<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (46) ☆          月例会先生評(2011年5月)                < 月例会の再開(2) >                 

      < 仕事が楽しみならば人生は極楽

               仕事が義務なら人生は地獄だ >

  
   
  この言葉は、塾生諸君の心にも大きく響くであろう。
   これはロシアの作家、ゴーリキーの戯曲『どん底』の名セリフの一節。
    
  ぼくは旧制の中学5年を卒業し、1年の浪人後、何とか次の学校へ入学できた頃から、
母の弟で田舎では珍しい秀才と言われながら、長い結核に見舞われ、本意ならずも母校の
高校教師になった叔父が、短気で暴走しがちなぼくのために根気よく、説教代わりに教し
えてくれた格言・名句のなかのひとつであった。
    
 今や定職を持たないぼくの生気のない日常の日々がこんな古い名句を想い起こさせたの
であろう。下記は、老齢期を迎えた人々へのアンドレ・ジイドの名句だがこれも厳しい。
   
   

  < よく死ぬことはさほどむずかしくないが、          

          よく老いることは並大抵のことではない  >

    
 実はこの話は前書きで、ぼくはのんびりやりすぎた失敗の体験者として、その対応を話
したいと思ってペンを取ったが、少し疲れてきた。
 それらはつぎのチャンスに譲ることにする。

                     < 5月度例会講評 >         

    

「聖地の沐浴場(ガンジス)」 吉野光男    

「沐浴する長老」 吉野光男           
   

< 作者のコメント >
           

『 ベナレス 』(組写真)
 
 ガンジス河とジャムナ河が合流するベナレスは、ヒンズー教では聖地とされて、私が訪れ
たときも沐浴するための各地からの巡礼者でごった返していました。
    
 ヒンズー教に輪廻転生という教えがあり、ガンジスの聖なる水に浸るとすべての罪が清め
られ、また死者を焼いてその灰を河に流せば輪廻から解放されるという死生観があります。
 このためベナレスにはインド各地から死を迎える人が集まったり、遺体が運び込まれたり
しています。
    
 火葬場は沐浴場の上流にあり、荼毘に付されたのち、遺灰はガンジス河に流されます。し
たがってヒンズー教にはお墓も霊園もなく、すべてガンジスに還るという死生観です。
    
 なお火葬場の写真撮影は厳しく禁止されていました。
   
   
 「聖地の沐浴場(ガンジス)」
   
 沐浴場は全部階段状になっていて、舟から見ると人と人との重なりはなく表情などがはっ
りわかりました。人と服の色のバランスを考えながら撮りました。
  
   
 「沐浴する長老」
   
 沐浴場から離れたところで沐浴をしている行者風の人を撮りました。高速シャッターによ
る水玉が意外な効果を出したように思いました。

    
<  講 評  >  
     
 
 写真の題名(タイトル)について、ひと言のべておきたい。
 吉野君の沐浴場の写真は、中々の出来で結構見ごたえがあるが、タイトルが沐浴場1、2
といった表現では,せっかくの写真がもったいない。
   
 ぼくの注意を受けて、その名でチャレンジするにふさわしい「聖地の沐浴場(ガンジス)」
「沐浴する長老」に変わり、注目度は数倍になるだろう。
   
 といって、これは率直で、当然な表現、誠実な表題である。
    
 時に、文学的で誇張が過ぎたり、横文字で意味不明なタイトルは、言葉遊びに過ぎず、
その人の品位が問われるなど注意したい。

                       

「タンポポ」 岡野ゆき             

「クローバー」 岡野ゆき

   

< 作者のコメント > 
   
 
「タンポポ」 
   
 たんぽぽの綿毛が近所にたくさんあり、いつも眺めては時々撮影していたのですが、あ 
まり特徴のない写真ばかりができていました。半分綿毛の無いものを見つけ、撮影してみ 
ると、種の繊細な部分がはっきりと写り面白く、2つのたんぽぽを対比させて撮りました。
 抽象表現にしたかったので、色相を変えて提出しました。 
    
「クローバー」 
   
 雨の日に、鉢植えの黒いクローバー(クロバツメクサ)の上に雨粒がはじいているのを 
見つけて、撮影しました。周囲の要らないものを映したくなかったので、フラッシュをた 
き、クローバーが浮き上がるようなイメージで仕上げました。 
   
  

  
  
< 講 評 >
 
 この「タンポポ」の作品は、ユニークな構成の面白さに、敬意をはらうことにする。
 この写真を見た時、ぼくのごく自然に浮かんだシーンは、このままの構成で若い女性の
ヌードとセミ・ヌードが重なった写真だった。それが双子なら申し分ない。
   
 被写体によっては相当面白いシリーズも生まれるかもしれない。

                           

「朝靄」  嶋尾繁則             

「ふたり」  嶋尾繁則 

              

