☆ ワンポイントレッスン (38) ☆ 月例会先生評(2007年8月) < イメージング >
ぼくは、写真学生や塾生諸君と話す時、よく「理論だけでは先へ進めない。イメージが 浮かんでこそ構想は拡がるのだ。」といってきた。 これは、漢字の<聴くと聞く>や<観ると見る>の違いを考えるとわかりやすい。 ぼくは電話で写真の話をするときなど、相手が<聴く>という姿勢(聴くはその気にな って聴くこと)、つまりお互いがその内容を頭にイメージしながら話し合えると話はどん どん進むが、ただ右から左への<聞く>だけでは馬耳東風、キーポイントへは容易に届か ず、相手は石の地蔵さまのようでやりきれない。 <観ると見る>の違いは、写真家の資質が問われる現場での必須条件である。観るは大 自然をはじめ万物を心で観ること(体全体で感じること)、故事来歴、文明だけでなく文 化に反応する姿勢である。 殊にイメージの浮かぶ頭のスクリーンは、常に訓練して鋭敏にしておかねばならない。 今回は、そんなことを提出された作品上で、具体的な講評がどこまでできるものか。 |
< 8月度例会講評 >
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この作者は、短歌を相当の余技としているので、ほとんどフィーリングだけで写真を撮 るせいか、まだ写真独自のフォトジェニックな表現では手探りの状況にある。 この写真は、空と海面の特有な照りがほとんど表現されていない代表的な例といえるの で、そんなところを中心に、ぼくのやり方による階調の表現手法を述べてみたい。 原画は、空の部分の調子が出るまで充分焼きこ込むと水面は数倍の暗さになり、この時 間帯の海とはかけ離れてしまう。当然、空だけ焼き込むことになるが、一度に修正画面ま での調子を作ろうとすると、ほとんどが不自然な階調になる。 そこで、原画の明かるさのままでハイライト部分だけを焼き込んだ充分階調はあるがフ ラットな空を作り、その後、空全体を焼き込みコントラストを上げると修正写真のような 変化ある空になる。 この時、水平線近くは目線が一番行く所だから精密さを忘れないように。 「海面の照り」というのは、自然の海をよく見つめれば判ることだが、雲と空の明暗が 海面に投影され反射する微妙な輝きのことである。修正作品は、雲と海面の色変化もコン トロールされた表現としたので、この平凡な海景が原画より新鮮に見えるであろう。 |
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この写真の原画を、ぼくは事前に見ていた。その時作者は、「これからは、きっちりト リミングしてからでなければ提出しない」という。その時、ぼくは多少の整理も必要だろ うと話した。 そこで、この提出作を見た瞬間、これではトリミングのやり過ぎの作例にしか見えず、 早速、ぼくが修正例としたのがこの作品である。 岡野くんのトリミングは、厳しくいえばズーム・アップしたパターンに過ぎず、石周辺 の草の色、明暗も単純化されて変化に乏しい。 修正例とした「庭(修正)」は、傾いた不安定なバランスを水平にし、この場の必要部 分を出来る限り多く取り入れ、上下の草の色のちがいも生かし上部の狭雑物を整理した。 これで雰囲気を伴った作品になった。 こうした現場での石の幅が平行を欠くとき、全体として水平に見えるようなトリミング には、慎重さが要求される点に留意すること。 |
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「夕照」は、夕景に照り輝く被写体と空の表情も合致して、この作者らしい一応の出来で ある。彼としてはこれを越える作品が課題であるが、そのヒントはぼくにもむつかしい。 自問自答、精進するしかない。 「路地裏の石段 B」は類似の連作があったがいずれもやや散漫でアンバランス。Aは同 一場所のバリエーションでノーマルなバランス。 Bのややひねくれたような画面の面白さを表現するには、向かって右壁の幅をもっと広 くとり、その明暗のコントロールも必要であろう。複雑な階段を構成するこうした被写体 は、シャープなアンバランスなバランス感覚が必要である。 作者は、ハッセルブラッドを使っているが、こうした混み合った場所では、レンズのイ メージ・サークルの大きいスーパーワイドの方が使いやすい。 アフリが使えないカメラでは、当初から画面の半分くらいは切り捨てるくらいのアング ル調整での撮影をし、後でトリミングすることが多くなるからだ。 いずれにしても三脚を使用し、全面シャープな表現を必要とする情景である。 |
