<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (41) ☆          月例会先生評(2008年6月)                < タイトル >                 

  本来、ぼくはタイトル(題名)を見ないで、絵や写真作品を鑑賞するのが建前で、 
 それについては、すでに講座の「Part1」で述べてある。
    
   しかし、タイトルが不必要ということではない。 
  今回の月例では、作者の意図不明と見られかねない写真が散見されるので、かねて 
 から「題名について」の話をしたいと思っていたので、ここで一言触れておきたい。 
    
 まず、タイトル(題名)なしでは、コンテストの応募や展覧会への展示はできない。こ 
こで、ぼくが問題視するのは意図不明という作者の基本的な表現への姿勢である。何を言 
いたいのか、そのテーマへの真摯な希求の深さである。慢然とした態度では、人を感動さ 
せ共鳴を得る作品には程遠い。これ以上もう言うことはないだろう。 
    
 もっと、日常的な話では、コンテストの審査などで、まるで見当違いのタイトルで、せ 
っかくの作品がはずされたり、怪しげな文学的な題名で敬遠されるといったのは例外とし 
て、タイトルの付け方は、本当に難しいというのがぼくの本音である。 
    
 そんな理由から、ぼくが一番感銘を受けたルネ・マグリット(1898−1969)の論評「題 
名についての一般的考察(1946年)」を、以下彼の言葉そのままを紹介しておきたい。 
    
 『絵の題名は説明ではないし、絵は題名の図解ではない。題名と絵とのつながりは、詩 
的なものなのである。つまり、このつながりによって、事物からいくつかの特質だけがと 
りだされる。そうした特質とは、普段は意識されないが、時として理性によってまだ解き 
明かされてはいない異常な出来事に出合う時に、感じ取られるものなのである。』 
    
  まだ若かったぼくは、この奥深く厳しい言葉に衝撃を受けた。塾生諸君は、どう受
  け止めるだろうか。

                < 6月度例会講評 >               

    

「湖畔の気配(琵琶湖にて)1」 大住恭仁子

「湖畔の気配(琵琶湖にて)2」 大住恭仁子

        
 この写真は、月例では「琵琶湖1・2」といつた題名で提出されており、塾生間の感想
では、このタイトルでは作者の意図不明という批評が多かった。これは当然であろう。 
 この作者には時折、大胆な構成、発言で驚かされ、感心することがあるが、この場合は
ぼくも真意を測りかねた。 
   
 ぼくは、もう半世紀もその昔、若いころ、奈良・大阪に住んでいたので、琵琶湖は何度
も三脚付カメラをかついでさまよったことがあった。 
 ぼくの印象は今なお新鮮である。瀬戸内海育ちのぼくには、湖をいうものは海と違って
「明るくって、静かで、侘しくって・・・」といった空間を感じさせるところだった。 
    
 そんなことから、大住くんと電話中、ぼくがこの野放図なワケのわからぬ作品は、<湖
畔の気配>といったところではなかろうかと言ったとたん、彼女は「ハイ、ドンピシャリ
です。題名は模索中でした。そのタイトルいただき。」ということになった。 
    
     
  さて、なぜかうつむいて自分の影に向かってギターを弾く人の地面のまわりのまぶしさ
も。フレンチブルドックらしい?この犬のブチ模様と形態も。そして、大雑把な構成も、
彼女にとっては、なぜか、湖畔の気配なのであろう。とにかく、ぼくもこのタイトルで、
一応納得した。 
     
  そこで、この2点の写真は、この題名にふさわしいグラデーションの調整、雑物の排除
レイアウトなどで作品として生き返った。
                          

   

「動物のいる風景」(修正) 吉野光男

            

「動物のいる風景」(原画) 吉野光男
    

   
 この作者が得意とする、イラスト風の「動物のいる風景」の原画は、地球の環境問題を
テーマとした作品が目的で、大雪に見舞われた日の砂丘の動物たちのいる風景だという。 
     
  アイディアはおおむね良かったが、2諧調化した極端な白黒のハイコントラストな砂丘 
を雪の砂丘と見立てようとしたところに問題がある。 
    
  つまり、彼の夢の表現、終着駅であるリアリティが希薄な原因は、表現技法上の総括的 
な配慮、処理不足といったところであろうか。 
                                  
  これらについてぼくと話合った後、作者が処理したものが再提出の掲載作品である。原 
画とよく比較してみよう。 
    
  ぼくがことさら注目指摘したのは、全体の印象を示す白黒のグラデーションのないハイ 
コントラストの砂丘とシンプルな切り抜きの動物のパターンを抽象的な表現として生かす 
ために、異質とも見えるリアルなカラー表現の頭蓋骨を加え、それを控え気味な色合いと 
し、さらに遠景動物とその先の空間処理であった。 
    
