☆ ワンポイントレッスン (31) ☆ 月例会先生評(2005年7月) < 中途半端と融通無碍 >
月例作品の提出から1週間後の互選、さらに10日ほどの塾生間の感想交換などがあり それをゆっくり読んでからはじめるぼくの原稿は、書き始めるまでに相当の余裕がある。 さて今回は第2土曜日の締切日の夕刻から、頻繁にかかってくる電話の間をみて、取り 急ぎ提出作品を見始めたときの第一印象は、なかなかにバラエティがあって、ぼくの2回 にわたる写真展<花火のよるキネティツク・バージョン>の刺激もあってか、とにかくメ ンバー全員が何かをしなければといった気配を感し、ぼくは久々に肩の荷が下りたような 気分を味わっていた。(以下は、あえてありのまま、本当のことを書いてみよう。) それが、全部を見終わって時間が経つほど、日を過ごすうちにその映像は薄れはじめ、 さらに塾生間のコメントを読み、内容を分析するにつれ、まず「中途半端」、ついで「融 通」「融通無碍」といった言葉ばかりがうかんできて、すぐ筆をとる気になれず、原稿は 大幅におくれてしまった。それは、つまり、ぼくの性格のなせる業でもある。 ぼくのことを、家の者に言わせると、<セッカチでワガママで、さらにカンペキ主義者 だ> <カンペキ主義はいつも過大な期待を持ちすぎ、勝手なことを言う>と全員が一致 している。しかし、そんなことは、百も承知のぼくはあえて反論はしない。 タイトルの<中途半端と融通無碍>という言葉は、唐突かも知れないが、庶民派の小説 家、池波正太郎さんからの連想である。(司馬遼太郎、池波正太郎のお二人は、生まれ年 がぼくと同じでその生活、思考方法がよくわかる) ぼくの知人・友人たちにはかなりの池波ファンがいてぼくもその一人だ。「鬼平犯科帳」 「剣客商売」その他もろもろから「食卓の情景」にいたるまで、お気に入りは何回となく 読み返し、新宿といえば、即「内藤新宿」が浮かぶくらいである。 以下は、池波さんが遺された言葉のひとつである。 ちかごろの日本は、何事にも「白」でなければ、「黒」である。 その中間の色合いが、まったく消えてしまった。 その色合いこそ、「融通」というものである。 この言葉に対して、やはり大ファンでおそろしく謙虚な小説家・山本一力氏の、池波さ んの心情を伝える感想文がすばらしいので、その一部を引用・紹介しておきたい。 白と黒との間に横たわる、無限の「融通」の領域。イエスでもなければ、ノ−でも ないこの部分こそが、日本人古来の文化である。 その領域があったればこそ、わたしはしくじりを繰り返しながらも生きてこられた。 「融通」を分かち合えば、生き方が楽になる。 デジタルは、黒白の何れかを選べと迫る。 よい事とわるい事を同時にする人間の精神構造は、最初からデジタルの概念にはなじ まない。その簡単明瞭な根本をしっかり見つめろと池波さんは読者に提示している。 親が子供に向かって胸を張って生きていた時代、それは『わきまえと恥をしつけた 時代』であった。「人間はよい事も悪い事もする」。この根本の考え方を人が受け継 いでゆけば、研究室で培養されたような、一方向性の価値観しか持たない者は減るは ずだ。 この一文を挙げて、ぼくが言いたいことは、もっと「融通」「融通無碍」に生きること、 といって適当にほどほどにということではない。筋の通った柔軟な生きざまである。 また「中途半端」はこれらの誤解であり、あっさり「中途半端」で割り切ってはおしま いだということである。これらは、写真表現の創作にすっかりあてはまる。 この一文を写真の言葉に置き換えてみるのも一興である。「融通」は、グラデーション にあたるかも。 |
< 月例 7月講評 >
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この場所は琵琶湖畔で、関西近郊に住まう3人の塾生達が誘い会わせて出掛ける撮影 ポイントの一つであるらしい。 さすが知悉した場所であるだけに、季節、天候、時間帯を選んでの卆なくまとめられ たハイキーな作品は、清楚ですばらしく、誰にも好感をもたれるであろう。 などと思いながらぼくは、講評のキーポイントとしてはこの原画のトリミング、意味 不明の中途半端さ、つめの甘さには、ちょっとした注文をつけざるを得ない。この周辺 につけた(残した)左右不均等なホワイトは上田くんの趣味だろうか。左右にもっと広 い空間があるなら南海の孤島に見るような構成効果があるかも知れないが、このままで は曖昧なホワイトスペ−スに過ぎず、せっかくの風景を小さな箱庭的寸景にしている。 ハイキ−な構成ではことさら空間と余白(スペ−ス)の違いを心得た厳密な表現が大 切だ。 ぼくはそんな意味合いからあえてこの作品の場合、思いっきりよくトリミングしたほ うがスケールが大きくスマートな表現になるといった一例として手を加えてみた。 モダーンな日本画家、東山魁夷などの絶妙な厳しい構成なども参考になるだろう。 |
