<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (33) ☆          月例会先生評(2006年1月)                < アウトサイダーの視点 >                 

 今月の例会の出品作を一見して、まず感じたことは気迫に欠けるということだった。 
これは一種のスランプでもある。
 その原因の大半は、時折電話で話す塾生諸君の日常が例年になく多忙で、さらに不快な
事件の連続で妙に落ちつかない年末など世情の影響もあったかも知れない。というのはぼ
くの勝手な推量だが、作品の方は正直なもので、各人が持っていた日頃の選択眼が曇り、
気力散漫から殊に構成力の弱さが目立ち、中だるみか、気迷い状態を示していた。
     
 こんな時、瑛九はよく自嘲の精神を持てといっていたが、まず自分の現状を客観的に見
られるもうひとりの自分の確立が大切であろう。
     
 タイトルのアウトサイダーという言葉は、通常、既成の枠組みからはずれて、独自の思
想をもって行動する人をいうが、ここでは、自らを局外者、異邦人といった立場として、
塾生諸君が写真だけの世界にとらわれず、他の分野での表現にも関心を拡げ、それらへの
理解がよりフリーな発想、多様な構成力を養う一助にもなればといった参考資料も加えた
講評を進めることにした。
     
 最近は、塾生の写真もテーブル・トップフォトやモンタージュあるいは特殊表現への兆
しが見られるようになり、その入り口付近での不要な戸惑いもみられるが、今回は2点の
意外な問題作を発見し、ぼくは曇り後晴れといった気分も味わわせてもらった。

                 < 1月度例会講評 >               

原画

「冬樹」 岡野ゆき

 この写真を見たとき、ぼくが一番興味を覚えたのは、遠目には1本の大木のように見え
るこの木が10本ほどもあり、なぜこんな盆栽で見られる寄せ植えのようなことをしたの
であろうか。またこんなユニークな題材をライトアップしてみせるこの環境全体のレイア
ウトはどうなっているのだろうかということだった。
   
  この木は骨組みがしっかりしているので素朴で美しい。この写真を少し離れて見るか目
を細めてみればよくわかるだろう。雑然とした風景で一番しっかりした構成、カメラポジ
ションを探すときのため、昔はグレーのガラスがついた虫眼鏡のようなもので眺め、それ
をアクセサリーのように首からぶら下げていたものだ。(黒澤監督など映画関係でも)
     
 この作品はシンプルさが身上で、これ以上何もしないほうが良い。ぼくはこうしたすべ
てがそぎ落とされたシンプルな厳しい条件での参考までに、ちょっと手を加えてみた。
  つまり、足元の草むらのラインがあいまいでしまりがないので、ちょっとシャープにし
周辺の空間の左右と上部をわずかにトリミングしてある。このわずかなトリムはミリ単位
で慎重に行うが、その場に立っているような臨場感か増したはずである。
 もちろん情景によっては、逆に更に周囲に余裕を持たせる構成とする場合もある。
   

              

「光」 嶋尾繁則

 この写真を取り上げたのは、こうした恐ろしく高い天井のある建物の撮り方のイロハに
触れておく必要があるとおもったからだ。ぼくも西欧の寺院取材で苦労した経験から、最
後には自分の視点を三つに分けて視ることにした。
    
 その(1)は、建築写真的な表現で、構造の正確さが基本になるため、柱、壁面、窓な
どを垂直・水平な表現にするためには、まず被写体を見るカメラ位置を出来る限り高くで
きるポジションを探すことになる。これがうまく見つかるとホットしたものだが、そこか
らのフリーな俯瞰撮影もおもしろい。
   
 ぼくの友人で、カンボジアにある世界的な文化遺産、アンコール遺跡を10余年も撮り
続けてきたBAKU斉藤という写真家がいるが、その巨大な石仏を撮るための第一歩がジャン
グルに高い足場を作ることに始まるという苦労は大変なものだという。察して余りある。
    
 その(2)は、情景写真で、地上から自由なアングルで撮った嶋尾くんのこの例が当て
はまる。その(3)は、構造物の極端な変形もお構いなしのアブストラクト風、抽象表現
である。
    
