<玉井瑞夫繧繝彩色塾>
☆ ワンポイントレッスン (37) ☆
月例会先生評(2007年5月)
< 持ち味を生かす >
人さまざま、十人十色という。顔、性格、才能、誰ひとり同じという人はいない。そし
て、「人は生まれながらにして、それぞれの天分というものを与えられている。」とぼく
は思ってきた。
そんな自分の天分、持ち味をお互いどれだけ自覚しているだろうか。与えられた持ち味
が異なるということは、その持ち味を生かした仕事をし、生きることによって本当の仕事
やり甲斐、生き甲斐を味わうことになる。
この自分を生かしたいという自覚が強固なほど、知らず知らずその人なりの独自の天分
とも見られる変身をし、それが創作につながるのだろう。
(ぼく自身については、人一倍好奇心が強かったというだけで、自覚不足からその運用に
も知恵が足らず、予想外な体の不自由から自分の生涯をまとめきれずに終わりそうだと
いったことである。諸兄にはくれぐれ、ぼくのような轍を踏まぬよう注意されたい。)
のっけから判りきったことを述べたのは恐縮だが、この塾も始めてからもう6年になる。
あとどれだけ続けられるかという思いもあって、今回は、「それぞれの持ち味を生かす」
そんなことを中心に話を進めたいと考えた。
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< 5月度例会講評 >
狐の面をつけた花嫁衣裳の女性は、三重県四日市に古くから伝わる節分の日の祭礼で、
神社への行列で撮ったという。女の子は京都のおいらん道中でのスナップとか。
日頃から童話、劇画風モンタージュを志す作者としては、格好の材料であったろう。
バックは早春の萌黄色の若葉をアクセントとした木立である。
最初に提出された原画を見て、一瞬ぼくが感じたことは、色彩は悪くないが舞台演出
家がいないということだった。これは一般の撮影にも共通することだが、<写真家は演
出家でもなければならぬ>ということである。
この場合、もっともシンプルに言えば、左端の木に重なった女の子や右上のキツネの
面は、不要というよりアンバランス、不協和音である。
そんなことから、その辺を考慮して不要物のカット、その他を調整して再掲出を促し
たたのが、このすっきりした「狐の嫁入り」である。
「狐の嫁入り」といえば、黒澤明の映画、カラーの「夢」の第一話「日照り雨」を思
い出した。7人の侍ほか殆どの作品はぼくは好きだが、あのカラー作品だけはテーマ性
がなく独りよがりでいただけない。ぼくは黒澤明監督を尊敬しているが、作品について
はケジメをつける。でなければ自分を失うことになる。
モンタージュでは、「独りよがり」になりやすく、夢忘るべからず。
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「花びらと球(ブルー)」 岡野ゆき
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「花びらと球(ピンク)」 岡野ゆき
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「青い球」 岡野ゆき
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当初の提出作「青い球」は、意図不明、技術的にも球の美しさの表現に程遠い。
ダイヤはじめ宝石を専門に撮ってきたぼくとしては、写真学生の入門時の失敗作を飽きる
ほど見てきたので初回はやむなしとして、作品は理屈では撮れず、イメージアップの大切
さを同質の材料同士、異質の組み合わせなどコラボレーションのイメージの熟成の話を具
体的に延々と作者に伝え、少々の資料も送った。
その後当分ダメだろうと思っていたが、再撮をみると意外と早く理解され「花びらと球
(ピンク)」は試作としては悪くない。ただ、このままではパンチがないので、青系統の
色相を加えた試みをさせたのが「花びらと球(ブルー)」で、メリハリがついてきた。こ
れを撮影時に行うには、ピンスポット・ライトなど必要で、その購入も考え始めたようだ。
まず第一回は、これでよいが、球の位置、コラボレーションとしての演出力、イメージ
アップなど、これからの課題である。
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前回、非常に中途半端な過程を見せながら終わったが、今回は作品提出前から試作の数々
を見せており、そんなバリエーションの中で、ぼくは「浮遊(原画)」を選んだ。
理由は、これまでのギクシャクしたものから自然な流れのフォルムに魅力があり、そのプ
ロセスの中で粒状性のグラデーションを見出したからであった。
だだ、色彩の変化に乏しく、色彩と粒状の色相の変化を薦めたのが、出品作「浮遊」にな
った。ぼくはアナログのマスキングによる場合、色相の変化で立体感や遠近感を高め、明確
な粒子の追加、バリエーションで強さを演出した。PC上でのフォトショップでは満足できな
いが色相、輝度の変化でのシュミレーションは非常に便利に思う。
西浦流のこうした技法はスタート台に上がったばかり、これからが本番だろう。
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「タイヤのある風景」 桑島はづき
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「タイヤのある風景(提出原画)」