 < 作者のコメント >
     
 
「朝靄」
  
 この季節に発生する靄は雲海までには程遠いですが、このような状況に巡り会えたの
もラッキーだったと思います。この状況にドラマチックな天候がプラスされればもっと
良かったのですが。
  
    
「ふたり」
  
 宮崎駿が「崖の上のぽにょ」の構想を作った場所といわれる広島の鞆の浦に行った時
丘の上で休憩していた時にアベックが坂道を降りて行きました。
 そこには二人だけの時間が流れているようでした。
   
< 講 評 >
 
「朝靄」
    
  この朝靄はどんな季節に撮られたものか。全く山に弱いぼくにはわからないが、靄の
流れとかなり強いブルーの山とのカラーバランスが美しく、手前のシルエットになりそ
うな木々もダークグレイで表現され、膨らみ厚味を感じさせる表現が素晴らしい。
      
 この上に更にドラマチックな天候に遭遇すればさらにという凄まじいシーンも是非と
も拝見したいものだ。
    
   
「ふたり」
  
 嶋尾君にこういった風景を撮る神経が隠れていたというのは楽しいね。

                       

「花筏」 大住恭仁子
   
   

「かたぐるま」 大住恭仁子
      

< 作者のコメント > 
      
「花筏」
   
 千鳥ヶ淵の誰もいない早朝6時です。
 ボートがつながれた堀の水面に花びらがたくさん流れてきていて、マーブル模様のよう
になっていました。このような水面の花びらを、花筏(はないかだ)と言うのだそうです。
   
 全体の色合いは、早朝の空気や、花の終わりの雰囲気に、合わせたつもりですが、空の
処理がこれでよかったのか気になっています。
   
   
「かたぐるま」
   
 同じく千鳥ヶ淵の桜を見に来た親子を撮りました。
 今年の花見は自粛ムードだったとはいえ、人気スポットは溢れんばかりの人で、小さな
男の子は埋もれてしまうので、かたぐるまされて来たのでしょう。
 人に押されながら、カラフルな服の男の子を追うように、上に手を伸ばしてシャッター
を切りました。 
  
   
< 講 評 >
 
 ぼくは、大住くんの写真を前にしばし呆然としていた。この千鳥ケ淵という場所は、そ
の昔のぼくとっては我が庭といっていいほどなじみ深いところだったのだ。
 丹平写真倶楽部の東京展に出品したことが縁で、写真サロン誌の編集部に勤めることに
なったが、九段下にある雑誌社から徒歩で5分もかからないところに千鳥ケ淵はあった。
   
 ストレスを解消するお金のかからない休憩場所は、ここしかなかったのだ。
    
 そんなわけで、大住くんの2枚の撮影のピンポイントは、明確に指摘できる。
    
 「花筏」はトリミングでどっしり落ち着いた作品になったが「かたぐるま」は不思議な
スナップ写真で普通のコンテストなら問題にされないだろうが、この塾では皆さんが一応
の反応を示すのは結構なことである。ただし世界の一流コンテストでは、造形の厳しさも
要求されるので、簡単に通用しないことは承知しておくことだ。

           

「ウミネコ」 桑島はづき
  

        
< 作者のコメント >
   
 
 「ウミネコ」

 撮影場所は、すっかり馴染みの石狩浜です。近くにハマナスの群生地の公園があること
も手伝ってか、野鳥が多く、集団になって波打ち際で餌を探すような光景がよく見られま
す。
  
 このうちどれか「一羽だけ」を印象的に撮れないかと思い、しばらく追ったり逃げられ
たりを繰り返したうち、偶然ひょいと目が合った瞬間を撮影しました。
  
 私はこの鳥をカモメだと思いこんでいたのですが、後でインターネットの野鳥サイトを
閲覧したところ、足が黄色い特徴などからウミネコだと判明しました。
   
 砂浜の白っぽく細かい漂着物が悪目立ちしていたのでPhotoshopでいくつか取り除き、
夕刻の空や砂の色合いに気をつけながら仕上げました。     

   
< 講 評 >
 
 
 この写真は、桑島くんの心に残る作品となるだろう。
 遠くの建物らしいものは、すっかり馴染みという石狩浜を示すものかもしれない。
  
 一羽だけを印象的に撮りたく追っかけるうちに、偶然ひょいと眼があった一瞬の無言の
対話が撮られているようにぼくも思う。
    
 砂原の形もよいが、褐色がかった砂の色彩を正確に出さねば作品にならない。ちょっと
だけ修正をしてあるので、原画と比較してみるように。
                   

「バラ」  成瀬幸恵                          

「バイオリン」 成瀬幸恵

              

