☆ ワンポイントレッスン (35) ☆ 月例会先生評(2006年7月) < 写真の多様性 >
ぼくは最近つくづく思うことがある。それは、1950年代初期から21世紀の今日ま で、この半世紀の写真や絵画の多様な変転に付き合い、その評価、価値観の在り方の急激 な変化に戸惑ってきたが、90年代からのマルチメディア、IT革命はすべてをコンピュ ーターで一元的に扱えるものになった。 あらゆる情報のデジタル化の中で、写真は動く映像である動画の単なる部分、単なる一 コマとして扱われはじめた。その功罪を峻別・判別し、それらに付き合って行くには、余 程柔軟な頭でなくては適うまいといったことである。 少し古い話になるが、初期の版画はその昔の版木による経典印刷から始まって浮世絵や 棟方志功などは特別待遇として、その後の石版刷り、今日の亜鉛版によるリトグラフやエ ッチング(銅版画)は、複製可能なオリジナルのアウラを持たない絵画として軽く見なさ れ、文字通りの半画と呼ばれる価値判断であった。 それが1960年代からアメリカのポップアーチストがシルクスクリーンの版画技法を 使いだしたり、東京国際版画ビエンナーレ以降での版画の大型化傾向が強まったことなど からタブローなどの平面絵画への対抗意識がより前面に出はじめ、現代版画の形成がなさ れるようになった。 (東京のビエンナーレでは、瑛九の指導を受けたぼくの仲間たち池田満寿夫、アイオー、 泉茂、磯辺行久その他が次々と大賞を受けたので、その経緯はよくわかった) 写真も複製藝術として版画同様であるが、そこで<写されたもの>とは、撮影者の感動・ 美意識によって切り取られた対象であり、撮影者〔主体〕と被写体(客体)との関係では、 被写体である<モノ>の世界へと収斂されてゆく。 一方、美術家が写真をもちいるときは、コラージュなど二次映像化され、被写体である <モノ>を提示するより<写す・写される>といった視覚の構造や<現実と虚像>という 関係、あるいは<写す>という行為や<写される>という状態を開示しようとする点に主 眼が置かれている。 それが、今世紀に入ってからの現代美術としての版画は、空気以外ならどんなものにで も印刷できるという写真製版を使った版画があらわれ始め、写真と版画の境界は判然とし なくなり、デジタル化された写真と相俟って評論も一筋縄ではゆかなくなった。 今回は、そんなことを念頭に置きながら、ぼくの解説を読んでもらいたい。 新しい試みとして文中、第三者とあるのは、塾生全員の提出作品をぼくの知るアマチュ ア写真家、若手画家など数名に見せ、感想を求めたときの率直な言葉である。 ぼくは日頃彼らと向かい合って話す時は、師弟といった堅苦しいものは捨て去り、俗な 言葉で言えばタメのつもりで遠慮会釈なくストレートに話す。殊に親しい写真家、弟子た ちとは真剣とも冗談ともつかない応酬もある。 前回にも述べたが、講座では不特定多数の方々への配慮も欠かせず、反芻を繰り返すよ うな言葉探しに苦労したが、これからはぼくの現役時代、相手をアキレ辟易させたような ズバリ端的なキビシイ言葉も飛び出すことも予想される。 でもそんなフィーリングが、ぼくは気楽だし、かえって真意を伝えやすいことも多かっ たのだ。ぼくももう一度元気を取り戻してがんばるつもりだ。何かとご容赦願いたい。 |
< 7月度例会講評 >
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この作品に対する第三者の感想は、「渓谷と中景のしだれた緑樹、上部の白いモヤなど、 しっかりした構成で雨後の山間の感じは申し分ない。惜しむらくは、下部3分の1の岩肌 の表現が曖昧だ。」という。 できることなら、やや暗い濡れたコントラストのある岩肌の重厚な表現が欲しいところ である。アナログならマスキングでできるが、にぶいハイライトがキーポイントになるだ ろう。この手前のそんな明確な質感表現があれば、遠景の岩肌にもそんな想像がおよぶも のである。 デジタルならパソコンで割合手軽に処理できるのではなかろうか。 ぼくが修正したこの例は、そんなメリハリをPhoto−Shopで強調して見せたもの。 |
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平凡な被写体で、結構表現にはテクニックを要する撮影である。 第三者の一人が面白い感想を述べていた。葉っぱと影、つまり実と虚をもっとはっきり 見せれば面白くなるのではという。 この感想は面白いが、ぼくはそれに関連したアーチストの言葉を想い出した。 大住くんはこの影と淵の深みの織り成す幻影に興味を持ったようだが、「最高の幻影は虚 と真実のない交ぜである。」という言葉もある。それは「この二つの緊張関係が藝術作品 の骨格を作るからだ。」ということである。 ぼくも、ついついこんな被写体に惹かれて苦労することが多いが、先ずいずれかがシャ ープなピントを前提条件として、次は「表現としては具象であろうと抽象であろうとヴァ ルールのとらえ方がシャープでないと写真にならない」というのがキーポイントになる。 旦那さんと一緒では2、30分も粘ることも出来まい。光、天候を想定しながら再度同 じ場所へ行く努力がほしいところである。 |