  モノクロ画面上でのこのカラーの頭蓋骨に反論する塾生の批評もあったが、これはモノ 
トーンでパターン風のありふれたイラストとの差別表現として重要なキーポイントであり、
遠景の動物と空間処理では動物のトーンをやや薄くし、空の部分に薄いグレーを加えて写 
真的な遠い空気感を表現したことも同様である。 
     
  写真による特殊表現としての抽象と具象の対比による表現の厳しいデリカシーを失って 
は、こうした作品は成立しない。

        

「くらげのいる風景」(原画)

「くらげのいる風景」(修正) 桑島はづき

     

「二人」  桑島はづき              

  「くらげのいる風景」についての作者の説明は「浜を散策しながら撮ることが多いが今 
日はくらげが大量に打ちあげられていた。 
  ちょうど同じくらいの大きさのものが二体並んでいたのが目玉のようで面白く、砂と海 
水とくらげの対比を出せたらと思い、波が寄せてくる瞬間を狙った。Photoshop で青みを 
強めたが、今見ると青くしすぎた気がする」という。  
    
  素直に撮られたこの寸景は、月例でも評価されていたが、ぼくの感じでは原画の諧調で 
は暗すぎる。もっと明るくシャープで、それぞれ被写体のフォトジェニックな質感描写も 
大切にしながらの表現が望ましい。 
     
   
 「二人」は、こうした大胆なトリミング、構成が成功した例であろう。 
  ただ、原画で見ると、水平線のすぐ上、左端の空の白い部分が黄色く薄汚れて見える。
太陽のある側だから当然そうなる。しかし、枝葉末節のようだが、この明るさが汚れに見
えるのでは、折角の 切れ味のいい風景がもったいない。 
       
   そこで、プロはこの部分に薄いブルーを足して目立たなくする。この写真もそんな
 修正を加えて掲載している。やさしそうでちょっと難しい技術だが参考までに。

   

「珍入者」  岡野ゆき            

「あじさい四態」 岡野ゆき

  「珍入者」についての作者の説明は「これは、ハウスの裏庭にうちの飼い猫が入ってき 
た瞬間です。いつもなら目を細めてニャ〜と言いながら歩み寄ってくるのですが待ち構え 
ていた私のカメラに警戒した表情をしています」。
「狙っていたので「ラッキー!」とばかりシャッターをきりました」という。 
      
  まるで、虎のように見える猫。どうしてなのか。犬ばかり飼ってきたぼくにはわかりか 
ねるが、こんな写真もめずらしく面白い。 
  塾生各位の感想では、背景のコントラストがきついのが気になるという意見もあった。 
ぼくも多少は気になったが、この猫の場合、この植物のコントラストのつきすぎたバック 
もまた、不思議な雰囲気が強調されるとの見方から、このままでOKとした。
    
   
 この「紫陽花」は、白いアジサイのひとつひとつの小さな花びらの表情がかわいらしく、 
カラーで撮影したものを、フォトショップでトーンを落としながら質感を強調したという。 
    
  そこで、ぼくは「いずれテストをやる気なら、原画をフォトショップで「紫陽花・四態」 
といったテーマを意識した実験的作品を試みるのも悪くない」と言ったことから生まれた 
作品。この先にどんな表現が待っているのだろうか。それが問題だ。 
  表現に柔軟性を持つことは大切だ。でもなければ、新しいイメージも浮かばない。

                    

  

「朝光」 嶋尾繁則
        

「新緑の河原」 嶋尾繁則

    

 「朝光」について作者は、「昨年の秋に三浦峠付近で撮影したものです。夜中に現場に
到着した時点では風が強く吹いて小雨が降っていたと思います。天気が不安でしたが夜明
けには雨もやみ薄い雲間から差す朝日が感動的でした」という。 
    
  よくある風景と言えばそれまでだが、前景のススキと左斜面の樹、遠景の小高い山もこ
れといった特徴もない構成でも、渦巻くような霧の動きで何とか写真にしてしまったのは
作者の風景専一のキャリアーであろう。 
    
  見どころは、空と霧と太陽光の色合いが紫からオレンジ、イエローと絶妙に変わるチャ 
ンスを的確にとらえ、微妙なハレーションを織り交ぜたところ。その繊細なセンスは参考 
になろう。 
  この作品については、この爽やかで含蓄のある空の美しさを高く評価し、非常に地味な 
がら彼らしい秀作の1点と思っている。 
    
