part.12         

< 密度ある表現 >
       
  今回は、写真と絵の具体的な花の例をあげ、密度ある表現についての解説をしてみたい。
          
 ある日、瑛九は、「絵かきは藁屋根時代だよ。写真家はこれから最先端を行く仕事になる
よ」といった。そして、「絵かきは筆一本の使い方、そのタッチにしても習得に何年もかか
る。ことに日本画などは漢字を覚えるに等しいが、写真の技術は科学を理解すれば短期に終
わる。また、一枚の絵に数ケ月以上もかかるものが、写真は一舜のうちに固定される。だだ
それだけに、それ以前の内容と、大変な集中力、燃焼が必要だ。そんな仕事はとても藁屋根
に住む僕にはむつかしい」といった。
      
 これは僕を励ますために言った言葉だが、僕は瑛九が写真のある種の限界を知っていた言
葉として受け取った。
         
 そしてまた、逆に、藁屋根時代を越えた瑛九の生活とその作品をみて、僕にはとてもあれ
だけ長時間の集中力と持続は到底できそうもないから、やはり写真をやるべきかな、と思っ
たりした。
       
 写真も絵画も、いずれも平面芸術だから共通するものがあるが、「絵は密度をあげるため
に、いくらでも描き加えることができるが、写真はそこにあるもので密度を上げるアイディ
アや技術が必要だ。」というのは理屈である。
          
 ところで、画家の梅原龍三郎は、「今が一番美しいと思った時に、パッとやめられる者が
大家になる。」と言う。「密度が高い作品をと粘るうちにだんだんつまらなくしてしまう。
絵はやめる勇気が必要なのだ」というのが正解であろう。絵画もまた余計なものを一切描か
ないでいて、画面全体の完成度の高いものを創ることが難しい。
       
 僕は瑛九のところへ通ううちに、多くの画家の卵達と知り合いになり、かなりの絵を見て
きたがだんだん目が肥えてくるにつれて、彼らの絵の部分で緊張感を欠いたところ、手抜き
したところはすぐ分かるようになった。                       
 つまり、画家は3日か3ケ月か知らないがその絵の完成まで緊張感を維持しなければ高い
密度のある絵にはならず、写真家は画家が長時間維持する緊張感を、一瞬間に集中しきらな
ければ密度の高い作品は生まれないと考えるようになった。
        
 (解説用の作品は簡明で分かりやすいエルンスト・ハ−スの作品と僕のものを掲載した)
       
 以下は、作品の解説に交えてざっくばらんに、キ−ポイントへの感想など述べてみたい。








「参考作品」  「真昼」 瑛九 やがて、丸は砕けてうごめく点になる。

黄色い花
                                            

          

                「黄色い花」 1958  瑛九
        
          
 僕は瑛九の「黄色い花」と「飛びちる花びら」を初めて見たとき、一瞬、房総半島の館山
近くでポピ−が一面に咲いていた花畑を思い出した。色とりどりのポピ−が波打つように咲
く畑が、何枚も続く風景は壮観なものであった。
 ところで、僕はプロ写真家の習性というのか、この時もし瑛九の「黄色い花」という作品
に負けないポピ−での黄色い花という作品を写真で撮るとすれば、どんな手段があるだろう
かと考えはじめたが、瑛九の作品に圧倒されてなかなか案がつかなかった。
      
 瑛九の作品は、1957年頃から小石ほどの大きさの丸を無数に画面に配置するようにな
った。それらはオハジキ状の丸になり、丸は砕けてうごめく点となり、点はさらに小さな点
になり画面全体を覆いつくすまでになった。
 そして、最晩年の荘厳で華麗な点の世界へ移って行く。生命体が細かな粒子となってはじ
け、また新たな生命体に生まれ変わるかのように一つ一つの点は命をもち、その世界は宇宙
的広大さをもつに至った。
        
 「黄色い花」というこの作品は、晩年3年間の集中的な抽象表現への過程に見られたもの
だが各々はじけるような形の円形と磁力で引き合うかにみえる主題の黄色い丸にはじまり他
の赤、紫、オレンジ、青、緑などデリケ−トな色合いの円形は、すばらしい構成力で響きあ
い支えあって高い密度のある画面になっている。
       
