<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (45) ☆          月例会先生評(2011年2月)                < 月例会の再開 >                 

 
 塾生諸君へ                             玉井瑞夫
     
     < 休養は、もう充分に過ぎた。
            ここからは、大きく羽ばたこうではないか。>
   
    
 今朝ほど、塾生諸君への月例再開のお知らせを書こうと思った瞬間、突然こんな言葉が
浮かんだのだ。多分夜半に、ぼくの好きな大きな鶴が飛ぶ夢を見たからであろうか。
    
 ぼくの曖昧な体調不良は、もう半永久的なもので、それにこだわっていると何もできな
いことになる。それが塾生諸君の創作活動にも伝播しているなら、大変申し訳ないことに
なる。
    
 そんなことから、講座を含めてここ3年ほどの休会を休養だったと考えて、さっぱりし
た気分でスタートしたいものである。
    
 例会は、2月、5月、8月、11月の年4回としたいが、ぼくの体調によつてはやむな
く期日の変更・調整もあるだろう。
     
 塾生間の討論も旗色鮮明になりつつあり結構だ。作者の意図、技法を展開したコメント
とぼくの講評は対話のようで好評だったという休会前のレイアウトを継続する。
    
      
   
               
                        < 瑛九 > のこと
  
   
  このところ、瑛九についての取材で、ぼくの家へやってくる人が多い。
  それは、各地方の新聞社やテレビ局である。
 
 瑛九は1960年、48歳で他界したが、ぼくは丁度12歳下で同じ「亥」年だった。
そのぼくが87歳ということは、彼が生きていれば、今年は100歳になるということに
なる。
    
 ぼくは全くうっかりしていたが、ジャーナリストたちは、いち早く《瑛九100年記念
展》を企画し、宮崎美術館に紹介された各地方の新聞社やTV局の幹部が次々とやってく
る。つまり、生前の彼の日常を良く知っているのは、もう僕以外にはいないし、瑛九の顔
写真も借りたいということである。
    
 生前の瑛九は、素晴らしい作品群を残したが、中々認められず、ぼくたちはいつも悔し
がっていた。それが、今や日本中で認められるようになり、ぼくたちは気分を良くしてい
る。
 瑛九は、ぼくたち初心者にも分け隔てなく親切に教えてくれた。非力なぼくの写真講座
や塾の成立はそんな瑛九へのお返しの気持ちもある。
    
    
    
             < 文明と文化について >
     
   
 ところで、今回の塾生の提出作を見て、気になるというか痛感させられることがある。
   
 その被写体が何物にかかわらず、表現ということには、とどのつまりは歴史的視野で見
た文明と文化が織りなす象徴やドラマと対決する作者の姿勢が問題になる。当然これらが
曖昧では、世界に通用する造形も成立しないということである。もっと厳しく言えば、そ
の作品はその人の全人格を表す。
     
 これらを具体的に示し、全員を納得させることはかなり難しく時間もかかるので、今回
の講評の中ではわずかに触れる程度になるが、より深い関心を持つていただきたい。
 また、女性群がよく口にするフィーリングという言葉、表現にも触れておきたい。

                     < 2月度例会講評 >         

    

「斜影」 吉野光男    

「牧童」 吉野光男             

「老女と少女」 吉野光男
   

< 作者のコメント >
           
「砂漠の入り口」
 
 サハラ砂漠を目指し、夜半に四輪駆動車で道の無い荒地を走行しましたが、徐々に小石
から細かい砂に変わって行く風景に感動しました。サハラ砂漠では日の出前から撮影し、
斜光の良い時間帯に集中してシャッターを押し続けました。
   
 「牧童」「老女と少女」の2作品は砂漠周辺の生活を撮影し組写真にしたものですが、
旅行者としての浅い視点に止まった感がいたします。
   
   
「斜影」
   
 サハラ砂漠では太陽が昇ったばかりなのに光線が強く、影が濃く感じました。ラクダが
斜面を歩いたとき斜めの長い影を主題にして切り取りました。ポジにはラクダを曳いてい
る人が写っているのですが斜影を強調するためトリミングしました。
   
