☆ ワンポイントレッスン (40) ☆ 月例会先生評(2008年3月) < まぐれ >
このところ、どういうわけか、もう半世紀以上も昔の記憶を振り返えらせるような 展覧会のご案内が連続して送られて来て、夜明け前のぼくの脳裏にはそれらの幻影が 次々と現われ、あわただしく、楽しいひと時を過ごさせてくれた。 大阪市立近代美術館建設準備室からの図録は、「美術の写真」<浪華><丹平>から森 村泰昌まで。毎日新聞社からの図録は、「池田満寿夫」<知られざる全貌展>とある。こ れらにはぼくの作品もあり、前者には、「弁財天」「塀」、後者には「瑛九氏」「瑛九の デスマスクを描く池田満寿夫」が掲載されていた。 「美術の写真」に掲載されている<丹平>の諸先輩の作品は、皆さんの生前のお顔も知 っており、また池田満寿夫は彼がまだ売れなかった頃からの仲間だっただけに、あの大昔 の野放図な日々、リアルなシーンが彷彿として思い起こされたのだ。 当然、そんな時代の各人各様の創作の有様が生き生きと浮かんできたが、そのキーワー ドは <まぐれ> という言葉で、それらは今日でも変わらない。これは、「気まぐれ」 ではなく、本物・正気の<まぐれ>である。 つまり、創作、それは論理的なものでなく「その多くは運や偶然や確率で左右され」、 「また人間の脳はもともと確率論による合理的判断は不得手で」、「偶然に振り回される 不確実性の中にあって、人が近道的に判断できるのは、喜怒哀楽の情緒が潤滑油の働きを し」、「合理主義の限界を越えられるのは、情緒的な面があるからで、そこにエネルギー が湧いてくる」といった解説もある。 発想力は、理屈ではなく、情緒なのだ。気楽にやってもらいたい。 |
< 3月度例会講評 >
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ぼくはこの2輪のバラを見た瞬間、そのフォルムとフィーリングから人間の血液型でい えば、下はO型で鷹揚、上はAB型で密やかといったイメージ、それぞれの花の性格、風 格、品位、そして対比を思った。(こんな感じ方は花だけに限らない) だが、このバックは単純な真っ黒のため、上下のつながりがなく、素材の良さだけが目 につき、これでは勿体ない。この2輪の対比から生まれるドラマを見たいものだと思った。 このバラのシャープでデリカシーのある表現は、バウンズライトとよばれるソフトな光 によるが、バラ園の温室が殆ど完璧といえるスタジオ・ライティングになったようだ。 とにかく、ぼくは折角の素材を生かすため、緑の茎は切り捨て、存在感のあるバックを 入れた構成を岡野くんに提案した。 彼女はバック(空間)として色ちがいの3点のグラデーションを加えた写真を送ってき たが、色彩だけでは持たないことを予想して、最後に粒子を加えたものを別送してきた。 ぼくはこれを見て、やっと全体をコントロールしてドラマを創る調整のアドバイスをす る気になった。 この最終的な作品への発想は、平安朝、王朝文化の世界である。もし、あの時代の宮廷 の女房たちなら、鋭く繊細な美的感覚で、色を知るだけに色をセーブし、ハイキーな表現 で純白の花びらとややグレーがかった青味に粒子を散らしたバックで存在感を持たせ、雅 びを思わせる作品へ変身させたかも知れないといったことである。 もう少し、色目が青味を帯びると氷襲(こおりがさね)のようになるが、それは各自の 好みでよかろう。(Part17参照) |
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この原画は、良い素材だが構成上、多くの問題を含んでいる。 上部の雲はすばらしいが、橋から下の海面がいわゆるコゲくさい暗さで美しさがない。 更に、画面両端が明るく、バランスをとるのも難しい。普通なら、下部の船を切り捨てる か、左右両端を切り捨てた縦画にする人が多いだろう。 しかし、そんな写真は、どこかで見たような構成で新鮮味がないだろう。 ぼくなら、この画面が全紙に引き伸ばされたイメージが頭に浮かぶので、この写真を伸 ばしでコントロールすることの大変な難しさは、充分に判りすぎるので、シャッターは切 らない。