<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (36) ☆          月例会先生評(2007年2月)                < 明日への予兆 >                 

  ぼくは、Part51「病床日記あれこれ」の裏話で、「外気から隔離されたような日々
の病室では、これからの講座の構想など浮かびようがない」と書いたが、ひとつだけ思うと
ころがあった。
    
 それは、「ぼくは、写真ではきのうの専門家だったかもしれないが、あすの専門家である
かどうかはわからない。」というこである。
 もう10年以上も前に第一線を引き、過去の体験と歴史的事実を頼りに、明日への予兆を
見ようとするならば、前にも述べたことのあるフランスの象徴詩人ポウル・ヴァレリィが言
った「人間は後ろ向きに歩く動物である。」という言葉が思い浮かぶ。
     
 人びとが行う行為は、すべてが未来のためになされる。だが、見ることができるのは過去
だけで、未来は見ることはできない。人間は未来へむけて歩いているが、その顔は過去を向
き、人類は過去の経験から未来を予測する、後向きに歩く動物なのだ。たとえ一寸先が闇だ
としても、そう信じて生きてきた。しかし、過去の経験がもはや役立たなくなったとしたら
どうしたらよいのか。(トータルメディア・予兆誌より)
     
   
 そんなことから、今回から、ぼくは少し例会のあり方を変えてみることにした。
 つまり、2001年6月から始まった月例会は、2003年から隔月会になり、更に20
05年からは、ぼくの体力、身体的条件の変化から、年4回の四季の例会になった。
 そんな状況から、双方ともに熱意があっても、つい間延びした例会になる恐れがあり、各
人の3ケ月後の中期目標ともいえるテーマを示唆する内容の講評をとぼくは考えた。
     
 具体的には、これまでは提出された写真を締め切り日から2、3日以内に拝見し、1週間
後の塾生による互選投票日までの間に、彼らがメールで交わされる撮影の趣旨や感想などに
もぼくも目を通したが、ほとんどあれこれ推量をしながらのコメントを書いてきた。
     
 しかし、今回からは講評を書きはじめる前にぼくが取り上げる写真について、提出後10
日以内に塾生各位と話し合い、それらがごく短期で再撮や修正改良可能なものなら、それら
も提出原画とあわせて掲載することにした。
    
 つまり、昔の例会は印画だったが、PC上での例会は、スキャナーを仲介とするので、デ
ジタル、Photo Shopなど超短期間の加工処理で、さらにレベル・アップした予想
図ともいえる写真がみられるからだ。
    
                                       
  もちろん、そんな短期間で完成作品が生まれることはめったにないだろうが、その写真の
先行きを暗示するもの、予兆が見られる例会は珍しく、この講座に興味を持っておられる方
にも、何らかの参考になるのではとぼくは思う。もちろん、それが筋の通ったものなら、塾
生にとっては3ケ月後の例会への指針になるだろう。
     
 ところで、ぼくの講評は、互選の結果には全くとらわれない。写真誌や各種コンテストが
上位順を意識した評が多い中で、ぼくの場合は作者の未来を重視し、問題を提起する写真、
個性ある写真、本人が気づかないが素質の片鱗を見せる写真などを取り上げ講評をすること
には変わりない。(今回は作者の時間の都合で、ぼくが手を入れたものも掲載する)

                 < 2月度例会講評 >            

「2歳馬の調教」   横山健

「モンゴルの馬」   横山健

 モンゴルの悠久の時を刻むような果てしない地平線をバックにした、この素朴な馬の表情
は第三者にも感動を呼ぶ。  (馬の毛並みは、もう少し明確にしたほうがよい)
   
 このシンプルで重厚な一枚の写真は、この写真展を開く時があればポスターに使える象徴
的な作品として選ばれるであろう。「2歳馬の調教」は、やんちゃな暴れようがこの荒々し
い環境での日常生活をかいま見るようだ。
     
 ぼくは入院中に横山君が持参したこれら200点以上の写真を2時間以上も眺めていたが
彼がかなり勘どころを心得てきたことを確認した。
   
 これからが本番である。モンゴルの文化史をひもとけば、歴史的なモンゴル馬と新しい世
代のモンゴルの環境とのリアルタイムの変化が浮かび上がるような表現が捉えられるかどう
か。ぼくはそんな期待をしながら待っている。
(次に、モンゴルを訪れたときは、必ず現地の博物館・美術館も訪ねるとよい)

               

