<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (23) ☆          月例会先生評(2003年11月)                < 個性ある写真は身体で撮る >              

   前回は、テ−マの技術的な解釈にとらわれすぎた表現に当惑したが、今月の例会はリ
  ラックスして見られる写真が多く、正直なところホッとした。しかし、相変わらず詰め
  の甘さ、言語不明瞭、そして、燃焼不足が目につく。          
    
 ぼくはこうした原稿を書きながらいつも思う。「何かを教わる時、教条的に言われてもそ
れは伝わらない。学ぶという行為はその人本人の経験と感動によってしかできないのだ。ぼ
くは何か過ちをおかしてはいないだろうか。」ということである。このことは対面できない
遠隔操作のようなインタ−ネット上ではことさら難しいのではなかろうか。
    
 ところで、この講座を始めて3年あまり、塾も2年を越えた。
 ぼくは講座と銘打った以上は、孫弟子、写真学校の後輩たちにもいくらかでも参考になれ
ばと、写真の簡略な歴史、写真論の基礎知識など文化史を交えながら書いてきた。
 その中で、「個性的な表現」という言葉がよく出てくるが、一部にやや誤解をされている
向きもあるように見受けられるので、このところ、ぼくは「全身で撮る」、「感性で撮る」
などとことさらに注釈をしているが、このことに少し触れておきたい。
    
    
 ぼくが若い頃に読んだ本には、絵画は絵筆を使う情緒的な仕事、写真は文明の利器を使う
知的な仕事だといったことが書いてあった。それが写真に深入りするほどにすべての創作は
「全身全霊を使う重労働である」という認識に、ぼくは変わっていった。
     
 「個性」というと、心にあると思うのが一般的だが、写真家を長くやっていると、そう思
うことが間違いの元だということがわかってくる。                  
 ぼくは脳の本を乱読してきたが、近頃、こうした話では、脳生理学者の養老孟司氏の反語
を使いながらの解説が軽妙で実に分かりやすい。その一部を要約してみよう。
    
   
 彼は「個性とは身体にある」という。まず顔が違う、親子の間で皮膚を移植しても絶対に
つかない。身体は自分と他人を、たとえ親であっても区別する。だから個性とは、じつは身
体そのものである。                                
 心とは、何かといえば、それは共通性そのものである。言葉も感情も共通しないと通じな
い。心に共通性があるから、喜怒哀楽、周囲の人も共感してくれる。ほんとに心に個性があ
ったとしたら、他人に理解できないことを理解し、感じられないことを感じている人がいた
ら、それはまさに病気である。だから心に個性があると思うのはムダである。      
    
    
 この説を長々と紹介していると紙数がつきてしまうので、このへんからぼくの言う五感、
感性、全身全霊を加えて話を進める。
   
 つまり身体は個性だというのは、たとえば野球選手のイチロ−などをみればすぐわかる。
彼の素質と共にあそこまで鍛えられた身体は、ぼくらにはとうてい真似のできない個性であ
るという。写真も同様で頭だけでの文化史の解釈やプランニングだけでは、ア−ト、ア−ト
した空々しい理屈っぽいものになりかねない。音楽の満ちあふれたウイ−ンに生まれ、鍛え
られ、磨かれた五感で撮られたエルンスト・ハ−スの作品にはすばらしい個性が見られる。
 もちろん、頭は大切である。頭はプロセスを考えたり、作品の分析など撮影の前後には重
要な仕事をする。                                 
    
 ぼくが講座でいう「見ると観る」は、ズ−ムレンズで絵を捜すことではなく、自分なりの
個性ある身体が、ほとんど本能的に移動してカメラ・ポジションを発見することである。 
 また、最後は突如として飛んできたボ−ルをとっさに受け止めることができるかどうかに
懸かっているのだ。
   
「イメ−ジが湧くと仕事が速い」というイメ−ジは、それまでの体感的蓄積が予兆を感じる
ということで、頭の片隅で偏差値が高いだけの頭脳でイメ−ジするといったことではない。

        

< 月例 11月講評 >

   
     
