<玉井瑞夫繧繝彩色塾>

           ☆  ワンポイントレッスン (22) ☆          月例会先生評(2003年9月)                < 心の世界を広げよう >              

     今月の例会は、塾生が選んだ課題作、テ−マは「流れ」ということであったが、  
  テ−マの表現技法にとらわれすぎて、肝心のテ−マの解釈と写真の本質をどこかに  
  置き忘れ、技法の枝葉末節に右往左往といったものも多かった。          
       
 ぼくは、塾生が投票で決めた「流れ」というタイトルを聞いた時、鴨長明の<方丈記>の
巻頭にある「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたか
たは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、
又かくのごとし。」と、芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」といった句が浮かんだ。
     
 ぼくは、文学や詩歌がそのまま写真作品になるとは思っていないが、フォトジェニックな
被写体である水の流れが、写真として光りを伴ったあるいは微妙な色彩をただよわせる時、
その写真家がボリュ−ムのある表現ができれば、長明や芭蕉に近い哲学的なもの、前衛的あ
るいは抽象的な表現もまた可能ではあろうと思った。                 
  写真の本質は幅広い。これらについてはまた講座の文中で触れてゆきたい。
    
 とにかく、提出写真の大半がぼくの影響もあってか、いわゆる特殊技法での各人各様の試
みが見られるが、消化不良で各人独自の工夫とまでは行かず、率直にいえば序の口、相撲で
いえば序二段までは行かず、まだ作品といえるものはなかった。
     
   
 しかし、ぼくはこうした雑然とした素朴な写真の様子を見ていると、ぼくが大好きな雑草
がいっぱいの高原や里山に近い草や木が混じりあった雑木林を想い出し、せっかくの木や雑
草を形にはめ込んだ盆栽にはしたくないものだと思った。               
(以下は、ぼくが好みのズッコケの名人森毅教授の本のなかで、ぼくの基本的な生きざま、
  創作面でも共感できるところを交えながら書いて見た)
    
 本来が田舎育ち、それも一番活動的だったぼくの小学生時代は、父の転勤から裏山で猪の
昼寝を見、野うさぎを追っかけ、鎮守の森で梟をつかまえるという自然がいっぱいの山里近
くで育った。そんなことから、里山というのは人間の理論と自然の論理とが適度になれあう
場であり、それよりも草木が混じりあう雑木山の方がはるかに良いと思うようになった。 
     
 このごろの人間生活は、どちらかというと、杉山に近づいているように思える。なかでも
学校がそうである。人はさまざま、松のような人も、つつじのような人もあろうが、みんな
が杉になって、それも規格品でなければいけないかのようである。           
 ぼくの講座を読む限り、決してそんな盆栽にはならぬように気をつけてもらいたい。
    
    
 ぼくは、熟生諸君が手にあまりそうな特殊技法をやって見ようという姿勢にブレ−キをか
ける意味でこんな話をしているわけではない。将来たとえ忘れるものでも、一時は頭にとど
めたり、たとえ失われる技能でも、一度は体を動かしトライしてみないと、すべては自分か
ら遠い世界になってしまう。そんなトライはそんな技術を忘れても、そのあとには、身につ
いた心の世界の広がりが残るものだ。                        
    
 どんな知識や技能があっても、それを越えなければならぬ局面がある。その時頼れるもの
は知識や技能でなくて、自分自身の心の中の世界の広がりである。
     
 ぼくの弟子たちで特殊表現技法の跡継ぎをした者はいない。しかし、多くの者が写真だけ
でなく絵画をはじめア−ト全般、文化史への確かな目を持つようになり、それぞれが個性を
いかし自分の世界を生きようとしているのは、彼らが身につけた心の広がりにあることが、
歳とともに明確にわかるようになってきた。                     
 それは特殊技法の手伝いの体験は、結局は特殊表現の終着駅が写真だけの世界を越えるこ
とになるため、他の造形に共通するポイントを知るキッカケになったのであろう。

        

< 月例 9月講評 >

   
     
  余談はやめて、ここからは当月の実践論に移る。結論は前書きで書いてしまった。
 ぼく自身の30年以上の習得期間や学生に実習をやらせた体験からいうと、諸君の写真生
活のなかで試みる特殊表現は、何かひらめいた時にやる程度でいいのではないかと思う。 
 テ−マへの意欲が希薄で、ひらめきもイメ−ジもなく安易にやろうとしても、相当の技術
とデ−タ−がなければ、のれんに腕押しになってしまう。
   
 写真家によるCGア−トもかなり盛んになってきたが、CGという冠をとると、ア−トに
値しないものがまだ多い。
 創作は制度にとらわれない生活意識だから、コンピュ−タ−への対応も早い。それは結構
なことだが、事の順序を間違えて写真家の頭がデジタルのパソコンになってしまっては、写
真家としての創作は不可能であろう。
 基礎になるものは、やはり真正面から取り組んだまともな写真、写真の三大特性の手ごた
えを感じながらの創作である。
    