< 作者のコメント >
  
 『 万華鏡 』
    
 子どもにプレゼントしたオイル式の万華鏡がとても美しく、一緒に見ているうちにこ
れを撮影できないかと思ったのが動機です。
   
 万華鏡は少し角度を変えると全然違う形になりますので、どの点で止めて撮影するの
か、どこまで被写体を取り入れるのか、光をどの程度取り入れるのか、まだまだ改善点
や工夫が見込めると思っています。
  
 万華鏡で見ると分断されてもとの被写体がわからなくなりがちなのですが、花はその
点は万華鏡に合う被写体だと実感しました。
 今後は被写体探しと、撮影時の鏡の使い方などの工作が必要かと思っています。
   
 
< 講 評 > 
 
 成瀬くんが提出した写真の題名は、「バイオリン」(1)(2)といったものだった。
 ぼくはその実体が判らず、バイオリンの有名な曲目の視覚化を見せるものかと思った。
 
 バイオリンが視聴者に与える心理的・抽象的な表現が狙いなら当然斬新な表現が期待
できるだろう。
    
 そこで想い浮かんだのが、ぼくが学生時代入手したバイオリン奏者サラサーテ作曲の
『ツィゴイネル.ワイゼン』だった。でもあの非常に派手で劇的なバイオリン曲の表現
にはほど遠い、どうすればそんな強烈な視覚になるものか。見当もつかなかった。
    
 これが万華鏡と知った後は、「万華鏡で遊ぶ」としてどうかと提案したが、最初にし
ては結構きれいなパターンなので掲載した。

                                

   

「狂言 『福の神』」 西浦正洋                 

「森の力 ( Power of Forest )」 西浦正洋

           
< 作者のコメント >
  
狂言 「福之神」
 
 2009年4月、奈良の大神神社で行われた「大神神社後宴能」の一幕です。
写真は、福の神を正面から撮ったものですが、野外で演じられていることもあり、原画で
は、雑多な背景が写り込んでいます。そこで、今回は ”おめでたい” 題材である福之神
を、さらに ” ありがたい” 印象に仕上げようと、背景を創ることを狙いとしました。

 背景に用いたのは、今回も花火の光跡を手持ち、スローシャッターで撮ったストックを
用いています。日本古来の色彩を意識した色相と、グラデーション、シンメトリーな背景
とすることにより、オーラをイメージしています。
   
   
「森の力 (Power of Forest)」
   
 森での写真のような雰囲気ですが、実は1本の大木です。田んぼの真ん中にある小さな
神社の御神木なのですが、まさに鎮守の森として見えています。
 原画は広角レンズで、真下から見上げる形で逆光で撮りました。新緑のグラデーション
が円弧上に見えるのが面白いと思いました。
  
 今回は、この原画に花火の光跡を加えることによって、神秘的で、また樹の持つエネル
ギー感を付加することができないかと、色相、グラデーションと幹や梢、葉っぱの質感に
気を使いながら仕上げてみました。


  
< 講 評 >
 
 
 西浦君の作品は、我が庭を持ち、そこで自由な写真を創り上げる合理的なシステムで遊
んでいるかのようである。
     
 ぼくはこうした段階になった弟子には、何も言わず、見守るばかりで放任してきた。
やっと自分らしい創作の始まった場への師匠の介入は、更にその先の発展を妨げることに
なる。しばらくは放置するのが正しいのだ。
   
  
 岡野くんも今同様な状況にあり、当分二人は自分史の幅と深さを冷静に見てゆくことに
なる。
                     

  

「娘十三」 川崎了

「喜寿」 川崎了
  

< 作者のコメント > 
  
 
『 母と孫 』
   
 喜寿を迎えた母の白髪と孫(十三歳)の洗い髪でアルバムの1ページとしました。
  
 「喜寿」
   
 帰省時に秋の輝く光の中、銀色に輝く髪を強調してのポートレート。
人は皆人生を深めると共に、頭は白くなり、顔には深い皺が刻まれます。
時に、何気ない日常の中に定着させたい一瞬があります。
  
 「娘十三」
   
 初夏の午後、シャワー上がりの半乾きの艶やかな黒髪と滑らかな肌の弾ける若さを撮りま
した。花で言えばまだ蕾の頃でしたが、今は立派に花開き、二児の母となりました。
    
  
   
< 講 評 >
 
 
 川崎君が最初提出しようとした卆寿のお母さんの顔は、深いしわがあり、さらに毎年深み
を出しふえてゆくしわを克明に記録したポトレートを撮り続け、それらとの対比といったこ
とから、ここでの肖像写真観とは違いがあり過ぎ、再提出することになった。
    
 再提出のこの作品は、孫の顔はみせず、なめらかな肌、黒髪との対比という、ちょっと変
わった視点が、視覚的にも優しく落ちついた表現として成功している。
 ところで、祖父母と孫の写真を並べて出して、何を比較するのか。どんな意味合いがある
のか。それを見る本人たちは、どんなことを感じるのだろうか。といった質問があつた。
    
