<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (24) ☆          月例会先生評(2004年1月)                < 時間は資源である >              

    今月は、塾生諸君の作品を眺めるうちに、苗代に蒔いた種がやっと芽を吹き、黄
  緑の若葉が小さく風にゆれている風景を眺めているような気分になった。    
   つまり、小粒ながら苗が揃ってきたのだ。ずいぶん失礼な言い方かも知れないが
  そんな実感で、ぼくは気分が楽になった。                  
    
   月例会というものは、出品作品を前にして、気楽に意見を述べ合い、時には厳し
  い討論をする場である。ところがこれまでの例会の多くは、漠然とし過ぎて材料に
  事欠き、ぼくは何か関連するテ−マを探し考え、その講義で穴埋めし、毎月厳しい
  講座を書いているようで重苦しく疲れもした。               
                                        
    
 インタ−ネット上での月例会での指導は、非常にむつかしい。
 ぼくは、独学で写真家になったせいもあるが、同じことを繰り返すのが嫌いで、スタジオ
での月例会もその時期によって、やり方も全くさまざまだったが、インタ−ネットでは目の
前で顔が見えず、反応が遅く、意見の交換も遠い山彦のようで、これほど効率の悪い月例会
は初めて体験した。でも、これからはすこしづつ良くなりそうな予感がする。
    
 ぼくは社会人としての月例会も考えてみた。ぼくは、サラリ−マンの体験は写真誌編集者
の1年半だけで、後はフリ−タ−のようなもので、会社を持っても本人は勝手ままなフリ−
タ−気分は抜けなかった。しかし、独学する者の常で、人が10年かかるところは2年で、
5年なら1年でといった無鉄砲な計画を実行しょうとした。    
    
 もちろん、すべてがうまく行くわけがないが、自分の特に気にいったプランは、好奇心と
執念で何とか目的の3分の2くらいまではたどり着けた。            
 作家の村上龍は、「フリ−タ−に未来はない」とよく発言しているが、それはビジョンを
持たないフリ−タ−のことで、目的意識もなくトレ−ニングもせず、本当は不安なのに何と
かなるだろうと思考停止している人たちのことだと述べている。彼の論説はぼくの考え方と
かなり近いので、ぼくの考えも加えながら、後少し引用してみよう。
    
   
 時間はその人の貴重な資源で、好奇心の対象が見つかれば、学ぶことの重要性が自然にわ
かってくる。若者や子供に未来があるというのは、時間という資源をたくさん持っているか
らで、それ以外にはない。ただ、マクロで教育をみると、どうしても最後は法律を変えると
かシステム変えるといった話になり、それは官僚や政治家の仕事で、下手をすると10年く
らいかかる。これでは子供は大人になってしまう。それでは遅すぎるのだ。
     
 政府は最低のセ−フティネットを作った後は、ある程度放っておくほうがいい。
 子供がもっている膨大な時間は、その子供の好奇心の対象を探すために、そして探した後
にその対象を通して社会や世界を知るために使うのが合理的である。
    
 中高年になると時間という資源が減ってくる。その大切さを十二分に認識しないと自分の
好きな仕事もゴルフも写真もやって行けない。                    
 これまでの社会は、いい学校、いい会社、それで人生は安泰という時代が長く続いたので
それに代わる標準モデルが見いだせないで困惑しているのが現状である。自分の人生は自分
で決めるもの。自分の好きな仕事で、経済的に自立し、ひとりひとりの自由を獲得すること
である。といったシンプルな事実を彼は述べている。                 
     
  先日、久々に写真家の友人宅を訪ねた。彼は古稀、ぼくは喜寿を過ぎた。それが2時
 間の訪問のつもりが6時間も「やおよろずの写真文化?」についてしゃべり合った。
  最後に、彼の奥方から「二人とも好奇心いっぱいの子供のままで年を取ったようなも
 のだ」と云われ、ぼくたちは「ずいぶん老けた子供だな」と大笑いした。
  相変わらずの雀百まで...である。

        

< 月例 1月講評 >

   
     
 今回は、なるべく理論的な話は控えめに、ぼくもこの例会の現場に出席したつもりで、ズ
バリ率直な発言をし、また勝手な要望もしてみたいと思う。
 作品の選択は、第三者も見られるので、そうした向きにも分かりやすい問題もふくむ作品
を掲載した。今回の森下、成瀬君の写真には、特に問題としていうことはないので、次回の
テ−マ「家族写真」の時、一環として話すつもりでいる。

           