 今回のテ−マ「流れ」は、「静と動」と言ってもよい。それは直接的、視覚的なものと心
理的なものがあり、その対比もある。写真表現ではある空間と時間を切り取って、その前後
も思わせるリアリティある表現、在り続けるという存在感がなければ作品になり得ない。 
 たとえば、心理的な作品などそれがスタティックに見えるものでも、その内部には動的な
何ものかがあり、表現が確かなら、いろいろな意味の「流れ」を見いだすであろう。
    
(ぼくが、自分の風景写真の中でこうした「流れ」を感じるのは、Part6の「風景」、
 Part24の「真夏の海」などである。参考までに。)
   
      
 今回の出品作には、即物的な水の流れ、ブレ、モンタ−ジュが見られるが、何れもプラン
ニング時の熟成と表現技法が不足している。そんなことから、今月は個々の講評はやめにし
て総評的にこれらについて、参考作品を交えながら話を進めることにする。

       

[ 水の流れ ]
        

1. 渓谷

2. 1999 夏

3. 流れ

4. 氷

   今回は川の流れが5点あるが、いずれも水のフォトジェニックな表現が見られない。
   水は「静」と「動」いずれにしても、千変万化の質感と表情がある。ラィティングとアン
  グル、シャッタ−・スピ−ドの3点がマッチしなければ完璧な表現ができない実にむつかし
  い被写体である。                                 
   ところで、水に限っていえば、1の前景は白いシ−ツ、2は白い粉、3はソ−メンの塊、
  4は不思議な固体。といわれても仕方がない。

                 
< 参考作品 >
「 エルンスト・ハースの水 」
              

A. トバコの波 カリブ海 1868           

B. 雨に打たれる花           

C.  滝 九州  1981

D.  熊野の滝  1983

            

       ハ−スの水の作品は、音楽的といわれるほど繊細ですばらしい。
    
 なかでも、「A.トバコの波」は、ぼくの一番好きな作品である。波頭の崩れる瞬間の作
品はよく見かけるが、ハ−スのこの作品は強い突風で飛び散る先端の飛沫がシャ−プに、絶
妙なタイミングでとらえられている。
     
 海が黒く表現されているのは、プリント時のダイトランスファ−によるコントロ−ルがあ
るかも知れない。雲と海とややセンタ−をはずした波のバランスでは、ことさら波を強調し
ていないために、かえってより奥深くスケ−ルを大きくしている点をぼくは学び、ハ−スの
人柄がしのばれた。
  
                                    
 B.の雨は、簡単なようでこうはなかなか撮れないものである。田舎で「日が照り雨」と
いう言葉があったが、太陽の逆光下でのにわか雨であろう。
     
 C.D.は彼が日本を訪れた時の作品。滝の流れの表現にはソ−メンの一スジ一スジと半
透明の水煙りとが交じりあったような繊細さがあり、原画でなければ味わえないだろう。 
     
  ところで、ぼくたちプロは条件の難しい場合、例えば十和田湖の奥入瀬川などやや暗い樹
間の流れ、奥行きのある水面の微妙な盛り上がりなどを写し止めるためには,当然4×5カ
メラのアオリを使い、絞りを開放に近い状態にして早いシャッタ−・スピ−ドで撮れるが、
小型カメラ主体では難しい。                 
     
 小型カメラで手前から奥までシャ−プにする必要がある場合、十分に絞ると露出がかかる
ので、水の流れの質感は失せてしまう。水をハイ・スピ−ドで止めるか、どの程度のブレで
表現するか、日頃からレンズの焦点距離による被写界深度の違いを研究し、それに合わせた
カメラアングル、構成を考えることが大切だ。
    
    
  ところで、反対に超長時間露出を得意とするユニークな写真家もいる。      
 月夜の海岸では、岩に飛び散る白波はすべて霧かモヤのような表現になるが、あまりの長
時間露光のために、満潮時に感光した白波の変身した霧が、干潮時の岩場に立ちこめるとい
った見慣れぬ風景が現れたりする。
                           
 また、晴天の闇夜、高山での撮影では、またたく無数の星が描く円形の軌跡をバックにし
た岩が、なぜか鋼鉄のような質感を見せ、これまた不思議な迫力がある。      
 いずれも極く微かな光による数時間以上の長時間露光の結果が、地球の原風景を演出した
かのようであった。ここまで徹底すれば、こんな試みもまた魅力的な世界であろう。

            

 [ ブレ・ボケ ] 

    