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「若葉」 嶋尾繁則
行く先は奈良の十津川村。彼は大阪を深夜12時に家を出て、車で3時間半、それか ら夜明けを待つという。そんな経験をしたことのない門外漢のぼくは、ご苦労さんと思 いながらそんな道中の彼の顔が想像された。 塾に当初から席を置いて4年も経つと、その作風からかれの謹厳実直といった性格が うかがえ、ぼくの脳裏にうかぶ顔つきも律儀そのものである。 相当の写歴もあるだけに、一応技法を心得、安定した作品をみせてくれる。向上心も 強いので研究熱心で機材にも詳しい。しかし、講評する側のぼくは、生真面目すぎると もいえるコンスタントなこのレベルを超えるためには「時には崖から飛び降りなさい」 などと勝手なことをいうが、これは容易なことではない。 この作品は、そんな彼が打開しなければならぬキッカケを含んだ一例である。 この風景は手前から上部に向かって三層の濃淡で遠近感があり、バック・グラウンド としては申し分がない。そんなところにいきなりの新緑は、まさに新鮮な風をおくるよ うな風景とぼくは感じた。 それがこの新緑の入れ方には問題があり、不発で終わっている。塾生間の感想でも左 が足りない、作者本人もこの画面左ギリギリには木の幹があってカットせざるを得なか ったという。でも、ここで諦めたらおしまい、敗け戦である。こんな条件にぶっかるの は、プロなら日常茶飯時である。ここはアマチュアといえども執念深く追求すべきとこ ろだ。 具体的に言えば、更に新緑の色彩の明暗、マッス、立体感をどうするか。斜め左上に 湧き上がるように上昇してゆく霧はこの画面では重要な動感要素だ。その形とのバラン ス、変化への対応はどうか。時間帯を考え、天候を読み、更にこの限られた条件での構 成を変える手法としては、カメラポジション、レンズの思い切った変更・選択はどうす るか。 最後は体、全霊で感じることだ。 ぼくは、こんな追い詰められたような状況から無から有。アンバランスのバランス。 思いがけない新鮮な画面構成の発見で救われた思いを、何度も体験したことがある。 こうしたケ−スは、塾生全員にみられる。諸兄の一層の精進を期待したい。 |
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「虹」 大住恭仁子
この写真を見た瞬間、これは虹というタイトルがなければ、だれも虹とみる人はなか ろうと思った。それにしてもこんな虹は見たことがなく、ぼくの田舎でいう<ひがさ>、 通常の「暈」(太陽や月の周囲にできる光の輪)ではなかろうかと思い、作者に聞いて みてそれが正解とわかった。(この題名は一考を要する。) ぼくがこんなことにこだわった理由は、ぼくが丹平写真倶楽部に入会した当時、モノ クローム時代のベテラン写真家でも虹色を想像させる作品作りは非常に難しく、大きく カーブした円弧で示すことだけで精一杯、先輩諸兄の虹の傑作はついに見られなかった からである。(またぼく自身も虹は好きで、モノクロ・カラーともあれこれ撮ってきた が、いまだにこれといったものはない。) いずれにしても、いまやカラ−時代。虹も太陽にやや近い角度の時は幅も広く色の分 離も悪くて当然モノクロでは表現が困難になるが、カラー写真ならその弱点を補いなが らの構成も可能になった。<暈>の場合は、虹色というわけにはゆかないが巻層雲など 微細な氷晶からできた雲を透した太陽光の屈折から微妙に美しい輪がみられ、時にそれ は不吉な予感さえ連想させる魅力がある。 大住くんのこの画面構成は、ローアングルからの広角によるするどい建物の壁面とユ ニークな照明柱とのからみあいにちょっとしたダイナミズムがあり、もしカラ−でこれ が撮られていたら、かなりしゃれた面白いシーンになっていたかもと、ぼくは残念に思 った次第。次のチャンスには、ぜひカラーで見せてもらいたい。 なお、ついでながら、次のチャンスのためにあと一言。 率直にいえば、ぼくはこのままのビルの味気ないフラットな壁面描写には不満があり、 まず、ぼくがプリントするならもう少し明るく明暗を強調するだろうと思った。 更に、もしこのシ−ンにぼくが遭遇したらと考えた時には、これがガラス窓なら偏光 フイルタ−を逆用して、壁面構造とその反射を画面全体とのバランスを見ながら、いま 少しギラギラしたパンチのある表現へのコントロールを、この時点での技術的なキーポ イントとするに違いないとも思った。 大住くんは、大胆不敵な良さがあるがややそそっかしい。もう少し落ち着いてそんな シーンも想像してみてもらいたい。 |