カメラ位置を変えたり、そんなチャンスを待つだろう。 大住くんには「この場でのもっとプリントのしやすい写真はないものか。」と聞いたが、 「それが後は何もない。」ということから、「一度、練習のために、プリント時の修正を やってみるのも、今後の撮影時のキーポイントを知るためにも悪くない」と話した。 その数日後、メールで「自分で直してみました」といって、送付されてきたのが、この 修正作品である。驚いたものである。ぼくが手短に話した左右両端のバランス、橋をはさ んで上下の階調・明暗の対比も相当の忍耐で調整したようだ。 これなら、スケールの大きい見ごたえのあるプリント、個性ある作品といえよう。ぼく は「やればできるのだ。」とひと言の返信をした。
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この写真は、窓辺近くとして雰囲気があり、これでOKというところだが、ぼくの所属 した丹平写真クラブでは、もう一段レベルを上げた表現が要求され、初期のぼくなどよく、 「空気が写っていない」などと言われたサンプルとして解説したい。 モノクロ全盛時代、感度が低く硬調になりやすいフィルムでは、風景写真ならコントラ ストの強さは、大して問題はなかったが、こうした室内の逆光、ハイコントラストは苦手 な被写体であった。そこで、こんな被写体は高感度フィルムで軟調現像、プリントも1号 という軟調紙で処理し、覆い焼きなど苦労した。 写真は「真」を写すというが、この物理と化学の合体したメカニズムは、肉眼の精度を 越えることもあるが、及ばないところもある、暗順応、ローキーには弱い。カメラは道具、 写すのは人間。心情でははるかに及ばないところも表現しようとした丹平の諸先輩の教え が懐かしい。 さて、現時点に戻る。この写真の場合、ここに漂う幼女をつつむ温かい雰囲気は、やはり 空気を感じさせるプリントに仕上げるのがベターだとぼくは思う。衣服や手のハイライトも 飛ばないよう心がけること。ぼくの簡単なアドバイスを生かし、上田君がそれなりに修正し たやわらかい雰囲気に包まれたこの作品は、明らかにそれを証明している。 |
「群れ(1)」(原画) 吉野光男 |
「群れ(1)」(修正) 吉野光男 |
この作者は2点のシルエットを出品しているが表現技法にかなり無理があり、群れ(2) はタイトルがなければそれが何かわかりにくいほど抽象化されたイラストになっている。 広告写真家もデザイナーやイラストレーターに依頼されてこうしたシルエットな表現をし た印画を作ることがあるが、群れ(1)でも被写体の特長を省略することはない。 この写真の場合、例えばこれが羊ならその特徴ある毛並みや顔のアウトラインを生かしな がらの表現をする。(2)の場合でも1,2頭はそれがヤギかヒツジか明確に判る程度のイ ラスト化をする。 「群れ 修正(1)」は、バックも良いので、試みとして一般的なノーマルに近いシルエ ットな表現に還してみたものである。つまり、地面をできるだけ明るくし、中遠景の3段階 のパースペクティブも分離してある。 吉野君の意図とは違うかも知れないが、この方が動物たちの存在感とリズムがあり、大伸 ばしに耐えるものになる。この場合、毛並みなどデリケートな細部のハイライトは殊に大切 にしないと全紙では粗雑に見える。 |
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この写真は、このままでボリュームもあり通用するが、上から画面中央部までの色彩が 単一で重いところが気になった。奥行きを出すためにもマスクで木の梢に色が重ならぬ合 成が必要であろう。 ぼくは、折角のこの素材の密度の良さから、参考として彩度を落とし、モノクロの水墨 画のような表現を試みてみた。雪はあくまで白く、鳥と細い梢はやや強調した。 冷たい大気の中にたたずむ鳥の風情も深まり、ぼくにはこの方が趣味に合う。こうした 絵では、与謝蕪村の作品があったように思う。 こうしたシルエット風の作品では、Part52「醜の美学」の<夜明けのシルエット> を参考にされたい。シルエットを主題にした風景は、単なるパターンになりやすいため、 この繊細な梢の表現には細心の注意をはらったものである。 |
