<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (29) ☆          月例会先生評(2005年1月)                < 推敲について >                 

 今月は、先月の講座で、リラックスできる話題として「閑話休題」、自分の気質を生かし
た写真をといった話をしたせいか、塾生諸君の提出作品はそれぞれに自分の気質を率直に出
したと思われるものだったが、リラックスのしすぎが目についた。
     
 そうしたぼくの眼には、ほとんど推敲の痕跡が感じられない写真が多く、一瞬、推敲をし
ないのが自分の気質では、答えようがないとさえ思った。月例会を異例の年4回としたので
十分推敲の時間もあり、今回はどんな秀作、佳作、いや出来損なってもいい、ぼくの目が点
になるような作品など、もしやと希うのがぼくの立場である。
     
 そして、いつも思うことがある。ぼくの家は禅宗で、教師の父が冬の寒夜、川原にむしろ
を敷いて座禅を組むといった人だったので、人一倍乱暴者だったぼくは小学一年生のころか
ら中学に至るまで、説教の嵐を浴びてきた。                     
 その中で不思議に残っている言葉に、菩提心というのがあった。菩提心とは、「おのれ未
だ救われざるに、他を救わんと願う」ことだという。その効用からか、ぼくのような古い人
間は、「ぼくは下手な写真をやって来て、それでいて、みなさんに教えようなどというのは
どうしたことなのか」といったところへ里帰りして、落ち着き、またこだわりを忘れる。
     
    
    
< 再び、トリミングについて >
     
 写真には、2度のチャンスがあり、推敲やトリミングについては、何度も取り上げてきた
ので十分に心得ているはずだが、この講座は塾生以外にもかなり新しい方が見ておられるこ
とがわかってきたので、キ−ポイントのみを簡明に列記しておく。
    
 1度目のチャンスには、「自分は何に感動したのか、何をどのように表現したいのか、し
つかり目を見開いて被写体を見つめることだ。脳裏に完成時のフレ−ムをもち、どの位置か
ら、どんなタイミングで写しとめるか」である。
 いい加減な位置から、いきなりファインダ−を覗き、小さなファインダ−の中で、写真を
探すようでは、上達はおぼつかない。まぐれ当たりはめったにない。
    
 2度目のチャンスは、撮影時にもうほとんどわかっていることだが、どの写真を選択する
か、構成要素のバランス、空間と余白の選別、色彩の調整などを厳密に行うこと。それにし
たがってできれば、再撮影することが推敲であり、それができない場合に密度をあげ意図を
明確にする主な作業がトリミングである。
     
 ぼくは、丹平写真倶楽部に入会した25歳当時、全紙のプリントを2センチメ−トル、ト
リミングするのに、ああでもない、こうでもないで2時間も考えたことがあった。    
 その後、展覧会に出品する作品は、トリミングを変えた四つ切りのフルサイズ数枚を作っ
て、毎度非常に厳密な検討をするのが習慣になった。そのことは、現場での撮影時の厳しい
構成に役立っことになった。諸君にも勧めたいことである。
     
 本来、構成は作者の意図を示すもので、手を加えるのは避けたいが、今月の出品作には、
問題点が多く、平面芸術の中ではまた写真特性も含めたトリミングの研究は必要として、そ
んな写真のみを選んで講義とした。トリミング参考例はいずれも左側が作者原画である。
   
   
   
            < その他の出品作について >
     
 今月例、全作品を眺めて、おおむね自分なりのレベルは守っているものが多かったが、秀
作、佳作は見当たらず、掲載・論評は割愛した。

            

「色彩」  西浦正洋
      
 この風景を見たとき、ぼくは作者が現場であれこれ戸惑う姿がうかんだ。
     
 それは、ぼくがこんな現場でいつも体験した姿だったかも知れない。
 紅葉した秋景は何処をみても美しく気分も高揚するが、やがて食傷気味になり、もうかな
り撮ったのでこの辺でよかろうといったことで帰宅し、その翌日現像の上りをみて、がっか
りした経験がぼくは多かった。つまり、綺麗には写ってはいるが、紅葉の色香に惑わされ、
何処かで見たような域から抜きん出たものは、ほとんど無かったからである。
    
