part.22          

(1)

  
    前回まで、「写真家の色彩学」という話を長々としてきたので、今回は一服する  
  意味でテ−ブル・トップ・フォトの入門として、ぼくの「落ち葉・枯れ葉」の一部 
   を紹介しながら、心理面、技術的なところなど、多少触れておくことにした。
     
            秋になると楽しみがひとつふえる。
   
 若い頃は紅葉を求めて、紅葉の名所旧跡を訪ねたり、少し足を伸ばして日光の戦場ケ原な
どあちこちへ行ったことがあるが、年をとるにつれて多忙になり、わざわざそんなところへ
行くこともなくなった。
 元々山登りが不得手な僕は、高い山々の霜に打たれた真紅に染まる紅葉の大風景などは、
友人の山岳写真家たちの作品で堪能させてもらい、それで満足してきた。
    
 しかし秋になると紅葉というよりは、ただの落ち葉枯れ葉への興味は一向に変わらない。
フォト・ジェニックな葉っぱが目につくとどうしても拾いたくなる。わが家の裏が小公園な
ので、夕方などぶらり散歩に出ることがあるが、家に帰えるころには小さなビニ−ル袋は落
ち葉・枯れ葉でいっぱいになる。  
    
 外出時にもビニ−ル袋くらいは持って出る。バス停への往復も落葉樹が多くていいコ−ス
だが、行きがけに拾うと大体都心へ向かうため、電車の乗り降りでつぶされてしまうので、
顔のあたりまで差し上げる。いい年配の男が電車の中や銀座のど真ん中で、何であんな枯れ
葉を大切そうに持っているのだろうと、いぶかしげに見られているような気がして少々恥ず
かしいと思うことがある。僕は銀座の並木通りで、すばらしい枯れ葉を拾ったこともある。
     
 とにかく、秋が来ると僕の部屋の片隅には、毎年ボ−ル箱いっぱいの落ち葉・枯れ葉がた
まり、初夏には捨てられ、また秋にはいつぱいになる繰り返しである。カラス瓜やイガつき
の利平栗の一枝などもいい被写体で近くの農家でもらってきた。 
     
 つまらぬ長話になったが、ぼくは溜った葉っぱをしげしげと眺め、気が向くとちょっとし
た暇をみては撮影をしてきた。長年写しながら、どういうわけかこれらをコマ−シャルに使
ったことがない。
    
 テ−ブル・トップフォトは小さなスペ−スを舞台に、「何を選び、どんなバックで、どん
な構成にするか、ライティングは?」ということは、すべて自己責任での演出で、もちろん
でき上がった作品は、全部が自分自身、自分丸出しということになる。でもこんな事をむつ
かしい理屈をつけて考え始めたら、写真など撮れるわけがない。まず、リラックスして気楽
に始めることである。    
     
 その昔、僕はスランプなると、「考えて考えて、そして結局何もしなかった」ということ
にならぬよう、まず行動を起こすことにしていた。そこで、走りながら考えるトレ−ニング
のつもりで、埴輪、ガラス器、石ころなどその辺にある材料で、時折手近かなテ−ブル・ト
ップフォトを試みたが、そんな中でもごくたまには思い掛けないアイディアやちょっとした
発見もあり、コマ−シャルの仕事にも役立った。                   
    
 ここに挙げた作品は、比較的最近のものばかりで、本格的な照明設備のあるスタジオでは
なく、助手君もいない自宅での、その折々の気の向くままの撮影で特に作品意識はない。 
                      
 食卓、机、出窓、ベランダなどどこでもがスタジオで、バックはケント紙やビロ−ドや羅
紗の黒布、ディフュ−ザ−はトレシングペ−パ−、フジタック(富士フィルムのトレシング
ペ−パ−状のフィルム)、レフ(反射版)は銀レフ、白黒のイラストボ−ド、照明はストロ
ボ、小型のフラッド・ランプ、ピンスポット・ライトなど数灯、カガミ数枚。      
 時に、照明用のカラ−ゼラチン・フィルタ−少々など。               
       
   メイン・ライトは太陽光が一番多い。太陽光は、直射のほかディフユザ−で散光  
  にしたりレフ板に反射してバウンズ・ライトにしたりで臨機応変である。
   今は、カメラは35ミリ主体。時に、デジタルカメラも使う。つまり、至極当た 
  り前、どこでも誰でも簡単に用意出来るものばかりである。