 ぼくもはっきりしたことは判らず、知人友人数人に聞いてみた。
 結論としては、女性同士の祖母と女孫の場合が一番都合よく、お祖母ちゃんは女孫の器用
さをほめながら、言葉の端々には、それらは自分のよいところが遺伝しているのだといった
微笑ましく誇らしげな様子がうかがえるという。
     
 その他は曖昧ではっきりせず、その根底はやはり孫バカ万歳といったところか。

              

   

「買い物客」 横山健     人々はおしゃれをして集まってくる。

   

     

「日曜バザール」 横山健    日曜バザールの一角。にぎわいは相当なもの。

            

    

「ただ今交渉中」 横山健       羊をめぐる交渉を野次馬が囲む。仲介する人も入り、握手をしては決別の繰り返し。見 ているだけでも疲れてくる。交渉は延々と続く。
     

       

「駐車場」 横山健     ロバ車は川岸の専用駐車場に停める。
   

           

< 作者のコメント > 
  
 
 中国の抱える大きな問題の一つは少数民族だ。自治区でいえば、チベット、内モンゴル
と新疆(しんきょう)ウイグルということになる。中国政府は漢人を大量に送り込み、そ
れぞれの民族の言葉や文化を漢人と同化させていると言われている。
   
 新疆ウイグル自治区の中でも西端に近い町カシュガルで、ウイグル人の伝統的な家が建
ち並ぶ旧市街が取り壊される、と聞いたのが3年前のことだった。これこそ、支配されて
いる少数民族の運命と悲哀を象徴する出来事だと思い、撮りたいと思った。ただ正直なと
ころ、このテーマで撮るのは難しく、3回にわたって訪れているものの、いまだ作品には
なっていないが……。
   
 そんな変わりゆく町カシュガルでも、バザール(市場)は魅力的だ。自治区で最も規模
が大きい日曜の大バザール(中央アジアで最大ともいわれる)、毎日開いているバザール
や羊、山羊、ロバなどの家畜ばかりを扱うバザールなど。バザールは活気があって楽しい。
   
   
< 講 評 >
 
 横山君のルポは、一応のレベルを保つた表現で、最近は殊更に言うことはなかったが、
その昔ユージン.スミスになり損ねたぼくは、彼の年齢を考える最後のチャンスが近いと
の判断を促そうと思うようになった。
 
 傑作と言われる作品は、直感による圧倒的な構成力を発揮し、その人間性が見せる愛情.
反抗による行動力は、芸術の枠を超越したものになるという。
 ユージン.スミスのローキーな作品は見る人の心に余韻を残すと言われる。

                            

「ハンターの眼」 上田寛         

「眼差し」 上田寛       

   
< 作者のコメント > 
    
 
「ハンターの眼」
   
 楓華にカメラを渡して1年半が経ちました。
 いつになく、真剣勝負の眼差しがファインダー越しに見えたので、眼をカメラで隠さ
ない様に少しカメラを上げ、撮影しました。
 また目元が影で暗くなっていたため、不自然にならない程度に明るく修正をしました。
   
「眼差し」
   
 昨年の10月ごろの義尋を正面から撮ったものです。
 このとき、窓から強い日差しが差し込んでおり、足元の白いシーツがレフの様になり、
下からも光が回りました。
  
 8ヶ月の乳児なのに、しっかりとした意思の強さといった内面が出来てきていました。
いづれも、楓華と義尋のそれぞれの持つ一面が出たのではないかと思います。
 子供は、幼くてもやっぱりすごいな、と感じます。大きくなっても、こういう姿勢を
無くさないで欲しいな、と切に願います。
          < 講 評 >
  
 楓華ちゃんの「ハンターの眼」を見た瞬間、ぼくは日本の女子プロ写真家の顔が次々と
浮かんできた。
   
 先駆者の大石芳野さんはじめ女性軍の中核は、戦争や内乱の地、アジヤ・西アフリカな
どを単身で取材しており、その生死の境をゆく厳しさを尋ねると、実にあっさりと自分の
意志の問題だと言い切った。
   
 「ハンターの眼」はきびしく、「眼差し」の義尋君は8ケ月とは思えない顔つきで頼も
しい。ぼくはこの2人のセットの行く先を想像した時、ゆっくり現われてきたのが、ユー
ジン・スミスの「楽園への歩み」だった。
    
 これは「ザ.ファミリー.オブ.マン(人間家族)1955年」に掲載されたスミスの男女
の子供たちのスナップで、平和な未来への希望を映すイメージとして世界に広がっていっ
た。上田君のアイディアも思いっきりよくジャンプしてみてはどうだろう。

      

ユージン・スミス 「楽園への歩み」

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