<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (43) ☆          月例会先生評(2009年2月)                < 品格ということ >                 

 近ごろの社会では、新聞やテレビで洪水のように流す情報を見ていると政治、外交、経
済ばかりでなく文化面までも品位に欠けるものがあり、騒々しくお粗末に過ぎて不快感が
残り、あれこれもの思うことが多くなった。 
    
  最近の日本は世の中全体が未熟な言葉世界に入ったようだ。このままでは日本という国
家の品格が問われることになるだろう。 
    
  ぼくたちの青年期から中年を過ぎるころまでの社会は、品格や矜持といった価値観が大
切にされ、市井の人々の日常の言葉、振舞いにもそれが反映されていた。 
 そんな時代に、ぼくは写真界への入口として、丹平写真倶楽部に入会できたことは大変
な僥倖だったとつくづく思う。 
    
    
  丹平は関西写壇の雄ともいわれる前衛のメッカだけに、月例会に出品される写真は、全
紙か半切の額装された作品で、それらが40点以上も並ぶと相当な迫力があった。 
 また、それらが当時の新即物主義などの影響もあって、それぞれ独創性があり、新しい
特殊表現技法を駆使したバラエティある作品に、ぼくは目もくらむような衝撃を受けたも
のであった。 
    
 そんなところでぼくが受け取ったもっとも大切なことが品格ということであった。 
前衛を意図した作品は、ともすれば珍奇な写真のオンパレードを想像するだろうが、ここ
ではどんなに変わった表現を試みても最後に品格が問題にされ、品位に欠けるものはまっ
たく通用しなかった。(Part6 丹平写真倶楽部 作品集「光」参照) 
   
     
 丹平の例会には、身のひきしまるような雰囲気があった。風景や静物、動物、植物、昆
虫に至るまで、何ものによらず心に残る作品には品格がある。 
 それらは自らを厳しく律することで凝縮した作品が放つオーラのようなものであつたか
も知れない。時に恐れを伴った美意識もあつた。  
    
 矜持とは、自らの能力に誇りと自信を持つことであろうが、ぼくはそのためには相当な
冒険がいるだろうし、自分の力で自分の巣(テリトリー)から出ることと自分の感性に正
直になることが大切だと思った。 
    
    
 また、体験という自分なりの歴史がないと理屈だけでは身につかない。本気になれば何
かを探がし、それに向かって体を動かす。気がついたら、体が動いていた。あの時代は自
分ながら何かが変わって行くと感じたものである。 
   
 ぼくは弟子たちや塾生たちにも、思い切りよく冒険をやってもらいたいと言ってきたが
珍奇なものばかりに目がゆくのは、深い見識に欠ける、浅知恵ともいえる。 
 パソコン上のキャビネくらいでのサイズでは、スケールが小さく品格を忘れた作品にな
る恐れがあり、全紙サイズでの表現を考えながらの撮影・表現をと言ってきた。 
    
 今回はそんなことから、作者の意図や手法も聞きながら、品格ある作品へのアドバイス
を意識しながらの解説を加えることにした。

                < 2月度例会講評 >               

    

「何処へ」 吉野光男
   

  この作者は、このところ動物を扱ったモンタージュのシリーズを心がけているようで、
この作品のテーマは、「環境問題を意識し、荒廃した森から動物たちが逃避するイメージ
で作成した」という。 
    
  制作プロセスでは、「霧の森の写真をレイヤーで色の反転をして異空間を表現し、天王
寺動物園で撮影した動物たちをレイヤーで張り付けたものだ」という。 
    
  ぼくは、当初提出された原画はかなりの出来だったが、右半分に狭雑物があり、せっか
くのアイディアが中途半端で終わっていたことから、それらをカットするようアドバイス
した。 
    
   
  この作品の良いところは、森の木々を反転したいわゆるネガ表現による墨絵のようなム
ードにある。 
  いずれにしても、イメージの世界の描写になることだから、もしこの森が青い普通の森
なら平凡すぎて何のアピールもしなかったであろう。 
    
  作者のいう「荒廃した森から動物たちが逃避するイメージ」とは受け取れないが、子供
向きの夢のようなイメージとして成功した作品といえよう。 
    
  アイディアの発展としては、新たな手がかりとして古典の名作、宮沢賢治のイーハトー
ブなどの心象スケッチや表現では藤城清治の影絵など見直して見るのも悪くなかろう。

                 