 人物を入れたほうが良いというご意見もありましたが人の影だけで想像する作品にした
かったのが本意です。

   
「牧童」
   
 アトラス山脈を撮影中に急に牧童が現れました。彼の服装がまわりの風景に溶けこんで
格好良く、夢中でシャッターを切ったうちの1枚です。
   
   
「老女と少女」
   
 農村の家の前におばあさんと少女が腰掛けていましたので撮らせてもらいました。
 おばあさんと女の子の関係は不明ですが表情、服装などから見て、厳しい環境の中の生
活が想像されました。老女だけをクローズアップした作品がありますが、生活感のあるこ
の作品を選択しました。
   
    
<  講 評  >  
     
 吉野君の出品写真は、はじめ「斜影」と「牧童」の2点だけで、どう見ても旅行者が砂
漠の入口でスナップした記念写真としか見えなかった。
    
 でも作者のコメントでは、あれこれ工夫しながら斜光のよい時間帯にシャッターを押し
続けたとあり、ぼくは他に生活臭のある写真を提出するように勧めて追加されたのが「老
女と少女」(祖母と孫娘かもしれない)だった。
    
 この2人の写真は、何も喋っていないが現地人の匂いがする表情の対比がすばらしい。
これでこの地の特徴あるバックがチラッと見えていれば、安易な和気あいあいといった写
真は撮らない土門拳のような作品になる。
     
 この1枚で、わずか3点のこのレポートは立体感のある作品として生き返った。
これを見た人々は、次のチャンスには、こうした環境に住む人々の生活のにじむ組写真を
想うだろう。
 また、それに応える作者は単なるフィ−リングだけでなく、やはり世界の文明と文化が
織りなすリアリティを心底で味わう心がけの必要を感じるだろう。 

                       

「変身への願望」 岡野ゆき        

原画

   

< 作者のコメント > 
   
 花の「命」を象徴し、なおかつそれが花だけにとどまらず、宇宙までもを感じることの
できる作品を作りたいと取り組みました。
   
 最初からデジタル処理を前提にした撮影だったので、被写体選びやライティングには、
デジタル処理後の映像を想像しながら気を遣いました。最終的に、花の中心部を強調する
のに大変苦労しました。

   
< 講 評 >
 
 作者の目標は、ひとケタ大きくなった。
 岡野くんはバラ園を経営し大量のバラに囲まれ、バラとともに生きる毎日。花の「命」
を象徴し、宇宙までも感じる作品を創りたい。というのはごく自然で素晴らしいことだ。
    
 岡野くんのこの作品の基本は、半世紀も前にぼくが開発したマスク作りによるポスタリ
ゼーション(日本では玉井、ヨーロッパではスイスのルネ・グレブリー)で、今日ではパ
ソコン上の色相のソフトで簡単にできる手法だが、実技上はその活用よりも、色盲の方が
多すぎる。part18の光と色の3原色を充分に理解し、part32、36、38を
熟読して基本をテストしてから出発してもらいたい。
     
 提出作品はかなり前から取り組んでいた「変身への願望(バラ)」の製作の最終段階に
近い頃、「キーポイントになる中心部のメシベ、オシベを華やかな表現を」と、ひと言述
べただけで放っておいた。
    
 今回はその部分を技法としてソラリゼーシヨンで仕上げた写真を見せられたが、これは
大正解で言うことなし。プロの作品に近い相当な秀作に変身した。

                           

「吉野山」  嶋尾繁則             

「白山展望」  嶋尾繁則                

「白の世界」  嶋尾繁則

              

 < 作者のコメント >
     
 日本の風景を撮影するという事を考えたとき、日本には四季があり水が豊富で世界
の風景にみられる雄大さには欠けますがその反面、繊細な風景が多いという事が日本
の風景の魅力で、その繊細さを切り取りたいという想いで撮影に取り組んでいます。
   
 その想いもあってか、風景を撮影しているとフィルムのフォーマットがしだいに大
きくなり、いつかはと思っていたのですが、2年ほど前からとうとう大型カメラの4
×5(シノゴ)に手を出して、最近では撮影するまでのプロセスを楽しんだりしてい
ます。
   
   
「吉野山」
   
 桜で有名な吉野山は4月の週末になると交通規制がかかり人でごったがえす為に、
今まで敬遠していました。でもいつかは行きたいという想いで、昨年おもいきって撮
影に行きました。この日はうす曇りで柔らかい光が全体的に周りちょうど良い感じに
なったと思います。
  