 嶋尾くんの作品の意図はわかるが、あわただしい中でのことか、中途半端で惜しいチャ
ンスを逃している。高いカーブした天井に射す光への着眼点は良い。人物像のある壁面を
題材にするのも悪くない。ただし、「二兎を追うものは一兎を得ず。」何れかに徹底すべ
きであった。
    
 このままでは、像の下部と右側が足りないのでトリミングでの救済もできない。更にカ
メラ位置も曖昧である。ここで画面構成のキーポイントになるものは、肉眼による厳密な
カメラポジションとフレームの大小、範囲をきめるレンズの選択である。
 この時点での試行錯誤に、ぼくは随分時間をかける。現実は変わらない。何処に立ち、
何を見て、どう構成したか。それだけである。
   

              

「枯葉」   上田寛

 この写真に対する塾生間での批評で、画面の下部が少し足りないとか、作者の感想で左
側のバック処理に失敗したとあったが全くそのとおりだ。画面右半分はよくできているが
左半分の暗部は色彩としての黒以外は何もない。
 こんなとき、ぼくは他山の石というか、洋の東西を問わず頭の片隅にある絵がでてきた
り、闇の中の表現をした文章や詩の断片が浮かんだりする。
    
 バロック絵画では黒は神秘の世界だった。日本の絵画では須田姓を名乗る二人の画家須
田国太郎と須田剋太が出てくる。いづれも黒を追求するぼくの好きな画家である。これら
の画家の作品のあれこれの中には、初期にはすえたくさった匂いがすることもあり、暗く
湿った空気が描かれているように感じたこともあった。しかし、やがてぼくはそこに光と
影のドラマを見るようになり、造形として切り詰めたことでその内容が豊穣になり、その
代わり一点のユルミも見せない厳しさを感じるようになった。
    
 彼らの暗いシャドーには、目を凝らせばダークな数々の色が見え単なる空間ではない。
手法は瑛九の点描に似たところがある。すべてをそっくり真似ると盗作になるが、良いと
ころを学び写真の特性表現(モノクロ、カラーとも)で生かす工夫はしてほしい。
   

             

「枯葉と種」  上田寛         
                      <参考>
    

振袖(江戸中期)

能衣装(江戸期)

 本人の感想では、この写真は中途半端で提出すべきではなかったかということだが、こ
の写真は、今回の例会でぼくが一番注目した作品であった。
    
 この作品のクラシックな西欧風のイメージは、ヨーロッパの刺繍や壁掛けに見られる重
厚な色彩、構成に似たものがある。一般のテーブル・トップフォトは、どうしても軽く単
純になりやすいが、この作品は枯葉と種の扱いが曖昧で作品としては決して成功とはいえ
ないが、写真構成としては質感のない立体的なバックに特徴があり、重厚で自由な表現を
可能にしている。                               
    
 日本でのこうした重厚な印象をうけるものには工芸品が多く、古いものでは正倉院の孔
雀文の刺繍〔8世紀〕、手近なところでは桃山、室町、江戸時代の能衣装や小袖、振袖な
どに見られる。厚い練り絹に草木染のすばらしさはご存知のとおりであるが、ここではそ
れらの大胆で絶妙な構成、密度に注目してもらいたい。
    
 一般にテーブル・トップフォトでの背景は、光と影だけのグラデーションでの空間処理
をするために、どうしても単調になりやすくボリュームを出すときは、バックに厚手の織
物や大理石など様々な材料を使うが、その材質がメインとなる被写体とかみ合わない場合
が多く、コマーシャルをやる写真家はその対応に腐心する。
   
 ところが、上田くんはこの作品で、カットグラスと薄いアクリル板だけの材料を、ピン
スポットによる照明で、いとも簡単にニュートラルで奥行きのあるバック・グランドを作
り上げたのだ。
    
 とにかく、本人にとっては瓢箪から駒が出たようなものかも知れないが、ストレートな
写真でこれだけ厚味のある表現をつかんだ上田くんには、これをチャンスにもう一歩推し
進め、宇宙ステーションのようなテーブル・トップフォトを期待したい。
 さらに、これを効率よく特異な表現をするには、モンタージュやコラージュといったコ
ースになろうが、それらについてはまた項を改めて話すことにする。
   

                 