5. よさこい総踊り

6. 余韻

7. ロータリー

8. 通り
   
   全体の印象として、これらの内容を表現し伝えるために、こうしたブレ・ボケが果たして
  必要であろうかという疑念が残る。
   特殊技法の試作なら、もっと大胆にやって見ることである。被写体、内容をブレ・ボケと
  いう不鮮明な描写でやってみるには、それ以上のイメ−ジ表現でなければ意味がない。
   もちろん、それにはもっとイメ−ジを熟成させ、表現では主体とバックを明確にする非常
  に厳しい整理、単純化がポイントになる。

                        
< 参考作品 >
「 エルンスト・ハースのブレ・ボケ 」
    

E.  レガッタ カリフォルニア 1957            

F.  夕暮れのゴンドラ漕ぎ  1957           

G.  牛 パンプローナ  スペイン 1956           

 ハ−スがこんな作品を創るようになったのは、1950年代にはカラ−フィルムの感度がAS
A10という遅さにあった。彼はそんな遅さを克服した表現を試みて、色の魔術師といわれ
ることになった。ブレ・ボケを逆手にとった彼は、当時のコダクロ−ムがその後のカラ−よ
りも色彩に厚みがあることを発見し、最後には買いだめしたという話もあった。    
     
 確かに彼のすばらしい色彩はコダクロ−ムの特性にもよるが、イメ−ジ表現の定着に厳し
い整理と単純化がなされ、音楽でいえばほとんど雑音がなく、勘所で不協和音を利かせたよ
うな画面をぼくは感じる。
     
 彼の作品で、すべてがブレ・ボケだけのものは、やや力が弱く、成功している作品には、
ブレのなかにもいくつかのシャ−プなラインが見られる。「E.レガッタ」の装飾的な波の
ハイライトのシャ−プで微妙な表現や「G.牛」の角は暗い中にも明確な部分があり傷を負
った部分の赤い血の滲みと白い線のシャ−プな表現が強いイメ−ジと迫力を感じさせる。
 F,は夕刻時の色彩、明暗が大きな要素で、これが真昼なら成立しなかっただろう。

               

[ モンタージュ ] 

    

9. 雑踏

10.  メロディー

11. 刻

12. 動乱

 モンタ−ジュは、相当の構想と画面構成力と技術を必要とするので、まず原点として、自
然におけるモンタ−ジュの発見から入門することがよいと思う。もちろん、それは普通の写
真を撮りながらできることである。                         
 モンタ−ジュの失敗は、嘘っぽく、ギゴチなく、ツギハギに見えるものだが、優れた自然
のモンタ−ジュに見られる光景には、その解決法がかくされているのだ。

        

< 参考作品 >
「 ウィリアム・クライン と エルスケン 」

    

H.  ニューヨークの夕暮れ  ウィリアム・クライン  1956                

I.  セーヌ左岸の恋  エルスケン          

  上の作品は、モンタ−ジュ技法の入門にあわせて、少し注意をすればすぐ目につく、自然
なモンタ−ジュ効果のあるシーンを知り、発見するための参考例である。
     
 ウイリアム・クラインの作品、「ニュ−ヨ−クの夕暮れ」は、高層ビルのガラス窓を写し
たものだが、右半分には反対側の壁に掛けられた絵画その他が反射してガラスに投影され、
窓際に置かれた東西の土偶やハニワらしき像とがモンタ−ジュ効果を挙げ、やや重い雲の明
暗がマッチして近代都市ニュ−ヨ−クの側面を見せている。
    
 ウイリアム・クラインは、粗粒子、ブレ、ボケを駆使したコンポラ・フォトの元祖のよう
に見られているが、それがすべてではない。キ−ポイントにはこうしたシャ−プなピントと
神経で構成された風景や街路樹に貼られた広告などが随所に見られる。
    
    
 エルスケンの作品、「セ−ヌ左岸の恋」は、1950年から54年まで5年間にわたって撮影さ
れたる或る少女の恋物語(フォト・エッセイ)だが、そのカット写真もすばらしい。   
 この少女の顔を映した、乾きかけた水滴で荒れたようなバック(鏡)は、この物語の内容
を象徴的に表現している。これも作者の鋭い感性、気のきいた演出による広い意味でのモン
タ−ジュ効果といえよう。

(註)
  塾生各位の個々の写真についての質問などあれば、僕が在宅する確率の多い
  週末から週はじめ3日間位に、電話をしてくれば、僕が居れば即答できる。
  その時の僕の都合で再度、時間帯を変えて電話してもらうこともある。  
  居なければ家人に在宅日を聞いてもらいたい。           
  僕はパソコンで書くより話す方がずっと楽なので、遠慮なく。   
  (在宅の確認は管理人ゆきに聞いても、だいたいの予定がわかるだろう)

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