<玉井瑞夫繧繝彩色塾>
☆ ワンポイントレッスン (42) ☆
月例会先生評(2008年9月)
< テクノロジーとアート >
「写真を前にして、顔を合わせて討論ができないインターネット上で、どれだけの
意思疎通(上達)が図れるものか」といった美術館の学芸員の一言から開かれたこの
ワンポイント・レッスンも、もう8年になる。
「出会いは実力だ」という言葉がある。双方の知識や感性の在り方バランスを抜き
にしては語れない。すばらしい出会いになり得るかどうか、出会いは極めて個人的な
次元のものであって、他との比較で優劣は測れない。
この例会では、ぼくなりの生き方、創作、文化を目指した写真作品に賛同された塾生諸
君には、写真については卒直に相当厳しいことを言ってきた。
しかし、ぼくの言葉がすべて正解だと思われると誤解をまねく。
ここで、テクノロジーを求めることとアートへの道を求めることとはちょっと違いがある
ことを 明確にしておきたい。
ここからは、本当のことしか言わないをモットーに、ぼく自身の告白をしておきたい。
ぼくは、アートというのは、非常に人間的な行為だと思う。ぼくの知人の音楽家は、音楽
がある意味ではもっとも抽象的で最も純粋だという。作曲にも本来はノウハウがあるはず
だが、実際にはそんなノウハウを考えながら仕事をしているわけではない。それを超えた
ところで仕事をしているのだという。
ぼくの場合、ぼくのお気に入りで第三者も認めてくれたあれこれの作品も、どうしてで
きたのか、肝心のところはどう考えても、そのときどうして思いついたのかが思い出せな
いものが殆どである。
何ができるかもわからない。わからないからこそ夢中になる。ただひとつ言えるとすれ
ば、少年時代からのそんな強い好奇心を失わないできたことだけが救いである。
後で見ればそれは単なる奇跡、ミラクルだという答えしかない。心理的には一歩後ずさ
りすれば崖から落ちるような所に立っていたからこそできたのであろうか。
ぼくのすべてのテクノロジーは、あますことなく伝えるが、アートについては、こんな
答えしかできないのがぼくの本音である。せっかくの出会い、縁でつながれた塾生諸君も
テクノロジーを乗り越え、重なる失敗にひるまず、究極の作品を目指してもらいたい。
すべて、苦労なしに新しいものは生まれてこないことを、知ってほしい。
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< 9月度例会講評 >
「川辺にて」(修正) 桑島はづき
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「川辺にて」(原画)
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この作者は、フィーリングで撮るせいか、また北海道という土地柄か、いずれにしても
のんびりした風景をよく提出する。
そんな写真の中で、今回は石狩川河口近くで撮ったという少し変わった雰囲気のある写
真を発見した。
ぼくはこの風変りな住まいにも使えるような、今は住む人もなく放置されたバスの表現
をもう一歩進めれば、新しい発見が見られるかも知れないと思い、作者には「これには、
より厚みのある内容になるものがある」そんな方角での試みをしてみればと勧めた。
この場合ではまず、無表情な1/3をしめる空の表情をフルに出すことから始め、雲の
形が十二分に表現されたところで、水面の色相、カラー・バランスを空の上部のブルーに
合わせ、最後に陸上のバスを意図的にかなり冷たい色彩として完了した。
ぼくの目の前でやればスピーディにできるだろうが、離れたPCでのやり取りでは数々
の手直しに時間がかかるが、上達は早い。
原画との比較をよく見てもらいたい。ここまで大幅に色をコントロールすることに異論
を持つ向きもあろうかと思うが、色温度は季節、天候、時間によって激しい色相の変化を
示すので、講座における色彩の修練としては、ここまでやってみることが必要である。
修正作にはボリュームがあり、見違えるような味わいの変化がみられる。これをチャン
スに桑島君の作風が深まれば幸いである。
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この原画は、PC上ではキャビネ・サイズでシャドーが暗く、いわゆる焦げ付きのある
写真の典型的なサンプルとみられた。 この曖昧な焦げ臭い諧調は、霖雨を強調したいと
いう意思からコントラストをつけすぎた結果からであろう。
作者にはこの現場にもう一度立って見ている状況を想定しながら、この木の濡れた肌の
デリカシーを表現するなら、どうするかを考えてみるようにと伝えた。
木の濡れた肌は、水たまりができるほどの地面からの反射で意外と明るく、また濡れた
地表に投影された木の影のハーフトーンとの対比は、木肌の表情を際立たせる。そんな渋
いところを明確に表現するのがキーポイントである。
PC上での写真がキャビネ・サイズで見せることが多いせいか、安直なグラデーション
での表現が多く、小さなスケールの写真を見せられるのは残念である。ぼくはPC上でも
常に半切・全紙のプリントを作るつもりでの表現を心がけでいる。(このことは、撮影時
でも全紙サイズの画像を頭に浮かべながら構成することに通じる))
大住君には、半切位での画像を意識しながら、ディープ・シャドウーのない画面に修正
仕上げをするよう伝えたことから、明るく味わい深いこのプリントが出来上がった。
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「軒下」 嶋尾繁則
作者のコメントは、「今ではほとんど見る事も出来なくなった里の風景だが、幼少の頃母
親の田舎によく預けられ、田舎で育った私にとっては、こんな場所へ来ると時間がタイムス
リップした様で心が癒される。」
「この場所は、京都の山奥で冬になれば豪雪地帯となる、今でも茅葺き屋根が残る美山町。