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「ホオズキ」 上田寛
これは「ふうせんかずら」であろう。わが家のベランダでも数年間つくってきた。 作者の意図はわからないが、ぼくの感じでは、ライティングが個々バラバラといった印象 で散漫である。殊に蔓の光は均等で強すぎ、バックはもっと距離感のある明るさグラデー ション表現のほうがよいと思われる。 この作者は、このところライティングで迷っている様子がよくわかる。 こんな場合、少し写真を離れてのんびりと絵の世界をのぞいてみるのも悪くない。 ぼくは20代の中期頃、瑛九のところへ入り浸り、たくさんの若い絵描きの友人を仲間 に持ったことから、彼らが絵を描いている現場をみたり、その辺に放り出してある泰西名 画の画集などをペラペラめくるといったことから、追々に特色ある画家の光にたいする意 識を知ることになった。 つまり、レンブラントは、舞台照明のように見せたい部分にだけ光を当て、テーマをド ラマティックに見せるキアロスクーロ(照明法)を完成させ、ダビンチは距離によって色 調が変わることに気づき、輪郭線をぼかして微妙に色の変化をつけていくスフマート技法 を生み出したなど、またデ・キリコは不安と憂鬱の影が伸びる広場を描くなどいろいろな 絵描きたちの光への様々な認識がぼくの底辺に蓄積し、それを真似ようとはしなかったが いくらかは役立ってきたような気がする。 |
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第三者はこれはきれいだが、ティッシュペーパーで作った花のようだという。 ぼくの率直な感想は、ドライフラワーというよりは作り損なったペーパーフラワーのよ うに思えた。 そこでこれを生かすには、花びらの表現に美しさが求められないとすれば、かえって薄 暗くローキーな表現での悲壮な凄みのあるシーンなどがイメージとして浮かんだ。 バックの構成はわるくない。後一息でレベルに達するところだ。 これらがもっと特異な表現となり、花ではなく他の正体不明のものに変身し、写真より 版画に近い表現になっても、それが造形としてすばらしければ、それでもかまわない。 「新緑」は、紅葉と間違いそうな現実であるが、新鮮な紅と緑の葉の大小のバランスが すばらしく、作者はこれに魅せられながら徹底せず、余分な物まで写し込んでしまった。 この画面の左半分は切り捨て、右半分の画像を自分の手相を眺めるくらいの神経でガッ チリ構成すべきであった。 |
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「兄と兄とその娘」 横山健
第三者の感想は、よく撮れていて映画の一コマを切り取ったような記念写真だという。 「映画の一コマのようだ」ということは、つまり平凡だということである。流れで見せる 映画とスチール一枚で見せる写真での違いは、ドキュメントの写真表現を目指す横山君に とっては要注意である。 ハイビジョン放送の画質は6×9や4×5のポジフィルムを見るような迫力があり、従 来のTV画像は35ミリのネガフィルムを見るような圧倒的なクオリティの差がある。 しかし、これまでの膨大な費用のかかったフィルム撮影に取って代わったハイビジョン 映像を大量に動画録画しておいて、その一コマを静止画像として取り出すと、画質には圧 倒されるが写真的な決定的な一コマにはほど遠いものが多い。 秀れた写真家が狙う一瞬には、カメラポジション、アングル、レンズの選択に、数々の 体験をもとに本能的なヒラメキがあり、時にはそれが命がけともいえる決定的瞬間を構成 する。 限られた枚数でその場の象徴的な意味合いを伝える写真は、それだけの深みを備えた表 現が要求される。この場合もそんなカメラポジションを考え、そこにドラマのある決定的 瞬間をキャッチする修練の場として、そんな習作を見たいものである。 |
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「仔羊」 桑島はづき
塾生間での感想にもあったが、イギリスの田舎で撮ったというこの作品、素朴で何とも 可愛くボリュームもあって好ましいが、足元、前足への配慮をという希望は当然である。 ぼくはデパートの広告撮影を16年ほどやっていたことがあり、着せ替え人形のように たくさん撮らされた。そんな時、手足の扱いには気を許せなかった。 そんなことから女性を交えた記念写真でも、ちょっと片足引いて後足に体重をかけてな どと声をかけることが多く、かえって喜ばれたものだ。良いファッション・センスの女性 でも足元が悪ければ、さまにならない。要注意。 この仔羊君もそんなチャンスを待ち、もう少しアングルを下げて、イギリス独特の田園 風景も含めたシーンが見たかった。 |