「凍仏」 川崎了
  

  この写真を見た瞬間、「ぼくなら4×5の大型カメラで撮るな」とつぶやいた。氷と雪と
仏像が入り混じったこのシーンにおけるギリギリの質感描写は必須の条件であり、フォト・
ジェニックなサンプルの現場である。 
       
   
 以下は、作者のコメントである。 
    
 「場所は、世界遺産に登録された厳冬の高野山。奥の院にある水向不動では亡くなった人
の冥福を祈り、参拝客が居並ぶ仏像に、次々と水をかけてお参りするが、真冬になると、こ
れが凍りつき、陽があたるとひび割れたり、その一部が溶けてツララになったり、複雑な氷
の彫像が出来上がる。」 
 
「氷のつき方では、氷の衣をまとっているようにみえたり、冷や汗をかいている風にも怪奇
にみえたりもする。まるでこの世の人の業を代弁しているかのようです。」という。
    
    
  ぼくは、「即物的な表現、正眼の構えとしてはなかなかの佳作だが、もう少し余裕を持っ
て、作者独自の見方、例えば川崎流の軽妙なユーモアのある作品など考えなかったろうか」
と聞くと、次回からはそうありたいとの返信が還ってきた。 
    
  「とにかく、このままではシャープネスが不足しており、フォトショップでの処理ではノ
イズがでてやや荒っぽくなるが、氷や雪の質感表現ならさほど目立たないので調整するよう
に」ということで、再度提出されたのがこの作品になった。かなりの秀作である。

                    

「夕嵐」 桑島はづき
    

  作者の解説には、「大しけの日の夕刻、石狩浜へ出向いたところ、暗い雲から漏れる光が
小樽側の高島岬を浮かび上がらせており、幻想的な雰囲気に思わずカメラを向けた。」とあ
った。 
  
  彼女は、入塾当時、フィーリング派というか、感覚的なちょっといい感じでシャッターを
押すので、フォトジェニックな精密描写や構成にダイナミズムが足りないことを注意するこ
とが多かったが、このところやっとパンチのある表現をするようになった。 
    
  この写真は、かなりの佳作でそんな第一歩となる作品といえよう。まだ、プリント上での
フォトショップなどでの調整には甘いところがあったが、今回はその辺のところもかなり要
領を得た作品になってきた。この場合のカラーバランスは、紫がかったブルーとややオレン
ジ系のイエローの補色の強調で、印象は強い仕上がりとなっている。
   
    
  彼女は、テルミンという楽器の数少ない演奏者でもあるので、音楽に強く色彩の魔術師と
いわれたエルンスト・ハースの作品集など参考にされてはどうか。 
                          
 ハースは街中に音楽のあふれるオーストラリア・ウィーンの生まれで、撮影時にも調子の
いい時にはお気に入りの音楽が流れると言っていた。そんなときの彼は巧みな色彩、ブレ、
動きなどおおくの手法をもちいて秀作をものにした。 
  桑島くんも撮影時にテルミンでの音楽が流れるのではなかろうか。 
     
 ぼくの場合は、青少年期の愛唱歌だった「海ゆかば」「バイカル湖のほとり」や中年期か
らは「能の囃子のいろいろ」などである。
                 

「夜の遊園地」  成瀬幸恵        

「夜の遊園地」(原画)

              

  作者のコメントは「タイトルは遊園地ですが、実際は水族館の前です。後ろに観覧車があ
り、ライトアップがメリーゴーランドのようにも見え、遊園地のようで面白くて撮りました。
ちょっと不思議な幻想的な雰囲気を出せればと思い、シャッターを切りました」とある。 
  
  ぼくはこんなライトアップされた遊園地は見たことがなく、子供たちの写真を撮るには最
高の豪華なバック・グラウンドだと思った。 
    
  しかし、仔細に見ると肝心の子供たちは主役にも添景にもなっていない。ぼくは作者に、
早速もう一度現場に行って撮るようにと提案したが、この照明は年の瀬もつまつた数日間の
サービスだけで、今はやっていないとか。 
  来年は、子供たち男女2人を連れて再度挑戦したいという。 
                                                                                