   
「白山遠望」
   
 この写真は、奥飛騨の新穂高ロープウェーで上がった展望台から撮影したものです。
この日は朝から少し曇っていたので少し残念な気持ちで上ったのですが山の上から見
る眺望は予想以上に美しく、また雲の上に頭を覗かせている白山には感動しました。
 この写真は、はるか向こうに望む白山を撮影したものです。ここでは望遠レンズを
使用して、前景のバランスを考えて遠くの白山を引き寄せてみました。
   
   
「白の世界」
   
 あたり一面に降り積もった白い雪が幻想かつ繊細な風景に塗り替えてくれました。
ここでは、背景の雪景色と木の枝に積もる雪の繊細な部分を切り取ってみました。

  
   
< 講 評 >
  
 
 嶋尾君のコメントには、10年前、当初から参加した塾生としてのキャリアを生か
し、得意な風景写真での安定した作品作りの意図・表現技法が詳述がされており、ぼ
くがこと さらに言うことはない。

 
 ここからはぼくの推量だが、有能で謹厳実直な彼は、サラリーマンの客観的現実と
しての疲れを、写真作品制作という楽しい心的現実でカバーしている好例ではなかろ
うか。
 
 その傾向は、彼が2年ほど前から4×5判(シノゴ)カメラを使い出したことで証
明される。
 プロを養成する写真専門学校でもはじめは35ミリカメラだが、教科が進んで4×
5判カメラのティルト、アフリなどの実習になると、急にプロの卵のような目つきに
変わる。
 
 ティルトは画面のセンターにあるレンズを画面に平行のまま上下左右にも動かせる
こと。アフリは、その画面に垂直なレンズを或る角度まで傾けることができること。
 現物のカメラでその実技を見れば一発でわかることだが、地上に落ちている1枚の
硬貨のアップにピントを合わせながら,遠景の垂直に建つ教会にもピントが合わせら
れる。といった広告は学生たちにも好評で、昔はよく見かけたものだ。
 
 
 4×5判カメラは、フィルムがハガキくらい、さらに8×10判カメラは週刊誌くら
いで三脚も大型で荷物も相当なもの。35ミリカメラを振り回すようなわけにはゆか
ないが、カメラの物理的な機能を使える本格的な装備での仕事は期待も大きく、嶋尾
君もいうようにカメラを組み立てたり、撮影するまでのプロセスも楽しんだりしてい
るというのは、プロも同様である。
 嶋尾君の場合、口の悪い友人からは、「遂に病孔孟に至るか」と冷やかされている
らしい。 

 

「夜桜」(原画) 大住恭仁子

「夜桜」 大住恭仁子
      

< 作者のコメント > 
    

 「夜桜」
   
  2010年の福岡城址跡の桜は、例年よりかなり早く満開を迎えました。そのため満
 月の時期と重なり、撮影テーマを「桜と月」にしました。
  感度の低いフィルムで30秒露光するため、無風であってほしかったのですが、残念
 ながら、風がやみません。そのため月にかかる雲が流れ、花びらも動いてしまいました。
   
  当初は月の表情まで出すつもりだったので風を恨みましたが、シャープな表情の月よ
 り撮ったままの雲が流れて曖昧な月の方が味があるかも、と自分を慰めています。
  ただ、風にびくともしない石垣の陰影は、フィルムに残ってほっとしています。
    
  
< 講 評 >
   
    
 この写真は、大住くんにとっては決定的なチャンスをとらえた作品である。
ぼくはこのシーンを見た瞬間「相当高い石崖の上は城か神社か判らぬが、そこに咲く桜と
低い足元の地上に咲く桜を、一面の縦長い画面に収める構成は意外に難しい。」と感じた。
    
 しかし、彼女はそれを成立させるために、暦で満月の日を待って撮影したのだ。かけ離
れた上下の櫻を結ぶ役目を果たす月をこの位置へ納める最上策はここしかなく、それを彼
女は果たしたのだ。ぼくがこの場に居てもこの位置しかなったろう。
    
 二重丸をあげてもいいところだが、プリントの段階で上下をつなぐ石垣が丸つぶれでは
画面に厚味がない。作品として石垣の明るさをコントロールしたものと原画を掲載した。
   
 余談になるが、もしぼくがここに立つとすれば、まず最良のカメラ位置をきめるために
近づいたり、離れたり、左右へも位置を変え、最低10分はかかるだろう。そしてイメー
ジされた画像のキーポインになる時間・昼夜・天候を想定する。
   