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「ぼくの負け?」 成瀬幸恵
成瀬くんの赤ちゃん写真、かなり画面整理の要領がわかってきたようだ。この坊やの記 念写真は、お姉さんに遊んでもらった日々がさりげなく分かる構成で、表情の対比ととも に偶然であろうが2人のヘヤ−スタイルもおもしろく、当日の決定的チャンスだったかも 知れない。 画面を整理することは、無駄な邪魔な要素を省き主題を鮮明にすることだが、時には副 材の賢い使い方が秀作を生むこともあるので、これからはそんな気配りも忘れないように。 画面構成上、いわゆる首切り線といったラインを気にする向きがあるが、これは線に限 ったことでなく、千変万化する現実での不必要なもの、不協和音はできる限り、ちょっと したカメラポジションで排除するのは当然のことである。 コマーシャルでのプロの世界では、1970年代ころからはすべてはシャッターチャン ス最優先で、ニューヨーク・タイムズの日曜特集のファッションを撮っていたぼくの弟子 は、それが街中での撮影では電柱も電線もお構いなしに撮影し、後ですべての邪魔物は新 聞社の修正の超べテランが消去したという。今日では、デジタルでちょっとした修正は手 軽にできるので、ぼくもかなりレタッチすることがある。 ただし、現実問題としてのわが家では、長男の孫たちがやってくる日は大変である。 部屋中を這い回る8ケ月と、その辺を飛んだり跳ねたり忙しく走り回る4歳の2人の男 の子を撮るために、この日ばかりは修正の手間を省くため邪魔なバックになりそうな物は 全部片付けてしまう。そこまでしなくてもと思いながらも、やはりプロ意識がはたらく。 (不自然に目立つ色は、プリント時に色相を変える。) また、当家へやって来るなり、ほとんど長椅子でいねむりばかりしている長男は、とき に格好な点景にもするが、粗大ゴミとして別室へ退去を命じることもある。 |
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これは、原型としてかなりユニークな表現である。しかし本人も周囲もそれに気づい ていないようだ。 この原画は万全とはいえないが、色の選択、組み合わせは成立し、OKである。ただ表 現が中途半端で、この軽さでは訴えず、放置され、埋没する。 言葉だけではわかりにくいので、ぼくはゆっくりとかなり時間をかけて、ぼくなりの 基本的な考え方に従った修正を試みた。現在はマスキングによる手法を駆使できる暗室 を持たないので、まだ不慣れなPhotoShopでコントロールしてみた一例がこれである。 デジタル技法での作業だが、考え方はアナログで進行する。「多分ほとんど若葉のま まで、虫に食われたであろうこの葉っぱを、作者は単なる情緒的な風物と見ての撮影で はあるまい。」とぼくは解釈して、もっと厳しい見方での造形をしようと考えた。 表現技法でのキーポイントは、葉っぱの葉脈を立て、しっかりした存在感を主張し、 真ん中の縦の葉の先端に視点を置き、そのバック・グランドは単なる背景といった見方 では成立しないので、詩的なある意味ではぼくの造型哲学を主張する空間表現でこの画 面を支えようと試みた。 ぼくは、いつもバックなるものを単なる背景とは見ず、それぞれの主題とともにある 生きた空間を心がける。仏像でいえば、本尊と光背の関係といってもよい。 殊に画面の上半分の原画との大きな違いに注目してもらいたい。簡単に言ってしまえ ば、このテ−マにふさわしい空気が写っているように見えるはずである。 そんなところでやっと作品といえるものになる。 |