「輝く湖面」 嶋尾繁則

「夜明け」 嶋尾繁則

 提出された4点の写真は、かなり長く風景写真を手がけてきた嶋尾君のレベルを示す佳作
といってよかろう。
 いずれもありふれた被写体を、光の捉え方、トリミングでそつなくまとめている。   
    
 「輝く湖面」は、やや後ろ寄りのトップライトがバックの微妙な明暗と奥行きを表し、微
風で輝く水面も過不足なく、品位ある作品になっている。               
 「夜明け」は、水面のグラデ−ションのバランスがよく、丁寧な表現が作品にしている。
上部のスペ−スは軽く見られがちだが、この場合は構成要素として大切な部分である。ハイ
ライト部分がやや右に傾いているのは注意すべきで、水平なトリミングとすること。   
     
 ところで、これらの作品は、謹厳実直、嶋尾君の人柄そのものといった、安心して鑑賞で
きるものだが、これから更にダイナミックな或は切れ味のいい写真表現をするには、どうす
ればよいものかが彼自身の課題であろう。
   

              

「赤いベンチ」 上田寛

「窓の向こうのクリスマス」 上田寛

 「赤いベンチ」は、ちょっと気の利いた椅子、被写体である。バックの出窓も悪くない。
しかし、これらを生かした作品になっているかという話になると、この段階では物を発見し
た記録に終わり、本人も満足、納得してはいないのではなかろうか。          
                                         
 ぼくもこうした被写体は好きで、ヨ−ロッパやアメリカではかなりの撮影をした。
 通りがかったスナップもあるが、本当に気にいったものは、その家に断って物を動かせ自
分の納得のゆく構成をして撮影した。その場合は、レンズの長短の選択、デフォルメも構成
を大幅に変えるために駆使した。上田君もそんな試みをしてみれば、ぼくのいう作品の意味
が体験できるだろう。
    
 「窓の向こうのクリスマス」は、見た瞬間、惜しいことをしたなと思った。
 簡単にいうと、左の窓は右半分だけで十分電飾のあるツリ−がわかる。メインは右サイド
のこの風変わりで趣のある照明と影を強調して構成すればかなりの雰囲気のある独自の世界
が展開できるとぼくは思った。もちろん、左右の明るさのバランスは光源の点滅や黒紙でカ
ットしたりする。また黒バックではモンタ−ジュで左右の大小の比例は簡単に変えられる。
   

              

「冬陽」1  大住恭仁子

「冬陽」2  大住恭仁子

「冬陽」3  大住恭仁子

 大住流といえる雰囲気のある複数の写真だが、[冬陽」という印象を強くイメ−ジづける
には、個々の写真がリリシズム風といった甘さがあってパンチが弱い。もう一歩不思議とも
思える力強さ、抽象化された光と影の表現が欲しいところである。それをしっかり見つめ意
識するだけで、物のも見方も表現も変わってしまうだろう。再度の挑戦を期待する。   
                                         
 このままでは、俳句の12月の季語である「冬日」で終ってしまう。         
 こうした表現は、組写真とは言わず、連作という方が適切である。          
                                         
 他の1点に、女性の半身像のポスタ−とタイル壁の対比を見せたものがあるが、画面構成
が悪く使えない。ただ、こうした異質・意外性のある物を表現のバラエティとして加えるの
は、まま有効に働くことがあり、着眼点はよい。
   

             

「Cnsutraction」6-1 西浦正洋

「Cnsutraction」6-3 西浦正洋

「Cnsutraction」6-6 西浦正洋

 6枚組の出品だが、スペ−スの関係で3点を材料に話すことにする。         
 これら鉄骨構造物は生真面目に撮られており、好感がもてる。記録としては、これだけ撮
れれば何も言うことはないが、こうした建築物に興味を持ち作品をつくろうとする向きには
もう一歩踏み込む必要がある。ぼくの友人たちが建築写真家として成立しているキ−ポイン
トにちょっと触れておく。                             
                                         
 例えば、「Constraction 6-1 」は、シンメトリ−な構造の写真だが、よく見ると天井ア
−チのセンタ−が左にずれている。つまり建築写真ならカメラを少し左に移動して、ア−チ
の最頂部は正面窓の頂点にあって、こちらに向かってくる梁は、もう少し右に寄る位置で、
真直ぐに見えるのが原則である。(この場合、場所的にセンタ−に位置することが不可能だ
ったか?)
    