 もし、この位置なら、最小絞りにしなくても、もっとシャープな映像を確保するため、
アフリの利く大型カメラを選ぶであろう。

           

「旅人」(部分) 瑛九

「待つ」 桑島はづき
  
  

               
< 作者のコメント >
   
 今回の提出作については、これまであまり撮ることのなかった「冬」に挑戦しようと
いう目標がありました。
  
      
「待つ」
   
 2011年に撮った、川漁の船を繋いでおくための杭です。川漁は冬でも行われるよう
で、周囲には小さな船がたくさん揚げられています。
 この杭は、たいへんな強風で汽水をかぶったせいか、かちかちに凍りついており、羽か
マントのようなフォルムが面白いと思って撮影しました。
 氷の白さを強調するため、フォトショップで川面をやや暗く調整し、ロープの結び目が
見えやすいようにそちらはやや明るく直しました。
   
   
< 講 評 >
 
 桑島くんの写真は、中々難しい。掲載した被写体は川漁の船を繋いで置くための杭で、
冬の強風で水をかぶり、かちかちに凍りついたフォルムが人を待つ姿に思えてシャッター
を切ったという。
 
 彼女は趣味も広く短歌などのほか電子楽器テルミン奏者でもある。そんなことから興味
を持つ題材も、写真表現もフィーリング第一主義といった写真を撮るが、それがカメラと
いう機材を使った造形として第3者に通用する作品にはまだやや遠く、その評価、指導も
難しい。
 
 ちょっとしたフィーリングで撮るのは女性に多いが、相当のフォトジェニックな造形力
がなければ、ひとりよがりの意味不明の作品になる。この写真もかろうじて解ってもらえ
るかどうかその線上にある。(ぼくも桑島くんの受けたフィーリングは理解できるが)
 
 ここで、参考までにpart10の瑛九の作品『旅人』を見てもらいたい。
奥深い森の中を浮遊する風船、その中をさまよう人物は桑島くんの氷の待ち人と似たとこ
ろがある。
 これは瑛九独得の精神世界を表現した密度のある作品で、シュルリアリズム的な作品の
集大成といわれているが、構成的な抽象へと変りつつある頃であった。原画の印象は現代
人がはらんでいる不安や憂鬱などを暗示しているかのようである。
 
 世界に通用する作品は、ひとつのテーマを持って、文明・文化を意識した姿勢を遂行す
る構えで、カメラ自体の物理的な条件を変え、何回も撮影しなければ奥深く立体的な造形
表現は成立しない。
                   

「水族館」  成瀬幸恵

「キャンドル」 成瀬幸恵

              

< 作者のコメント >
  
   
「水族館」
   
 水族館のわくわくするような不思議な世界と子どもという組み合わせは好きなテーマの
ひとつです。
 露出(ソフトを使った処理で人物を写し入れる)やトリミングの判断など先生にアドバイ
スいただきました。
   
 大阪の海遊館では、子ども達に双眼鏡とお魚ブックを販売しています。それを片手にあ
れこれと魚を鑑賞している姿が写真になるのではと思ってシャッター押しました。
   
 どなたか書いていただいてましたが、子どもと魚と回りの人の動きのタイミングが合う
のはかなりの時間と試行錯誤が必要だと実感します。
 写真の特性を活かして表現できる余地がたくさんあるので、もっと試行錯誤していきた
いところです。
    
   
「キャンドル」
   
 最近のキャンドルはかわいいものや凝ったものが多いです。このキャンドルはチョコロ
ールケーキにクッキー人形、クリームが飾られています。
 スイーツ好きな女の子とスイーツキャンドルで、甘いものが好きな雰囲気を出せればと
思いました。
   
 キャンドルが小さいので情報量不足になりましたので、素材(キャンドル)探しがテー
マのひとつがと思っています。
 ここでもトリミングの判断が難しいと思った次第です。
   
 
< 講 評 > 
 
 以前にも、作者の水族館での魚と子供を組み合わせた写真を見たことがあるが、出来上
がった写真は、豪華な雰囲気にのまれて意外に平凡なスナップに終わってしまう例が多い。
 
 この場合も人物はシンプルに2人だけにして、大きな魚はシッポだけでなく、頭も入れ
た構成を辛抱強く待つことである。
 人物へのライティングは逆光でシルエットになってしまうので、ぼくは表情を見せるた
め、人を頼んで横からリモコンのストロボをセットして撮影したことがある。
    