 結論を急ごう。この場合に限って言えば、作者は画面左側の紅葉よりも際立って白く光る
木肌に惹かれながら、対比として左側に一般的な紅葉部を入れた構成をしたと思われるが、
それがかえってスケ−ルを小さくしてしまった。                   
 殊に、パソコン上での小さな画面では、左側の色サンプルのような小部分は切り捨て、白
く光り輝く木肌だけをテ−マにした方がスマ−トで、臨場感があり迫力もでる。 
    
 もし、左側の紅葉部を入れた構成をする場合には、被写体の質感表現も参加できる少なく
とも四つ切り以上全紙位のサイズで、画面を左右半々に分けるくらいの大胆な対比で、左右
が拮抗し、競い合うといった構成で見せるよう考えれば、スケ−ルの大きい作品になる。
 このことは、屏風絵や大型の現代絵画なども参考になろう。
   

              

「短日」    大住恭仁子
    
 この作者は、街角の寸景をとらえるのが中々にうまい。印象派のようなセンスがこのとこ
ろモノクロに集中しているのが、効を奏しているのかも知れない。
    
 一般に電柱は風景写真家にとっては厄介な代物だが、もしこれが樹木なら繁茂しすぎで剪
定したくなるような乱雑でうっとうしいこの電柱を、冬の短か日の光と影、何ともいいよう
のない物悲しい風景として見せたところに、ぼくは同感した。
     
 惜しむらくは、徹底した推敲が足りない。電柱と雲と壁面への照り返しに集中し、右のシ
ャド−ラインで引き締めるだけで十分である。左側の窓を十分に取り入れたい気持ちは分か
るが、それは軽いム−ドに過ぎず、切り捨てた正方形の方が印象は強くなる。ぼくは、そん
な思いきりのよさも必要な参考例としてトリミングをしてみた。
   

              

     「ゆりの花のある窓」    上田寛
   
 自分の気質にあった被写体として、窓、玄関シリ−ズを折々に撮り続けているこの作者の
努力をぼくは見守っている。だだ今回の提出作は、こんな窓を見かけましたといった記録性
が先行するようで、彼らしさを特徴づげる彼が発見した造形が曖昧なところが気になった。
    
 もし、彼が窓としての記録性にとらわず、建造物の周辺における新しい造形の発見として
の表現なら、窓枠にとらわれないこうしたトリミングはどうだろうかというのが、ぼくの提
案である。この場合の情景、説明としての窓枠は、せっかくのユニ−クな内容を弱めるもの
として切り捨て、雑音のようなハイライトやシミなどはレタッチで消してある。
    
 窓や玄関などの作品では、ぼくの友人のデザイナ−で写真も達者だった増田正君のヨ−ロ
ッパでの立派な写真集があり、参考として図書館で一見の価値がある。
     
 また、こうした装飾性の強い造形では、書き言葉をもたず、自分の手になる「歴史」記述
を残さなかったというケルト人による壮大な文化を一応覗いておくことも大切だと思う。 
      
 ケルト美術とは、紀元前700年頃(第一鉄器分化の開始)から、後にゲルマン=ロ−マ
に追われてたどりついたアイルランドなど極西の島嶼地方で花咲かせた初期キリスト教文化
の時代(7〜9世紀)までに創造された美術をさしている。つまり、ヨ−ロッパ装飾文化の
原点である。
   

         
              

「荒野にあるベドゥイン家族のテント」    横山健
    
 まだ、帰国後に会っていないので他にどんな写真があるか分からないが、提出されたこの
2点は、君にとってはかなりの佳作である。
 こんな雷鳴のシ−ンは彼にとっては始めての撮影であったというが、何とかこれだけの物
が写っていたというのは、僥倖といえよう。大伸ばしの展覧会では原画そのままのこうした
写真も悪くないが、グラフ誌などでの小紙面では遠花火をみるようで臨場感が乏しくなる。
一応参考としてトリミングして見たのがこれである。
     
 このトリミングしたプリントについては、ちょっと断っておきたいことがある。
 横山君の原画は、不便な現地での処理のせいか現像ムラがあってかなり変調だった。上と
左を切り詰めるだけでは、どうにもバランスがとれないので、ぼくはほとんど本能的に、そ
の昔、丹平写真倶楽部時代にこんなネガでやったような焼き込み、覆い焼きなどをやってし
まった。現像ムラを逆用するようなコントロールもした結果がこの画面で、作者には申し訳
ないが、久々に結構楽しませてもらった。