  書き出しで、「相変わらず詰めの甘さ」といったのは、トリミングのことである。
 もう2年前のワンポイント・レッスンで、写真には3度のチャンスがあり、撮影時とネガ
の選択時とプリント時の画面整理・密度を上げるためのトリミングの解説をしたが、これは
あくまで救済措置のようなものである。
                          
 本当のトリミングは、本番の撮影で「不意打ちをくわせるトリミング」、ユニ−クな表現
ができるかどうかが問題である。
     
 また、今回は「よさこい人」という例題から「メ−ク・アップされた人間」をどう表現す
るか、さらに「肉体のドラマ」の在り方など、これはかなり解釈、表現に多くの問題を含む
ので、終わりにまとめて述べておく。
 今月も特に記録に残す秀作は見られず、個々の講評は行わず、総評的なアドバイスを加え
ることにした。

           

原画

トリム 修正

< 浮き立つ雲 >   
 ぼくの印象を率直に述べると、見た瞬間、なんとも間延びした構成だと思ったが、浮き立
つ雲と前景の鋸状の樹木のシルエットとのバランスの良さに魅かれた。
 そこで、勝手ながらぼくならこうしたいというフレ−ムにしてみたのが、このトリミング
である。これ以上は無駄なスペ−スとして下と左を切り、この風景を眺めるのではなく、中
に入った臨場感を主張した。ト−ンをやや落とし、左側の調子の飛んだ雲のハイライトを明
確にする修正を加え、山の大きさも原画より強く感じさせるよう心掛けた。
   

              

原画

トリム 修正

< 蓮 >   
 手前の蓮のピンボケは、質感を損ない画面構成の緊張感を失う。上部の葉が割合しっかり
しており、その下の黒い影も主題を支えているだけに、あいまいな雑音は切り捨てるという
例である。必要なら三脚を立て十分に絞るか、構成は変わるがカメラ位置を高くして、こん
な手前ボケは避けるのが定法である。
 厳しい言い方をする写真家には、不快なボケ切り捨て、ケジメをつけろという人もいる。
そんな人は、また時にすばらしく美しい前ボケも見せる作家でもある。
   

              

原画

トリム 修正

< 窓(No.2)>   
 ぼくは、この何とも素朴で古いような新しいような、国籍不明なこの窓を見て、しばしち
ょっとした感慨に耽った。それはヨ−ロッパやアメリカなどの窓や扉の写真をたくさん撮り
歩いたことがあったからだ。
 この作者は、これが窓であることを証明するために、左と下部を見せているが、それがあ
るなしでは、印象も意味合いもすっかり変わってしまう。こうした場合、ぼくはせっかくの
このユニ−クさを尊重して、これらをカットしても良いのではないかと思うので、こんなト
リムを提案した。
 ついでながら、この作品はハレ−ションらしきものがやや情緒を感じさせるが、冷たくギ
リギリのシャ−プさでの表現のほうが作品の奥行きをみせると思う。
   

             

原画

原画

トリム 修正

トリム 修正

< 美容室にて >   
 スナップ・ショットでは、ぴったりのフレ−ムでの撮影は困難だ。
 この画面は雑然となりやすいところで、かなり整理されたものになっているが、引き伸ば
して人に差し上げたり、アルバムに整理する場合には、少なくともこの程度のトリムをすべ
きではないかという一例である。
   

             

         

< 愛犬家達 >    
 これは、水彩画の趣のあるシ−ンで、ぼくは点描のスラ−の絵を思い出した。     
 超広角レンズの特性をうまく生かしたスナップでのノ−トリミングの例である。5匹の犬
とその家族たちが適当なコンポジションにあり、目障りな重なりもない。
 白髪の白いヒゲをたくわえたご老体に加えて、最後に左端の黒地に花柄のご婦人のデフォ
ルメ的な表現が、構成上ダメ押しの存在である。

                       

         

< Sunflower >    
 ぼくはこの写真を見た瞬間、花びらのきれいさを感じたが、それだけではものたりず、モ
ンタ−ジュかコラ−ジュをやって見たいと思った。
    
