☆ ワンポイントレッスン (39) ☆ 月例会先生評(2007年11月) < なんでもやってみよう >
今回は、塾生諸君の写真に、久々にぼくの興味をそそる作品が現れてきた。 それは先頃の新聞でも話題にされていたが、当今は建築、デザイン、ファッションなど、 美術以外のジャンルを横断した制作の現代美術展が目立ち始めたということにも関連する。 もう半世紀も前の1950年代、瑛九塾ともいえるほど彼のところへ現れた仲間たち若い画 家や写真家たちが、前衛を合言葉に、思想や様式といったかっての「美術」を規定した枠 組みを越えようと様々な試みをした当時が思い起こされる。また作品を前にして、逢うた びにやりあった歯に衣きせぬ真剣勝負のような激しい討論も今は懐かしい。 真剣勝負といえば、近頃、塾生諸君の写真に対して、ぼくが最後の詰めの甘さに相当厳 しい注文をつけることが多いことに気づいておられるだろうか。 この講座も足掛け7年。そろそろ力試しもかねて各種コンテストに応募してもおかしく ない。ところで基本は充分心得、それを越える表現はこれまでの講座を読み返すことで可 能だが、他流試合の真剣勝負の舞台での入選か落選の分かれ道、更に平入選か特選か入賞 の瀬戸際への対応はかなりむつかしい。今回もそんな点も引き続きのべておきたい。 |
< 11月度例会講評 >
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はじめ提出作の「ウズベク憧憬」を見たとき、この被写体が何を撮ったものかわからな かったが、しばし眺めるうちに抽象化したフォルムと色彩に彼の憧憬の一端を受け取った。 つまり、それはぼくが中央アジアのウズペキスタン、サマルカンドといった地名の響き やさらに若い頃から愛唱した<バイカル湖のほとり>など、彼の地への憧れを持ち続けて きたからであろう。 とにかく、ぼくの問い合わせに応じて送られてきた現地寺院の写真と彼の説明で、何を しようとしたかおおよその輪郭はわかってきた。 彼は正面の扉を入り、高窓とステンドグラス様の光が床に投影された室内全景を撮った。 それを材料に、デザイナーよろしくこの寺院の象徴的なフォルムを現実離れした色彩の オンパレードな展開でイメージ・アップした作品を試みたということである。 ぼくは彼と話すうちに、これを更に高い密度ある作品をめざす方向とフォトジェニック な抽象方向の二つが予見されることを伝えた。 この後者の方角は、かって1966年にフランスのロンシャンで見たルコルビジェの傑 作として名高い教会の内部壁面の<色光の窓>にヒントがある。ぼくは薄暗いこの部屋で くつろぐうちに、このユニークな色光あふれた壁面を夜空一杯、はるかな宇宙をバックに した<色光の窓>のある光景を夢見たのだ。(Part19 写真家の色彩学(1)参照) このイメージが頭を離れないぼくは、彼のこのままのパターンでは成立しないので、垂 直面に対して水平面の床のバランスを4対3の比例とし、床面はパースペクティブを少し 強くし、水平線も軽く加えてはどうかなど勝手な提案をした。 また、テーマをはっきりさせるため、「憧憬」でなく「心象」を意味する「ウズペキス タン心象風景」のほうが適当ではないか。 「ぼくの案は、室内で見たイメージを内側から外の空間に向かって領域を拡げて行くもの で、画面全体の漆黒の空間は、夜空を通り越して果てしない宇宙につながるとみている。 もし、君が黒バックの上での構成などと考えたら、スケールの小さい遊びにしか過ぎぬ 小品にしかならぬだろう。宇宙相手に覚悟して取り組むべきだ。」などと話した。 西浦君は、当初の方向ではプロのデザイナーを唸らせるほどの色彩バランスは、色のレ シピ片手にやっても時間が足りないと思ってか後者を選んで何とか作品にした。その経過 を察するとこれまでになく時間一杯、大変な努力をしたことであろう。このくらいの作品 なら、師匠としても他流試合を薦めたい。 |
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岡野くんのこの写真をみたとき、花びらの影の部分(シャドー)が白くなっており、長 年アナログでのマスキングをやってきたぼくは、彼女が何時の間に「こんな表現をどんな テクニックで出来るようになったものか?」と思ったが、一瞬その疑問は氷解した。 うかつにもぼくは、フォトショップなら<階調の反転>で簡単にできることを忘れてい たのだ。 早速、彼女に<階調の反転>の意図を聞いたところ、「はじめからブルーの花びらを想 定して赤い花びらを選んだ」という。それなら本物だとぼくは了解した。 1990年、花の万博でのヒマラヤでしか見られないといった青いケシの花もこの手法 なら、誰にでもそんな写真ができる、ということになる。 切りバラ栽培園の岡野くんが、写真の上でそんな新種の花を見せてくれるのも悪くない。 ぼくは、その発展形として江戸時代の小袖や振袖を思い出した。博物館で絢爛豪華な実 物が見られるが、その文様の面白さは素材が生命を得たかのように律動し変化するモチー フの形態にある。こうした江戸時代の美術は、様々な分野の現代のデザイナーたちも今尚 脱帽する。 岡野くんが生花の世界を超えて、形に遊び色に酔う理屈抜きの楽しさを堪能する、そん な体験もものの見方の幅を広げることになるだろう。こうした新しい表現への姿勢は、西 浦君の講評で述べてあり、参考にされたい。 「ざくろ」については、被写体とバックを同色にする場合、赤の使用は原色では強すぎて 下品になりやすいので注意が必要だ。いわゆる真っ赤というのは、ブライトレッドだが日 の丸の赤はもう少し黄みがかった朱に近い色。この場合さらに黄みがあり、一応品よく無 難にまとめられている。 |
