part.11         

写真と絵画の違い
       
      今回は1952年、写真サロン10月号に「写真と絵画の造形性」という題名で
      瑛九が書いた評論を中心に、それらを要約しながら、私見も加え解説したい。
      彼の評論は、もう50年も前に書かれたものだが、全く古くなっておらず、現在  
      もそっくりそのまま当てはまり、原理は生きている。           
                 
 絵画と一口に言っても、アルタミラの人類最古の壁画から現在まで実にさまざまの様式が
ある。現在の『現代絵画』といわれるものは、全く「自然の再現」をやめて、画面の組み立
てや構成そのもの、つまり「造形性」が第一に重要視される造形主義によつて作者の実感を
語ろうとするようになった。こうした現代絵画を造形主義に追いやったのは、写真が発明さ
れカメラの素晴らしい現実の再現能力からである。
      
 例えば、肖像画は過去においては、非常に大きな画家の仕事の一つであったが、今は写真
家の仕事になった。今でも写真のような肖像画を描く画家たちの心理状態は、カメラ発明以
前への憧れか、カメラの真の表現能力を知らないからであろう。
             
 その人物に似せて、目で見るように再現しなければ意味のない肖像画に、現代画家が熱中
するのは不可能である。つまり絵画は今では、自然や生活を再現し報道する仕事から全く解
放されたわけである。
それでは意味のある肖像画とは、どんなものであろうか。それを解く鍵は、ピカソの絵に
ある。それはまた、写真と絵画の違いを知るカギにもなる。








< 現代絵画とピカソ >

2. 肘掛け椅子に座る女

1. 恋人たち

  

         

(1)「恋人たち」1923 ピカソ
ここにピカソの女を描いた絵がある。
      
の「恋人たち」は、柔らかい写実的な画面で、誰にも親しめる。ピカソにもこん
な時期があった。ところが、の「肘掛け椅子に座る女」になると、ピカソのあま
りの豹変にびつくりしてしまう。
     
(2)「肘掛け椅子に座る女」 1941 ピカソ
こんな千切れたような顔があるわけがない。これは見たままの女の再現ではなく、
女は画家の造形される材料に過ぎない。もしこれを写真を見るような態度で見ると
したら、ここには何が再現されているのかわからず、お化けみたいだといわれるだ
ろう。こうなると、ピカソに肖像画を頼む人はいないだろう。         
           
事実、ピカソは現代最高の画家の一人だといわれいるが、少し前までは多くの非難
につつまれていた。その非難は主として彼の作品を、現代の造形芸術として見るこ
とができず、写真のように見ようとしたからである。
 


      

4. ドラマール

3. ドラマールの肖像

 



     
(3)「ドラマ−ルの肖像」 1937 ピカソ        (4)「ドラマ−ル」 1937 マンレイ
     
      
の「ドラマ−ルの肖像」が描かれたのは、の「肘掛け椅子に座る女」より前で
新興写真運動の影響がまだ少なく、写真家であり画家でもあったマンレイが写した
「ドラマ−ル」と比べてみると、この絵が横顔と斜め前からの顔が重なったような
不思議なものにデフォルムされてはいるが、まだ同一モデルであることが分かる。
        
ところが、の「肘掛け椅子に座る女」になると、もうモデルがどんな顔つきをし
ているのか想像もつかない。わずか数年だがピカソノの変化ぶりが見られる。  
これは再現でなく造形的に創りだされたものとして、始めから鑑賞する絵である。
我々は画面から受ける形そのものや色そのものの実感を受けとり、それはいろいろ
な自分の空想や連想にも発展して行く。
   



      
               絵画の造形主義
   
       
 ここで原則的な写真の成立と絵画の成立を具体例で考えてみよう。
              
 仮に、ダリアの花を写真家と現代の造形主義的な立場の画家が題材とするとしよう。
画家は花をかりてきて色や形を画面の上に、造形的に効果があるように整えるであろう。 
しかし、その形や色がダリアに似ていることによって語るのではなく、形や色を適当に自分
の考えによって整え、そのこと自体によって話そうとする。
 だからダリアは一つの円形として扱われ、ダリアの自然の形は無視される。
             
