<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (30) ☆          月例会先生評(2005年4月)            < 7尺を去りて師の影を踏むべからず >         

  今月から、塾生は月例作品の提出後、メーリング・リストでその作品の狙い、技術的なポ
イントなどを送信し、これに対する質問、感想、批評もなるべく早急に送信して、活発な意
見の交換をするようにぼくは薦めた。
  一般の月例で作者が制作の裏話をすることはないが、コンテストの入選作品について、評
者が感想を求め、それを参考に批評を掲載することはある。
     
 これまで、ぼくは独断と偏見をと断って講評をかいてきたが、作者の意図を測りかね、推
測だけで作者の意図に添わないことを述べても意味がなく、塾生同士の関心のポイントが何
処にあり、そのレベルがどの程度かを充分承知してから、今回はペンをとることにした。
     
 先ほど講評を書きながら、ふとかって仕事をともにした弟子たちの記憶がよみがえってき
た。教え教えられ、何が残ったかといえば、ほとんど大した変化も何もない。或る折々の縁
があり、運命共同体に相乗りし、創作という非合理な生活があっただけである。ぼくには、
人師と言える自信は、全くもてなかった。
     
  人師といえば、「3尺下がって師の影を踏まず」という諺があるが、これは間違った意訳
で単なる礼節を言い、江戸時代の塾で教えた原本、童子教には、「7尺を去りて師の影踏む
べからず」とあり、これが正しいといわれる。
 3尺では師の全容は見えず、7尺も離れると師匠のすべてが見え、弟子は師匠を人師とし
て教えを守り、免許皆伝を受ければ、さらに遊び間を持って師匠を冷静に批判できるだけの
力量を養い、師匠を乗り越え、自分の境地を開いてゆかねばならぬ、という。
 つまり、「出藍のほまれ」とはそんなことであろう。
    
    
  ぼくは一足先に生まれた者として、知れるものはすべて弟子たちに伝えようとした。一方、
時代の変遷とともに、ぼくは弟子から教えられることも多かった。彼らはありがたい仲間だ
った。先頃、そんなかっての第一号の弟子、添野清のポスター作品を紹介できたが、今回も
またそんな弟子の作品を参考作品として巻末に紹介したい。
    
  彼らは、ぼくの気ままで拙い指導にかかわらず、ある部分でぼくを越えており、そんな作
品を師匠として紹介できるのは、ほのぼのと嬉しく、近頃そんないい気分になれるのは、こ
んな時くらいである。

              < 月例 4月講評 >              

「ベゴニア」 西浦 正洋
    
  こうした花の4分の1を展開して1枚の写真に構成する例は、基本的なモンタージュとし
て数多く見られたが、それらはグラフィック・デザイナーの要求によるもので、写真家が作
品として発表されたものは意外と少ない。
    
 かねがねこの作者がモンタージュの実験をしてきた中で、この写真はスマートで佳作に属
するものといってよい。この作品の優れているところは、やわらかく気持ちのよい色相の組
み合わせとグラデーションのバランスよいコントラストから、ボリュームある立体感が表現
されていることである。この集約されたボリュウムは、試みにこの作品をだんだん離れなが
ら見ると、通常は弱くなるものが多いのが一般だが、この場合は強く感じるであろう。
 ぼくは、遠くからまた近くから見る大型のウインド・ディスプレーなどでは、こうした性
質を持つ作品を使用した。
     
 塾生間の評論の中で、問題にしていた中央の横線は不要である。雑音は切り捨てたほうが
よい。題名のベコニアは、この段階でもう実体から離れ、ベコニアによるグラフィック・ア
ートになるので、他の題名を考えるほうが、今後の自由な展開のためにもよいのではと思う。

        

「2本のチューリップ」 上田 寛
    
 まず、作者自身があるイメージを持ち、嫁さんと一緒に気にいった花を探し歩いたという
努力の効果は、あらわれている。
 構成は無難というか、この細身のフォルムを生かした、ソツがなくスッキリしているとこ
ろで作者のイメージは表現されたのではなかろうか。
   