はなみずき      
                               


 はなみずき 

   
 これは裏の公園で拾った。誰かのイタズラかも知れないが、ひと枝だけ折られて落ちてい
た。ぼくはそれの更に小さな枝をとって持ち帰り、食卓のガラスコップにさしておいた。
    
 しばらくする内に水切れか、葉っぱが曲がり始め、自らが微妙なバランスを見せ始めた。
食卓の上で毎日見る姿は、最後のエネルギ−をふりしぼつて形と色の演出をしているように
思えた。
 ぼくはこれが限度かと感じた日、黒いビロ−ドの布をバックに、赤い実を中心とした正面
顔を写した。6枚の葉はそれぞれの曲がり方と色の違いがあり、そのフォルムを特長づける
ため、相当の時間をかけて必要部分にだけライティングをして他はバックに溶け込ませた。
枝の先をはさみで切らず、そっと手で折りとった白さが生きた。
     
 この作品は、この「はなみずき」へのオマ−ジュ(献辞)になったと思った。

    


      

   

ススキと枯れ葉                   
  
     

 ススキと枯れ葉 

    
 ススキは、鎌を持って採りに行く。これは一抱えも採ってきて、かさ立てほどのものに指
しておくと相当のボリュ−ムで見ごたえがあり、持ちもよい方だ。
     
 この写真は左上を真上にしてススキをぶら下げて、それに枯れ葉をひっかけてある。だが
このままではノ−マル過ぎておもしろくない。それでカメラを右回転して御覧のような横長
い構成にした。ぼくは頭をかしげてよく眺めていると言われることがあるが、それはこんな
構成をみている時のことであろう。
     
 ぼくは、何でもあだ名をつける癖がある。
 この小さな赤い葉っぱは、田舎の少娘のような、ぷっくりした枯れ葉「おはる」である。
タヌキやキツネ君というのもあるが、ぼくのあだ名は概して古めかしい。        
 それは池波正太郎の剣客商売や鬼平犯科帳などを何回も読むからだ。「おはる」は剣客秋
山小兵衛が手をつけた親子ほども年若い後妻の名前である。ここでは、小粋な役柄でのお呼
びがかかったというわけ。 
    
 葉っぱの色もそうだが、虫食い葉の穴も、よくもこんなに芸術的な形に食ったものだと感
心するようなものには、いいあだ名をつけてやる。貫禄のある葉っぱは「雲霧仁右衛門」、
少しくたびれたのは、「相模の彦十」などというのもある。
     
 この写真は作品というよりは、僕が日常茶飯時、一番たくさん撮ってきたコマ−シャルの
仕事に近い。パンフレットや中吊りポスタ−で、ちょっと気のきいたコピ−を入れれば季節
の広告になるといったタイプのものである。                  
   
       

    枯れ葉            

   

                             枯れ葉  これは、初めからモノクロ−ムでの構成 を意識した。まず右にある2枚の葉っぱを 置いた時、これが「こうもり」が飛んでい るように感じた。 こうもりは灰色一色だから、モノクロの 目で見た多くの葉っぱの中からこれはとい うフォルムのものを選ぶわけだが、参考写 真で見るように赤色に惑わされ易いので注 意が肝要だ。                   ぼくが特に注意したのは、次に置いた下の虫食い葉で、変化をつけるためにその形の良い ものをずいぶん時間をかけて捜しだし、左のひねた葉っぱと重ねたり離したり、ミリ単位で の構成である。上の葉っぱは何気なく平凡なようでかなりくせのあるものを配置した。       枯れ葉のような小さな葉っぱのモノクロでは、スタティックな構成では弱くなる。動感を 与えるのも大切だ。コンポジションの関係で、動きの方向は左上に向かうようにした。      ぼくは多くの場合、モノクロ主体の場合でも、一応カラ−も撮っておいたが、本番がカラ −の場合でもカラ−からモノクロのネガ起こしは調子が悪くなるので、モノクロの必要があ る可能性があれば、モノクロ−ムも必ず撮るようにしていた。

   

   

  



病葉 (わくらば)

                

 病葉 (わくらば) 

     
 これは、如何にも病んだ葉という感じがピッタリの葉っぱであった。
 なかなかボリュ−ムがあり、葉の欠け具合も程よく、アップで撮るつもりで、表面の凹凸
を出すための低いスレスレのライティングを始めた。
     