 題名の「黄色い花」は、多分具体的なモチ−フを意味せず、この絵のイメ−ジからつけら
れた言葉ではなかろうか。とにかく、これだけ密度の高い抽象表現による強さをみせつける
絵に負けないほど密度のある作品を、花の写真で創るのは容易なことではない。
       
 *「参考作品」「真昼」瑛九

      

      

      

        

       

       
      

 シネラリア と シクラメン


   


           

 
「シネラリアとシクラメン」 エルンスト・ハ−ス
        
        
 
 そこに在るものしか写らない写真で、その密度を上げるのは、まず原則として写真の3大
特長である精密描写、瞬間の固定、グラデ−ションの表現に加えて、遠近感の解放、視覚の
延長、アングルの自由、決定的瞬間をとらえるなど、カメラの機動力をフルに活用すること
と単純化、抽象化、数量化といったことを含めた、その被写体にふさわしい構成力で見せる
ことにつきる。   
           
 この作品では、二種類の花と葉を充分な絞りで、すべてをシャ−プに描写し堅実な構成で
目的を果たそうとしている。ハ−スのこの作品は最も一般的な画面構成であるが、外国人特
有の執拗に重い表現である。この当時はフィルムの感度が低かったので、当然三脚を使用し
たと思われる。僕たち広告写真家の場合、商品やこうした静物写真の撮影では、ピントの甘
いものは大伸ばしに耐えないので、三脚使用によるシャ−プさとアフリの活用から大判カメ
ラ(4×5判以上)で撮るのが普通である。35ミリで撮るのはやむを得ない場合に限るが
アフリがきかず被写界深度を得るため、ほとんど最小絞りにすることが多い。
     
 背景(バック)についての考えは「情報として、土台、支えるもの、基礎のようなもの、
力を与えるもの、相反するように見えるが支えるもの、反発によってより存在感(対比)を
強めるもの、融合するもの」といった見方、考え方で構成する。            
 受動的(お副えもの、邪魔なもの)な立場に立たないほうが成功率は高い。
      
 戸外の実技ではPert3・「私の花」の「花三昧の秋山氏」で述べたが、彼は戸外でバ
ラを撮る場合、一般に花と葉に同じ太陽が当たると葉の方が強く表現される時は、軒先まで
花を運び、葉の部分は日陰にするというのもライティングの一工夫だが、僕たちの仕事では
日傘で、蔭を作ったり風よけにしたり、トレシングペ−パ−で太陽光をソフトにしたり、ス
トロボをアクセント・ライトにしたり、銀レフ、黒白その他のバックなどを車のトランクに
常備し、色々な工夫をして密度を高める。脚立も必需品である。
       
(参考例・Part3 「私の花」 ポピ− 参照)
     

                    

シクラメン




    
                   「シクラメン」  エルンスト・ハ−ス
    
         
 この作品には、大きなうねりのような動きがある。シクラメンの花びらだけでの構成であ
るが、ハ−スの知的で繊細な画面は見る人を魅了する。
      
 完成度の高い作品に接した時、僕は音楽のような動きを感じることが多い。それは交響曲
のような大きく重いものからポップスのような軽快で軽いもの、また表面は静的でも内面に
動きを感じたり、リズムもさまざまである。更にスケ−ルの大きい作品からは時に得体の知
れないものを感じ、それに感動することがある。これは近頃よく議論される大きな未知数の
魅力、エントロピ−が大きいということであろうが、このことについてはまた項をあらため
て話したい。
       
 僕は彼の展覧会を2度見たことがあるが、全紙に引き伸ばされた作品は、非常に高い解像
力があるために、遠くから眺めても近づいて子細に見てもバランスがとれた密度があり、会
場を立ち去りがたいほどの深い感銘を受けた。それはまた彼の謙虚で誠実な人柄をも含めた
ものであった。       
 写真というメディアは不思議なものである。撮影者はたしかにカメラの背後にいるのに、
その姿は画面には写ってはいない。でも見る人は被写体と同時に撮った人間をも見た気にな
る。彼はそんな気にさせる貴重な写真家だと思う。
      