  「新緑の河原」では作者曰く「この場所は私がいつもよく行く十津川方面の三浦峠とい
う場所の雲海の水源となる谷の河原で、実は谷の方へ降りたのはこの度が初めてでした。
  そこで見つけたのがこの場所で、河原の中に新緑が映え箱庭のような風景が印象的でし
たが、皆さんが仰いますように少し平凡でいまひとつドラマチック的なスパイスが足りな
いと思います」と。ここでは、ぼくも「ハイ、その通りです」と答えよう。

            

           

「グランドキャニオンの記憶(1)」 川崎了

「グランドキャニオンの記憶(2)」 川崎了

「グランドキャニオンの記憶(3)」
川崎了

「グランドキャニオンの記憶(4)」 川崎了

    

 この写真を一見したとき、ぼくは遥か昔のアメリカの大写真家たちの顔や懐かしい作
品の数々が頭の中をかすめていった。彼らは写真家集団、<F64>グループをつくり、
8×10の大判カメラでF64の最小絞りで、全面克明なシャープさで撮影していた。 
    
  彼らの被写体は風景が多く、このグランドキャニオンのような各地の大風景の傑作の
数々で、その地を世界に紹介した。 
    
  しかし、また最長老のエドワード・ウエストン(1886年生)は、こうした峡谷や 
大平原ばかりでななく、ポイントロボスの海岸やその近辺の樹木、砂漠でのヌード、貝 
殻、ピーマンまで幅広く撮影したが、大風景で見せた強固な構成力は他の被写体でも重 
厚な作品を残している。ウエストンのピーマンは力がみなぎり、ヌードなどまるで揺る 
ぎない彫刻を思わせた。 
    
(ぼくはこれらに刺激され、1951年鳥取砂丘で撮った「ヌード」では、ぼくなりに 
 ウェストンの向こうを張って、砂丘のトルソーが狙いであった。Part 7参照) 
    
 アンセルアダムスはじめ他のメンバーも同様だったが経済的には厳しいものがあった。
エドワード・ウエストンの若い頃の歴史的な名作も、当時は2ドルでも売れなかったが、
現在は同じ8×10の密着プリントが4000万円といわれる。 
   
   
 本題に帰る。ぼくはコロラド川の上空を飛んだことがあるだけで、地上の方はよくわ
からないが、この作者の写真と似た風景を思い出した。
    
  それは、色の魔術師と言われたエルンスト・ハースが撮った「松と断崖」という作品 
で、シルエット風の松のこずえの隙間越しに、遠く陽のあたる金色に輝く断崖があった。
 その絶妙な構成と色彩の対比には、リズミカルな素晴らしい迫力があり、そのシャッ 
ターを切った瞬間、名だたる音楽通の彼は、故郷ウイーンの音楽が聞こえたと言ったか 
も知れないなどと余計な想像もした。
    
    
 誰しも前景では苦労する。川崎君の作品(1)の木は選択が良かった。ついで開拓時 
代を思わせる石造建物、ビャクシン木もそつなく、作品(4)の夕景のシャドーは深い
黒一色に単純化し、ハーフトーンとハイライトだけの遠景と対比させた抽象的な表現は
作品(1)との組み合わせ、ラストに置かれるにふさわしい味わいを見せている。 
     
 作者の意図は、「記憶」という題名にふさわしくよくわかる。多忙の中、瞬時をアメ
リカに飛び、これだけの写真をものしたのは成功例といえよう。

                           

「母と子」 上田寛

「おめかし」 上田寛 

 上田君のこの1年半ほどは、家庭写真専門で、初めて授った愛娘<楓華>に入り浸り 
といったところである。 
  今回もそんな<楓華ちゃん>の可愛い写真が提出されていた。  
    
  ぼくはそんな彼の家庭を想像しながら、日々大量の子供写真を撮りためたその部屋は、 
いわゆる「親ばか写真」のラッシュで大変だろう。 
    
  でも、今回は彼のコメントに「いつも可愛い、可愛いで撮ってしまうが、最近は彼女 
も自意識ができて来たようで、強めの表情も狙いだ」と言い、カメラポジションもいろ 
いろ変え、何かとかなりの工夫もするらしい。と察したぼくは、この辺が一発気合いを 
入れるチャンスかな、などと思っていたところへ、上田君から電話が入ってきた。 
    
  ぼくが彼へのひと言は「可愛い写真も結構だが、そろそろポスターになるような写真も 
撮ることだ。 
  彼女が十二分に成人した頃、その作品の素晴らしから、君に最敬礼するような作品だ。 
早い話が、とりあえずは1歳半の<楓華のモナリザ>など、どうだろう?」だった。 
    