 シンメトリ−な構造で、センタ−位置が合っていないと、写真としてもシンメトリ−の厳
しさが弱くなる。ア−チもまた力点が中心線をはずれて見える写真では不用意となる。  
 こうしたポイントの延長は接続部のリベットにまで及ぶが、ちょっと構造力学の本を読め
ばすぐにわかるので、一読を勧めたい。ぼくはその昔、橋梁美学に凝ったこともあるが、建
造物に対する見方も深くなり、結構楽しいものである。
    
 「Constraction 6-6 」は、外観の一部を思わせる写真(鏡面像?)だが、誰しもあわせ
て外観の全体やイメ−ジを見たいと思うのも一般で、ぜひそんな一枚も欲しいところだ。普
通の表現だけでなく全体像を夜景などで、シンボライズしたものを見せることもある。
   

          

「NO.1」 藤本茂樹

「NO.3」 藤本茂樹

「NO.5」 藤本茂樹

 「No.1」は、かなりよくできたロングだが、前景にある白いボケた2つの塊は、目障
りで焼き込み、その他で黒くした方がよい。報道写真では修正は禁物だが、一般写真では主
題を損なう雑音、挟雑物は弱めるか取ってしまうのが普通である。           
                     
 他の2点は、ぼくのトリミングの話が利き過ぎてか、トリミングのやり過ぎである。  
 「No.3」は、左と下を切りすぎて肝心の人物の衣装がよくわからない。「No.5」
は、右の顔ギリギリのカットで、顔が壁に押しつけられているようだ。         
 とにかく窮屈と見られる程の行き過ぎも、やってみなければわからない。行き過ぎたら引
き返せばいいだけのことであり、いい体験であろう。
 写真そのものの質は、何度もトライしてきただけに内容はかなり充実してきた

               

「Shall we dance? 3」 阿部政裕

「Shall we dance? 4」 阿部政裕

 「Shall we dance ? 3」と「Shall we dance ? 4」では、まるでレベルが違う。
 「3 」は、間延びして意図がよくわからない。「 4」は、これまで阿部君がこうしたもの
に取り組んで初めて形をなしたものであろう。
     
 「Shall we dance ? 4」の明確な特色は、この踊り集団の赤いシンボル・マ−クのついた
衣装の背中と白塗した女性のまぶたと唇の赤をマッチさせようと試みたことである。
 女性の顔の向きが動きのある横顔である瞬間がひとつのチャンスであり、衣装の紫とオレ
ンジは補色で効果を上げている。 
 これでバックが本物のよさこい踊りの現場なら相当の迫力があるだろう。

「虹」   岡野ゆき

         

こうした風景は、誰でも撮りそうであまり見かけない作品で、意外な新鮮さがある。
 画面はシンプルそのもの、手前の稲の切り株だけが連なる田んぼの向こうには、まばらな
村落があってそこまでは日陰になり、その向こうの高みには、太陽の射す白い町並みが浮か
び上がる。その上空はかなり厚い冬雲に覆われて小さな虹がかかっている。
     
 こうした風景は、地方のルポルタ−ジュで、プロ写真家なら必ず小高い丘などに上がって
まずその町や村の全景を撮るケ−スに似ている。この時ベテランの写真家は全景を横画だけ
でなく、縦画も撮っておくという話を林忠彦、浜谷浩の二人の先輩から聞いたことがある。
    
 町や村の全景を縦画で撮るというのは、本や雑誌のトップ・ペ−ジは、見開きで始まるこ
とは少なく、ほとんどが片ペ−ジで始まるので、そのために撮っておくという。
 しかし、町や村の全貌を思わせる縦画での見せ方は非常にむつかしく、前景処理や構成に
苦労するが、そんな制約が時に非常にユニ−クな作品を生むことがあるという。そんな試み
もやってみたらどうだろう。
    
 ところで、この写真のピントの甘さは、非常に気になる。普通こうした風景作品は、8×
10の大型カメラで、ギリギリのシャ−プさを生かした写真表現が多いので、これに関連し
て、アンセル・アダムスの歴史的な作品を参考までに紹介しておく。

                  

<参考>                                                                           

「月の出」 1941 アンセル・アダムス    

 これは、アンセルの最も有名な作品である。8×10の大型カメラによるデ−タ−には、
「ニュ−メキシコ・ヘルナンデス、10月31日、午後4時5分に撮影された」とある。
 アンセルがこの場所を車で通りかかった時、目に飛び込んだ風景は、一条の落陽に立ち並
ぶ墓標が白く輝き、遠い山脈には低く白く流れるような雲がたなびき、その上には月が出て
いるという申分のない決定的瞬間であったという。
    
 大急ぎで、8×10カメラをセットして1枚のシャッタ−を切った直後には、太陽はもう
厚い雲にさえぎられ、何の変哲もないフラットな風景に変わってしまったという。
 このシャ−プな大風景が、PCの小さい画面でどれだけわかるものか、チャンスがあれば
アンセルの画集で確かめてもらいたい。

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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