 ところが、影の形が予想外におもしろく、これを最大限に生かした構成を考えることにし
た。このフォルムは、鮮明でスワンのように見えるので、冗談半分で下部に水色のグラデ−
ションをいれて見た。                               
       
 これだけもでかなり変わったものになったが、肝心の病葉の力が不足しているので、葉っ
ぱの表面だけに軽いカラ−ソラリゼ−ションをかけてみた。色は普通のシチュエ−ションで
はもたないので、ちょっと浮き上がったマゼンタ傾向の赤色を露光した。        
 影の紫色は、おとなしすぎるので赤紫に変え、やや高熱になやむ病葉にした。

       

    



    落ち葉たち         

落ち葉たち(モノクロ)

落ち葉たち(カラー)

                
                

 落ち葉たち 

     
 この葉っぱたちは、特に虫食い葉を中心に、色合い、形の強いものを選んで構成し、ライ
ティングも特に変わったことはしていないが、派手な集団であることは間違いない。
 僕はしばらく眺めているうちに、このままでは当たり前。強い形をしているだけに、この
派手な集団をハ−フ・ト−ンに近い色合いでシックな画面に変身させて見ようと考えた。
 
 そこで全体にハ−フ・ソラリゼ−ションをかけると、やや淡い色合で上品にはなったが、
どこかしまりが不足して、力がない。
 こうした場合、めりはりをつけるには、シャド−を強くすれば良いわけで、最明部をとり
だして、この部分のポスタリゼ−ション処理でチャコ−ル・グレ−を入れて完了した。
 
 このやや深いシャド−は、モノクロにした場合も有効で、あっさりした落ち葉のパタ−ン
にシマリをつけることに役立つている。
   

  

   


        テ−ブル・トップフォトの現場は・・・

 
 < 30分間の習作 >  

        
      僕はこの原稿を書き終った翌日の朝、ふと実験をする気になった。
     
 食卓に座ると、強い朝日を受けたライス・フラワ−が目についた。この花は数日前から置
かれていたが、形も色も地味なため片隅でひっそりとしか見えなかった。それが、晴天の強
い直射光を受けたその朝は、急に生気を発散させているようで、撮る気になったのだ。
                                      
 ぼくはこれからテ−ブル・トップフォトを試みようとする人のために、ぼくがした撮影の
順序にしたがって、感じたこと、実行したことをそのまま簡単に書いてみよう。
    
 この家の向きからいって、朝の直射光で撮れるのは30分が限度である。僕はこの30分
間で、この材料でどんなものが撮れるかを試してみることにした。
 撮影場所は、キッチンに続くリビングの端である。狭っ苦しいところだが、ボ−ル箱と椅
子の影がいいコントラストをみせていたので、この影を副材に構成を始めた。  
           

(1)

(2)
     
  写真(1)の左端の椅子が、わが家のキッチンのぼくの定席である。日頃ライスフ  
  ラワ−は向かって右端の窓寄りに置かれているが、その場所でさえ朝の30分くら  
  いしか太陽は入射しなので、いつもこんなフラットに見えていた。
     
  写真(2)は、キッチンとリビングの境目にさしこむ太陽光が、宅配便のボ−ル箱  
  と椅子の影を長く引き、ちょっとした雰囲気を感じたので、そこへ花瓶入りのライ  
  スフラワ−を置いてみたところ。

              

ライスフラワー A      

                

< ライスフラワー A >

     
 切り花を写す時は、茎の切り口、つまり末端の始末がむつかしい。僕が注目したのは、何
でもない半開きのボ−ル箱が落とす暗い影の中に、まず茎を目立たせないで構成することが
手始めのポイントであった。                            
 もちろん、写真(2)のままのカ−ペットの床の質感では写真にならない。バックは真っ
白なイラスト・ボ−ドにかえて撮影をはじめた。
    
 この写真の着眼点は、単なる箱の台形の影が石垣のように見え、太陽の強い直射光が落と
すシャ−プな花の影が、まるで樹木と錯覚するような風景である。真っ白いバックはベラン
ダの干し物のやや薄い影のため、白いスペ−スでなく空間のように見える。もちろんこの影
のフォルムやト−ン、コンポジションは、微妙にコントロ−ルしている。
   

  

     

ライスフラワー B

                