 ここで彼は家庭スタジオのスタートを切ったわけだが、この画面、この時点での2,3の
バリエーションをアドバイスしておこう。この白バックはわずかにイエロー気味に見えるが、
こうした例では純粋な白にしたほうが更に無機質でシャープさを感じることが多い。
                                                                      
 さらに、その白さを少しオーバーにすると光を感じる後光(グローリー)効果を見せるよ
うになる。そのオーバーの程度は画面構成に応じて微妙にコントロールすることで、単なる
露出オーバーの印象にならないで済む。
 こうした印象を更に強くしたい場合に、ソフトフォーカス・レンズを上手に使った質感表
現をする例もある。いずれにしてもハレーション効果だが、ぼくは露出時間のラストの5分
の1くらいを拡大ズームで放射状の変化をつけたこともあった。
     
 スタジオでの造形的に厳しく端正な写真表現では、石元泰博氏。ソフトで動きのあるハイ
キー気味な表現では、吉田昭二氏の写真集「花化粧」(日本カメラ)など参考にされたい。

      

「チューリップ」 岡野 ゆき
    
 この写真の左半分は、スタジオにおけるプロ並みのライティングに近いものがある。しか
し、塾生間の批評でも、また本人もそれに全く気づいていなかったので、少し詳しく述べて
おくことにした。
    
 この写真を見た瞬間、ぼくは咲き切った花の、これから終わるであろう花の一ひら一ひら
が微妙なトーンで生きもののような動きのある表現、つまり随分手の入ったライティングが
なされているにもかかわらず、全体としての構成、テーマへの配慮が足らず、この花を支え
るバックアップ(シチュエーション)が感じられず、あと一歩で良い作品になったのに惜し
いことをしているな、と思った。 
     
 それにしても何時の間に、こんなライティングを会得したのか、本人に聞いてみた。
 このセットはバックに画用紙をおき、花の後ろ上方からの自然光をブリキの菓子箱の蓋の
裏面で反射された光を、花とバックの両方に当て、左手前からも白紙レフを使ったという。
     
 しかし、それだけではどうしてもここまでデリケートな照明にはならないので、さらにこ
のブリキを部分的に折り曲げて使ったのではないかと追求すると、このブリキの蓋の表面は
模様があり、それがプレスされて凸凹になっているという。ぼくの疑問は氷解した。まさに、
「ひょうたんから駒」という岡野式ライティングだったのだ。
    
 何時もこんな複雑な照明がよいというわけではないが、せっかくの発見、適材適所、生か
してもらいたい。

   

「子守り」 横山 健
    
 こうした写真は、ライティングも良く、そつなくまとめた定型パターンのようで、特に新
鮮味がないといった批評をする評論家がいるが、ぼくはこの作者が短期間でここまで撮れる
ようになった努力を買いたい。
    
 この一家の長女で赤ちゃんの子守りをしながら英語を勉強しているというこの写真は、何
か安堵を感じさせる作品である。この少女は赤ちゃんの面倒見がよく、母親に代わって丁寧
に何事も教えてゆく優しい少女であろうといった、その先々までうかがわせる。
 彼のコメントは中々達者でいつも感心するが、それを読む前にぼくはそんなことを感じた。
      
 Part28から注目され始めた彼の「ベドウィン家族」のシリーズのその後は、イスラエルか
ら帰国した後、まだ不十分なプリントながらすべてを持参されたので、そのあらましを見せ
てもらった。
 こうしたルポルタージュ写真家の著名な集団マグナムには、ぼくの写真界における保証人
であった故浜谷浩さんもそのメンバーとして名を連ねておられ、折々にその仲間たちの噂話
を聞くチャンスがあったが、それぞれに個性が強く、それぞれの写真家が評論家・哲学者・
アーチストなど諸々を兼ね備えたすばらしい社会人だという話が多かった。そんな集団の中
で、浜谷さんがお互いの自宅を訪問しあっていた親友が、カラーの魔術師と呼ばれたアーチ
スト、エルンスト・ハースであった。
    