  ならば、ぼくが前にも指摘した「何時も舞台はあるが登場人物ができていない」といった
ことを繰り返さないように、手元にある子供たちの写真のなかで、ジャンプしたり、走り回
ったり活発に遊んでいるシーンを選んでモンタージュしてみればよくわかるだろうと勧めた
結果、少し堅苦しいがシュミレーションとして、再提出されたのがこの写真である。 
  
  来年は成瀬くんの演出力が試されることになるが、さらに上をゆく準備も間違いなくOK
であろう。

                           

「つた」 岡野ゆき

「桜」 岡野ゆき

   

「桜」

  作者の撮影意図は、「光を受けた桜の紅葉が、さまざまな色を作り上げていることに感動 
し、透過光が写真独自の色を醸し出せばと思い、カメラを向けました。」「撮影時に気をつ 
けたことは、遠くの背景と桜のバランス、そして桜の葉と樹の幹とのバランスや対比を意識
しました。」という。 
    
  作者の意図と手法は、色彩、構成ともに、これで間違いなく、この作品はオーソドックス 
な秀作となっている。 
    
  一見して葉の大小、色の明暗、幹とのコントラストなど微妙なバランスの良さが目立つ写 
真である。そのため見る人の視線は左まわりで繰り返し流れてゆく。重心がやや上にあるの
で印象も強くなつている。 
 また、この作品の魅力は写真の特性である光による活き活きとした色彩の確かさにもある。
   
  異端や乱調にも目を配り、そこに美を見出そうとする文化も日本にずっと息づいているが
まず基本が充分身についていなければ、臨機応変の対応は無理である。 
   
   
「つた」
   
   この写真につては、一対にして見せるという意図であったが、「桜」のレベルに一歩足ら
ず、並べると弱く見えるだろう。参考として見せるかどうかは、作者に任せる。

                    

  

「北山崎」  嶋尾繁則              

  作者のコメントでは「ここは岩手県の通常リアス式と呼ばれる海岸線沿いにある場所で、
一度は訪ねてみたいと思っていたところだった。」しかし、「たまたま一緒に出張していた
上司に誘われての行動だったので、本来なら撮影時間帯を考慮したいところだが許された時
間がなく、一応撮影はしたが観光写真的になったような気がする。」とある。 
    
  ぼくはこの場所を知らないが、樹木や凹凸する岩山のデリカシーが、彼の手堅いカメラ・
ワークで撮られており、このままの天候でも十分鑑賞に耐えられる作品だと思う。

                   

「老木」 上田寛

    
  この作品は、グラデーションの美しさのサンプルといえる秀作である。  
    
   
  以下は作者の解説である。 
   
  この木は京都の京丹波町にある『七色の木』と呼ばれている木で、1本の木に、スギ、
ケヤキ、イロハモミジ、フジ、カヤ、カエデの6種類が宿る珍しい木だと言われている。
曲りくねった幹や太さが年期を感じさせ、とても力強づよく感じた。 
    
  普通の撮影もしたが、提出したものはデジタルによる赤外で撮影したものを使用してい
る。オリジナルは、コントラストが低く、フォト・ショップでシャドーをしめ、中央上部
の幹は黒すぎるので、強めに覆い焼きをしたレイヤーを作成した後に、透明度で強さを調
整している。 
  
  ハイライト側はもっと明るく、微かに光がにじんだ感じがほしくて、光彩拡散フィルタ
ーを強めにかけたレイヤーを1枚作り合成し、レイヤーの透明度で強さを調整している。
    
 ぼくは、デジタルに弱いので、こうした技法と解説は上田君任せである。 

 

   

   

「メロン」 横山健
    

「肉」 横山健
    

 まず、作者の撮影意図を原文のまま紹介しておこう。
   
  人は食べることで生きてゆくことができ、また風土と気候によって採れるものがちがい
ます。その土地からとれる食べ物で、その土地の空気が多少なりとも伝えることができる
のではという思いから、今回は食べ物をならべてみた。 
 
 撮影地のウイグルは、中国全土の6分の1を占める広大な面積と豊富な資源を持つ新彊
ウイグル自治区は、中国の西の端にある。イスラム教徒であるウイグル人が半数弱。漢人
も同じくらいか。オアシス農業で綿花やブドウ・リンゴ・ナシ・スイカなどの果物が作ら
れている。 
 
 ウイグル料理には肉が不可欠だ。朝は大きな塊だった牛肉も昼をすぎる頃には、相当小
さくなる。 
 果物で一番目につくのは、スイカとメロン。道端に延々と積み上げられていた楕円形ス
イカとメロンが何日間もかけて売られてゆく。 
    