原画

「アネモネ」 西浦正洋

 これはスキャナーによる習作ということだが、デジタルに弱いぼくにはどんなやり方で
こんな画面になるのか、よくわからなかった。とにかく、この写真の制作はカメラ・レン
ズを通さず、スキャナーでの創作という、西浦くんのオリジナルである。
 将来、これが<西浦流 スキャナ・フォト>の第1号作 になれば、幸いである。
    
 ぼくはモホリ・ナギーのカメラを使わないフォトグラムや瑛九のフォトデッサンがちら
ついて、西浦くんがこの延長戦上でどんな発展を見せるものか、それを期待したい気持ち
からこの作品を取り上げた。
 この写真を見た瞬間、これはまだ作品といえる域には達していないが、かなり近い将来
に生き生きとした開花をするだろうといったある種の予感を感じた。
                                      
 それは、ぼくが玉井流といわれた特殊技法の開発で体験した予感と共通するものがあっ
たからだ。ここからのプロセスは、容赦なく大胆に、また細心に、臨機応変思い切り良く
やることだ。新しい技法の発見は、「よく言えば、絶妙のタイミング」、「悪く言えば、
でたらめ」から生まれる。ぼくの創作プロセスの実感はそんなことが多かった。
    
 西浦くんのこの技法の発展、完成がどんな物になるかを想像している過程で、ぼくは他
の絵画の分野でのアウトサイダーとして印象に残っている作品を思い出した。
 それが西浦くんの参考になればと作品をここに紹介することにしたが、著作権の関係か
らごく小さくしか載せられないので、あとで図書館などで確認してもらいたい。
                        <美術フォーラム4 2001より>

(注)
   
 ぼくは、掲載に先立ち、勝手に西浦くんの現状写真に手を入れたのが右側の写真である。
つまり、構成上散漫な上部の一部と右側を切り詰め、アネモネの上部花びらの水平なライ
ンをやや丸く自然なものにしてある。また、バックはカラーバランス上から、グリーン味
をおびた黒とした。

      

      <参考作品>                                      

      形而上学的な薔薇  ― 「切り取られた海」 1999  塩崎啓子
   
      
 以下は、誌上の紹介文。
     
 塩崎啓子は中空に浮遊する巨大な薔薇をモチーフとして描き続けてきた。
印象派の画家、眼の人といわれたモネの一連の作品は、視覚のレアリズムの極限に位置し
純粋な視覚による以外のものを切り捨てた抽象的な世界だともいえる。
     
 人が幻想的とよぶ塩崎作品の、その超現実のイメージは、見慣れた現実を突き抜けた徹
底した写実から生まれたものである。塩崎啓子はシュルレアリストと呼ばれる前に、透徹
した視覚のレアリストであることを改めて知るべきであろう。

    
   
 ぼくはこの画家が油絵具で写真そっくりに描く薔薇と、切り取られた海との組み合わせ
による薔薇の巨大化を見せる世界に感銘を受けたが、これらと対決する写真の世界はまた
別ものだと思う。こんなとき、その昔は仲間の絵描きたちと激論を戦わせ、玉井流での写
真表現を成立させた。

            
  今回もこの講座の性質から、解説にたりる問題を含むもの以外は、写真の掲載
  をせず、最低限あるいは必須と思われる簡明なコメントを列記しておく。
               
「よさこい人」  藤本茂樹
 藤本くんは、<よさこい>に熱中しただけに、動きのある表情をタイミングよくとら
える技術をある程度体得したようだ。しかし、作品としては、写された人やグループに
は喜ばれるスケールでとどまっている。、もうこの辺からはスケールを大きくして、世
界に通用する<よさこい>をめざすべきであろう。
    
 それを具体的にいえば写真は世界に共通する視覚言語といわれるが、よさこい(3)
のままでは言語不明瞭になる。この衣装の特徴が良くわかるフレームで、威勢良くおど
る若者の表情、動きがあれば、日本のある地方の特色ある祭日のひとつとして、日本に
来たことのない世界の人々にも伝えられる。
    
 それが祭礼の全貌であれ、部分の詳細を示すアップであれ、それを世界に見せる意図
が明確なら、構成もまた変わり斬新なものになるだろう。そこにある種の普遍性のある
ドラマまで表現できれば、世界に通用するプロになる。
    