 これから横山君がどんな写真家になるか、現在のところはまだ端緒をつかみかけている段
階で見当がつかないというのが、ぼくの正直な答えである。イスラエルでの写真はそのうち
に充分吟味して、写真とキャプションがまとまったストーリーの体裁を整えたものになった
ら、また持参するとか、その日を楽しみにしている。

 
 (註)今回もこの講座の性質(長期保存)から、月例出品作の中で佳作或いは問題を含  
       むもののみを取り上げ、それに関連した作品資料も参考に講評を行い、紙面の都   
       合上他は割愛した。  
   
            
   < 参考作品 >
< 武内俊明の作品 >

    
 今回の月例では、花に関連する講義が主体になったので、ぼくが認め自信を持って推奨で
きる花のユニークな作品を掲載し、解説することにした。
 作者の武内俊明くんは、ぼくの写真歴で言えば後期、49歳で南麻布にスタジオを新設し
た頃、新しく受け入れた6人の弟子のうちの一人であった。
     
 武内は、日大の写真学科に入学して2年生の時の入門だったが、大学での授業以外はぼく
のスタジオにいるほうが長かったという実戦の場での厳しい臨場感や、洋書輸入の専門店が
毎月持ってくる海外の写真雑誌や写真集などの新しい刺激をモロに受けたことがキッカケで
本格的にヤル気を起こしたという。
     
 その当時の彼の印象は、率直に言えば山里生れの12,3歳の自然児が、そのまんまの風
貌で青年になったような、ややギゴチないが不思議な雰囲気のある武内像として、ぼくの脳
裏には残っている。彼の素朴でガンコ、そして物おじしないナイーヴなキャラクターは、誰
からも親しまれる魅力があった。
     
    
 彼はそれから3年後、1度は海外へ出てみたいという希望から、あっさり日大を中退して
オーストラリアゆきを実行した。当時はほとんどがアメリカ、パリへの遊学が普通の時代、
あえて後進国へ行くようで仲間たちもいささか驚いた。でも、変わり者の彼のことだから元
気でカンガルーでも追っ駆けまわしているものと思っていたが、それが大はずれでオースト
ラリアン・ボーグにファッション作品や風景写真を当地の雑誌に掲載したりで、結構現地で
の勉強もしていたらしい。
      
 オーストラリアの光は強い。彼はキツイ光のリフレクションを生かした写真ばかりを撮っ
た。日本では感じることの出来なかった光を体験し、光と空気を撮る感覚を養った、光と影
の勉強をした時代だった、という。とにかく「自然光と太陽は神様だ」という彼は、そんな
環境で体当たりの生活から、ちょっと図太い根性を身につけて2年後に帰ってきた。
     
 その後今日まで、コマーシャルやアートとしての写真などを幅広く手がけて、チャゲとア
スカのレコードジャケットでNew York ADC賞、BeAliveのポスターで金賞を、またNT
Tの黒澤明ポスターで金賞を受けるなど中々良い仕事をしてきた。
 そんな中から今回は、プロの社会が秀作とみとめた、花の作品のごく一部を参考作品とし
て紹介することにした。

     

        カラー      1996

      アンティチョーク   1996

        あけび      1996

            

    これらの花は、彼の個展、「Flowers」展(玉川高島屋)の作品の中から、特にぼくが
   お気に入りとして選んだものである。
   
 彼の作品の特徴は、セクシャルなダイナミズムで、花さえもセクシャルな表現になる。 
 <ツイン>というタイトルは、作者に断ってこの場に限ってぼくが勝手につけたものだが、
それは展覧会場でこれらを見た瞬間、それぞれがぼくには内裏雛(だいりびな)、男雛・女
雛のようなしつくり似合いの一対と思えたからだ。 
   
 彼ははじめからツインを意識して撮ったわけではないが、たくさんの花をならべていても
気のおもむくままに花をえらび構成しているうちに、終わりには2本になってしまうことが
多いという。
    
    
 これらの花のライティングには、ハイエストがない。
    
 ぼくのスタジオでの撮影は、ダイヤなど光り物が多く、彼はダイヤの照明のキーポイント
はキラキラ光るハイエストで、それらの微妙な交じり合いが虹のようなファイアーを生み、
点光源が多いほど豪華に見えること、つまりシャンデリアのあるパーティ会場などその最た
るところだといったことまで十二分に身につけた筈である。
     