「牛」

「牛(修正)」  岡野ゆき

 この「牛」は、緩やかに傾斜したバックの緑とフォルムが美しく、その接点の真ん中、真
正面に置かれた牛の単純、明快な構成に妙がある。 (阿蘇・草千里にて撮影)
   
 しかし、よく見ると上部の雲に焼きこみの失敗がみられた。(ぼくは雲の薄汚れ、バラン
スに不審を感じて作者に糾したところ、案の定ということだった)とにかく画面下部1/3
にがっちりまとめられた主材のスケールをさらに伸び伸びと拡大する上部の白雲をおろそか
にしては、この作品は成り立たない。
                                 
 「牛(修正)」は、そんな適例として作者が原画に復元し、少し調整したものである。
 風景写真ではほとんど習慣的に上部を焼きこむようになったのは、浮世絵にも遠因がある
と思われるが、この白雲の在り方には中ほどのZ形の雲を中心として音楽のようなリズムが
あり、それを積極的に生かすのは当然のことである。
     
 この写真は、作者にとって一里塚として残る作品となるだろう。整然とした牛、遠くの雲
とちょっと間をおいた上部2/3の雲との対比も絶妙で、それらが決定的瞬間だったことを
作者は現場で認識していただろうか。そうなれば一人前だが。

                 

「笑顔」 上田寛         

    

「鉢植え(原画)」

「鉢植え(習作)」  上田寛

   

「笑顔」
   
 ぼくは、「このハイキーな笑顔の写真は、この子が盛装して臨む結婚式に父親からプレゼ
ントとして贈られるアルバムでは、トップ・ページを飾るにふさわしい作品になるだろう」
などと考えながら眺めていた。それは写真誌の編集や広告写真をやってきたせいだろう。
     
 そんなことから、更に進んでこれだけ良く出来たハイキーながら、塾生諸君の感想の中で
これがフラット(平板)に感じるという人があり、それがたまたまハイキーのキーポイント
を突いた評であることから、さらにその原因を指摘しておきたい。
    
 ハイキー写真は、ディープ・シャドウからハイエストまでのフルトーンからディープ・シ
ャドウを切り捨て、面積的にもシャドーを少なくしたグラデーションで構成する。
 当然、コントラストが少なくなるわけだから、赤ちゃんの目鼻立ちも幅狭いグラデーショ
ンの中で正確なトーンの分離をしなければならない。ここで、よく赤ちゃんの顔をみると明
るいハーフトーンだけで目鼻立ちの明暗・段階が少ないことがわかるだろう。もしここに正
確なトーンの分離があれば、もっと立体的で生き生きとした印象になるのだ。
     
 この分離の悪さは、更にデリケートなライティングの必要性を示すものだが、デジタルの
カラー写真をモノクロに転換した部分もあるかもしれない。 
(PC上でのキャビネ・サイズ程度ではその力不足は気づかない人が多いが、展覧会などで
 半切、全紙にすると、このままでは到底貧弱でもたない。)
     
 はじめからモノクロ・フィルムで撮影し、適切な現像処理をしたものは、銀塩プリントに
すると、もっと緻密な質感表現をするというプロは多い。それはまた銀塩写真の銀粒子のマ
チエールの深さとすべてをモノトーンに表現する抽象性が示す独自の魅力でもある。カラー
写真から入門した若い世代の写真家にも、モノクロ信奉者がかなりあるのもうなずける。
    
 上田君はデジタル・カメラによるモノクロ転換時の欠点に気づきそれをなくするよう研究
中らしく、その答えが出れば知りたいものだ。
   
   
「鉢植え」
    
 この「鉢植え(原画)」について、ぼくは上田君からソラリのバリエーションの相談を受け
たとき、以下のような回答をした。
                                  
「原画を見てこの植物のスケール、フォルムからみて努力のわりに効果が上がりにくいケース
とぼくは判断した。そこで今回は窓は原画カラーのまま使用し、壁は提出作の表現をレベルア
ップしたものとした方が良い。但し、やや古びた打ちぱなしコンクリート壁のモノクロの味わ
いを美しく見せるのは相当ムツカシイが、やってみるだけの価値は充分ある」と。
   
 その試みとして、彼が新たに制作したものが、この「鉢植え(習作)」である。
ここではコンクリート壁のみをモノトーンとし、他はカラー原画という構成がオーソドックス
に近い表現ながら、落ち着いた作品としての良さを示している。

                    