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この風景をみた時、ボタ山でもなく何か異様なものを感じたが、作者の説明を聞いて何 とか納得した。 札幌市の郊外、彫刻家イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園にある人工の山で、高さ 62mもあるという。彼のコンセプトによる設備は<大地の彫刻>と呼ばれているとか。 聞いただけでは何のことか判らない。 とにかく、桑島くんがこんな写真を撮ったのは偶然の産物で、彼女のテルミンのライブ がここであり、たまたまデジカメを持っていたからだという。 山の半分まで帽子を被ったような影は、雲の影ではなく、山の質感と太陽光の傾斜角度 から生じたもので、こんな不思議な光景になったらしい。 空の上下の雲の対比、白雪の大地も卒なく、一風変わったユニークな山の風景として、 原画よりもメリハリをつけるよう指示し、再提出されたのがこの作品である。 |
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ぼくは、成瀬くんのこの窓の写真を見ているうちに、ここに参考として掲載した加藤恭 平氏の「窓」を想い出した。加藤氏は林忠彦の師匠という写真界の大先輩で、ぼくはゴル フでも親しくさせてもらっていた。 氏の自宅で、この作品を発見したぼくは、「何処で撮りました?」と聞くと、言下に、 「その辺を散歩したとき、拾ってきた」という。彼は油絵も脇田和画伯に師事して趣味を 越え、このスナップ写真は油絵のような趣もある。真ん中の黄色いタンポポはいたずらっ 気の強い彼が置いたものだろう。 でも、髑髏の横顔を思わせるこの画面、それがアクセントとなり迫力のある作品となっ ている。 「画家はキャンバスの上に絵筆を振るい、写真家は自然の中から自分の絵を切り取る」と いう。 成瀬くんも何とか造形派の入口に立ったようである。ここから先は、前書き通りの<ま ぐれ>で、理屈なしの成瀬流でぶつかることである。どんどん拾ってきてはどうだろう。 |
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以下は、ぼくの第一印象であった。 この「難破船」は、相当に厳しい作品である。 ここには、春は来ない。身を引き裂く北からの寒風が横柄に吹き渡るだけだ。 この風景には、写真のイメージを実体の近似値にまで推し進めるシャープネスと グラデーションが損なわれ、意図的に非情な非再現的グラデーションの創造がみ られた。 絶望に満ち、退廃にまかせたこの3点の連作。 どうして、そんな日常的生活と縁遠い世界を見せたいのか。 ここに在るものは敗北、宿命といったものではない。ここに演出されたテーマは、 作品1は凝視・呪縛 2は放心・虐待 3は死・墓標といったところであろうか。 彼は生真面目だが、時にアンバランス、執拗な集中主義。彼のこうした物体に対した新 しい意識を育て上げようとする努力は、新しい様式になって行くかも知れない。 この3点の作品の見せ方は、どう解釈してよいものか。ぼくの感じた印象はすでに作者 の思う壺に入ったものだろうか。 以下は、作者川崎君のコメントである。 この写真は、何年か通った根室出張時に撮影したものです。 現地には同級生が住んでいて、出かける度に運転を頼んで冬の根室半島に向かいました。 誰も通らない細い道を納沙布岬に向かうと、岩陰に錆びた難破船が見えて来ます。 沿岸氷が海を覆った時、氷を伝って船に上る事が出来ました。氷に包まれた船に立つと 吹く風の音だけが聞こえ、錆びた船体からは無常が立ち上っていました。 (駐) この作品は、トーンが重く階調にかなり狂いがあり、それも彼が感じた無常さを助長 していたと思うが、誇張と見られることもあるので、掲載作はかなりノーマルなもの としてある。何れにしても、問題作として玩味されてはと思う。(玉井) |
「モンゴル紀行」 横山健
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