 しかし、デリケートなハイエストの過剰は、うるさく軽薄にもなりかねない。つまり、彼
は、ここに紹介した花の作品では、そうしたライティングの全く逆を行ったのである。
(尤もこのハイエストのないライティングでは、ダイヤはただのガラス玉になりかねないが)
    
    
 この辺でぼくは、こうしたライティングの効果につての種明かしをしておこう。
 つまり、ハイエストの立たないような光は、フラットで被写体の凹凸を細かく表す質感描
写は損なわれ、いわばフォトジェニックな表現からは遠ざかり平凡な写真になりかねない。
 しかし、彼はその辺のことは充分承知の上、そのギリギリのところで生まれるパステル調
のタッチで、花を大づかみした表現、スケールの大きさを感じさせる表現を試みたのだ。
 逆に言うと、大雑把で図々しいライティングともいえる。彼は、「逆も真なり」を地で行
ったのだ。
    
 とにかくここまで徹底すると、下手をすると単なるネムイ、鈍いといった力のない写真に
なってしまうが、彼は光の質と量の読みが深く、花や枝葉のフォルム、向き、バックのフォ
ルムとグラデーションの構成には微塵の遊びもなく、あえてある程度質感を飛ばしても成立
する厳しい配慮が見られる。
 もちろん、この厳しい配慮には、オリジナルから最終的なプリントに至る間で、必要があ
れば特殊技法を駆使することも含めてのことだが、このライティングの基本は変わらない。
(特殊技法については、僕の弟子たちは嫌になるほどマスクづくりをやらされるので、その
 手法は皆マスターしている。)
                                     
 シチュエーションの規模を決めるバックのハイライトのつけ方は、いろいろな光沢のある
布に微妙なカーブ、シワなどをつけ、照明で流れのような煙のような光を見せている。布だ
けでこんな光のハイライトを作り出すのは珍しく、布も多種多様、気に入ったのがあればど
んどん買ってくるという。
     
「あけび」は、バックに強烈な色相のカラー・プラスチックを選び、画面がハレーションを
起こしたような、その単純な一体感がもたらす表現がすばらしい。

◎ 下2作品は、写真をクリックすると大きくなります。

       菊     1996

        貝     1996

    

これら2点は、彼らしい物の見方の一端がわかるので取り上げた。
 
< 菊 >
 このモノクロームの作品は、菊には見えないかもしれないが、菊を裏側から見た姿である。
彼は菊の類型的な表の顔にはあまり興味が持てないという。何でもない写真に見えるかもし
れないが、なんともエネルギッシュな視覚表現に言うことはない。
     < 貝 >
 貝は、シンプルなトーンでの構成が美しい。白いバットに貝を置き水を張り、染料を入れ
て水を青くして撮影している。スタジオでの普通撮影ではブルーの色光で済ますところだが、
創作の原点はアナログ、彼にはそんな要領は通用しない。
    
    
 日常、スタジオでの手を代え品を変えての複雑なライティングは、プロの基本的な常識、
技量の習得として必要だが、さらに進めて、武内が「正面構成を主な要素とすることと、渋
いハイエストのないライティングで、よりスケールが大きく重厚な表現とした」これらの作
品には、「シンプルで人間のエネルギーを発散するような写真を撮ってゆきたい」と、いう
武内の亜流を許さない意欲が窺われる。
   
 また、彼がいう「最終的に見る人々に感動を与えられるのは、技術ではなく撮影者の視点
です。」というのは、ズバリ正鵠なことである。
    
 こうした静かでユニークな作品は珍しく、ゆっくり熟視、玩味してもらいたい。
 彼の他の作品については、また機会を見て紹介したい。
    
    
  (この項については、もう随分古いことで記憶も定かでないので1987年のコマーシ
   ャルフォトに武内俊明の仕事が特集・掲載された記事を参照しながら紹介した)

  (註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
 週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
 その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
 居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
 僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
 (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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