「ファンの方々(原画)」 大住恭仁子

「ファンの方々(参考)」
     

 この題名は、一枚の写真としてはちょっと変わっている。通常ならこの画面のどこかに主催
者らしい人影やポスターなど環境をあわせて示すものだが、そんな物は一切ない。でも、中央
の貫禄ある2人に加えて、女性だけのペアーが5組という構成が風刺めいた題名を支えている
のだろう。
    
 ところで、この写真には空気が写っていない。モノクロで育ったぼくたちでも、こんなライ
ティングでの写真は、プリントが非常に難しく手を焼く代表的な例である。
    
 そこで、暗室でなら手馴れたことだが、ぼくにとっては不慣れなPhoto Shopで、
原画に手を加えてみたのが参考写真である。この原画の窓外のハイライトと室内のはハイライ
トは素っ飛んで、全くだだの真っ白け、殺風景なコントラストがあるだけという状況を、窓外
の部分は少し焼き込み、室内の明暗もややソフトになるようコントロールしてある。
    
 この微妙なグラデーションが空気を感じさせ、雰囲気をもたらすことになる。この方が原画
の硬調な調子より「ファンの方々」の雰囲気が感ぜられるのではなかろうか。 

                  

「送電線(参考)」

「送電線(原画)」  桑島はづき

 つい先ほどまでは、何でもない夕刻の風景が、ピンクの二すじの雲が現われ、こんなに静か
で戸惑うよな夕映えに、作者は惹かれたのであろう。
   
 しかし、何かが不足しているのだ。短歌が得意な彼女にはパソコン上での大キャビネ・サイ
ズの映像でのフィーリングだけで事足りるのかもしれないが、ぼくには造型としての視覚的要
素に不満が残る。
    
 そこで、全紙大の印画紙にプリントした場合にももつだけの発展的予想図を、PhotoS
hopを使いながら多少の無理を承知の上で、原画に手を加えてみたのが「送電線(参考)」
である。ピンクの雲は三条に分けて強調し、地上の雪もボリュームを増した表現にしてある。
                                      
 でも桑島君の場合、こうしたテクニックだけでは間に合わない。ぼくは短歌のことはよくわ 
からないが、例えば短歌でも目の前でクローズ・アップで接していても判りにくい相手の気持
ちも、もう少し冷静に視点を引いてフルサイズで、つまり客観的に見れば、よくわかることも
あるだろう。
      
 風景も同じで、そんなゆとりがあればこの風景の構成も変わり、ダイナミックな写真ができ 
るのではなかろうか。(他の塾生諸君にも同様のことが告げたくて敢えて例題とした)

       

「霧かかる(修正)」 嶋尾繁則

「霧かかる」

    

 如何にもこの作者らしい風景写真である。奈良の奥山、大台ケ原で撮ったという。
こんな風景は、PC上の小サイズではぼんやりと弱く見えるので、少しコントラストを上げ、
めりはりをつけたものが「霧かかる(修正)」である。
  
 ぼくは、彼らしいレベルのこんな風景写真を見ながら、何時も脳裏に浮かぶのが日本画家の
作品の数々である。
 例えば、この写真に近いものでは東山魁夷の絶妙な霧・靄のグラデーションのある山あいの
風景など、その他の画家に及べば枚挙に暇がない。でも、絵描きは自分の思い通りに取捨選択
できるのだから、別に恐れ入ることはない。といって、写真家も似たような写真ばかりでは退
屈だ。
       
 そんなことで、弟子をはじめこの塾でも彼にも「崖から飛び降りる気で、変身しては」など
と勝手なことを言いながら、自分を振り返るとぼくも似たり寄ったりである。
   
 結局、何とかそれらしい写真といえば、もって生まれた性格からか、やや前衛派・抽象めい
た作品で、キッカケは偶然か勘違いか棚からぼた餅程度のものも多い。
 しかし、偶然に見えるが、必然性があった場合もある。必然は偶然を契機として表れ、生ま
れることもあるのだ。
     
 ところで、登山とマラソンが苦手なぼくは日本画調の高山風景はただただ感心するばかり。
実行動では平らなところで、自然を自然に体で受け止める方が好みである。かって、ドイツで
さまよった森は深かった。そんな森の大きな樹の下に行くと、不思議なエネルギーのシャワー
を感じたものだ。きっと目に見えない力をもらったのだろう。そんな写真も時折は見せてもら
いたい。
 

               