「羊追い」    横山健
   
 この原画のままでは、上下左右とも周辺部が余白に感じられる。切りすぎてはスケ−ルを
失うので、慎重なトリミングが必要だが、緊張感と動きを考慮して、ぼくならこうするだろ
うという一例がこれである。                            
 君ならどうするか、推敲してみることは、次への内容も含めたより高いステップになる。
    
 この例では、羊の群れの左側を詰め、子供の右側を広くとってある。         
 古くからの人物の名画に、ポ−トレ−トの横顔で、鼻先が詰めてあるのと余裕をとってあ
る2種類の構成があるが、それらもまた参考になることがある。

            < 今月の話題作 >    

「日の本」   藤本茂樹

 ぼくは、この写真を見て、言語不明瞭、「これは何だ?」ということから、塾生間の月例
会の討論の場であるメ−リングリストを注意して見ることになった。
 ところが、これに対する評論はなかなか出てこないで、やっと出てきたのが「相撲の世界
も国際化、外国人力士の活躍が目立ちます。武蔵丸は矢に射られてしまうのでしょうか? 
(すみません、そんな意味ではありませんよね。)とあり、ぼくは吹き出してしまった。
    
 意図を図りかねたぼくは、作者に聞いてみた。彼はヤブサメ、土俵入りにづづいて3つ目
の写真として、自分が得意とする舞楽など舞う女を入れようとしたがうまく行かず、正月も
近いことから右上隅に朝焼けの空を入れたつもりが夕焼けのようになり、失敗したという。
これで事情は判明した。
     
 とにかく、ぼくはそんな失敗作を提出した彼の勇気に応えて、かねてから制作過程でアナ
ログよりはるかに効率の良いデジタルによる合成写真が、これからはあらゆる意味で進出す
るのが自然な帰結と見ていたので、まだ一般にはなじみが薄いが、「合成写真のオ−ソリテ
ィ」の仕事を紹介することにした。

    

 
     <参考作品>
 < 木村恒久の合成写真作品 >     
 ぼくは幸いなことに、何人かの素晴らしい友人に恵まれており、それもずいぶん若い頃か
らのつき合いで、木村恒久君もその一人である。彼は若い頃は、変人・奇人と言われていた
が、中年頃からは奇才・鬼才・畏才・偉才と世の中が呼び方を変えていった。
    
 彼本来の仕事は、グラフィックデザイナ−で日本デザインセンタ−などで日本鋼管などの
重厚なデザインをしていたが、ぼくとやった主な仕事では、万博の矛盾の壁、美濃部都知事
選のポスタ−、平凡社の思想全集の表紙その他があるが、まだ常人であった。
    
 それが1967年頃から不思議な合成写真の創作を始め、ぼくは彼の精力的な仕事ぶりに圧倒
され、まだアナログ時代の雑多な写真の複写、引き伸ばしをずいぶん手伝った。このまだ売
れなかった作品が、やがて浸透し始めると追々に変人・奇人が通り相場となった。    
 近頃は、NHKの日曜美術館などでしゃべるようになったが、ドイツのジョン・ハ−トフ
ィ−ルド(1932年代) 以来のこの分野での映像作家として世界の偉才といわれる。
     
 彼の合成手法は、アナログ時代は手作り、切り張りだったが、1980年代あたりから、大日
本、凸版など大手の印刷会社の協力で大型のコンピュ−タ−を使い、ハイパ−リアリズムの
ような焦点深度を気にしない全面シャ−プな写真表現を駆使したものになっている。  
 百聞は、一見にしかず、ぜひ図書館などで、見られるよう薦めます。
    
 彼の変身ぶりは、彼の著作「キムラカメラ」、「What?」などの評論で、小松左京、
中原祐介その他の人々による解説があるので、これらを引用しながらその特質を箇条書きで
紹介するので、これらを総合しておおよそのことを想像願いたい。
    
   
○彼は、フォト・モンタ−ジュで写真自体が持っている「運命の記録性」を逆手につかって
 「運命のヴィジョン=悪夢」を作り出してみせる。
    
○彼は、こっけいなものを真実として示し、真実をこっけいなものとして示す。
    
○彼の作品のイメ−ジは、宇宙的といえる深さ、宇宙的ビジョンとでもいうべき壮大さを示
 し、皮肉や風刺や批判を内に含みながらも、作品はそれらを越えた地平に立ちつつある。
      