    
  さて、横山君のこの市場風景で、最も注目すべき点は、彼が辺境のモンゴルなどに何ケ
月も住みながらの撮影体験から、その地の内側から見つめる写真を撮るようになったこと
である。 
     
  外国で撮られたノミの市などの写真は、旅行者の視線から見たスナップがほとんどで、
それらと比較してみれば彼の意図は、一目了然である。彼がこうした視点で、その国の歴
史ある文化と現実の問題点を厳しく見つめることを忘れなければ、すばらしいフォト・エ
ッセイが出来るであろう。

                      

   

「御神木」 西浦正洋

           
 以下は作者のコメントである。 
    
 この御神木は京都の貴船神社境内にある樹齢400年、高さ30mの桂の木で、根本か
らいくつもの枝が天に向かった伸び、上の方で八方に広がっている。 
   
  この木は御神気が竜のごとく大地から立ち昇る姿に似て、貴船神社の御神徳を象徴し、
御神木と仰がれる由縁だという。 
  
  私が訪れた2月は落葉後の姿であったが、葉がない多くの枝が空にそびえる姿もまた立
派で、そんな状態の御神木の魅力を何らかの手法で引き出せないかと取り組んだのが今回
の作品です。 
   
 制作上の技法では、今までのワンポイントレッスンで、先生にご指導頂いた背景の作り
方、奥行きの出し方やアクセントとしての色の選び方など意識して取り入れたつもりです。
    
  今回の概略プロセスは、背景と樹の分離マスクとグラデーション作成、枝部のエッジを
出すため反転した画像との合成、幹部分のコントラスト調整、全体の明るさとコントラス
ト再調整などでした。 
  
   
  西浦君が制作の途次で、「神秘的な面を出せれば自分なりに成功だと思うが、神秘さと 
不気味さの境が難しいところだ」と感じたというのはよくあることで、ぼくも同感だ。 
     
 ぼくの率直なアドバイスは相当厳しいものだったが、紆余曲折、ぎりぎりまで努力した 
結果はここに掲載した作品が証明しており、複雑なプロセスを表に出さず、簡潔明快な秀 
作になっている。
                             

「紅葉」 大住恭仁子
      

 作者の説明によると、この撮影場所は愛知県豊田市足助町にある渓谷、香嵐渓だという。
ぼくはこの現場に行ったことはないが、その昔奈良に住んでいたことから、この地で友人 
たちやぼくの弟子が撮ったかなりの秀作を見たことがあった。 
    
  四千本のモミジがあるという香嵐渓の秋は、絢爛豪華そのもの。昨今は夜間のライトア 
ップもされ幻想的な雰囲気も味わえるとか。 
   
   
  ところが、彼女が撮った紅葉は意図不明。「紅葉の名所なのに、どうして肝心の渓谷ら 
しいところを撮影せず、このような倉を撮影したのか」というぼくの問いかけに対する答 
えは、以下のようなものであった。 
     
  「紅葉のシーズンには、観光客やカメラマングループも多く、一本道の国道は大渋滞に 
なる。初めてこの場所を訪れ、紅葉撮影も初体験で、夜明け前からどうしてこのような場 
所に、カメラマンたちが三脚を並べるのか、意味もわからず、とりあえず皆さんにならっ 
て自分も陣取ったのです。 
   
  やがて、皆がシャッターを切るようになって、やっと判ったのは、多くの方が苔むした 
倉の屋根に光が当たって、湯気の中、モミジが逆光で輝きだす瞬間を狙っていたのです。 
    
  自分の持っていたレンズが短焦点なのと三脚カメラマンがびっちりで身動きが取れず、 
ちょっとでも、移動しようとすると、「俺の前にでるな」と怒られる状態でしたので、シ 
ャッターを押したのは、このアングルだけでした。」という。 
    
    
  彼女の作品が意図不明という原因がよくわかった。それにしても天衣無縫の極み、何と 
も言いようのないスケールをもつ彼女の一面を感じ、あえて原文そのままを掲載した。 
    
 次のチャンスには、自分の撮りたいテーマを明確にして、大住流の雄大な写真を撮って 
もらいたい。 
   
   ( 撮影会などでの撮影については、part5「航跡」参照 )

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