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これを見た第三者は、いずれも驚いた。スキャナーでこうなると説明してもわからない。 このワカサギたちは、ぎくしゃく折れ曲がっているより緩やかなカーブのほうがきれいで はなかろうか。頭は生々しく気持ちが悪いので、色を変えたらどうだろうなどという。 新しい技法は、一応形をなすまで相当の努力が必要だ。今はまだ入り口近くでの模索時 代にあり、そのうち形としての品格を備え、更に思い切ったデフォルメ、構成をしても成 立することになるだろう。 モネの晩年は、印象派の理論に徹底すればするほど形がくずれ、現実を越えた別の世界 へのめりこんだ。この作者もそんな迷路を一度は辿るかもしれない。 ぼくは特殊技法への道で、誤りをおかすことで多くを学び発見した。 「ワカサギ 2」は、もっと気持ちが悪いという者もいたが、それは形、色だけの問題 でなく、こうした生々しい被写体の強烈なデフォルメにある。これがぼくが試みている花 火なら全く異なった印象を与えるに違いない。 いづれにしてもそれらに徹底し、昇華する道を会得する日を待とう。 |
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「こいのぼり」 成瀬幸恵
爽やかな五月晴れのこいのぼりを振り仰ぐ子供たちの気持ちが率直に感じられるところ はよいが、のっぺらぼうではちょっと行き過ぎか。子供の表情もわかるもう少しスマート な表現はできないだろうかという第三者の質問に、ぼくはいささか閉口した。 現在のこの作者にはいくらかのアドバイスとして、アーロン・シスキンドの会話の一端 を引用しておきたい。 彼は、「写真家は既成の概念を打破するため、学ばねばならない。まず、正面、左右を 見ながら歩いてみたまえ。近づくにつれて、物体は大きくなり、位置が変われば構成も変 わる。そんな行動の中で、物と物との関係が次第に明瞭になり、最終段階が現出したとき 、写真が生まれる。」という。 強固な構成力で知られる石元泰博は、本能的にそんなポジションに立ってしまい、それ を打破するため、ノーファインダーでシャッターを切りことも多いと言い、ユージン・ス ミスは、ほんの2,3インチの違いが傑作と駄作を分けるという。そんなプロもあるが、 成瀬君には、まず第一歩からどうぞ。 |
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「津和野流鏑馬」 藤本茂樹
これは、あと少しのタイミングと構成トリミングで、かなり堂々とした作品になったは ずのところが、桜か何かよくわからない白い大きなボケブレで画面を脆弱なものにしてし まった。 日本の祭りを撮っている写真家に芳賀日出男という友人が居て、ぼくの弟子が仕事で祭 りの現場へ行くと、必ず彼と鉢合わせするという話を度々聞いた。つまり、絶好の場所は 写真家がひしめき合うという常識だが、それでもベテランと初心者のプロではかなりの差 ができるといい、そのキーポイントを聞いたが、写真雑誌に書いてある程度のことでいま だによくわからない。 外国では、リオのカーニバルをはじめ数々の著名な祭りがあるが、藤本君はそんな祭り の特色、撮り方のキーポイントなど分析したことがあるだろうか。そんな話があれば聞き たいものである。 |
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「日暮れの行列」 吉野光男
まるで明治、大正時代の嫁入りを見るようだ。映画のワンカット、狐の嫁入りといった 雰囲気もある。第三者にも評判がよく、この暮色の色合いや夕日、白い提灯の配置、白い 花嫁の角隠しと足袋がいいアクセントになっているなど、細かく感想を述べるしっかりし た人もいた。 しかし、こんな嫁入り行列が今日、一体何処であるのだろうといった疑問もあった。 ぼくは、作者の制作時の解説を聞いて驚いた。バックの風景はネパールで撮影した夕景 とのモンタージュだという。でき過ぎた画面構成から飛び立つ鳥の間のよさに疑問を感じ ていたが、これを合成と見破る人は少ないだろう。 この作品を現在の風物詩として紹介するには問題があるが、子供向きの絵本の挿絵など 日本古来の風物詩としてなら差し支えないと思う。この作品は密度があり大伸ばしすると 相当の迫力があるだろう。 岳景は、やりすぎで騒々しい。トーン、コントラストのアンバランスがデフォルメと重 なりモンタージュの趣旨から外れたようだ。 |
(註) 塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い 週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。 その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。 居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう) |
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