 ハ−スは、ロバ−ト・キャパが主宰するマグナムに所属し、ストレ−トなドキュメンタリ
−の撮影をしていたが、詩や音楽や絵画への強い興味をもちつづけながら、次第にカラ−写
真によるものの見方、そして表現の可能性に取り組むようになり、「色の魔術師」といわれ
るカラ−写真の先駆者になったが、彼は常に「私は写真のための写真は信じない。写真家は
写真以外のすべてのア−トとつながつていなければならぬ。」といっていた。      
     
 そんな彼は、「自由な魂そのもので伝統や理論にとらわれず、外に飛び出して、写真にお
ける無類の美を見つけ出した人」であろう。  
           





ポピー

            

                      「ポピー」   玉井瑞夫
    
        
 これは去年の5月、我が家のベランダで撮ったもの。育て方が悪かったのか、普通の大き
さになるはずのポピーがミニポピーになり、直径5センチぐらいの大きさで咲いた。
       
 10個のうち僕のめがねにかなったのは、わずかこの一輪であった。つまり美人コンテス
トでいえばミス・ユニバ−スも悪くないが、僕はミス・フォトジェニックをえらんだような
ことである。僕のイメ−ジでは、これはとても可憐で美人薄命といった趣があったが、この
一輪では強いパンチのある作品にするのは到底無理であろう。写真はやや軽くても奥行きが
感ぜられ、静かで心に響くような作品になればと思った。             
      
 僕はこの貴重な一輪を半日眺めながら写すことになったが、そのポイントはごく薄い紙を
一度握り潰して広げたような半透明に近いすこしシワのある花びらの質感と左右対称でない
淡赤い模様をどう生かすか、右下にわずかに見える花びらのバランスをどうするかなどであ
る。しかしこの一輪だけでは弱く、バランスも取りにくいので、他の鉢のつぼみを助っ人に
持ってきた。つぼみはこちらを向いていたものを向こう向きに変えて構成した。このつぼみ
は控えめながら画面に活気を与えている。
       
 後は情報のすべてを表現し密度を落とさぬよう、花びらの手前から奥までシャ−プに表現
するために最小絞りにした。バックはシンプルにするためと合成にも使うことが多いので黒
バックとした。黒は深い空間でもある。もちろん、戸外の自然のままの場合、バックがある
程度シャ−プに表現される時はその情報も構成を強める要素として利用する。それが密度あ
る構成を損なうような場合は、そのままの条件では撮影しない。      
     
 僕の場合、写真の密度を重視するため、やっと雌しべ雄しべにピントがあう程度の大絞り
で前後をぼかしたり色ボケを利用して画面を構成することはめったにない。色ボケの役割は
舞台装置(引き立て役)だが、引き立て役としては不足することが多いからである。
 また、実用上、美術館などに収蔵する(世界の最小基準)大四つ切りサイズに引き伸ばし
た時、情報不足で密度に欠け、欲求不満になることもその理由である。      
       
 もちろん開放に近い絞りで、奥行きの浅い平面だけでのシャ−プな描写とその前後の色ボ
ケでかなり密度のある作品を撮ったこともあるが、僕の場合どうしても一筆画のような小品
になってしまう。絵でいえば、色紙か短冊なら何とかもつ程度の写真で、普通の油彩には到
底対抗できない。この類でいまだに自信をもって発表できる作品がないのは僕の力不足かも
知れない。

      


           

「参考作品」  「風景」 玉井瑞夫   決定的瞬間は、雲のダイナミックな動きにある。

枯れ葉

                       

                

   「枯れ葉」  玉井瑞夫    
 これは、浅間山麓での撮影である。
 何という植物か知らないが、瑞々しい苔のようなものが一面にあり、朽ちかけた葉っぱが
一枚落ちている、それだけのものだが僕はこんなものを見るとすぐ写したくなる。
 しかし、自分が納得できる作品は未だに出来ず、この作品も小品である。
     
 その原因は、「被写体の選択眼が作品の80%を決める」というセオリ−にあるのかも知
れない。これは情報量の多い風景撮影に例をとるとよくわかる。            
 或る素晴らしい風景を撮ろうとする時、誰でも密度の高い画面構成にするため、まず無駄
な部分、雑音となる要素を省いた構成で、その場所の魅力を最高に発揮する「風景における
決定的瞬間」にシャッタ−を切ろうとする。
       