○彼は安易なパロディーはやらない。モンタ−ジュとかコラ−ジュが、いまどこか安易な選
 択技の一つと見られているが、彼の作品はモンタ−ジュはここまでできるということを言
 いたいような気がする。
      

    

 

   A <都市はさわやかな朝を迎える> 1975                  
 Aの作品は、多分、みなさんも何処かで見た記憶があるだろう。
 このマンハッタンと南米のイグアスの滝の合成作品は、洪水による破局的なすさまじさと
みる人が多いが、そんな概念をこえてイメ−ジの美しささえある。作者のつけたタイトルは
やはり木村君ならではのもので何とも言いようがない。作品とともに秀作であろう。
             (以下の作品は、画像をクリックすると大きな作品を見ることができます。)  

B <ヒップ・ホップ・ビーツ> 1979
 木村君はかなり変わった男で、Bのような不思議
な作品をつくっているかとおもうと、突如、Cのよ
うな生真面目な作品を創り始めて、延々とエントロ
ピ−の法則の話を始めたりする。
 つまり、自分勝手な人類が地球資源の浪費から、
膨大な公害物質の堆積で、破滅的な結果がおとずれ
るというのが彼の作品Cだが、このシ−ンは銀座・
数寄屋橋界隈の風景で、ぼくも手伝ったので、明確
に覚えている。
  
 先頃のインドネシアの大つなみ被害のテレビをみ
たとき、この画面を思い出し、あまりの類似性に驚
いた。彼には預言者のような作品もかなりある。
     
 彼のつけたCのタイトルは、公害物質の堆積で東
京が陥落すると皮肉っぽいが現実の津波予言として
も陥落というのは現実味があって恐ろしい。Dは、
サラリ−マンの現実の岐路を暗示するようであり、
Fは博物館で子供たちに大人気の恐竜が、演歌のタ
イトルでの登場には恐れ入る。彼の会話はいつもこ
んな調子だから、タイトルと画面とをよく見ると興
味は尽きないだろう。
 作品Eはぼくには予想外の作品で、「してやられ
たり」といったところ、傑作である。     

     

C <陥落寸前の首都東京> 1975

D <ぼくを探す1.右むけ左>  1989

E <「日常的風景」遺伝子を操作する          クロ−ンの羊たち>  1997

    F <骨まで愛して> 1991     
 

 G <光速列車の客> 1994        

  作品Gのこの舌を出している乗客は、原爆産みの親、アインシュタインである。
  (その向こう側の席には木村君も舌を出して乗っているのだろうか?)
   
    
     
 どこまでが本当かわからぬが彼はビートルズとプロレスと唸る都はるみが好きだという。
そんな彼が創りだす夢と予言にみちた現実と表裏一体の衝撃的なグラフィック・ドキュメン
トは、実に簡明直截で深さがある。
 モンタ−ジュの基本は、異時限、異空間の組み合わせがかもし出す不可思議なリアリティ
おもしろさにあると思うが、下に木村君自身のコメントの一端を加えておこう。
     
     
 「モンタ−ジュの様式は、簡単に答のでぬ疑問を持ち続ける「What?」が身上なら、
矛盾こそ意味のある現象と解することができる」。                  
「異なる映像断片が出会うモンタ−ジュのステ−ジは、イマ−ジュのプラットホ−ム現象で
もある。プラットホ−ムでの相乗効果は、ばらばらの映像単位に意味の偶然の一致の「縁」
をもたらす。この絡みからモンタ−ジュは、映像で想像する独自の物語性を刻みだす。モン
タ−ジュの特色であるパッチワ−ク画法は、奇想の出会いを求める、プラットホ−ムの寓話
である。モンタ−ジユ(物語)の空へ。(木村恒久 東京造形大学客員教授)
    
 彼のコメントはよくわかったであろうか。よく解った人は、あなたも奇才の人である。
 (でも、ゆっくりゆっくり読めばわからぬ話ではない。)
     
 ぼくは彼の早口で難解なセリフが終わったところで、「どうしてそんなに解りにくい
 話をするのか」と聞いたら、「物事は、そう簡単にわかってはおもしろくないから、
 わざと解りにくくしゃべるのだ」という答が返ってきた。
    
         (参考資料)
        <キムラカメラ> 木村恒久著 PARCO 出版  (¥2500)
        <What?>  木村恒久著 株式会社 白夜書房 (¥5700)

 

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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