 ところが、写真家はダリアその物から受ける美しさからの感動がなければシャッタ−を押
さない。写真家はダリアそのものの実感を如何にカメラを使ってうまく再現しようかとする
わけである。この際、写真家がダリアの事実が示す感動の再現よりも、造形的に画面を整え
ることを主眼をおいたなら、カメラという機械は不自由なものとなり、出来た写真はまとま
ってはいるかも知れないが、絵画の自由な造形性には及ばぬものになるであろう。
      
      
        
              新興写真運動とア−ト
       
    
 さて、絵画は自分の手で描くことから、何世紀も前から個性があり優れたものは、芸術と
見られてきたが、写真の方はどうであったろうか。
          
 写真が発明された当時は、ただ写るだけでも大変なことで記録的なものが多いが、大正か
ら昭和の初期になると、単なる記録にあきたらず絵画をまねた芸術写真と称するものが現わ
れ始めた。これらは印象派風の絵に似せようとして写真のシャ−プさを嫌い、わざわざレン
ズにつばきをつけたり、単玉レンズを使ってややピントを甘くした写真もあり、内容も「光
とその諧調」を主張した俳句の写生句風のもの、絵のようなものが多かった。つまり、完全
な絵画追従時代があったということである。
            
 その頃、1919年にドイツのバウハウスに起こった絵画模倣主義への反抗からの新興写
真運動は、世界の写真界を刺激し絵画の後を追うことをやめた新しい写真表現が始まった。
 それは、写真本来の特質を再認識しようとしたもので、写真の記録性、瞬間の固定、精密
描写、動感の表現、諧調の表現、遠近感の解放・誇張(長焦点・単焦点レンズの駆使による
自由な遠近感)、視覚の延長(拡大撮影・電子顕微鏡・ストロボ)、アングルの自由などを
大胆に実験したカメラの目で見た新しい展開が始まったわけである。  
              

   
   
      


 アングルの自由・遠近感の解放 >


6. ルイ・アームストロング

5. タイム・ライフ ビル

                

(5)「タイム・ライフ ビル」 エ−ル・ジョエル                            
の「タイム・ライフ ビル」は、建設中のビルを超広角レンズで撮ったもの。
写真が生まれる以前には、絵画でこんなアングルで描いた風景はなかった。もち
ろん極端な仰角では、矩形のビルは三角形のピラミッドのようにカメラの目は、
デフォルムして表現する。それも我々は認めるようになった。
(6)「ルイ・ア−ムストロング」 フィリップ・ハルスマン
の「ルイ・ア−ムストロング」も同様で、これほどハイアングルからの誇張さ
れた肖像もなかった。長短の写真レンズの選択によるこうした極端な誇張も今で
はおかしいと見る人はないが、新興写真時代にはこうした実験的な写真も新しい
ア−トとみられた。しかし、それは一過性のものであった。
近頃、テレビでの超ワイド・レンズの乱用によるデフォルムを見かけるが、趣味
のよくない悪フザケが多く、新興写真運動をまねたようで陳腐である。適材適所
を心すべきと思う。

   


< 決定的瞬間とユーモアと >

      

8. 女ぎらいの猿

7. ヨーロッパ風景・パリ
  

9. ノルウェーのフィヨルド                     

                

(7)「ヨ−ロッパ風景・パリ」 1932    アンリ・カルチェ・ブレッソン
の「ヨ−ロッパ風景・パリ」は、決定的瞬間という彼の写真集にある。  
「決定的瞬間」というのは、カルチェ・ブレッソンが生み出した言葉である。
彼は視覚的要素と情緒的要素がひとつになり、その光景の意味をあらわした瞬間
に写真を撮る。それれはまた感動や生き方をあらわす一瞬である。彼は「常に、
時間とボクシングををした」といわれているが、「瞬間」は彼のボクシングの相
手であり、パ−トナ−である。こうした瞬間をとらえることができるようになっ
たのは、35ミリカメラができたお陰である。
      