 「決定的瞬間」は全く様々で、必ずしもきれいな斜陽とは限らず、暗雲垂れこめ雷鳴とど
ろく瞬間かも知れず、満月で照らされた夜景かも知れない。山岳写真家の白川氏がマッタ−
ホルンが湖水に完全な形で逆さまに映ったシ−ンを撮るために、風のないシ−ズンと時間を
調べあげ、数年をかけてやっと数分間のシャンスをつかんだというのも決定的瞬間である。
      
 しかし、肩に力を入れてはいけないのだ。ハ−ス曰く、「瞬間を捉えるのは、信じがたい
ほどの集中力によるものであって、決して頭で考えてつかまえられるものではない。−−−
感じなくてはならないのだ」と。
      
(参考例・Part 5・6・7 「私の風景」 風景 フォルム ヌ−ド 参照)
        
 話は元にかえるが、この「枯れ葉」の場合は、風景にすれば坪庭のようなスケ−ルで、と
ても大きいスケ−ルの風景には太刀打ちできないが、一滴の水の中にも世界が見えるとか、
なんとか作品にできないかと思う。こんなバックで、夜に近い夕刻に、マルチストロボで枯
れ葉が風で飛んで行くシ−ンなどいろいろと空想は果てしない。
      
 また僕は紅葉した葉っぱや枯れた葉っぱなども好きで、シ−ズンになるとその辺の公園や
バス停やどこでも気にいった葉っぱをほとんど無意識に拾ってくる。          
 僕がこれまで見た秀作のほとんどは、氷や霜で凍れた植物が多い。しかし、そんなところ
へ行かない僕は、紅葉したり枯れた葉っぱを普通の条件下で、組み合わせ(物と物、物と特
殊なバック)やとんでもない斬新な構成で撮ってみたいという夢(好奇心)を持っている。
夢はある日突然に実現することも間々あるものである。
          
*「参考作品」「風景」

  


                 

トマトと ピーマンと                             

                

「トマトとピ−マンと」  玉井瑞夫
     
 広告写真をやっていると、時々変な遊びをしたくなる。
 これは大全紙くらいの大きさのクロ−ムメッキの板の上に、トマトとピ−マンを置き、手
前の端を下に曲げ、投影された形をデフォルムさせてある。
 雲のようなものは、白いアクリルの薄板に、カラ−ゼラチンをつけた数個のピンスポット
で雲状の形を後ろから投影している。
     
 こうなると、絵筆の代わりに光で絵を描いているようなものだが、これもクリエイティブ
な仕事で、コマ−シャルではシンプルで且つ密度あるアイディアも要求される。
      
 もうずいぶん昔の話になるが、ある日、「家の光」という雑誌を出している会社の編集者
がやってきて、農業技術の月刊誌「地上」という本の表紙を作ってほしい。これまでの表紙
では農村の若い青年たちは持って歩いてくれないので、大手を振って持ち歩けるような表紙
を考えてほしい」という。                             
      
 サンプルとして持参した表紙を見せてもらって原因がよくわかった。丁度みかんの季節の
ものであったが、それは「姉さんかぶりをした女性が、みかんの入った大きなカゴをかかえ
てニッコリ笑っている」という農村の生活そのもので、農村に新しい技術を持ち込もうとい
う技術誌とはおよそかけ離れた古めかしいものであった。
      
 そこで、僕の自由な判断でトマトとピ−マンを主題に、ビジュアル・ショッキングを狙っ
た表現がこの作品である。二回目は稲穂のレントゲン写真を主材にしたカラ−構成など、つ
まり題材は農村にある穀物、果物、野菜、農業機械などであるが、視覚的に新鮮な写真表現
を次々と試みた表紙になった。これらは農村の青年層にもなかなか評判が良く、日頃見慣れ
た被写体がモダニズムによる変身で受け入れられたわけである。
       
 実際に創る側の僕の方は、毎月新しいアイデアが続くかどうかを気にしたが、やりはじめ
ると窮すれば通ずとか、なんとか続けることができた。こうした作品は演出された静物写真
といわれるもので、各家庭でもちょっとした工夫でおもしろい作品ができるはずである。 
       
(参考例・Part3 [私の花」の カトレア 参照)