今回もこの講座の性質から、解説に足りる問題を含むもの以外は、写真の掲 載はせず、最低限あるいは必須と思われる簡明なコメントを列記しておく。 「力士」 藤本茂樹 大学の学生相撲選手権での撮影とか。その狙いは、「1点は、四つに組んで動かない 長時間の力相撲での表情を緊張感のあるフレーミングで見せること。他は、負けた選手 が立ちあがろうとした一瞬、自分の腕をじっと見ていた表情を捕らえること。」だとい うが、これだけの条件では如何にも生ぬるいといった印象は免れない。 ぼくは、彼が撮った窮屈なフレームで縛られたこれらの写真を見ながら、まずぼくの 頭に浮かんだことは、「まだ若く生一本な彼が大変な課題に取り組み、いずれは徒労を 嘆く日を迎えるのではなかろうか」といった心配であった。 文学では、微に入り細にわたって人間の心理状態を書けるが、写真ではそれが事件と いわれるほどの体全体での極限状態をとらえても、その心理状態を表現するのは難しい というのが報道写真家やスポーツ写真家の一流が言う答えである。 ぼくは、ペンキ屋の一家を5000枚も撮ったが、家族の心理状態まで捉えられたと 思える写真はほとんどなく、その難しさを思い知らされた。 ぼくは、藤本くんに不可能を説くつもりではない。 まず、参考資料として、写真集としてその不滅の足跡を残した<The Best of LIFE> のフォト・エッセイやまた人間の動きの分解、駒撮りについては、エドワード・マイブ リッジの<The Human Figure in Motion>などを図書館で見ると、こうしたテーマに臨 むときのキーポイントの概要がわかるだろう。 そこから自分にあった手法にトライしてみることが近道であろう。 「KAEN−花炎」「SORA」 西浦正洋 ぼくが花火で見せた習作に早速反応したような出品で、何でもやってみようのトップ バッタ−として取り上げようかと思ったが、今回は見送ることにした。 理由は、西浦くんの作品は時にもっと密度がありスマートな表現をするが、今回の写 真は、地球の創生期にたとえれば、いまだ混沌とした唯中にあり、やがて明暗を分け波 打ち際に何者かが誕生し始める時期を迎え、それが感覚・表現ともにシャ−プな力強い 創作物となる日を待つといったことである。 この講座は記録として残すことから、そんなプロセスの胎動までみせることはないと 思う。それらが早く元気な姿で独り歩きをはじめるところを見たいものだ。 ついでながら、題名について一言。 近年は国際展への招待、出品も多くなったので、タイトルは原則として日本語でわか りやすくし、外国に出品する時、翻訳して意味が通りやすいものとするのが一般である。 「滝」「花」 横山健 「滝」これは、由緒ある環境や場所の説明としては良く分かるが、それ以上 の見どころは何だろうかとおもう。 「花」こうした雑然とした被写体をモノトーンで表現するのは非常に難しい。 花や植物を、雑草にいたるまでギリギリのシャープさで質感まで克明 に表現することが第一歩だが、さらにシンプルでリズムある構成を心 がけることが第二歩である。 第三歩は、デリカシーな同種の質感を持つものどうしの表現への工夫 である。リンゴとグラス・コップなら明らかに材質が違うのでやさし いが、リンゴ、ナシ,みかんといった同種で色違いの被写体の集合は モノクロではライティングの条件が整わない限りかなりむつかしい。 ぼくは墨絵の果物図を参考にしたことがあった。 「太陽」「アンテナ」 桑島はづき 一生懸命やろうとしているが、堂々めぐりをしているようだ。 短歌をやるだけに、桑島くんは何時もちょっとしたフィーリングで写真を作ろうと しているが、写真のメカニズム、写真の三大特性がまだ身についていないために、マ ッチングがうまくゆかず、右往左往といたところである。これは頭では解決できない。 これを脱却するためと写真の厳しさを知るために、しばらくフィーリング撮影をや めて、精密描写による質感表現だけに集中した作品を桑島くんの課題とし、次の例会 に提出することをぼくは提案したい。 ここでは原点に還って、カメラは三脚につけ、絞りは最小、ライティングにも細心 の注意をはらい、おそろしいほどの質感描写ができれば、写真表現の落とし穴、恐ろ しさにも気づき、フィーリングだけで撮ることの空しさがわかることにもなるだろう。 それからが本番の写真となり、やがて短歌で身につけたものが縦横に生かされた作 品が生まれることになるだろう。 |
(註) 塾生各位の個々の写真についての質問等あれば、僕が在宅する確率の多い 週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。 その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。 居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう) |
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