(8)「女ぎらいの猿」 ハンゼル・ミ−ス
の「女ぎらいの猿」は、LIFEに載っていたこの作品を発見した時、僕はな
んとも不思議な魅力を感じた。この猿はサル社会が嫌になり、フロリダ半島から
島づたいにここまで逃げてきたバチェラ−(独身者)らしい。        
LIFEの解説は実にシャレたもので、「サルでもアカゲザルともなるとトラク
タ−を運転するものもいる。メスを避けて孤独を楽しむものがいるのも道理だ」
とあった。
早速瑛九に見せると、写真にはユ−モアのある作品が非常に少ないが、これはま
れにみる本物のユ−モアだといい、つまらぬ駄洒落を極端に嫌う瑛九は、これを
例として「写真におけるユ−モア」と題する評論を写真誌に書いた。
    
(9) 「ノルウェ−のフィヨルド」  1959  エルンスト・ハ−ス
の「ノルウェ−のフィヨルド」の作者、エルンスト・ハ−スは、報道写真家で
ありながら、写真とア−トのかけ橋になりたいといい、風景や花のすぐれた作品
も残した。彼は非常に感度の低いカラ−フィルムが発売された当時から、これを
積極的に使うための特殊技法の研究にも熱心で、そのユニ−クな実験作品とその
感性からカラ−の魔術師と言われた。そんな開拓者として紹介した。この作品に
ついては、説明の必要はないであろう。

   

  


                 




瑛九のいう写真の造形性

    
 瑛九はそのころ開かれていた関西写壇の雄、丹平写真倶楽部の東京展(玉井も出品した)
(1951)を見て、厳しい評論を加えているので、その原文の一部をそのまま伝えよう。
       
 丹平写真倶楽部は、戦前には最も新しい前衛的な集団としてきこえていたが、今なお最も
新しい集団であろうかという期待で見に行ったが、その大半は新興写真時代の実験的な作品
の域を乗り越えておらず、結果は否であった。
 作品は構成的に優れているので一見堂々とした感じがするが、題材に変化が乏しく、生き
生きとした実感が少ない。多くが画面を構成し、まとめようとすることが目に映り、アブス
トラクトやシュ−ルレアリズムの絵画をカメラを使って実験したような感じで、動的な生活
の断面を感じさせるものが少なかった。
       
 関西写壇の指導的立場にある写真家は、他の芸術に対しても強い興味を持っており、特に
現代絵画、彫刻に対する知識は画家以上の人もいるくらいだ。だから作品に近代絵画のアイ
ディアに近いものがあったり、造形性に重きをおかれた作品が多いのもうなずける。
 しかし、写真は瞬間的に題材を固定し、その再現された事実によって見る人々に話しかけ
る芸術である。現代絵画は造形の言葉、つまり画面上に形づくられた物自体によって語ろう
とするので明らかに違った分野である。ピカソの展覧会では、そこに再現された現実を探さ
ないが、写真を見る人がそこに求めるものは、写されている事実である。
         
 だから、写真の上での造形性は、写真家の感動した事実をより強調するための手段として
使用されるが、造形性のために事実が逆に犠牲にされるという場合には、写真が絵画に追従
しているといわれるだろう。
     
 印象派風の写真を追っ払って、いろいろと新しいテクニックで、写真表現を拡大した新興
写真の運動は一時代を劃したといえるだろう。しかし、初期の芸術写真が印象派の絵画風だ
ということは、写真に本当の独自性がなかったことを意味するように、次の作品がアブスト
ラクト絵画のようであったり、シュ−ル風だということも、やはり写真が絵画によりかかっ
ているという点で同じある。
     
 絵画では、アブストラクトは1910年代にあらわれ、今ではまったくの流行時代に入り
その影響はいたるところに現れている。だから写真を写す人も見る人もそれに影響されてい
るようだ。
 根本的に、アブストラクト風な造形性に頼って仕事をしていることが、なにか新しい写真
のニュ−スタイルのように思われる傾向があるとすれば、それは印象派風な作品が苦笑され
るのと同じく、苦笑されるに値することではないだろうか。
        
 くりかえすようだが、絵画のアブストラクトの造形主義は、カメラの現実表現と対立して
発展しているものである。だから、写真のレアリズムは当然アブストラクトの造形主義に対
決するところにある筈だ。
 以上は、瑛九の評論からの転載である。