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この写真は、短歌が得意で、ついフィーリングだけでシャッターを押してしまう桑島君
が、合わせて写真的特性を生かし、造型を始めたらしい第一歩になるかもしれない。
ただ、この提出原画はグラデーションが荒っぽく、プロ級にも調整に手のかかる写真で
ある。それが目立つのは、海空の部分に集中し、海のハイライトはすっ飛んでテッシュペ
ーパーの白と変わりない。やはり海のハイライトは水の水平線、波の飛沫をおもわせ、空
は大気があることを見捨ててはならない。また、左端上部の水と山の曖昧さは、この道を
思わせる砂浜の消失点として見つめられる部分であるだけに神経の行きとどいた配慮が必
要なところである。
ぼくが上記のような厳しい調整を指示したのは、PC上ではそれほどのテクニックを知ら
なくても通用するが、これが全紙くらいに引き伸ばされると到底もたないことを知っても
らいたいからである。
この作者はそれらの調整を生真面目に実行し、なんとか仕上げることができた。このこ
とは写真の基本的な特性を理解し、必ず表現力をプラスすることになるだろう。
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「すずめ A(提出写真)」
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「すずめ B(原画)」
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「すずめ C(修正)」 大住恭仁子
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この「すずめ」の提出写真Aを見たとき、ぼくは平衡バランスの狂いを感じ、頭を右に
首が痛くなるほど傾げてみたものだ。どうにも不安定、宙に浮いたような、こんな不自
然なトリミングがあるわけがない。
そこで原画Bを見せてもらい、ぼくが感じた不思議なトリミング、平衡バランスの狂
いをなくし、足先にも余裕をとり、足首は必要最小限度でトリミングしたのが、「すず
め(修正)」である。
はじめの提出作Aとこの原画から正確なトリミングをした作品Cを並べてどこが違うか、
じっくり検討されたい。
修正例では、床タイルの斜線方向にシャープな安定感があり、すずめがこちらを見つ
めているような緊迫感が生まれているだろう。 こうしたトリミング例は、カメラアン
グルの開放・自由という中で、重要な問題を含んでおり、アンバランスに見えてもアン
バランスのバランスといった平衡感覚もあり、学生間でのシビアーな討論では色彩音痴、
バランス音痴などとお互いにやりあう者もあった、要注意である。
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この提出作は、塾生間の感想で共通した話題があった。つまり、場所はおもしろいが,
この点景人物に問題があり、ことに右側のファッションはどうかという疑問、提言である。
ぼくも同感なので、作者にこの場所で他にどんなものを撮っているかを聞いたら、送ら
れてきたのが点景のないこの「さがの路」だった。
ここでぼくが思い出したのが土門拳のスナップ術の名言だった。<いい場所を見つけた
ら良い点景人物が来るまで待ち、良い人物を見かけたら見え隠れについて歩き、いい場所
でシャッターを切ればよい>という。
この作者はキャリアーがあるので、この近辺でかなり確かなこうした竹林も撮っていた。
風景としてのチャンス待ちなら、春・夏・秋・冬、雪の日から嵐の夜明けもあるだろう。
ここでは、諸君ならどんな点景がイメージされるだろうか、造形では理屈でなくイメー
ジが浮かばなければ、思考は進まない。その発展がなければ創作意欲もふくらまない。
ぼくはそんな材料として、この作品を掲載した。
こんなバック(舞台)では、登場する主役とアイディア次第でモダーンにもクラシック
にもなる。さらにレンズの選び方では、メタモルフォーゼ(変身)してカリカチュアにな
ることもあろう。
ぼくは犬を飼っていたからか、生後40日くらいヨチヨチ歩きの仔犬を連れた母犬の親
子連れのシーンが浮かび、ついで広角短焦点レンズでぐっと近づき、戸外でのちょっと変
わったバックでの親子のポートレート風の写真など浮かんだ。ついで、そこまでのアップ
なら猫好きが茶色のドラ猫を撮れば虎に見えるかな、など余分なことまで考えた。
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「相撲 (修正)C」 藤本茂樹
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「相撲 (提出作)A」
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「相撲 (原画)B」
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この相撲は、観客席からならではの写真。カメラ・ポジションも思うにまかせず、なか
なかすっきりした写真にならないが、プロなら撮らない面白さの片鱗がある。後一歩踏み
込めば、カリカチュア・ライズされた作品も生まれるだろう。
ところで「相撲(提出作)」Aは、実に窮屈なトリミングで、(原画)Bを見てその原
因がわかった。作者は水平にこだわった結果が、転がった力士の足まで大根のように切っ
てしまった。 この足先を切り、すべてを平行にしてしたい神経は判らぬでもないが、肝