    
  その基本は、ポートレートの正しい解釈である。一般にポートレートと言えば、記念写 
真といった概念をもつ者が多いが、そんな生やさしいものではない。本物のポートレート 
は、その人物の「性格と気質を的確に表現した人物写真」である。 
    
  モナリザのポートレートは、あの優雅で妖しげな表現から、万人の恋人になった。第2 
世界大戦を勝利に導いたあのチャーチルの苦虫をかみつぶしたような傲岸な顔写真など、 
イギリスを代表するような素晴らしいポートレートもある。 
     
  こんな厳しいことをいうのは、プロとしての玉井が言わせるのかも知れないが、よい写 
真にプロもアマチュアもない。 
    
     
  「おめかし」は、表情は言うことなしだが、ぼくが目障りだといった複雑なバックの欠 
点を彼が入念に修正したもの。室内では自由なカメラポジションで撮れるようマイナスに 
なる雑物は、多少かたづけておくのは常識だ。 
    
  「母と子」は、再提出した中で最も親子の情感があふれた、ドラマがある作品である。 
キーポイントとなる母子の手の表情を生かすため、原画の右半分、散漫な部分はトリミン 
グして掲載した。

          
            

   

「パフォーマ−」 西浦正洋

「ステージ前」

                 

「回廊」 西浦正洋

参考作品 「Blue Star」片山利弘

 「パフォーマー」
    
  月例に提出された、たった一枚だけのこの異様なメークの男の写真を見た時、その迫力 
にぼくは1960年代後半のアングラ演劇全盛時代を思い出し、ちょっとばかり血が騒いだ。 
  ぼくは天井桟敷の1枚のポスターを創っただけであったが、まだ血気盛んな40歳代は 
リスクをおかす勇気というものか、「何でもやってみよう」で闊歩した時代の気分という 
ものは、相当の歳月を経ても忘れられないものだ。(Part 41参照) 
   
   
  作者の説明は、「ゴールデン・ウィーク中に高槻市で開かれた、ジャズストリートとい 
う音楽イベントで演じられていたパフォーマンスです。グランドに設けられたステージで 
は、バンド演奏が行われ、写真の俳優達がその前で、前衛的な舞を行います。
       
 それが、音楽とマッチしているかと言えば、必ずしもそうではないのですが、彼らの頭 
の先から足の先まで、ぴんっと張りつめられた緊張感が凄く伝わってくる、一種異様な雰 
囲気、空気間が漂っていました。」 
  「ステージエリアからはずれ、写真の彼が、聴衆の方に進んで来たところを正面から真 
剣勝負で挑みました。
     
  皆さんからもご注意頂いたように、もう少し状況がわかるような組み写真になれば良か 
ったのですが、撮影時にその意識がなかったので  一枚で提出しました。
 相手は、プロのパフォーマー(俳優)だったようで、迫力は流石でした。」とあった。 
     
  まさに、ぼくの想像通りで、殊に「写真の彼が、聴衆の方に進んで来たところを正面か 
ら真剣勝負で挑みました。」というところは、わが意を得たり。もう言うことはなし。  
  わかり易くするため、「ステージ前」のカット写真を加えてもらった。次のチャンスを 
期待する。 
   
   
 「回廊」
   
  「回廊」は、文字通り1枚の写真を上下左右対称に組み合わせて構成したパターンの面
白さを追求した写真である。 
  こうした作品では、ぼくの長年の友人、片山利弘君の「Blue Star」を紹介し 
たことがある。(Part 41 参照)
      
  彼の場合は、万線のようなエレメントを組み上げた寸分の隙も見せない造形で、彼の美 
意識と哲学を表現した作品として、欧米では高く評価され、デザイナー出身の特異なアー 
チストとして後に、ハーバート大学の教授として招聘された。 
     
  西浦君の表現はパターンとしては共通点があるが、そのエレメントが写真であるだけに 
また違った趣がある。写真のフォトジェニックな質感、光の微妙な明暗、素材の素が見て 
取れるなど。気づきにくいが、この画面の奥の方にひき戸があるなども面白い。 
  彼は色については、色相環に合わせ配色しているが、これはまず無難で正解である。 
    
  ぼくはこうしたアマチュアとしては異質ともいえるチャレンジには、協力を惜しまない。 
今後を大いに期待している。 
(片山君の他の作品については、その後の展開も面白く、いずれ改めて参考として紹介す 
  るつもりでいる)