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このシリーズは5枚組の組写真で構成されているが、テーマが見えてこない。 この狛犬の写真は、バックにかなり強いシルエットの樹木があるが、それと犬の顔だけの 構成では唐突で、その意図がわかりにくい。 この場合は、台座に乗った狛犬の足元までフレームに入れて構成すべきであろう。さら に春夏秋冬、天候、時間帯などによるイメージの変化を想定する余裕もほしいところであ る。そして、それぞれの条件に応じた表現を最大限に生かす効果的なポジションに、自分 の体を移動して、レンズの長短、フレームを選ぶべきである。 (ぼくは、この愛嬌ある狛犬を眺めている内に、雪の降りしきる中で撮りたくなった) 当今は、かなりいい加減なポジションに立ち、ズームで図柄を探すカメラマンが多いが それでは本末転倒である。
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この「道」の原画には、作者が春もたけなわ、霞たなびく風景を情緒いっぱいのハイキ ーな表現をしたいといった意図がハッキリと見て取れる。しかし、このままのピンボケ状 態では力が無さ過ぎて訴求力がない。 まず、こうした情景写真のピントは、芯がありながらフレアーのあるシャープネスさが 要求される。そのためには、絞り加減とデュートの利き具合を確認しながらの撮影が、技 術的なポイントになる。 また、原画は構成要素に挟雑物がありすぎるので、ぼくは橋の半分から右をカットした 方がよかろうと提言したことから、再度提出されたのが「道(トリム)」である。 ハイキー写真の引き伸ばしプリントや印刷時の常識として、原画のままでは調子が飛ん でしまう恐れがあり、目的の画像よりやや濃度を上げたものを原画として用意することか ら、ぼくが調整してみたのが「道(修正)」である。これを製版用として、希望のトーン へコントロールすることで格調のある作品になるだろう。 |
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今回の提出作に、ここで取り上げ講評するものが見当たらず、再度提出されたのがこの 写真である。 作者の話では、「醜の美学に関連して私が気になっている作品。トドマツが立ち枯れて 墓標のように突っ立っている北海道の野付半島の風景で、荒涼とした森の墓場のようで、 消えてゆく終末の美のようなものを感じた」という。 ぼくの感じた率直な第一印象は、「作者がこの現場を通過しながらのスナップ、メモリ ーで終わり、なぜこれだけの素材を見ながら現場に立ち入らなかったのだろう」というこ とだった。 また、「前景にある正体不明の部分は全く不要で、これが親子連れのキタキツネなら、 すばらしい北国の作品になったろう」といったぼくなりのイメージが残った。 もし、作者がこの現場に飛び込んでいれば、白骨のような林とその前に折り重なる厳し いフォルムの風倒木との有機的な構成で、相当のドラマある作品が生まれただろう。 ぼくは北海道の地方を知らず、富良野あたりの絵葉書のような作品の記憶が多く、その 対極にある北海道の原風景として、この場での撮影に熱中しただろう。 吉野君としても、ここはまたチャンスを見てトライする価値のある被写体であろう。 |
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これは、ぼくが写真講座Part44、45で解説した花火のキネティック・バージョ ンに近い表現である。 作者が最初提出した「ワイングラス」は、カット写真程度にはきれいだが、作品とする にはパンチ不足で、「他に何かないだろうか」というぼくの注文に応じて送られてきた写 真の中に、この「昇華(原画)」を見つけた。 この原画は骨格、構成に力があり、このままでも充分使える作品だが、更に次へのステ ップのヒントを示唆するつもりで、ぼく流の表現手法を加えた2点を掲載した。 「昇華(バリエーション1)」は、花火という色光が化学染料に似たやや軽い色彩にな り易いことから、もっと渋い風合い、色転換での表現を試みたものである。 ぼくはこんな草木染のような色光も好きだ。現代の花火を材料にしているが、1000 年をさかのぼつて平安時代の色感を楽しむのも悪くない。 「昇華(バリエーション2)」は、下部にグラデーションを加えて、ちょっとした空間 奥行きをつくり出し、補色は黄金色を思わせる日本調といったバリエーションである。こ の黄色は彩度を落とし、金泥の表現をイメージしたつもりである。 いづれも、フォト・ショップによる色相、彩度、コントラスト、明暗の微妙なコントロ ールで、比較的短時間でできる。本格的には、ぼくの場合マスキングのほうが厳しいコン トロールができるが、現在は暗室が無いので、今は不可能だ。 色感の微妙な判断は、多分長年の勘で大丈夫だろうが、まだ自信がもてない向きには、 色彩のレシピなど参考に、日頃から自分なりの確かな色感の練習が肝心と思う。 |
「モンゴル紀行」 横山健
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