 でなければ、2人の子供の動きのあるシルエットで勝負するしかないだろう。作者の感
想のコメントに思考錯誤が必要だと実感したとあり、次の作品を期待したい。

                                

   

「浅草寺」 西浦正洋                 

「マンドリル」 西浦正洋

           
< 作者のコメント >
  
「浅草寺」
   
 夜の浅草寺、ライトアップされた本堂は、昼間の賑わいとは違う落ち着きで、その堂々
たる佇まいに思わずシャッターを切った一枚です。計算されたライテイングの効果もあり
屋根瓦の陰影を含めて、シンメトリーな構図にする事が出来ました。
   
 冬の晴れた日でしたので、夜空には雲一つなく漆黒のバックに浅草寺本堂が映える写真
として成り立っていると思いましたが、より荘厳なイメージを表現出来ないかと、建物の
明暗の調整と、背景(夜空)の創作を加えました。
    
 背景に用いた素材は、2005年に本講座Part44、45で先生が実験された「花
火によるキネティックバージョン」に影響を受けて以来、毎年地元の花火大会で撮りため
ている手持ち撮影による輝線、色光を使ったイメージを加工して取り入れています。
   
 前回の例会、『翠光の桜』でも同様の手法を用いていますが、今回は控えめに光芒とし
て加え、本堂から空にかけてアンバー系〜紫のグラデーションを重ねています。ハイエス
トを本堂の中心に仮定し、屋根の輪郭を浮かび上がる様に心がけるとともに、全体の奥行
きのバランスを取るため、参道の石畳のトーンを整えています。
  
     
「マンドリル」
   
 京都市立動物園のマンドリルを撮ったものです。
ガラス越しの撮影ではありましたが、正面から捕らえることができました。表現したかっ
たポイントは、彼?の風格を如何に引き出すかということになります。
   
 毛の密度を出すようにコントラストの少し強いレイヤを重ね、目から鼻にかけての特徴
的な模様をしっかり出すようにトーンを整えました。その時、目のキャッチライトを際だ
たせるため、瞳を少し焼き込んで目力を高めるようにもしています。
    
 背景が、中途半端な色調(肌色〜灰色)だったため、彩度を落とした後に少し焼き込み
暗く落としています。その際、平面的に感じられるようになったため、右上角に差し色と
して緑のグラデーションでアクセントを入れてみました。
   
 この時点では、左下部にハイライトを残していたのですが、最終的にはトーンを落とし
た方がシンメトリーな構成がより明確になり、猿の顔としての存在感が高まるように思い
自分の中でギリギリまで詰めてみたつもりです。
    
 やりすぎると黒く潰れてしまう状況のなかで、上部の緑の差し色とのバランスを取るた
め黄色〜緑、右下のシャドウに、やや青みが含まれているため、青系統の色を少し加え、
思い切って焼き込んで仕上げてみました。
    
  
< 講 評 >
 
 今回の西浦君の作品は、コマーシャル・フォトグラファーの仕事を見ているようだ。
 この「浅草寺」は絵葉書にすると立派な商品になるだろう。ぼくはこれだけ堂々と迫力
のあるシンメトリーな浅草寺の夜景は見たことがない。
   
 屋根瓦の明暗と夜空の色光表現など作者のコメントにあるように雰囲気の強調はあるが
本質を損なうほどの虚構はしていない。同じ風景でも一般の報道写真家と広告に使える風
景を撮るコマーシャル・フォトグラファーではその目的によって、考え方・表現テクニッ
クも異なるのは当然である。
    
 この浅草寺の絵葉書を見て屋根や空の表現にクレームを言ってくる人はめったになくと
てもスマート、綺麗だと言うだけで、気がつかない人の方が多いだろう。
   
 「マンドリル」は、新聞紙や雑誌の企業広告に使うとビジュアル・ショックで相当に目
立つだろう。2点とも真正面からシンメトリーな構成を貫き成功した秀作例である。
 特殊技法もコメントに詳しく書かれてあり、特殊技法の繊細な内容を熟読されたい。
                                  

「神々の庭」 川崎了          

「巨岩」 川崎了           

「静寂」 川崎了            

「風の途」 川崎了
  

< 作者のコメント > 
  
 
<   神々の庭   >    ハワイ・ラナイ島
 
 ある時、雑誌で赤茶けた原野の中に、バラまかれたような石と太陽だけが存在する、ま
るで地球ではない星に立ったような写真に目を奪われました。これが私の「神々の庭」と
の出会いでした。
 