心の主役はだいなしである。
「相撲(修正)C」は傾斜が目立つ台座を最小限まで切り詰め、トーンを落としてある。
ついで乱雑な画面の雑音と思われる部分も目立たぬようすこし押さえた修正をしてある。
これらは原画の足先を切らぬため、原画を没にしないためのやむを得ない調整で、これく
らいの画面傾斜は問題ない。風景写真などで覆い焼き、焼きこみなどと同様に考えてよい。
調整的処理は、部分にこだわらず、画面全体のバランス感覚を最重視して行うこと。
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「木登り」 成瀬幸恵
「家族」 上田寛
< 家族写真について >
家族や身内の写真の撮り方は本当にむつかしい。赤ん坊からご老体まで遠い親戚までよ
く知った被写体、気兼ねの要らない撮影なのに、ぼくのアルバムにはお気に入りの写真は
ほとんどない。
手軽な日常スナップから、ちょっと責任を感じる誕生祝い、結婚式、記念パーテイまで
何とか記録写真が残った程度で、第三者の感動を誘うような作品など皆無に近い。
さて、本題に帰えろう。「木登り」は、坊やの大冒険といった感じ、巨木に上がってご
満悦。将来この子のアルバムでは必ず衆目される写真として残るだろう。
「家族」は、これまた工夫を凝らしたアィディアによる労作である。よく寝付いた赤ち
ゃんの左手にそろえたお母さんと自分の手も同じポーズにしての撮影が目に浮かぶ。
ぼくは、こんな良い写真を本当にご苦労さんと思いながらも、批評、講評となると、相
当厳しい言葉がどんどんでてくる。つまり、とたんに世界の目になってしまうのだ。
例えば、子供の写真でも「内側から可愛いだけを狙うのではなく、一歩はなれた冷静な
目、社会の目になつた視点からでなければ、世界に通用する作品にはならない。ウイン・
バロックの<森の道を歩く子供>は、子供自身は本当に小さく写っているが、あの大きな
森との対比から、世界の緑を守ろうというポスターにもなった子供写真の傑作だ。」
「可愛いわが子に残してやる写真に一枚くらいはそんな作品を」などと相変わらずぼく
は云う。日頃、国会図書館の研究室へ通い何とか原稿を書こうとするぼくには、世界のそ
んな作品ばかりが目に付くのだ。論旨は間違ってないのだが、皆さんどうだろう。
(Part 14 <わが家のアルバム考>。Part 13「ストロンチューム90」。Part 23「森の道
を歩く子供」など参照)
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◆ 「モンゴル紀行」 横山健 ◆
前回につづいてのモンゴルの馬だが、これらがまとまってくると、当然組み写真として
のコメントを必要とするので、コピーの要点もあわせてアドバイスしてきた。
今回のコメントは、かなり要領を得た内容であり、ちょっとした組写真のサンプルとし
て、彼の原文をそのまま添えて掲載した。
「ジョロー馬」というのは、前後の足を同時に動かして走る馬のことでモンゴルでは一
財産だという説明も良くわかり、「スタリオン(種馬)と雌馬」のシーンも見ごたえがあ
り、これは相当な佳作といえよう。
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「モンゴルの朝」
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遊牧民の朝は、馬を集めることから
始まる。馬乳を絞るためと、その日乗
る馬を捕まえるためだ。
太陽が昇ると、草原のどこかにいる
自分の馬の群れを探しにゲル(テント
式住居)を出る。
勘が良いのか目が効くのか。これだ
け広い草原で自分の馬の群れをちゃん
と見つけてくるのには感心してしまう。
馬を捕まえる時はウールガという道
具を使う。長い柳の棹の先に革紐の輪
がついている。
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左右それぞれの前後の足を同時に動
かす走り方をモンゴル語でジョローと
いう。
モンゴル人はジョロー馬をとても大
事にしている。
売れば普通の馬の6倍ほどの値がつ
くから一財産だ。
持っている家畜が冬の大寒波で全滅
してしまった遊牧民が一頭だけ残った
ジョロー馬を売り、それを元に立て直
した、という話があるくらい。
ジョローで走ると上下の揺れが少な
いので乗り心地がとても良い。モンゴ
ル帝国の時代には貴族が乗る馬だった
というのもうなずける。
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「ジョロー馬」
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「スタリオンと雌馬」
馬は群れを作る習性がある。モンゴルの放牧はその習性を利用している。
その群れを率いるリーダーがスタリオン(種馬)だ。
スタリオンは群れを率いるリーダーだ。一つの群れに一頭。それ以外のオ
スは去勢されてしまう。
モンゴルの遊牧民はどうやってスタリオンを選んでいるのだろう?
サラブレッドは走ることだけを考えればいい。
モンゴルのスタリオンは、厳しい自然や肉食獣から群れを守らなければな
らない。
だから遊牧民は走りと血統と容姿の他に、繁殖能力、寒さに対する強さ、
嗅覚を重視する。
一頭のスタリオンに10〜20頭の雌馬。大したものだ
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