ここでは、質感と暗部が潰れない様に気を遣い撮影してみた。」という。
ぼくもこんな写真を見せられると、少年時代を里山で野兎を追っかけながら育ったことか
ら、彼がいう心が癒される気分はよくわかる。
写材としてはこんな地味、平凡なものをどのように表現したらよいものか難しいところ。
茅葺き屋根の厚みをみせながら、大八車を斜め後ろからのアングルでさりげなく構成したこ
の作品は、手堅くオーソドックスな表現のサンプルとして、推奨できる。
蛇足ながら、この画面では視線が行く遠視点の処理にはかなりの配慮が見受けられる。
一般には気づきにくいが、これも構成上のキーポイントである。
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「花」(原画) 岡野ゆき
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「花」 (修正) 岡野ゆき
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この花は「ヤマゴボウ」とか、色バックの同じ写真を上下向きを変え、2枚を組み合わ
せたところは悪くないが、こうした見せ方はコマーシャルのカタログならOKだが、作品
としては、単なるパターンに見みられる。
これが作品として見られる条件は、この上下のエレメントがせめぎあい、あるいは融和
して、ここにドラマを見せなければ感興が湧かない。
そんな話を岡野君にしたところ、すぐさま試作として数点のバリエーションが送られて
きた中の1点がこれである。まるで見違えるような表現で、これなら戴ける。
こうしたモンタージュでは、ワンポイントレッスン(29)で紹介したぼくの何十年来
の友人、木村恒久君の解説が彼らしく不思議な表現だが適確でわかりやすいので、再度こ
こに引用しておきたい。
「異なる映像断片が出会うモンタージュのステージは、イマージュのプラットホーム現
象でもある。プラットホームでの相乗効果は、バラバラの映像単位に意味の偶然の一致の
「縁」をもたらす。この絡みからモンタージュは、映像で想像する独自の物語性を刻みだ
す。モンタージュの特色であるパッチワーク画法は奇想の出会いを求めるプラットホーム
の寓話である。」
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「羊飼いの母子(モロッコ)」 吉野光男
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この写真を一瞥したとき、ぼくはまずこの女性のファッションが気に入った。次いで母
親と子供の目線が一致しているところ。斜めから見た顔のアングルも決まっている。
こんな見方は、プロ根性というものか、ぼくの仕事柄から、こうした類似のシーンを撮
るとき、衣装や表情、特に親子の目線には後一歩というところで不満を持つ現実が多かっ
たということである。
とにかく、作者が「平原の夕日を浴びて佇む母子の情感が伝わってきて夢中になって切
った1枚です」というこの作品はすばらしい。ぼくが更に解説を加えるものは何もない。
皆さんも魅了されるであろう。
もし、ぼくがこんな現場に遭遇したら、羊に囲まれた子供たちのいるシーンや住居、生
活環境のわかる写真をしっかりとらえ、多分この作品は組み写真のメインカットに使われ
るだろうなどと思う。
また欲を言えば、この国の歴史や文化を象徴するような見開きで使える一枚写真にも腐
心するだろうなど、次々と空想は拡がるばかりである。
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まず、作者のコメントを紹介しておこう。
私はここ数年の月例においては、被写体(静物、人物にかかわらず)と、しっかり向か
い合って撮る写真と、写真の可能性を高めるために創る写真の両面から提出するように心
がけています。
今回の「宇宙へ」は、3年前に講座で「花火によるキネティック・バージョン」を拝見
してからその面白さに惹かれ夏になる度、挑戦し今年が3回目の作品作りとなりました。
1年目は、ただのラインであり、力が足りないというコメントを先生から頂き、2年目
は素材の選び方、空間処理の方法を学び、そして3年目の今年は色相の扱いと、宇宙とい
う空間を最初からイメージして創造する というテーマを目標に臨みました。
実際には、そのテーマに対し、奥行き、広がりを第一に、画面が散漫にならないよう、
また、ごちゃごちゃしないよう整理することを心がけました。
グラデーションの質感、星に見立てる輝点のバランスなど、検討すべきポイントが思い
の外、難題であることがわかりました。
以上の西浦君の説明どおり、こんな花火での撮影は各人各様、毎度が特殊技法の実験で
宇宙を思わせる星空にも、相当の苦心がはらわれた跡が窺われる。今回はそんな努力がよ
うやくひとつのレベルに到達した立派な作品である。
写真誌で時折それらしき写真を見かけることがあるが、未だ恐れ入りましたという作品
にはお目にかからない。トップ・バッターとして、西浦君の今後の思い切った創作に期待
したい。
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この作者は、例によってもう2歳になろうかというひとり娘の写真を出しているが、い
ずれも一応の水準を見せた作品である。
そこで、これからはどんな写真を目指すだろうかと思った瞬間、脳裏に浮かんだ映像が
オーギュスト・ルノワールの「ピアノによる少女たち」であった。
彼の1890年以降の作品には、手紙を書いたり、読書などに夢中になる少女たちを描
いた作品が多く、その自然な姿に魅せられ世界の愛好者は数多いといわれる。
それらの作品は、写真のスナップに近い表現で、上田君には参考になるだろう。これか
らは、親子で一緒になって何かに熱中しているシーンが登場するに違いない?