 ラナイ島はマウイ島のすぐ西に近隣する小さな島で、オアフ島やハワイ島、マウイ島の
ような観光地として脚光を浴びることのない島です。かつてのパイナップル産業が衰退し
その後ホテルとゴルフ・コースが建設され、今はリゾート島へと変貌しています。
 
 ラナイシティから西に向かう1本道を、大きな石の道標を左折、土埃の舞うダートロー
ドを4駆で行くこと50分、ここ「神々の庭」に至る。ここは島随一の観光スポットだが観
光客は少なく、静寂に満ち、その名に相応しい雰囲気が漂う。
 
 私は、より幻想的な光景を求めて夜明け前に現場に立ち、陽が昇るのを待ちました。耳
元で風の音だけが聞こえる静寂の中、やがて矢のように陽が差し、それぞれの石は長い影
を引きはじめます。その様は言葉には表せません。
 もし、もう一度行く事が出来るならば是非「ヌードを置いてみたい」などと、叶わぬ夢
を見ています。
    
   
< 講 評 >
 
 
 現地では、この場所を<神々の庭>と呼ばれているようだが、この意味深長なタイトル
は、ぼくに様々な古い記憶を呼び起こさせる。
    
  作者は、より幻想的な光景を求めて夜明け前に現場に立ったという。夜明けの光の一閃
から石と影の激しいフォルムの変化を追っかけた多忙な彼の姿が目に浮かぶ。
    
    
  と同時に、ぼくは大石や独立樹や岩山といった被写体を、太陽の無い月の直射光も無い
夜にだけ写す写真家の作品を思い出した。露出は数時間もかけると星空は線になるが動か
ない被写体は渋いグレーの階調で写る。
    
  空が暗く、すべては影がなく、均一なグレーの濃淡で形を見せる風景は、エンピツ画か
木炭画か、恐ろしく素朴な質感描写が独自の不思議な存在感を見せる品格ある作品だった。
その作者の名前は忘れてしまったが、知る人がいるなら教えてもらいたい。
     
    
  写真集『桂』の作者、石本泰博君は前庭・石組・飛び石などは太陽の直射光を避け、S
×10の大型カメラで、ほとんど曇天で撮っている。つまり日本建築における伝統と創造
というテーマでは庭石の類は、その方がより自由で、しかも緊張ある表現になるのだと本
人はいう。この答えも成程と思える姿勢である。
    
  さて、肝心の川崎君の写真については、まず<神々の庭>という場所の紹介としてノー
マルな出来として見られる。しかし、これだけの材料による造形としては物足りない。
  その次には、この数知れぬ世紀を超えた無言の石たちのリアリティある素朴な顔、質感
も見せてもらいたい。
     
  現代人として、今日までの歴史ある文明と文化が交錯した現実を十二分に意識した柔軟
な姿勢で造形するなら世界に通用する。どんな作品を見せるだろうか。それを期待したい。
  
 ちょっと本筋を外れたような講評になってしまったが、これは各塾生全員に認識しても
らいたいことである。

              

   

「屋上」 横山健     旧市街の家々の屋上には洗濯物が干してあったり、老人が日向ぼっこをしていたり。 家は密集して建っているので、行こうと思えば屋上伝いにどこまででも行ける。

   

     

「鍛冶屋」 横山健    職人の街でもある旧市街は、木工屋、金物屋などが並ぶ。 街の入口にある鍛冶屋からは、朝早くから熱した鉄を叩く音が響く。

            

    

「路地で遊ぶ」 横山健     迷路のような石畳の路地で子どもがじゃれあって遊ぶ。
     

       

「路地で学ぶ」 横山健     路上に椅子を出して、高校生の女の子が小さな子に本を読み聞かせていた。
   

           

< 作者のコメント > 
  
 カシュガルは中国の西部にある新疆ウイグル自治区中でも最西端にある都市で、その昔
はシルクロードの要衝だった。町の中心部には、ウイグル族の住む旧市街がある。
    
  土と木と日干しレンガで造られた伝統的な家並みと細い迷路のような路地は、住民でな
ければ地元のウイグル人でも迷ってしまう。家によっては400年前に建てられた言う人
もいる。
 異国情緒あふれる旧市街は旅行者にも人気の場所だが、ここ数年、政府は旧市街を取り
壊して新しい街に作りかえようとしている。
    