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この「夏暁」という題名は、夏の季語「なつあけ」からとったという。 大住くんの写真は、飄々として丹念に街角の造形を拾い歩く。ぼくは彼女の歩く姿を想 像している内に、川柳作家、時実新子の名作「心奪われ阿呆のような日が流れ」を思い出 し、彼女向きには「さめてとぼけて写真撮る」といった言葉が出てきた。 作品は、これだけの被写体での大作はむつかしい。気張らない小品だが、そのプリント はかなり荒っぽく、研ぎすまされた白黒だけの抽象表現にはまだ程遠い。 そんなことで、その昔のセピア、金調色プリントの現代版といったぼく流の勝手な表現 をやって見たのが調整した作例である。 モノクロをフォトショップでRGBカラーにし、後は厳しいトリミングとグラデーショ ン、殊に色の選択表現に神経を集中することだ。 ぼくは久しぶりに、現役時代に還ったような気分で熱中した。色を抑え色差を少なくし た3点一体のカラーバランスのうち、夏暁2の木陰と窓の色は、うんざりするほどの酷暑 の夏、これしかないという色彩の選択に相当の時間を要した。 ところで、大住くんの写真を借りてこんな例題に熱中したぼくの言いたいことは、他流 試合の現場でのことである。 ぼくは現役時代、多くの審査に立会ってきた。 大住くんの原画と3点一体の調色表現したものとの差をしっかり見つめてもらいたい。 数百・数千の写真が並ぶ審査会場では、今回の彼女の写真のままでは、その他大勢とと もに埋もれてしまうだろう。ここでは何らかの訴えるもの、内容があり、またスッキリと 印象のあるプリントが有利である。ぼくの体験では薄い色調ながら品位あるこの3点なら 他より際立ち、まず予選で着目されるだろう。 それが、入選候補として残るのは、旗色鮮明、メリハリのついた作品。更に平入選か特 選かの段階では、最終的な展示会場でも多くの目にたえるだけの仕上げ、風格のあるもの というのが一般だから手抜きは許されない。 このところ、ぼくが何度も繰り返すのは、そんな場に耐えるだけの、手っ取り早く言え ばメリハリのついたスマートな完成作をというだけのことである。
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祭りの撮影は、プロでも難しい。並みの身動きもかなわぬ桟敷席からでは余程の僥倖に 恵まれない限りお気に入りの写真は撮れない。被写体の動きが大きく、バックも整理され ている場所をえらぶことから始まり、レンズ選びにも腐心するのは、スポーツも同様だ。 桑島くんが提出した他の写真には、自からの場所選びの形跡が無い。そんな彼女が目を つけたのが夜のシーンで、ここではかなり選択の自由がある。 しかし、この「夜の飾り幕」は、撮影時の視点構成が曖昧で、トリミングも手荒い。 そこで、この一枚を最大限に何とか生かそうとしたのが(トリム・修正)写真である。 ここでは金色の表現がキーポイントになり、夜のタングステン照明ではまるでおもちゃの 金色に近い色彩になるが、これでは写真にならない。ぼくの修正ではもっと渋い重厚な青 金にしてある。(Part47「わが故郷」飾り幕、太鼓台 参照) 1900年代になって、平泉にある中尊寺を純金の箔で張替えたら、軽薄で見るに絶え ず、元の金箔を分析してみたら、やや不純物を交えた青金だとわかり、全部張り替えたら やっと落ちつき安堵したという漆の大家、松田権六氏の先人の智慧の話は有名だ。房も少 し色調を変えてある。 |
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幼い子育て中の家庭写真は、ほとんど何処かに子供があらわれる。ぼく自身を振り返っ ても、とても遅く48歳での子持ちは孫のように見られたが、日曜ごとに富士山一周、ち ょっと長く休みがとれると伊豆半島一周など車に子供を乗せて走りまわった。 そんな時の写真は、作品として使えそうなものはほとんどない。商売が写真だから、そ んな行楽の場で子供写真の作品をつくるなど、真っ平といった気分があった。 そんなぼくが月例となれば、「子供の未来のため、親から子供への唯一の記念として、 立派な写真を残してあげてください。」などというのは、どうも変な気分である。子供た ちには申し訳ないことをした。 「伏見稲荷A」は、ピンボケの子供たちが、双道に分かれた鳥居のどちらに行こうか迷 っているシーンのようで面白い。ぼくはこんな材料豊富な場所で,この後どんなドラマが 展開されたものか、そんな興味が尽きない。 「伏見稲荷B」は、月例を意識して撮った付録写真だろうか。作品とまでは行かずとも いい記念になるでしょう。とにかく、気楽にやってください。 |