その次は、ストライキをしているシーンかな?
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これは、デジタルカメラによる赤外写真である。
モノクロの赤外写真との違いは、太陽光を浴びた樹木の葉がブルー味をみ帯びてかがや
き、空は渋いベージュ系になっているところである。
ぼくはモノクロの赤外写真しか知らないので、塾生の上田君の作品を掲載し、あわせて
彼が実験中の一般的な要領を以下に書いてもらった。
デジタルカメラによる赤外写真について
一般的なデジタルカメラでは、赤外線をカットするフィルタを内蔵している。このため
デジタルカメラで赤外写真を撮影するには、このフィルタを取り除き、可視光をカットす
るフィルターを取り付けることになる。
他の方法としては、赤外線を通しやすいデジタルカメラを使用し、可視光のカットフィ
ルター(例えば、HOYA R72)を取り付けると赤外写真が撮影可能となる。ただしこの場合
2枚のフィルターを透過する光はごく少量となり、長時間露光が必須となる。
何れの方法にせよ、これらのカメラでホワイトバランスを太陽光に設定し、カラー撮影
を行うと真っ赤な写真が撮れる。
ホワイトバランスを変更することにより、作例の様に木の葉をアイスグリーンにするこ
とも可能となる。
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まず、作者の川崎君のコメントを聞いてみよう。
「この季節になると地域コミュニティーセンターの壁には鯉のぼりが貼られ、庭には幟と
鯉のぼりが泳ぎます。丁度、幟と鯉のぼりが朝日の直射を浴び、赤外フィルム上には白く
すっ飛んで写ります。屋根上の三角に光る物は直射日光を反射する風見鶏の羽根です。」
この写真に対するぼくの第一印象は、モノクロ赤外写真の特徴を大胆不敵、実に思い切
りよく使い飛ばし、抽象と具象、何とも言いようのないイメージが面白いと思った。
はじめ、切り紙のような3匹の鯉はモンタージュしたかのように思え、竿先の何ともわ
けのわからぬフォルム、暴れ放題の真白な鯉のぼりとのうまい構成を考えたものだと見て
いたが、暗い日陰でのトーンが絶妙なリアリティを生み出したのであろう。いずれにして
も、こんな鯉のぼりはめったに見られないであろう。貴重な秀作である。
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「モンゴル紀行」 横山健
「羊解体」
解体はナイフ一本で素早く行われる。腹を裂き、そこから手を入れ、背中の方の
筋を切ると羊は絶命する。手際よく皮がはがされ、あっという間に羊が食料となる。
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モンゴルでは馬は時に車より便利な
乗り物になる。
例えば川を渡る時人を乗せていても
顔さえ出ていれば平気で渡って行く。
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「川を渡る」
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「馬繋柱」
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遊牧民は移動をすると、最初に
馬をつなぐ柱を立てる。
これはいつでも訪ねて来て下さ
いという意思表示となる。来客を
大切にする遊牧民らしい文化だ。
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「モンゴル紀行」について
今回、彼はこれらのモンゴルの写真を提出をする1週間前、9月8日にモンゴルの隣国、
ウィグル自治区へ旅立った。以下は、そこから最近送られてきた手紙である。
「ここの空気はとても乾燥しています。まだ日射しは強烈ですが、9月末には雪が降る
こともあるそうです。近いだけあって、気候がモンゴルと似ています。
食べ物は脂っこいものが多いですが、野菜や果物が豊富で、西瓜やハミ瓜やブドウがお
いしいです。これから地方へ行くので、メールをみることが難しくなると思います。
感想や投票に参加できないかもしれません。申し訳ありません。10月26日に帰国予
定です。それでは。」(2008年9月14日 ウルムチにて 横山健 )
どんな構想でどんな写真を撮るつもりなのか、様子がわからないが、モンゴルよりも治
安が悪いということなので、決して無理はしないようにと伝えるだけで短い電話は切れた。
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