 そうなると、もうこれがヒマワリという認識はなくなって、これがカラ−プリントなら、
後ろから針で中央の暗い円形のなかに適当な間隔で無作為な穴を開け、後ろからピンスポッ
トでハレ−ヨンを起こしそうな輝く色光を点灯して見れば、などと思った。針跡の突起もサ
イドから照明するかもしれない。                          
 ぼくはそんなイメ−ジで遊ばせてもらうことがよくある。 
     
 余談になるが、昔、池田満寿夫が気にいった雑誌や新聞のその部分だけを無造作に破りと
ってキャンバスに張りつけ、それにまるで夢遊病者のような落書を描いて作品にしてしまい
そんなことでいくつかの賞をとったことを思い出した。

                        

         

< あんよ >    
 天衣無縫。構成を論議する類のものではない。これをきっちり続ければ、子供のための立
派なアルバムが残せるだろう。                           
    
 ぼくは、「写真で生活する必要のない純粋のアマチュアがなぜプロの真似をするのか、自
由奔放な実験を繰り返せないものだろうか。」とよく思う。
    
 日本のアマチュアはメカニズムに強く、また作品の質的向上心も高い。    
     
 そんなわけで、ぼくはゴルフでいえば、シングル級を目指す熱意と集中力がある向きには
プロがやって来た道筋を明らかにし、その技法もすべて公開することをボランティアとして
やって来た。また、シングルへはとうてい無理と自覚しているが、きっちりした家庭のアル
バムを志す人には、ゴルフでいえばいつでも空振りしないだけの方法、間違いのないグリッ
プとアドレスをアドバイスしようと思っている。

                       

         

< 釜ケ淵 B >    
 まだまだ、方向が定まらず持てあましているようだ。水については、前回に解説したので、
省略する。
 しばらく、卵3個をホリゾントバックに置いて、いろいろの構成をやって見てはどうだろ
う。最初はやさしい奇数の複数から始め、つぎには、2個、1個とやってみると、バランス、
迫力などの違いがわかるだろう。
                            
 また、名作といわれる作品を図書館などで見ることも勉強になる。よい作品は、その違い
がわかるまで何度も見なければ意味がない。その作品の良さのキ−ポイントが構成にあるの
か、ライティングにあるのか、すべてが完璧というのは少ないので、その判断も大切だ。
 自分ならどうするか? そんなことから新しい発見もある。

                     

< よさこい人 1 >

< よさこい人 2 >

      

 ぼくは、かつて徳島で学生生活を送ったので、阿波踊には関心があり、その経過も興味を
持って眺めてきた。また、熱狂的な踊りのプロの作品も数知れず見てきた。
 昨今はこんなメ−キャップの流行もあり、手元にある阿波でこの写真をみながら、あれこ
れ連想されることがあった。
    
 記念写真的な記録ならこれでよいが、これを作品として見せるなら、「自分なりの発見を
写真にしていない」という不満を感じる。ぼくが一応この2点を選んだのは、いずれも当今
流行のメ−クで、ムササビ様のフォルムをした紫一色の衣装の隅に顔をのぞかせた女性とキ
ツネ様の顔をした萌黄色に統一された衣装の若者という色彩から見た分類にすぎない。  
    
 撮影することに意義を持つなら、何かを見つけて行くことが課題である。というのは、こ
れを撮った塾生の一人が、こうした写真を撮る理由として、撮影者自身の変身願望からだと
いうことから、その多難さを推量して、以下を書き添えることにした。
     
 顔に彩色をしたり入れ墨をする土人もある。隈取り(クマドリ)はある部分を際立てるこ
とをいうが、歌舞伎では超人的な英雄や敵役、神仏の化身、鬼畜などの役柄を誇張するため
に施す化粧法をいう。これらの他に、古くは奈良東大寺の技楽面、能面などの仮面もある。
 何れにしてもそれらは、虚像であり、変身願望に関連する。
 それらの表現のポイントをどこに置くか、それは何を意味するか。

         