「神楽」

「神楽(修正)」 藤本茂樹

 神楽3点が提出されていたが、これが一番印象に残った。
    
 塾生の評に「耳を真っ赤にして真剣なまなざしが印象的」というのがあったが、まさにその通
り。だが背景がチラッと見えればという注文もあった。画面があまり暗すぎて、頭部がよくわか
らないので、PCで画像を明るくしてみると、黒い烏帽子をかぶっていることがわかった。修正
に手はかかるだろうが、この少年にとっては生涯の晴れ姿、せめてこれくらいは見せてあげて欲
しい「神楽(修正)」というのがぼくの希望であつた。
    
 作者に聞くと、囃子の座は端にあり、しかも照明は舞台中心部を印象づけるため、このあたり
のバックは真っ暗だという。3点いずれも照明、カメラ・ポジションともにむつかしい条件が揃
っており、地方の伝統芸能の記録を残したいという作者に、こんなきびしい条件での体験がない
ぼくには、適切なアドバイスができず残念だ。

      

「掌の中の貝(習作)」

「掌の中の貝」  西浦正洋

       
 スキャナーによる写真提出は3度目になる。前回、新しい技法はそれが一応のかたちをなすま
で相当の努力が必要だとぼくの体験からの予想を述べたが、このところ彼は超多忙らしく、今回
の写真はモンタージュを加えたテスト版といったところである。
     
 休日にもかかわらず、仕事先から電話してきた彼へのぼくの感想は、「別に急ぐ必要はないが
このモンタージュは芋つぎ的でボリュームがない。貝殻のシャープな質感に加えて遠近感のある
空間を演出する必要があろう」と答えておいた。
 その回答が、この「掌の中の貝(習作)」となっている。
    
 この写真は、率直に言って <試行錯誤>のプロセスそのもので、作品には程遠い。
 しかし、ぼくがアドバイスした方向とは全く異なるものだが、ぼくはご苦労さんといいたい。
やっと取れた一日だけの休日を、奥方の手を借りてまで、あれこれ試みたが及ばず、疲労困憊。
そんな情景が目に浮かぶ。
     
 でも、この写真を深夜に送ってきたメールとその翌日の彼からの電話で、ぼくはほっとした。
 彼いわく、「ただ、実験の途中で、次のネタになるかもしれないような面白い体験や、思いつ
きがあったことは今回の収穫だったと感じています。フォトデッサンの真似事のようなことが出
来るかもしれません。
   
 フォト・ショップでの加工ではなく、ほとんど偶然で、2度と同じモノが出来ないあたりは一
発勝負の醍醐味があって、自分に向いているかもしれません。」と。
 これは、まさにぼくの一番期待した結果である。無から有はない。彼はこんな切羽つまったト
ライで新しい分野への予兆を捉えたのだ。
 3ケ月後の例会では、予兆はイメージへと花開き、その片鱗を見せるかも知れない。
       

「遭遇(参考)」

「遭遇」 吉野光男

 この花火によるキネティツク・バ−ジョンは、まさに衝突しそうな恐いような迫力がある。そ
の原因はブッキラボーで破調な構成にある。
    
 ここまでくると、色彩も思いっきり変えてみるのも面白い。ぼくが参考としてPhoto S
hopでちょっと色相・彩度を変えてみた「遭遇(参考)」は、このフォルムにふさわしいとい
うことではなく、アナログのマスキングなら半日以上もかかるものが、わずか2,3分間でこん
なカラー・シュミレーションも出来るということ、気軽にやってみたらということである。
   
 ただ、とんでもない色も続出するので、配色の基本は心得ておいた方がよい。
     
 とにかく、こうした花火表現はもうかなり写真をはみ出してしまい、発想と題材の選び方によ
っては、マリリンモンローのバリエーションをシルク・スクリーンでつくったアンディ・ウォー
ホルに近い世界になるかもしれない。
                                  
 ぼくが近頃トライする花火の撮影スタイルは、誰にどう見られようとお構いなし、怪しげな手
つきでカメラを180度も振りまわし、踊る宗教か奇人といったところであろうか。
   
 それらの結末は、ひとつの抽象形を求めることになるが、「抽象」はさらに感情と想像力を自
由に働かせるよう求められ、果てしない試みが続くことだろう。
 塾生では、ぼくにつづく高齢(78歳)ながら好奇心旺盛な吉野君は同好の士、ともに世界に向
かって世にはばかり、肩の力をぬいてガンコに楽しもうではないですか。

   

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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