 旧市街を象徴するものを並べました。俯瞰のものは、あまり良いものがなく、再提出で
は入れていません。旧市街の上から入口、そして路地へ入っていく、という順番になって
います。
    
   
「屋上」
   
 旧市街の家々の屋上には洗濯物が干してあったり、老人が日向ぼっこをしていたり。家
は密集して建っているので、行こうと思えば屋上伝いにどこまででも行ける。
   
   
「鍛冶屋」
   
 職人の街でもある旧市街は、木工屋、金物屋などが並ぶ。街の入口にある鍛冶屋からは
、朝早くから熱した鉄を叩く音が響く。
   
 ウイグル人はロバをよく使います。このあと、蹄鉄を付けてましたが、写真はこちらの
方がわかりやすいので選びました。
   
    
「路地で遊ぶ」
  
 迷路のような石畳の路地で子どもがじゃれあって遊ぶ。
 最初は子供たちが色々話しかけてきましたが、ほっておいたらそのうちこちらを意識し
なくなりました。
    
  
「路地で学ぶ」
   
 路上に椅子を出して、高校生の女の子が小さな子に本を読み聞かせていた。
 微笑ましくいい場面で、背景の壁も悪くないと思い、カメラを見せて目で挨拶してから
ゆっくり撮りました。
    
   
< 講 評 >
  
 横山君の「カシュガル旧市街」についての塾生の感想に、「どこの国も旧市街は絵にな
る。鍛冶屋、路地の右側にさらに路地を感じさせる描写があれば・・・」というのがあっ
た。
 
 いずれも横山君のレベルを見せた作品と思うが、ぼくは更に新旧接点の時代を語る厳し
いリアリティのある現代の写真を見たいと思う。

                            

「楓華と義尋(1)」 上田寛         

「ふたりの演奏会」 上田寛       

「姉上?」 上田寛             

「お姉ちゃんだから…」 上田寛        

    
 
< 作者のコメント > 
    
 
<楓華と義尋>

 今の二人は、楓華は姉としての自覚が出来つつあり、義尋は自己主張をし始めたところで微笑ましかっ
たり、どきどきしたり、の繰り返しです。
 楓華と義尋の写真は、楓華、義尋がともに成長する過程について、後から二人が振り返る事が出来るよ
う、記録し続けようとして撮り続けているものです。
     
 今回、二人の写真をセレクトするに当たり、それぞれが全く異なる状況で、かつ普段良く見られる光景
であることを考えつつ選んでみました。
   
 撮影する時には、二人の瞬間の表情やしぐさをおさえることを最優先とする事が多くなっています。こ
のため、コンパクトカメラは、よく使う焦点距離をメモリしておき、フォーカスも、 約1mでマニュアル
固定としています。これによって、よりすばやく写真を撮ることが出来るようにしています。
    
 このため、背景などもきれいではなく、散らかしているままとなっていたり、ぎりぎりのところでフレ
ームアウトしているなど、問題のあるカットも多くなっています。しかし、二人の飾り気の無い日常が写
っていると思います。将来これらの写真を見て、仲の良い二人であり続けてくれたら何よりと思います。
    
    
< 講 評 >
  
 ぼくは、この数枚の子供写真を見ながら、実にうらやましく思った。 
    
 僕は5人兄弟の長男で4歳年上の長女の姉がいるが、こんな幼児期に姉や弟と一緒に撮られた写真など
1枚もないのだ。 
 
「お姉ちゃんだから」、「姉上?」、「二人の演奏会」など子供たちの心理を考えながらさりげなくリ−
ドしてゆく父親のリアリティある写真は、彼らが多感な10代になれば必ず感謝されるであろう。 
 
 子供写真は決定的な瞬間を捉えることも大切だが、心温まるのんびりした地味な写真も見逃してはなら
ない。子供写真のポスターでも創るなら構成密度の配慮が必要だが、日頃はほどほどに撮っておいてもい
いだろう。 
 
 いま、ふと上田君の友人の批評を思い出した。S君曰く「彼は子供写真に夢中になるあまり、毎日シャ
ッターを切り過ぎてシャッターをぶっ壊した。フイルムがなくてもメモリーさえあれば撮れるが、シャッ
ターを壊すほどの人は珍しい。」と。 

                back