             「モンゴル紀行」 横山健     

「ウランバートル市街1」

 ウランバートルは二つに分けることができる。ビルと集合住宅の市街地と
その周辺に広がるゲル地区。市街地はカラフルで車の排ガス臭く、ゲルと手
作りの家が立ち並ぶゲル地区は単色で埃っぽい。
 遊牧生活と同じく上下水道の来ていないゲル地区には、ウランバートル市
民の半分が住んでいる。
     

   

 キリル文字の看板が目立つこの建物
の中には、ケータイ屋、日用雑貨屋、
女性の服・下着屋、コピー・書類作成
屋が並ぶ。

   
   

ウランバートル市街2

   

ウランバートル郊外

 ゲル地区をブラブラしていると、4
人組の子供がいた。カメラを構えると
大喜び。屈託がない。
 ゲル地区は貧困地域ではあるが、子
供たちは市街地のストリートチルドレ
ンのようにスレてはいない。

   

  

「ゲル地区の煙」

 モンゴルと大気汚染。意外な組み合わせだが、ウランバートル市内はかな
り深刻。原因 は激増した車の排気ガスとゲル地区からの煙。
 冬の寒さが厳しいモンゴル。ゲル地区では石炭や薪をストーブで燃やす。
冬の夜などは濃い霧がかかったようにもなる。

       

                
「モンゴル紀行」について
    
   
 今回の提出写真は、一転してモンゴルの首都ウランバートルの紹介である。 
横山君の説明によると、中心地と周辺部では貧富、生活、設備などの格差が相当にあり、
その昔、ぼくが訪れたポルトガルの首都リスボンに似ているように感じた。 
     
 この街の標識や看板などの多さ派手さ加減から、かえつて親近感のようなものをぼくは 
感じた。ぼくのお気に入りは、「ウランバートル郊外」である。 
 電柱を間に置いて、左右に犬と子供がいる構成も余裕があっていい。ゲル地区の暗さを 
超えた明るい子供たちの表情にホッとする。 
       
                                 
  ところで、横山君への毎度の注文で、もうひとつ大きなスケールを持ちなさいと、ぼく 
は言い続けてきたが、これは誰しも大変なことである。 
  大きな大地を撮るには、大きなスケールがいる。それは心身ともにである。 
    
  今回は、その参考として、 動物写真家・星野道夫の写真集と随筆を薦めたいという話 
である。 
     
 星野道夫は、極北の自然と取り組むためにまずアラスカ大学の野生動物学部に入った。
彼はすべてに徹底した行動をとる。 
 彼は、「根なし草のように旅をしながら動物写真を撮っていた時代を終り、アラスカに 
家を建て、この地に暮らし始めてみると、アラスカの風景も何か変わって見えてきた」。
    
 そして、「たった一人の時代から結婚して、子供が生まれると、この地は再び自分に違 
う風景を見せ始めた。地球上のすべての生き物はそれぞれの一生の中で旅をしており、も 
っと大きな時の流れのなかで人間もまた旅をしているのだろう」と述べている。 
    
 彼は身をもっての体験から、人と自然と動物との関係で、常にフェアであることを目指 
したその作品は、世界的にも高く評価され、早すぎる死が惜しまれている。アラスカでの 
15年間の生涯は、あっぱれという外にない。 
 彼の写真が示す動物と自然を通して、生とは何かを問い続けた作品には、息をのむよう 
な美しさ凄烈さがある。このスケールの大きさを横山君もしっかり見つめ、身につけても 
らいたい。 
     
  星野道夫のエッセイも素晴らしい。目に見えるものに価値を置く社会よりも、見えない 
ものに価値を置くことのできる社会に限りなく惹かれていった彼の魂の軌跡は、ぼくたち 
にも賛同できる。具体的で難しい言葉など一語もない「旅をする木」なども薦めたい。
  

         

(駐)御断り 
   
  小生の腰痛手術後のリハビリの難しさから、やむなく本講座がずっと休みのため、多く 
の方からご心配をいただき申し訳ない。 
    
  ぼくは若くて夢いっぱいで元気だったころは、「無窮の時の流れの中では、ひと粒の雨 
のような一生を生きているに過ぎない」などと嘯いていたが、今日この頃は「人生とは生 
きてみなければわからない平均80年の時の流れである」といったところが実感である。 
    
  毎日の体調不安、痛みからの解放への僅かな期待も、いつもそむかれ、空しく消える。 
    
  でも、この講座が終わるまでは書き続けようという思い、前向きの姿勢がある限り何と 
か生きられるだろう。物忘れはひどくなったが認知症にはまだ遠いのでご安心ください。
     
 皆さん御配慮ありがとう。取り急ぎ御礼を申し上げておきたい。

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