< ライスフラワー B >

     
 これは影のフォルムとリズムに惹かれて、影を主体に撮ってみたものである。
 左上の角い影はボ−ル箱の、右下は椅子の影、その他はベランダの物干し竿やひもにぶら
下がった干し物の影である。ぼくは何でも舞台装置にしてしまう。
     
 影は、その実体が何であろうと抽象的な表情をあらわすことがある。
 足元を暗い影に同化させた花は、白いバックに置いてあるにかかわらず、影とはやや距離
のあるような空間を構成し、花の実態と樹のように見える影の対比は、低い角度の斜光のた
めである。
   

 

     

ライスフラワー C    

                

< ライスフラワー C >

     
 この写真は、少しだけ手が混んでいる。
 下部はボ−ル箱の影だが、左上からバックに、スレスレの高さから鏡で照明してある。 
太陽光を反射させたこの光は、影の明度を明るくし、花の天部に生気ある表情を与えるライ
ティングとなっている。右方からは銀レフでわずかな反射光を送っている。
 ぼくは撮影しながら、モヤのある山の林を見ているように感じ、それを素直に表現した。
    
 僕は、わずか1m四方ほどのスペ−スで花を撮る場合も、風景を撮っているように感じる
ことが多い。それはたとえごく狭い範囲でも、空間を限定して見ない構成や習慣によると思
う。習慣というのは、その作品が全紙のポスタ−やウインド・ディスプレ−として大きく引
き伸ばされても保つだけのスケ−ルと密度を考えるということである。
      
 一般に、カメラの小さいファインダ−の中やせいぜいパソコンの画面ぐらいのスケ−ルで
しか見ていない写真が多い。少なくとも大四つ切り以上全紙くらいでの構成を頭に描きなが
らの撮影にトライすることも、力のある作品を構成する修練になると思う。
    
 30分の時間は、アッという間に過ぎ、太陽光は間仕切り壁にさえぎられてしまった。 
 逃げて行くように動く太陽光での撮影はかなり忙しく、バラエティを考えての作品は、や
っとこの3点であった。                              
 僕の場合は、ある程度手慣れたところがあるので、実験的な変化を割り切って試みたが、
一般には60分で1〜2点の作品を作るペ−スでじっくり撮った方が良いだろう。
     
 以上で僕の性急な実験と解説は終わったが、これから先のことが大切である。
   

 

     

< 自分を考える >

   

 ぼくは弟子や学生たちに、よく説教した。「人の作品を見て、ある感銘を受けた時、ただ
感心しているだけでは能がない。『自分ならどうするか』ということを考えろ。」といって
きた。「どうしていいものやら何の発想も浮かばないようなスカスカの頭ではどうしようも
ない。」とハッパをかけたものである。
 「それが確立しなければ、人様の作品の批評などとんでもない。」ともいった。
     
 僕の言い方は、相当乱暴である。                         
 もし相手(作品)が本当にすばらしい傑作なら、圧倒されてグの音も出ず、それを越える
発想など浮かばないのが、当たり前だからである。
 しかし、その場を去って、わが身をふりかえると、自分の体験からの連想ぐらいは出てく
るものである。それと比較すると如何に自分の作品が貧しいか、ここに反省と自嘲の精神が
生まれてくるようだと僕のねらいは実を結ぶ。
    
 これが身につくと、だんだん作品のよしあしの判断が出来るようになる。これは、聴くと
聞くによく似ている。「聴く」はその気になって聞くことで頭のスクリ−ンに鮮烈なイメ−
ジが浮かぶが、これには訓練がいる。だだの「聞く」は石の地蔵さんで、右から左へ通過す
るだけである。
     
 話を元に戻し、玉井流トレ−ニングの話に触れておく。               
 僕は、時折、スタジオで即物的な写真しか撮らない学生たちをつかまえて、花や卵を題材
に、いきなり「音」「愛」といった抽象的なテ−マを与えて写真を撮らせたことがある。 
 どんな学生でもこんなテ−マでは、常識的な花や卵を撮るわけには行かない。    
     
 彼らはしばらくは戸惑っているが、それでも何とかイメ−ジが喚起されるのか、その人の
感覚によって、全く違った作品が仕上がってきた。彼らはマンネリから解放されたのだ。 
 やがて自分の潜在意識に気づき、それを写真表現とする者もいた。テ−ブル・トップフォ
トでは、そんな実験もできる。
     
 創作には数学のような答はない。正解もない。自分流を思いきりやってみることだ。
 まず、肩ひじ張らず、スタ−トすることである。