 下部の遠い松林はさらに太陽を大きく見せる効果がある。月も同様で室町、桃山時代に好
まれた十日月が光り輝いていたことであろう。下の斜線は山を表し、月が山の端にかかる図
柄である。                                   
   
 宗達と光悦、形と色とに関するこの二人の達人の組み合わせは、装飾芸術の新たな世界へ
の突破口となったといわれるが、この意匠、この装飾がなにかしら動かせぬ思想をはらんで
いるように感じられるには何故なのか。この形式美の極致が語っているものは何なのか。 
   
 いうまでもなく、宗達は今から350年以前、16世紀の終わりから17世紀にかけての
装飾画の大家で、それまでの絵画を否定し、新しいアイディアで挑む前衛画家、当時の絵の
流派、琳派の開祖といわれ、代表作の「風神雷神図屏風」は誰れでも知っている画である。
     
 写真家のぼくは、光悦の字はさておいて、風神雷神の作家一辺倒で見ていた宗達が、この
色紙帖で見せた長焦点レンズを駆使したような一連の大胆な構図、太陽や月を前にした人間
の反応の複雑さ、頭の中を去来する数々の考え、ただ奇麗という一語ではとても表現しきれ
ず、それにもかかわらず表現し切れていないことにさえぼくたちが気づいていない多くの感
情を、彼は深く広く構造的に語ろうとしたように思えた。               
    
 ぼくは光悦の字はないものとして見ていることが多い。それにしても、銀が酸化して黒変
しているのは残念であった。

            

  神奈川沖浪裏   北斎

    

 神奈川沖浪裏 

    
 葛飾北斎は、18世紀半から19世紀の初期まで、たえず成長し続けた浮世絵最後の大家
で、北斎の超広角レンズのような図柄は、なかでも突出している。三十六景の凱風快晴、山
下白雨とともに三役、傑作と呼ばれている中の一枚である。
     
 この時代に、広角の視覚での他の画家の作品が五点ほどあるが、いずれも高い視点からの
俯瞰である。北斎はぐんと視点を下げ、波の底から荒波を見つめて波頭の遠く下に富士を鎮
座させた大胆な構図は、日本画の系譜には全くない、まさしく北斎の天才的な発想によつて
創作されたものである。

深川洲崎十万坪  広重           

 
 深川洲崎十万坪 

   
  洲崎十万坪は今の深川千田町になる。海辺新田とも呼ばれていた。江戸時代、この一帯は
陸とも沼ともわからない低湿地で、一面に葦が生い茂り、およそ人間が住むような土地では
なかった。
 広重は、雪の降る荒涼とした十万坪と空かける大ワシを描いている。おそらく不毛の地、
十万坪を大ワシの険しさで表現しようとしたものではなかろうか。向こうに見えるのは筑波
の山々である。
     
 それににしても、あの温厚で小市民的なイメ−ジの強い広重が、超広角で上からおおいか
ぶさるような、こんな大胆な構成を見せるとは−−−。この浮世絵の署名を見るまでわから
ず、これまた驚きであった。

                   

先人に学ぶ

   
 いずれにしても超望遠、超広角レンズのない時代に、宗達、北斎、広重などがこうした奇
想天外の発想をしていたことには恐れ入った。
   
 プロのレンズの使い方では、超のつくもの以外は、長焦点、短焦点レンズと呼び、広角、
望遠といった意味よりも、自分の意図による造形上の必要から物の大小の比例を変え、アン
グルによるデフォルメをし、画面をバランスよく構成するためにレンズを選ぶ。
   
 今日の小型カメラのレンズは、ほとんど長短自在のズ−ム付きである。そのため実に安易
に写したい範囲、フレ−ムを選ぶだけに使われる傾向が多い。             
   
 写真の造形では、本来はその被写体が一番効果的に表現できる位置(前後、左右、上下)
に自分の体を運び、そのポジションでの必要なフレ−ムに従った焦点距離のレンズを選択す
るものである。今日のズ−ムの利便さに麻痺した感覚では、決定的な密度ある写真にならな
いのは当然で、こんな安易な写真を見せる弟子たちや学生には、ぼくは批評もせず黙ってゲ
ンコで頭をコツンとやった。彼らもこれを合図に苦笑しながら、我にかえるようであった。
    
 しかし、これはまだ枕である。今日の科学としてのレンズの本当の効果を知れば、この歴
史的な使い方は第一次的な使用法であり、この歴史的な発明家の人物像も理解し認めた上で
これを越えることのほうが本筋であるという認識が大切だ。