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「Every Things----」は、当初、赤ん坊の顔ばかり追っかけていたものが、彼もやっと落 ち着きというか、体全体でしゃべる子供の表情に興味を持ち始めた最近作の中では、かな りのレベル作品といえよう。逆光でシャドウ部分がつぶれ、奥行きが出しにくい階調を相 当苦労して描出したところがみられる、それは正解である。 「楓華と私」は、かなり前から企画された演出であろう。こんなシーンも子供の右脳に 楽しかった父親との記憶として残るだろう。子どもの人格・性格は、育て方しだい。3歳 までは厳しいしつけが肝心という。甘さはほどほどにがんばってください。 |
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今回の「彼岸花」は、こうした条件下での花として、いずれも一応卒なく撮られており、 特に講評の必要はない。 しかし、これが特定の掲載物や写真展への応募作品としての批評をもとめられたとすれ ば、その基本形はすでに講座で述べつくしたことであり、その使用対象、応募目標などが 明確でなければ、更にその上を行く部分についてはぼくも答えにくい。 さて、吉野君、ここからはひとつ方角を変えて、単純かつ大胆、奇抜な造形を生み出す 意欲はあるだろうか。ぼくはよく自問自答するが、とても体がついてゆかず無念、残念だ。
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初めて登場したこの作者は、その昔の主観主義といわれた作風で、直裁につきすすむタ イプとみうけられる。ここに取り上げた写真も単純明快、力強い構成であるが、やや環境 の客観描写に欠ける点は注意したい。これは精神面でも重要で作品のスケールもひとまわ り大きくなる。 今回は、このタイプのモノクロ好きの人々が陥りやすいグラデーションの荒っぽさがみ られるので、まずその辺から話をすすめよう。 「手」の写真では、しんし針で張られた反物に筆書きする人物の顔や手のハイライトが強 すぎてすっ飛んでいて質感を損ない、「日溜り」の少女の顔、衣服のハイライトも同様であ る。その材質に従った微妙なハイライト表現は必須の条件である。 川崎君の提出作とぼくがちょっと手を加えた修正、調整したものを比較参考にされたい。 (ついでながら、「手」は国内ではこれで通用するが、外国では視覚言語としても意味 不明とみられる。アングルを変え絵を描く毛先も見せる国際性も考慮すること。 「日溜り」の手の切り方は不自然で、プロの世界では見かけない) ぼくも丹平クラブ入会時、写真を力強く見せたいばかりに、コントラストを上げすぎた プリントを提出してよく注意を受けた。散漫なハイライトは騒々しいとかうるさいとか、 時に雑音が多いなどと言われたこともあった。 モノクロ写真は、すべての色を黒と白のニュートラルな階調に置き換えた表現である。 「一切の無駄を切り捨て、研ぎすまされた白黒だけの抽象世界であるだけに、グラデーシ ョンの狂いは寸分も許されず、画面全体としてのバランスも大切だ。」ということである。 |
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「彼岸花と案山子」は題材として、ちょっと奇妙な風景だが、このままでは環境説明の 範囲といえよう。あと一工夫ほしいところである。 ぼくが、もしこの現場に立てばどうするだろうか。そんな思いで眺め始めたが、これが なかなか難しい。以下は、ぼくの白日夢のような独り言である。 主題はやはり風変わりな3人の案山子である。案山子の向こう側からも眺めて見よう。 でもよほど良い構成でなければ、バックが彼岸花という平凡なものになりかねない。 やはり、前景は彼岸花で、その向こうに「3人官女」ならぬ「3人案山子」といったこ んな環境ならではの素朴なとぼけた風景が良かろう。 技法としては、花と案山子のフォルムと大小バランスの絶妙なコンポジションを求めて、 その辺を右往左往することだろう。花はあくまで舞台の副材だ、前ボケにするか、いやフ ルピントの最小絞りでゆくべきが厳しい表現なら本筋だろうか、レンズの長短選択も大変 だろう。天候、時間帯はどうするか。これだけの材料で奇想天外を狙った作品は? 嶋尾君、いや塾生諸君ならどうするだろう? 「ブリッジ」は、この作者らしい手堅い作品である。しかし、このままの構成で気象状 況をみてのチャンスを狙っても余程の条件でなければ変わり映えしないのが一般であろう。 ぼくは出身が土木工学科だったこともあり、橋梁美学を学んだことから、ぐっと近づき 意外なアングルから見た鉄骨が織り成す構造バランスの妙、それは徹底すれば非常にシュ ールな表現にもなり、気象条件によっては恐ろしいような迫力を見せることもあるだろう。 そんな作品を見せてもらいたいと願う。 |
「モンゴル紀行」 横山健
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