写真における造形への道

 戦前から関西写壇の前衛集団として注目されていた丹平写真倶楽部の戦後初の東京展は、
当時の第一線の写真家の殆どが初日に現れ、その前衛的な作品は非常に好評であつたが、そ
うした中での、独り瑛九の将来を見通した辛口の評論は、後に適中した。瑛九の慧眼には恐
れ入るばかりである。                               
 瑛九はこの原稿を書いて後、8年後に逝った。その間に僕が彼に根掘り葉堀り聞いたこと
や僕なりに感じてきたことを併せてここに述べて置く。




写真表現の或るプロセス

     
 
 ◎人間はある状況に接し、それを人に伝えようとする時に考えることは、おおむね
  単純化、抽象化、数量化といったことである。これは写真表現にも通用する。
        
 一例として、「すばらしい感動的な風景」を見たとしよう。その真実を伝えるには、その
場所へ相手を連れて行けば一番分かりやすい(条件が変わっているかも知れない)が、こん
な時その自然の複雑な様相をどのように説明するかを考えるてみると分かりやすい。
      
 つまり、下記の3つの事柄である。
      
1、単純化  その複雑な様相を整理し、なるべく単純化し、分かりやすくする。
      
2、抽象化  すべてを具体的にこまごまと伝えるわけに行かないので、抽象化する。
     
3、数量化  どのくらい高いか、広いかなど、いろいろな物差しで、数量化する。
       
 ある風景に感動した人がその素晴らしさを写真に表現する場合、上記の必要部分を整理し
強調して密度の高い写真で示そうとする。散漫な表現ではその感動が第三者には伝わらない
からである。                                   
 これはカラ−写真が普及する前のものだが、ある写真評論家の言葉に、「余分な要素をそ
ぎ落とし、最小限な構造を求める写真家は、モノクロ−ムの厳格な抽象性の方ががふさわし
く、見る人の視線を拡散させることなく、瞑想的な思考に引きずり込んで行く。」というの
があった。
      
 同じ風景が作者によって考え方・見方が違うために、どこに立って、どんなレンズを使っ
てどこを切り取るかには、無限のフレ−ムがある。それらの密度を高く昇華して行く段階で
結果的に象徴化・抽象化になり、計算外の効果がアブストラクト或はシュ−ル風な表現にな
ることも多いものである。これは当然、必然性がある。    
 こうした作品は、絵画的なアブストラクト或はシュ−ル風な情景を探して撮った風景とは
一見して異なることがわかる。              
      
 瑛九のいう写真の造形性とは、写真の特性を生かしてその自然の風景に従った構成、造形
で、その真実を伝える作品をつくれということである。
 絵画の造形性に寄りかかったり、それらしき絵画に似たような風景を探して写すような態
度は、本末転倒だということである。
       
 僕は、長い写真生活で、最終的には「基本は頭にしっかりたたき込み」、その上で「計算
を踏みはずした時にだけ、いい作品ができる」と思うようになった。
       
 つまり、瑛九が言ったことは、写真と絵画の本質的な相違だが、僕はその枠を越えてしま
った。それが創作と名のつくものなら何でもやってみる。でき上がったものが絵に近いもの
でもかまわない。特にコマ−シャルにおける世界に通用するア−トとしての表現では、写真
でいう現実の再現だけでは満足できず、写真表現での特殊技法の活用から新技法の幾つかの
開発にのめり込んだ。ただ、絵筆をとっての表現はまったく未熟なために技術としては写真
の技法を使ったに過ぎない。
      
 理論というものは、それを開創した作家だけに通用するもので、他人の理論や他の社会が
生んだ様式の追随者になるというのは、その人の芸術だけでなく、人生をも無意味にするこ
とがあろう。僕たち仲間は、瑛九を知り、瑛九を越えなければならなかったのだ。
      
 自分だけの裸眼で、驚きを見つけて行くことが大切なことと僕は思う。
       
(註)以上、思いつくままに述べたが、こうした評論の解説は難しい。僕のような速読の癖
   があると、一字の読み違えで意味を反対に取り違えることもある。拙文であるが読書
   百回、意自ら通ずとか、折々にゆっくり何回も読んで理解して頂ければ幸いである。