< 細江英公の作品 >       
 ぼくはその延長線上の幅広い参考として、細江英公の作品に見られる肉体のドラマともい
われるその演出上の特質を、少し研究してみることもお薦めしたい。
    
 ぼくが瑛九氏のところへ出入りを始めた2年後、細江君も頻繁に現れるようになり、他に
杉村恒、奈良原一高君もやってきた。当時細江君はまだ写大の学生で、瑛九はじめ多くの才
能をもった人たちの間に入ったことで、ヤケドをしたと云っていた。つまり、厳しいコンプ
レックスを体験し、変身したということである。                
 その後の彼の発展ぶりは、ぼくがあらためて紹介する必要はないであろう。とにかく、ぼ
くたちはもう50年も前からの瑛九たちの仲間であり、写真界でのお互いに性格も知れた友
人である。確かなユニ−クな写真家の一人として推薦したい。
    
    
 彼の作品についての評論家の論評では、記録を重視するリアリズム写真が全盛時代に、反
骨心の強い彼はコンポラ・フォトの連中に反論しながら、自己の内面的な意識を写真として
表現することを模索していたという。
   
 そうして生まれた三島由紀夫を被写体とした「薔薇刑」は、バロック的な耽美空間を構築
し、舞踊家土方巽をモデルとした「鎌鼬」は、東北の霊気と狂気の幻想世界を演出した。
 また、「おとこと女」は、肉体を裸のオブジェにまで解放し、対等な二つの性の拮抗のド
ラマを鮮烈に描き、「抱擁」は、肉体を高度に抽象化して、生命のエッセンスを抽出した。
これらはいずれも問題作として、高く評価されている。
 以上は、評論家が書いた書評だが、これでは抽象にすぎてよく分からないだろう。
     
    
 彼は、特異な被写体、人物との関係性から紡ぎ出した物語性の強い作品が多いが、彼自身
が言った普段着の言葉も紹介しておこう。(以下はある座談会の記録、その他から)  
    
 ぼくは「薔薇刑」での三島由紀夫については、いわば「生と死」とでもいえる美意識が潜
在的にあって、三島由紀夫氏が被写体になることによって、最も装飾的で人工的で古典的な
表現ができると思った。氏はぼくのこの写真を「証言的写真の極致だ」といった。
 三島氏は僕に言われるままをその通りに演技してくれた。彼は完全にオブジェであった。
徹底的に無責任であることが三島氏には必要であった。そして、被写体の責任を完全に果た
してくれた。「薔薇刑」は、2度とできない、完全な事件、ハプニングだったと思う。  
   
 「鎌鼬(かまいたち)」は、戦時中東北へ疎開し、とても暗くて陰湿でいやだったことか
ら、ぼくは憎しみをこめて東北を撮った。しかし、そこには東北生まれの老いた母親のイメ
−ジもあって、それは憎めなかった。また土方巽をぼくは好きだし、彼の土の香り、匂い、
東北的なものには牽かれた。
    
 一方、土方巽の細江評は、「彼自身の写真挙動には何かただならぬ内心の動きが現れてい
て一人でアワを食ってるように見えた。物事を頑固に否定する彼の態度は狂人じみている。
 ぼくは、砂浜で、波打ちぎわで、東京ガスの巨大な球体の上で、転ばされて、ただそこに
置かれていることの感動を、この写真家から教わった。三島由紀夫氏も私の舞踏場の床に、
この写真家からそのまんま、といわれて小半時殆ど動かず仰向けにに寝ていたことがある」
という。
   
    
 細江君は、さらに言う。「日本人とは何か、という問いのなかで一番謙虚になるのは個人
の体験しかない。同時にそれは最も傲慢な言い方かもしれないが、体験から何かを感じとる
そのとり方の振動の具合が表現なのだ。たんに事物に感動するのは、表現ではない。原爆の
落ちた後の写真を見れば感動するし、心が動く。すごく怖いからだ。しかしそれは表現じゃ
ないと思う」と。
    
 書き連ねるとキリがない。「作者は黙して語らず」と彼はいう。ぼくもこれ以上の解説は
ひかえておく。幾らかでもこうした問題の参考になったであろうか。

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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