   
「ポートアイランド」  大住恭仁子
 理論派の大住くんにしては、構成・心理面ともに切れ味が悪く、どこかに相当な疲労
があるのではと心配する。
 強いて言えば、3・4をもっと厳しく追及する姿勢でのシリーズなら、かなり見られ
たのではなかろうか。回復を祈る。
    
   
「David.J」 横山健
 横山くんの説明によれば、彼はイスラエル生まれの男。女好きで皮肉屋、あまり働か
ないで、ギターばかり弾いているとあるが、一体何を伝えたいのか。タイトルの付け方
にも一考を要する例である。
    
 ぼくの好きなピカソの青の時代の作品に、盲目の老いたギター弾きがやつれた手で、
ものうげにギターを爪弾く青一色の絵があるが、それは人間の衰えた精神や肉体を象徴
し、男も女も性を超越した顔つきをしている。
 他のジャンルの作品を垣間見て、それに感銘を受けることがあれば、写真でならどう
するかを考えてみるのもよいものだ。
    
                                   
「ちゅ〜」 成瀬幸恵
 子供の写真は本当にむつかしい。ぼくも2人の孫に恵まれて時折スナップするが、気
に入った写真は年に数枚もあればいい方だ。
    
 このシーンには、バックも良く、モダーンでかなりユニークな写真ができる条件がそ
ろっている。後は子供の表情次第、といっても顔つきだけのことではなく、体全体が物
語る決定的瞬間を逃さないことにつきる場面であった。
    
 こんな画面では子供の大きさは無視して、子供が主役になる瞬間に集中することがポ
イントである。ぼくはワイドレンズ付きのカメラでノーファインダーで地面すれすれで
写すこともかなりあるが、この場面では大きな球体と子供の対比を生かすため、多分あ
と一歩右によって、子供のヒザくらいの高さでシャッターを切っただろうと思う。
    
 参考までに Part23のウィンバロックの「森の道を歩く子供」は、地球の自然環境
を守るキャンペーンに使われた著名な作品だが、子供は非常に小さく写っているが、子
供は単なるアクセサリーではなく完全な主役になっており、面面全体でドラマが構成さ
れているところところに再度注目しておいてもらいたい。
    
   
「風車、その他」 桑島はづき
 彼女は、短歌でかなりの域に達しているからか、まだ、フィーリングにとらわれすぎ
ている。シャッターを切る前に、頭の中に物理と化学でできるその場の映像を浮かべて
見るイメージ・トレーニングをやってみたらどうだろう。
 また、あれこれ被写体を変えて臨機応変にやっていると、基本的な写真技術の基礎が
身につかないので、ある期間、ある一定のテーマ、被写体だけに集中した撮影をやって
みるのが近道かもしれない。
    
 ぼくは柔道でひとつの技に集中してそれを完全にマスターするまで他の技には手を出
さなかったが、そこで得たしっかりしたものが基礎をなって次の技は半分の時間でマス
ターできた。短時間で3つの技を覚えてもそれぞれの本質的な基礎が身についていない
と連続技では破綻してしまって役にたたない。
   
                                   
「枯葉」 吉野光男 
 一挙に4種類のパターンを提出する努力は買うが、ぼくの体験からいえば、あまり性
急にやると、かえって遠回りになるような危惧を感じる。
    
 テーブル・トップフォトは、Part3の「カトレア」の例のように、ごく限られた
スペ−スで、ひとつの世界を創る。大きな風景を眺める場合とは正反対で、卓上の花を
まじまじと眺め、あるいは手の平の宝石を見るようなフィーリングがある。
    
 それだけにボケ・ブレは通用せず、シャープさと忠実なグラデーションによる写真的
な質感表現が基礎になる。焦点深度の限界を確かめ、アングルによるアフリの原理も知
る必要があろう。シャープネスは光の質、使い方でも変化し露光量でも影響を受ける。
   
 そんなことから、吉野くんには、一枚の枯葉を徹底的に見つめ、それを正確に表現す
ることからはじめることを薦めたい。そのプロセスでも自分なりの発見があれば、かな
りの作品は創れるので退屈はしないだろう。

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

                 back